東京 (07/10/21) 江戸城 (24) 内曲輪16門 / 内濠 (7) 馬場先門/和田倉門

江戸36見附 内曲輪16門 (内濠)

  • 大和郡山藩柳沢家幸橋上屋敷 (東京府庁舎)
  • 薩摩藩島津家桜田中屋敷 (鹿鳴館、日本勧業銀行)
  • 白河藩阿部家霞町上屋敷 (農産陳列所・蚕病試験場、帝国ホテル)
  • 東京宝塚劇場 (内山下堀)
  • 日比谷の三角地 (日比谷ホテル、東京ミッドタウン日比谷、日比谷マリンビル)
  • 東京ホテル (日比谷交差点)
  • 日活国際会館 (ザ・ペニンシュラ東京)
  • 古河藩土井家上屋敷 (東京警視庁、第一生命館、DNタワー21)
  • 鳥取藩池田家上屋敷 (監軍本部、帝国劇場、東京會舘、東京商工会議所)
  • 馬場先濠
  • [馬場先御門]
  • 火消与力組屋敷/火消役松平采女屋敷 (三菱一号館、明治生命館)
  • 馬場先通り
  • 一丁倫敦、旧三菱一号館 (三菱一号館美術館)
  • 大名小路
  • 徳島藩蜂須賀家上屋敷 (東京府庁舎、東京都庁舎、東京国際フォーラム)
  • 大審院 (岡山藩池田家中屋敷、美濃岩村藩松平家上屋敷)
  • 東京中央郵便局 (三河西尾藩大給松平家上屋敷)
  • 東京駅 (岡山藩池田家中屋敷)
  • 行幸通り (ぎょうこうどおり、みゆきどおり)、一丁紐育
  • 館林藩秋元家上屋敷 (鉄道院、JR東日本サピアタワー)
  • 福山藩阿部家辰ノ口上屋敷 (東京鎮台輛重兵営、東京海上ビルディング)
  • [和田倉御門]、和田倉御門橋、和田倉濠、辰ノ口
  • 辰ノ口評定所 (丸の内永楽ビルディング)
  • 伝奏屋敷(公家衆御馳走屋敷) (三菱UFJ信託銀行本店ビル)
  • 小普請奉行 (大手町ファーストスクエア)
  • 作事奉行 (オーテモリ)
  • 普請奉行 (日清生命館、大手町野村ビル)
  • 熊本藩細川家龍ノ口上屋敷 (鉄道省、丸の内オアゾ)
  • [大手御門]
  • 姫路藩酒井家大手角上屋敷 (内務省、大蔵省、大手センタービル、大手門タワー)
  • 将門首塚
  • 福井藩松平家大名小路中屋敷 (大蔵省、Otemachi One Tower)
  • 福井藩松平家常盤橋上屋敷 (大蔵省印刷局、NTT大手町ビル )
  • 庄内藩酒井家家神田橋上屋敷 (大蔵省印刷局、大手町フィナンシャルシティ)
  • 小倉藩小笠原家上屋敷 (農商務省、読売新聞社東京本社ビル)
  • 和気清麻呂像
  • [平河 (川) 御門]

今日は日比谷御門から馬場先御門を経て和田倉御門までの間にある施設を巡る。この地域は最も開発が進み、ほとんど江戸時代の遺構は残っていない。江戸時代から現在までどのような発展をしてきたのかを調べながらまわってみる。


下の図は千代田区が作成した「千代田区の街並みのうつりかわり」に記載されている幕末と明治初期の土地利用の比較図で、江戸城の周囲の多くの土地が陸軍施設と官公施設に使われている。広い屋敷だった大名屋敷の地域とほぼ一致している。廃藩置県で武士が消滅、つまり、失業し江戸の残る意義がなくなり故郷に戻った。大名屋敷は幕府から拝領しているが、土地の所有権は幕府にあり、明治時代になると国有地となったので、政府としても立ち退きを求めることも、合法的であったし、帰る国も存在していた。一方、旗本が住んでいた江戸城の外西側は、政府としては手を付けていない。旗本には帰るべき国はなく江戸 (東京) が生活の基盤であった。東側の町人の住む地域も、同様に手を付けるわけにはいかない。政府機関としての施設建設には、大名屋敷しか選択肢がなかったというのが一番の理由だろう。ただ、大名屋敷の跡地は広く、陸軍や鋼管庁施設には適していた。江戸城、皇居の周りは陸軍関係で占められている。明治維新派まだまだ反政府勢力が残っており、江戸城の防御の意味合いもあっただろう。

下の地図は今日訪問予定地域の江戸後期の大名屋敷と明治17年、そして現在の地図を比較したもの。興味深いのは明治17年の地図で、明治維新後としては初めての詳細な地図になる。プロの絵師に描かせており、当時の建物の様子も分かる。明治維新後17年もたっているので、江戸時代の大名屋敷からかなり変化しているところもあるだろうが、多くは大名屋敷の建物を利用していたので、この地図から江戸時代の大名屋敷の様子も想像できる。この地図からわかるように、日比谷御門から和田倉御門まではほとんどが軍関係施設として使われていた。この地域は江戸城に近いので各大名の広い上屋敷が建っていた。その広さが軍施設や官庁施設に適していたこともある。この傾向は他の地方都市の城下町の変遷でも共通するところだ。


大和郡山藩柳沢家幸橋上屋敷 (東京府庁舎)

現在の内幸町ホールから日比谷大ビルにかけては大和郡山藩柳沢家上屋敷跡になる。柳沢家というと柳沢吉保 (甲斐甲府藩初代藩主) が有名で第5代将軍徳川綱吉の元、破格の大出世をした人物。赤穂浪士の吉良邸討ち入りの際には浪士処刑の壇を下したのはこの柳沢吉保で悪役として描かれ、その他評判の悪い逸話がある。政治家としては優秀な人物と思われる。柳沢吉保の長男の柳沢吉里が吉保隠居で甲斐甲府藩二代藩主となったが、1724年 (享保9年) に享保の改革で甲斐が幕府直轄領となり吉里は郡山藩主に移封となった。その際にこの上屋敷を拝領し、その後明治維新まで六代続く(1724年 - 1871年)。この上屋敷は、1794年 (寛政6年) の桜田火事で焼失し、時の藩主松平 (柳澤) 甲斐守保光は、芝新堀の下屋敷に移る。上屋敷は同年11月には再建され幸橋邸へもどっている。下の写真は明治まで残っていた上屋敷で東京府庁となった時のもの。

1868年 (慶応4/明治元年)、明治新政府は江戸府を設置し、同年、東京府に改称。その後、新政府はこの大和郡山藩柳沢家上屋敷を接収し東京府庁舎を開設した。上の1884年 (明治17年) の地図では既に東京府庁舎が表示されている。1889年 (明治22年) には東京市が誕生しているが、「市制特例」により市の業務は全て府が代行したため、市庁舎 (市役所) は置かれなかった。 1894年に、東京府庁は土佐藩山内家上屋敷跡 (現在の東京国際フォーラム) に新庁舎が完成し移転した。新庁舎は東京都庁の丸の内庁舎として引き継がれたが、この地にあった旧建物は戦災で焼失。

内幸町ホールの入口脇に樋口一葉生誕地記念碑があった。樋口一葉は1872年 (明治5年) 生まれ。何故、東京府庁舎で生まれたのかと思ったのだが、樋口一葉の父親は東京府警視庁の役人で東京府庁に勤めていた。東京府庁舎内にあった武家長屋が官舎に使われ、そこに住んでいた。

[大和郡山藩柳沢家江戸屋敷: 幸橋上屋敷、芝新堀下屋敷、駒込下屋敷 (六義園)]



薩摩藩島津家桜田中屋敷 (鹿鳴館、日本勧業銀行)

大和郡山藩柳沢家幸橋上屋敷の道を挟んだ北には、薩摩藩島津家桜田中屋敷があった。装束屋敷ともいわれ、江戸城登城の前にここで装束を整えることからそう呼ばれていた。江戸時代に薩摩藩の支配下にあった琉球国王が、江戸城登城の際にも、やはりここで装束を整えたそうだ。

[薩摩藩島津家江戸屋敷: 桜田中屋敷芝新馬場中屋敷下高輪下屋敷裏町町並蔵屋敷品川抱屋敷下高輪村抱屋敷]


明治時代になり、日本政府は西洋化を推進した。旧薩摩藩中屋敷跡には、1883年 (明治16年) に政府や貴族の社交場として鹿鳴館が建設された。当時の外務大臣 井上馨が、不平等条約の改正を早める目的で、外国に日本の西欧化をPRするためではあったが、条約改正は失敗に終わった。

鹿鳴館は、華族会館 [1874年 (明治7年) 発足] 1890年 (明治23年) に貸し出され、1894年 (明治27年) には華族会館として払い下げられた。華族会館は1927年 (昭和2年)、霞が関に移り、現在に至っている。(現 霞が関ビル)

1896年 (明治29年) に、農工業向け長期融資のための「日本勧業銀行法」が制定され、翌年、特殊銀行 (政府系金融機関) として日本勧業銀行が設立され、1899年 (明治32年) に薩摩藩島津家桜田中屋敷跡 (華族会館の南側) に本社社屋を建設 (写真左上)。当時の建物は1926年 (大正15年) に千葉の「谷津遊園」に移築され、更に1965年 (昭和40年) に「千葉トヨペット本社」として現在の千葉市美浜区稲毛海岸に移築している。(写真左中)


白河藩阿部家霞町上屋敷 (農産陳列所・蚕病試験場、帝国ホテル)

1823年に武蔵国忍藩より譜代の阿部正権が10万石で白河藩に入部し、それ以後は幕末まで阿部家が八代44年間在封した。幕末に分家の旗本から本家を相続して第七代藩主となった正外は江戸幕府大老井伊直弼から重用され、間もなく老中となり、攘夷派の反対を押し切って天皇の勅許なく兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され、隠居・蟄居、4万石を減封され、家督は長男の正静が継いだ。1866年 (慶応2年)、第八代藩主の正静のとき棚倉藩に転封、白河藩領は二本松藩の預かり地となった。戊辰戦争時は奥羽越列藩同盟と組んで明治新政府と戦った。棚倉城と白川城の守るが、白川口の戦いで敗れ、白河城は戦火によって大半を焼失した。1868年 (慶応4年) 2月、正静は白河藩に復帰したが、同じ年の明治元年12月、再び棚倉藩に転封となり白河藩は廃藩となった。以後天領 (天皇御料地) となり、1869年 (明治2年) に白河県が設置された。1871年 (明治4年) の廃藩置県をはさんで同年11月に二本松県となり、その後に福島県へ編入された。

明治政府は産業奨励のため、この白河藩阿部家霞町上屋敷跡地に農産陳列所を設置した。当時日本の輸出品の中心は生糸であったので、1884年 (明治17年)、ここに蚕病試験場を設けて特に蚕業の振興を図った。(上の地図にはまだ現れていない) この施設は1886年 (明治19年) に西ヶ原に移り、東京高等蚕糸学校となった。

鹿鳴館を造った当時の外務卿 井上馨は、外国貴賓用の本格的なホテル建設を提唱し、渋沢栄一らと共に、財界と国からの出資で、1890年 (明治23年)、この地に帝国ホテルが開業 (写真上)。この建物は1922年 (大正11年) に火災により焼失。1923年 (大正12年)に二代目の本館 (通称ライト館、フランク・ロイド・ライト設計) が完成 (写真下)。戦時中の1945年 (昭和20年)、東京大空襲で大きな被害を受け、終戦後GHQに接収され修復工事が行われた。

戦後、1952年 (昭和27年) に接収解除となり、1954年 (昭和29年) に第一新館、1958年 (昭和33年) に第二新館が開業。ライト館は老朽化により、1968年 (昭和43年) に解体され博物館明治村に一部移築されている。1970年 (昭和45年) に三代目の本館が開業。第一新館と第二新館は1980年 (昭和55年) に解体され、1983年 (昭和58年) にインペリアルタワーが開業した。

東京宝塚劇場 (内山下堀)

江戸時代は白河藩阿部家霞町上屋敷の北側は内山下堀で数寄屋橋門、山下門から日比谷門に向けて中堀になっていた。この中堀が明治になり、埋め立てられ、日生劇場、東宝宝塚劇場などが並んでいた。この堀がいつ頃埋められたのかはっきりと書いているものがなかったのだが、1892年 (明治25年) の地図によればまだ埋め立てられていない。1900年 (明治33年) 之地図では埋め立てられているので、この期間に実施されたのだろう。

株式会社東京宝塚劇場は、1932年 (昭和7年)、阪急の創業者 小林一三が、東京での演劇映画の興行のため設立。同年、宝塚少女歌劇の東京公演の場として東京宝塚劇場を着工し、1934年 (昭和9年) に開場した (写真左)。戦時中、空襲による焼失は免れ、終戦後はGHQが接収しアーニー・パイル劇場として使用されていた。

1955年 (昭和30年) に接収が解除され東京宝塚劇場として公演を再開。1997年 (平成9年)、老朽化や再開発計画のため閉場し、跡地には2000年 (平成12年)、東京宝塚ビルが竣工、翌2001年 (平成13年) に東京宝塚劇場が再オープン。

日比谷の三角地 (日比谷ホテル、東京ミッドタウン日比谷、日比谷マリンビル)

日比谷交差点の場所には日比谷三角地と呼ばれた一画があった。江戸時代には日比谷御門に入る手前にあった笠間藩牧野家上屋敷と岡崎藩本多家上屋敷の跡地になる。その跡地一部が市区改正計画により1910年 (明治43年) 頃に晴海通りが開通して、変則的な三角形の区域ができた。そこが三角をした敷地になったのでそう呼んでいる。
この場所には明治末期に日比谷ホテル (写真右下) が開業。大正後期には10階建ての住宅と商業施設の複合ビルの日比谷三角アパートメントの建設が計画されたが関東大震災により実現はしなかった。震災後、日比谷の三角地では震災復興の土地区画整理が行われ、1930年 (昭和5年) に日比谷常磐生命ビル (写真左下)、三信ビルディング (写真中下) が竣工。
この三信ビルディングは老朽化により、2007年 (平成19年) に解体され、現在は東京ミッドタウン日比谷 (写真上) となっている。こんなに変わっているとは知らなかった。日比谷常磐生命ビルは戦後、朝日生命日比谷ビルとなり、2004年 (平成16年) に今治造船が取得し日比谷マリンビル (写真下) へ改称、現在に至っている。玄関には大型船舶のスクリューを模したデザインで面白い作りになっていた。

東京ホテル (日比谷交差点)

日比谷御門の南東側の岡崎藩本多家上屋敷跡地には東京ホテルが1887年 (明治20年) に開業。木造2階建ての客室数は24部屋洋館だった。東京では、明治初期に外国人居留地が置かれた築地には築地ホテルをはじめ、いくつかのホテルが開業していたが、築地以外では最初となるホテルだった。市区改正により日比谷御門付近の道路整備で、1892年 (明治25年) に立退きが命令、1897年 (明治30年) 頃に廃業。廃業後、道路整備着工まで、ブラジル公使館や日本倶楽部の仮会館として使用された。昨日訪れた日比谷公園に碑があったフィリピン独立の国民的英雄のホセ・リサールは、1888年 (明治21年) にこのホテルに滞在していた。

日活国際会館 (ザ・ペニンシュラ東京)

1948年 (昭和23年)、映画製作配給会社の日活 (旧 日本活動写真) は、日比谷交差点の土地の一画を取得したが、GHQの庁舎が近いため、接収され駐車場として利用されていた。日活は、GHQに施設建設計画を提出し接収の解除を願い出て、GHQの許可を得て、接収が解除、1950年 (昭和25年) に、日活国際会館を着工し、1952年 (昭和27年) に竣工開館となった。日活国際会館の6階から9階は日活国際ホテル、地下1階には商店街の日活アーケード、地下2~4階には地下ガレージも併設されていた。
1970年 (昭和45年)、日活の業績悪化に伴い日活国際会館は売却され、賃貸オフィスビルの日比谷パークビルとなり、2003年 (平成15年) にはビルは解体され、跡地にはザ・ペニンシュラ東京が建設されている。

古河藩土井家上屋敷 (東京警視庁、第一生命館、DNタワー21)

更に北に進むと江戸時代には古河藩土井家上屋敷の跡地にDNタワー21が建っている。古河藩土井家は徳川家康の家臣の土井利勝に始まる。下総国佐倉より16万2000石で古河藩主になったのは1633年 (寛永10年) 。利勝は徳川家康の落胤とする説もあり、徳川秀忠の守役を務め、大老本多正純の失脚後は利勝が幕府の最高権力者となり、家光の時代に大老・老中として幕政を統括していたが、徳川忠長の謀反に連座したとされ改易となった。古河藩土井家は五代まで続くが、1681年に移封となる。1762年に再度古河藩に復帰して明治維新まで続いた。下の写真は数日後に小山から東京に戻る際に訪れた古河城跡。

明治維新後、古河藩土井家上屋敷はそっくりそのまま工兵第一方面本部として使われていた。工兵方面とは6つの方面に分けられており、第一方面は東京、第二方面は仙台、第三方面は名古屋、第四方面は大阪、第五方面は広島、第六方面は熊本を管轄し、当初は兵舎等の建築を担い、砲台などの築城工事を実施していた。この場所にあった工兵第一方面は東京湾砲台建築を担っていた。1897年に工兵方面は廃止され、新設の築城部が砲台建築業務を担うことになる。

明治維新後、新政府は諸藩から兵で東京府内の取締りを行い、1871年 (明治4年) には邏卒制度を導入し、内務省の管轄で薩摩藩士の川路利良を初代大警視とし、旧薩摩藩士中心に3千名の邏卒が東京の治安維持にあたっていた。(東京都の地方警察になるのは戦後) 1874年 (明治7年) に、東京警視庁が設置され邏卒は巡査と改称、庁舎は鍛冶橋の旧津山藩松平家上屋敷に置かれた。
西南戦争では警視隊9500名を送り込んでいた。警視隊による抜刀隊は田原坂の戦いで西郷軍と死闘を繰り返した事は有名な話。この事が軍隊活動に近くなった東京警視庁に批判が強まり、1881年 (明治14年) に警視庁と改称。
明治後期に東京駅建設で庁舎は日比谷のこの地へ移転が決まり、1897年に廃止された旧工兵第一方面本部跡地に1911年 (明治44年)、赤煉瓦庁舎 (写真左上) が完成し移転を完了させた。この警視庁庁舎は1923年 (大正12年) の関東大震災で焼失し (写真右上)、後に、仮庁舎 (写真左下) を経て、桜田門の付近へ移転 (写真右下) となった。
焼失した跡地には第一生命保険会社が京橋にあった本社の第一相互館から、1938年 (昭和13年) に移転して来て新社屋の第一生命館が竣工した。終戦後はGHQの庁舎として接収された。1952年 (昭和27年) に返還されている。
1989年 (平成元年) から1995年 (平成7年) にかけて再開発が行われ、現在はDNタワー21となっており、第一生命館は西側部分と外壁の一部が残されている。

鳥取藩池田家上屋敷 (監軍本部、帝国劇場、東京會舘、東京商工会議所)

1600年 (慶長5年) の関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男長吉 (輝政の弟) が6万石で鳥取に入封し鳥取藩を立藩。池田氏は岡山藩を主家として、その分家が播磨、因幡、伯耆などに広がっていた。鳥取藩初期は岡山藩と藩主の入れ替わりがあり、安定したのは四代藩主光仲で、鳥取城を訪問した際には、地元では光仲を鳥取藩の初代藩主とみなしていた。鳥取藩池田氏は外様大名で有りながら松平姓と葵紋を下賜される名門となっていた。幕末、12代藩主の慶徳は15代将軍徳川慶喜の兄であったため、敬幕尊王という微妙な立場をとった。藩内でも尊王派と親幕派の対立が激しく、1863年 (文久3年) には京都本圀寺で尊王派藩士による親幕派重臣の暗殺事件 (本圀寺事件) が発生した。鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争では官軍方に方向転換している。 

因州池田家32万石の上屋敷は、丸の内大名小路 (現在の帝国劇場・国際ビル) の地にあった。跡地には大名屋敷の遺構は残っていないのだが、上屋敷の表門であった黒門は、1892年 (明治25年) に芝高輪の東宮御所正門に移築され、後に高円宮邸に引き継がれた。屋敷跡が監軍本部として使われていた当時の明治17年の地図には屋敷の建物や庭の様子が描かれている。立派な大名屋敷であった事がうかがえる。
その後、1954年 (昭和29年) には修復されて上野国立博物館正門のとして移築されている。

明治維新以降、上屋敷跡はそのまま監軍本部となっている。1878年 (明治11年) に山縣有朋を設立された監軍本部は師団司令部の前身で、本部を東京に置き、監軍部長 (中将) が三つの地区をそれぞれ率いており東部には第1軍管 (東京鎮台)、第2軍管 (仙台鎮台)、北海道を、中部は第3軍管 (名古屋鎮台)、第4軍管 (大阪鎮台)を、西部は第5軍管 (広島鎮台)、第6軍管 (熊本鎮台) をそれぞれ管轄した。監軍の任務は、平時においては陸軍の教育、検閲使として軍隊を検閲、本科に関する調査、研究、審議、立案で、戦時において師団司令長官として管轄の旅団 (鎮台) 司令長官を統率であった。監軍本部の南側には第1軍管 (東京鎮台)、北側には東京鎮台騎兵営が置かれている。1885年 (明治18年) には監軍本部を監軍部と改称し、1886年 (明治19年) にはドイツ陸軍に監軍部の有効性が低い事 (平時と戦時組織が明確で無い、平時の業務量が少ない) を指摘され廃止され、教育総監部に改編された。


帝国劇場

監軍本部敷地の南半分には本格的な西洋式劇場として帝国劇場が渋沢栄一ら財界人の出資で1911年 (明治44年) に建設、開場している。当時は、歌舞伎、新劇、女優劇、海外の音楽家・舞踊家・歌劇団なども来演していた。関東大震災では外郭を残して焼失、改修され翌年に復興している。1930年 (昭和5年) に松竹の経営となり映画館へ転用、1940年 (昭和15年) には東宝の傘下となり、再び演劇の劇場となった。戦後、帝劇はGHQの接収を受けなかったため、接収された東京宝塚劇場の代わりに宝塚歌劇団の公演も行われていた。
1955年 (昭和30年) 以降、再び映画館として利用され、1964年 (昭和39年) に改築のため閉場。196年 (昭和41年) にビルと一体になった現在の劇場が開場した。

東京會舘、東京商工会議所

監軍本部敷地の北半分には1922年 (大正11年) に東京會舘が建てられた。(写真上)東京會舘はレストランで、宴会場・結婚式場として利用されていた。戦時下では1940年 (昭和15年) から大政翼賛会の庁舎として徴用され、戦時中の1942年 (昭和17年) に返還され、大東亜会館と改称し、営業を再開、軍関連の宴会などが行われた。1945年 (昭和20年) の東京大空襲では焼失は免れ、被害にあった都庁舎の仮庁舎となり終戦を迎える。終戦後はGHQに接収され、将校クラブとしてアメリカンクラブ・オブ・トーキョーとなった。1952年 (昭和27年) に接収解除となり東京會舘として営業を再開した。1971年 (昭和46年) に二代目本館が竣工 (写真下)。
東京會舘の隣には東京商工業会議所があった。1878年 (明治11年)、渋沢栄一らにより京橋の木挽町に設立され、1899年 (明治32年) にこの地にルネサンス式の赤煉瓦のビル (写真左) を建設し、移転した。太平洋戦争の空襲を受け焼夷弾で内部は全焼、1960年 (昭和35年) に8階建てのビル (写真右) に建替えられていた。
2015年 (平成27年) より、隣接する富士ビルヂング東京商工会議所ビル、東京會舘は一括で建て替えとなった。2018年 (平成30年) に丸の内二重橋ビルが竣工、翌年、東京會舘は三代目本館で営業を再開した。

馬場先濠

桜田門から日比谷門への内濠は日比谷濠と呼ばれていたが、外線道路開通で祝田橋ができ遮断されたため祝田橋から日比谷門までの内濠は凱旋濠と呼ばれた。この凱旋濠は馬場佐紀門まで続くのだが、日比谷門からは名前が変わり、馬場先濠と呼ばれていた。MapFanの地図では馬場先濠は馬場先門から和田倉門になっており、江戸古地図とは異なっている。


馬場先御門

鳥取藩池田家上屋敷の端に内濠から城内への門が江戸時代には存在していた。馬場先御門で、現在は石垣のみが残っており門は現存していない。馬場先御門は1629年 (寛永6年) に兵庫橋虎口とし浅野長晟、加藤忠広により建造された枡形門。三代将軍家光が将軍就任祝賀で訪れた朝鮮使節団の曲馬を門の内側にあった馬場で上覧した事から馬場先御門と名がついている。当時は警備上、橋のない門で、当時一般人はじめ、武士の通行さえ許されなかった事から不開門 (あかずのもん) だった。1657年 (明暦3年) に起きた明歴大火後、1668年 (寛文8年) に災害避難のため架橋され、西の丸下 (現在の皇居外苑) の譜代大名の上屋敷へ向かう家臣や通行手形を持つ商人の出入りが許された。
1904年 (明治37年) 5月3日、日露戦争において九連城が陥落し、5月8日には日露戦争第一回戦勝祝賀会の際の市民による提灯行列で、馬場先御門の見通しの効かず逃げ場の無い枡形内に殺到し死者20名の大惨事が起きる。 (馬場先門圧死事件) 城の防備の為の枡形が仇となった。この重大事故がきっかけとなり、1906年 (明治39年)、馬場先枡形門は撤去されてしまった。
1930年 (昭和5年)、関東大震災からの帝都復興式典祭記念の大奉祝門が馬場先門の跡地に設置された。

現在は石垣しか残っておらず、案内板が立っていなければ、ここが江戸時代に内堀門があったとは気づかないだろう。


火消与力組屋敷/火消役松平采女屋敷 (三菱一号館、明治生命館)

馬場先御門への道 (馬場先通り) の北側の堀側の八代洲河岸には火消役松平采女屋敷があり、その隣には火消与力組屋敷があった。この場所で浮世絵師の歌川 (安藤) 広重が、1797 年 (寛政9年) 定火消の同心の安藤源右衛門の長男に生まれている。若年寄の元で武家屋敷を護るのが定火消で、ここには与力6騎、火消同心30人が常駐していた。広重は、1809年 (文化6年) に火消同心を継ぎ、その後20年間その職にあった。江戸時代には火消しは三つの組織に分かれており、武士による武家火消と、町人による町火消に大別され、武家火消は幕府直轄で旗本が担当した定火消と、大名に課役として命じられた大名火消に分けて制度化されていた。安藤広重はこの定火消の同心だった。広重が23歳の時の作品「江戸乃華」には当時の火消しの様子が詳しく描かれている。江戸乃華は上下二軸で21点の火事絵からなっている。後に東海道五拾三次の浮世絵とは少しタッチが異なるのが面白い。(全21点の解説は消防防災博物館のサイトで紹介している。)  遠近法も取り入れたものになっている。この様な画風で始まり、浮世絵になっていく。この4年後27歳で、家業である定火消同心の家督を子供に譲り,画業一本に浮世絵師となっていく。

定火消屋敷の隣には儒者の室鳩巣や医学者の林見宜が講じていた高倉屋敷があり、その隣には林羅山が始めた昌平坂学問所を代々管理していた林大学頭の屋敷があった。幕末の林大学頭はペリーが浦賀に来航した際に談判の折衝にあたった人物。林大学頭の市ヶ谷下屋敷跡には昨年9月に訪れた。
明治維新後、この地は東京鎮台騎兵営、東京鎮台輛重兵営となっていた。

1890年 (明治23年) 明治政府は丸の内を民間に払い下げる方針を出し、この地一帯を三菱が一括取得している。この場所には1895年 (明治28年) に三菱二号館 (写真左) が建てられ、東京海上保険、明治生命保険、明治火災保険の本社が入っていた。明治生命は1881年 (明治14年) に日本初の生命保険会社として設立、明治火災は1891年 (明治24年)、日本で最初の火災保険会社として設立。されていた。明治生命は三菱二号館を1915年 (大正4年) に買収し、1934年 (昭和9年) に明治生命館 (写真右) を建設した。終戦後はGHQに接収され、アメリカ極東空軍司令部として使用されていた。

1956年 (昭和31年) に返還され、2004年 (平成16年) に隣接地に明治安田生命ビルが建てられ明治生命館は保存され一体的に利用されている。


馬場先通り

馬場先門が撤去され、皇居から丸の内には馬場先通りと呼ばれた広い道路が造られた。明治時代の日本近代化の一つだ。写真の上の二つの絵葉書には左側に三菱2号館、右には東京商工会議所描かれている。
上の絵葉書と同じアングルが下の上の写真。

一丁倫敦、旧三菱一号館 (三菱一号館美術館)

明治生命 (旧三菱ニ号館) から旧三菱一号館に向かう馬場先通り沿いの区間には次々に赤煉瓦造りで統一された洋風オフィスビルが造られていた。その景観は、ロンドンの街並みにたとえられ、一丁倫敦と呼ばれていた。絵葉書や古写真を見ると日本とは思えない。この街並みが残っていないのは残念だ。
その当時が偲ばれる赤煉瓦造りの三菱一号館が2009年 (平成21年) に復元され、三菱一号館美術館となっている。三菱一号館は1894年 (明治27年) にジョサイア・コンドルの設計 (19世紀後半の英国で流行したクイーン・アン様式) により竣工している。この丸の内の発展は先に述べたがこの地一帯を政府が三菱の2代目の岩崎弥之助に払い下げた事が大きい。綺麗な話しだけでは無いだろうが、当時の三菱の財力あってこその産物だろう。今でもこの辺のビルは三菱地所のものは多い。

大名小路

江戸時代以前、この地域は日比谷入り江で海だった。関ヶ原の戦いの後、家康の家臣となった地方大名は江戸住まいを強要されるが、当時はその土地は十分ではなく、大名が自己負担で日比谷入り江を埋め立てて、江戸屋敷を建設した。この場所も埋め立てて造られた屋敷街でその真ん中に走っている道を大名小路と呼んでいた。

明治維新後、明治政府は皇居の防備の為、ここあった大名屋敷跡を使用することにした。当初は、国内ガ不安定なためにこの場所で軍備を進めたが、国内は内戦も終了し安定し、国防のための軍備を進める必要に迫られた。この場所では土地が限られており、軍備拡張には限界があった。そこで軍施設のより広い土地がある大名の中屋敷へ移転を計画し、その資金確保の為、この場所を民間に払い下げる決定を下すが、地価の下落の最中、政府が提示した価格では買い手が見つからず、その中、三菱の岩崎弥之助が払下げ金額128万円 (当時の陸軍の年間予算の10分の1に匹敵) にて購入。この地は三菱が原と呼ばれるようになった。三菱は1894年 (明治27年) に竣工した三菱1号館をかわきりに、次々と西洋風の赤煉瓦のビルを建設し、さながらロンドンの様ということで、一丁倫敦と呼ばれようになった。ここからこの丸の内がビジネス街へと変身する。現在でも、この地域一帯の多くの土地は、いまだ三菱地所所有となっている。上の地図で、色図けされているビルは三菱地所所有で、それ以外の灰色のものの一部も所有しているようだ。


土佐藩山内家鍛冶橋御門内上屋敷、徳島藩蜂須賀家鍛冶橋御門内上屋敷 (東京府庁舎、東京都庁舎、東京国際フォーラム)

大名小径沿いの南側には土佐藩山内家上屋敷、その南隣には徳島藩蜂須賀家の上屋敷があった場所だ。

土佐藩は関ケ原の戦い (1600年) に敗れ改易となった長曾我部家の領地であった土佐国を、山初代藩主として、山内一豊が治めることになった。これ以降、明治時代初頭までこの地で移封もなく山内家が治め続けた。この上屋敷は 1688年 (元禄元年)、四代藩主山内豊昌の時代に幕府から拝領したもの。

土佐藩と言えば幕末期に明治維新に向けて活躍した多くの人物を輩出している。藩主としては当時四賢人といわれた15代藩主豊信 (容堂 写真左上)、暗殺された坂本龍馬 (上中) や中岡慎太郎 (上右)、明治政府の板垣退助 (左下) と後藤象二郎 (下中)、三菱を創立した岩崎弥太郎 (下右) などがいる。

[土佐藩山内家江戸屋敷: 鍛冶橋御門内上屋敷、白金中屋敷、日比谷御門内中屋敷、品川大井下屋敷、木挽町築地井下屋敷、巣鴨辻町井下屋敷]


徳島藩蜂須賀家の上屋敷は当初現在の東京駅丸の内中央口付近にあったが、元禄11年に発生した勅額火事で 蜂須賀家上屋敷を含む周辺の大名屋敷が焼失し、大名屋敷の整理がおこなわれ、蜂須賀家屋敷もこの地に移転している。東京国際フォーラム建設の際にこの二つの上屋敷の発掘調査がおこなわれ、様々な出土品が見つかっている。

[徳島藩蜂須賀家: 鍛冶橋御門内上屋敷、桜田通中屋敷、白金台下屋敷]



今日前半で訪れた大和郡山藩柳沢家上屋敷跡にあった東京府庁舎がここに移って来ている。二代目の東京府庁舎は1894年 (明治27年)、赤煉瓦2階建の新庁舎が竣工した。1898年 (明治31年) には、府庁舎内に「東京市庁舎」も置かれた。戦時中の1943年 (昭和18年) に東京府と東京市が統合され、東京都が誕生し、「東京都庁舎」となった。

東京都庁舎は太平洋戦争の戦災で焼失し、1957年 (昭和32年) に都庁舎 (第一庁舎) が再建された。就職で東京に上京し始めて働いた場所が丸の内で、この都庁舎の食堂には毎日通っていた。
都庁舎は1991年 (平成3年) に西新宿に移転した後、第一庁舎の跡地には1997年 (平成9年) に東京国際フォーラムが建設され開館している。



大名小路を東京駅方面に進むと、明治維新では政府機関 (地図で赤枠の場所) が置かれていた。明治17年と幕末の地図を比較すると江戸時代の大名屋敷をそのまま利用し、改築している事がわかる。


大審院 (岡山藩池田家中屋敷、美濃岩村藩松平家上屋敷)

大審院は、現在の最高裁判所の前身にあたり、1875年 (明治8年) にフランスの破毀院をモデルとして司法裁判所の最上級審裁判所として岡山藩池田家中屋敷跡地 (現在の東京駅丸の内駅前広場 写真上) に設置された。(上の地図で大審院跡地と記している場所) 1877年 (明治10年) にて美濃岩村藩松平家上屋敷跡地 (写真下) に新庁舎を竣工し、司法省北側からこの地に移転した。当時、散在していた官庁を、井上馨が中心となり、官庁集中計画が策定された。もともとの案は、築地から永田町一帯を一大官庁街とする壮大なものであったが、最終的には練兵場跡地となり、1896年 (明治29年) に大審院は、東京控訴院、東京裁判所と共に移転し、大審院は1947年 (昭和22年) まで続いた。

東京中央郵便局 (三河西尾藩大給松平家上屋敷)

大審院 (岡山藩池田家中屋敷、美濃岩村藩松平家上屋敷) の北側は三河西尾藩大給 (おぎゅう) 松平家上屋敷があった。大給松平家は松平親忠の次男乗元を祖とする譜代大名。

東京中央郵便局は1871年 (明治4年) に日本橋に開設された四日市郵便役所から始まる。その後、東京駅の建設の際、1917年 (大正6年) に、この地に東京中央郵便局の新局舎 (写真左上) が建設され、日本橋から移転。東京中央郵便局の地下には東京駅構内の郵便物運搬用隧道 (写真下) も造られ全盛期には1日平均100回の往復運転を行っていた。この地下隧道は1978年 (昭和53年) の東京駅発鉄道郵便廃止に伴い閉鎖された。1922年 (大正11年) に火災で焼失、1931年 (昭和6年) にシンプルではあるが当時機能や構造は世界最高水準といわれた新局舎 (写真右上) が再建され、1933年 (昭和8年) に開局となっている。

2007年 (平成19年)、郵政民営化に伴い、ゆうちょ銀行本店が設置。翌年、局舎の建替えに伴い、東京中央郵便局は八重洲の仮局舎へ、ゆうちょ銀行本店は郵船ビルへ移転。建替え工事は2012年 (平成24年) に完成。局舎の一部が保存された低層棟と、高さ200mのJPタワーが竣工し、東京中央郵便局とゆうちょ銀行本店が再びこの地で開業した。翌年には商業施設のKITTEもオープンしている。


東京駅 (岡山藩池田家中屋敷)

元々の大審院があった場所は現在の東京駅丸の内駅前広場にあたる。江戸時代には岡山藩池田家中屋敷があった場所。東京駅の開業は1914年 (大正3年) で、それまで東京の鉄道の玄関口は1889年 (明治22年) に開業した新橋駅だった。東北地方へは私鉄日本鉄道の上野駅があり、新橋駅と上野駅を結ぶ高架鉄道の建設が東京市区改正計画によって立案され、1896年 (明治29年) に可決された。この建設に際しては当初はドイツの技術者の技術者フランツ・バルツァーが和風の駅舎 (写真上) を提案していたが、西欧化を望む上層部の反対で、日本人設計による西欧風赤煉瓦造りの駅舎となった経緯がある。
日露戦争終結後の1908年 (明治41年) から建設工事が本格化し、1914年 (大正3年) に開業し、東京駅と命名された。1945年 (昭和20年) の東京大空襲でレンガ造の壁やコンクリート製の床など構造体は残ったが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われた。同年8月の終戦直後から修復計画を立案し、1947年 (昭和22年) にかけて修復工事を行った。この時に南北ドームは丸型から台形に変更されている。
2000年 (平成12年) に丸の内駅舎を創建当初の姿に復原する方針となり、2012年 (平成24年) に完成したのが現在の東京駅。

行幸通り (ぎょうこうどおり、みゆきどおり)、一丁紐育

東京駅の丸の内南口から皇居へ広い道路が走っている。1914年 (大正3年) に開業した東京駅の12年後の1926年 (大正15年) に関東大震災の震災復興事業の一環として行幸通りが完成し、皇室の公式行事には馬車道として使用されている。写真左上の写真は、まだ行幸通りができる前で、皇居との間には内濠がそのままだ。
この行幸通りは一丁紐育 (いっちょうニューヨーク) と呼ばれていた。明治時代半ばにできた馬場先通りの赤煉瓦街の一丁倫敦に対して、この一丁紐育は、東京駅が1914年 (大正3年) に開業して以降、オフィス街として発展し、大正期から昭和戦前期にかけて、鉄筋コンクリート製の近代的なビルが建設された。
東京駅から行幸通り (歩行者は通行できる様になっている) を進に皇居外苑の入り口に両脇には安山岩造りで銅板葺きの屋根の守衛所跡が残っている。ここが皇居の入口に当たるため、行幸啓の折に、歩哨が立った所。


館林藩秋元家上屋敷 (鉄道院、JR東日本サピアタワー)

熊本藩細川家上屋敷の東隣には道山濠に面して館林藩秋元家上屋敷があった、明治維新後の1871年 (明治4年) に工部省の組織中に鉄道寮が設置された。1907年 (明治40年) に鉄道院となり、1910年 (明治43年) に中央停車場の北東側の仮駅の呉服橋駅 (写真左) の駅舎があったこの場所に新庁舎が建設された(写真右)。鉄道院は、1920年 (大正9年) に工部省から独立し鉄道省となった。この建物は関東震災で焼失、跡地に仮庁舎が建設され、その後、1937年 (昭和12年) に東京駅丸の内駅舎の北西側に鉄道省の新庁舎が竣工し移転 (熊本藩細川家上屋敷跡、現在 丸の内オアゾ)。

現在、この跡地は東京駅 日本橋口、丸の内中央ビル、JR東日本サピアタワーとなっている。


福山藩阿部家辰ノ口上屋敷 (東京鎮台輛重兵営、東京海上ビルディング)

一丁紐育の時代1917年 (大正6年) に建てられた一つが東京海上ビルディング (写真左上、右下) で、江戸時代には福山藩阿部家上屋敷、明治時代は東京鎮台の輛重兵営があった場所。阿部家は徳川家康の譜代大名で、阿部家五代目正邦が1717年 (宝永7年)備後福山を拝領し初代藩主となっている。歴史上よく知られているのが幕末期の阿部家宗家11代、七代福山藩主阿部正弘で、1843年 (天保14年) に当時老中首座であった水野忠邦を天保の改革の際の不正を理由に罷免させ、25歳で老中に就任し、この西丸下に上屋敷を拝領している。徳川家慶、徳川家定の2代の将軍の時代に幕政を統括していた。幕末の歴史ドラマでは必ず登場する。井伊直弼と対立していたということで、代替の場合は直弼が悪役となり、正弘は徳川慶喜将軍擁立派、島津斉彬と盟友として比較的好意的に描かれている。個人的印象は正弘は組織を引っ張っていくリーダーではなく、状況に応じて対処していくといった人物で、実際に井伊直弼の開国派と水戸斉昭の攘夷派の間で態度を明確にせずどっちつかずだった。日米和親条約はこの阿部正弘の決断により実現されたが、本人自身は攘夷派に近い立場だったので、万策尽きて追い込まれた上での決断のような気がする。ただ、彼の大きな功績は人材登用にあった。自分の限界を知っていたのかもしれない。江川英龍、勝海舟、大久保忠寛、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努め、講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設している。1857年 (安政4年)、老中在任時に39歳で急死し、後を継いだ阿部正教は昌平橋内に屋敷替えとなっている。

[備後福山藩阿部家江戸屋敷: 辰ノ口上屋敷、本郷丸山中屋敷、本所下屋敷、雑司ヶ谷下屋敷]

東京海上ビルディング には一丁倫敦にあった三菱二号館から東京海上と明治火災がここに移転している。この二つの会社は1944年 (昭和19年) に戦時統制により東京海上火災へ統合されている。隣接地には、新館が1930年 (昭和5年) に竣工している。(写真右上、左下) 太平洋戦争の終戦後、旧館と新館とも1956年 (昭和31年) までGHQに接収されている。

その後、1974年 (昭和49年) に旧館の跡地には、東京海上ビルディング本館 (現東京海上日動ビルディング 本館 写真右) が竣工となった。1986年 (昭和61年) には、新館跡地に東京海上ビルディング新館 (ベージュ色の建物) が竣工している。


和田倉御門、和田倉御門橋、和田倉濠、辰ノ口

福山藩阿部家辰ノ口上屋敷のすぐ前の内濠の和田倉濠がある。
和田倉濠には和田倉御門橋が架かり和田倉御門から城内に通じている。橋は関東大震災で門とともに被害を受けたが、擬宝珠も含め欄干は木製で、橋本体は鉄筋コンクリート製で復元されている。この近辺 (皇居外苑) は結婚カップルの記念写真撮影で人気スポットで今日は何組かの撮影現場に出くわした。
和田倉御門は枡形も含めて1620年 (元和6年) に仙台藩主伊達政宗などによって築造され、「蔵の御門」と呼ばれ、一般人は通行できず、武士だけが通ることを許されていた士衆通行の橋であった。1628年 (寛永5年) に熊本藩主加藤忠弘により改築されている。江戸時代初期には当時まだ埋め立てられていなかった日比谷入江に望んで倉が並んで置かれ、その後は大名屋敷や御用屋敷や厩などの幕府御用地として使われていた。慶長12年頃から「和田倉」と呼ばれるようになった。名の由来は海の名称である「わた」からきたものという。門の内側には二~三万石の譜代大名が警備を受け持っていた大番所には番士は5名が常駐し、鉄砲十挺、弓五張、長柄槍十筋、持筒二挺、持弓一組を常備していた。
その後、江戸湊からの船荷を徳川家康が江戸に最初に造った道三濠を通り辰ノ口で荷揚して和田倉で集積保管していた。江戸時代初期の和田倉は物流の拠点として重要な役割を果たしていた。
関東大震災で大破し、和田倉御門と渡櫓門は石積を残して撤去され、和田倉門の高麗門は半蔵門に移築されている。

これで、内濠にあった内曲輪16門すべてを見終わったが、内濠はさらに伸びて、先に訪れた竹橋門で外濠と合流するようになっている。和田倉濠はかつては大手門まで続いていたのだが、外線道路建設で埋め立てられている。



次は、和田倉濠から竹橋門までにあった大名屋敷を見ていく。明治17年の地図と江戸時代の大名屋敷を重ね合わすと、明治初期に設置された官庁や陸軍施設はそのまま屋敷を使用していたことが判る。更に工事関係を担っていた小普請奉行、作事奉行、普請奉行は同じ機能の工部省に引き継がれている。幕府の人材をそのまま使っていたかは定かではないが、明治政府としてはできるだけ既存の施設や人材を活用したと思われる。


辰ノ口から江戸時代に存在して道三橋までの川の両沿岸に様々な幕府の行政施設が置かれていた。


辰ノ口評定所 (丸の内永楽ビルディング)

江戸時代には最高裁判所の役割を担っていた評定所が1635年 (寛永12年) から設置された。老中・町奉行・寺社奉行・勘定奉行で構成され、大目付・目付が審理に加わった。大名や旗本の訴訟や、複数の奉行の管轄にまたがる問題の裁判もおこなっていた。当初は老中の屋敷で審議が行われていたが、1657年 (明暦3年) の大火で類焼を免れた伝奏屋敷でしばらく行われた。1661年 (寛文元年) に、伝奏屋敷の隣接地のこの場所 (現在の丸の内永楽ビルディング) に独立した辰ノ口評定所が置かれた。広く庶民の要求や不満を聞く目安箱も、評定所の門前に置かれていた。


伝奏屋敷(公家衆御馳走屋敷) (三菱UFJ信託銀行本店ビル)

辰ノ口評定所の隣にあった伝奏屋敷は、天皇の名代の勅使と上皇の名代の院使など幕府との交渉にあたる武家伝奏衆が、将軍への年頭挨拶で江戸に下向した際の迎賓宿泊所。ここには、高家旗本 吉良義冬の屋敷であったが、1635年 (寛永12年) に伝奏屋敷が設置され、吉良家上屋敷は鍛冶橋屋敷に移っている。勅使の滞在中は、勅使饗応役に任命された5万石の大名が幕府の儀式を司り、高家の指南を受けてその職務に当たっていた。忠臣蔵で高家の吉良上野介が赤穂藩主浅野匠頭長矩が勅使饗応役を務め、これが松の廊下での刃傷沙汰に繋がって行く。

小普請奉行 (大手町ファーストスクエア)

辰ノ口評定所の対岸にあった小普請奉行は、幕府の建物の造営や修繕を司る役所。主に大奥、東叡山、役屋敷などの小修理を担当。若年寄支配で、役高2千石、中の間席、定員2名の組織で、小普請方吟味役、小普請方大工棟梁など多くの配下がいた。


作事奉行 (オーテモリ)

小普請奉行の隣には江戸城、幕府の建物、禁裏御所、仙洞御所の造営や修繕を司った作事奉行が設置されていた。老中支配で役高2千石、芙蓉の間席で定員は2名。大量の建築資材を保管の為、広い屋敷であった。配下には京都大工頭、大工頭、畳奉行、大鋸棟梁、小細工奉行、瓦奉行、植木奉行、作事方庭作などがいた。


普請奉行 (日清生命館、大手町野村ビル)

作事奉行の隣にあった普請奉行は、1632年 (寛永9年) に置かれ、江戸城の石垣、濠、橋の普請、土木建築の基礎工事、神田上水や玉川上水の管理運営の任にあたった。老中支配で役高2千石、芙蓉の間席、定員1名。配下に普請下奉行、普請方改役、普請方同心などがいた。明治時代になって、ここには工部省営繕課出張所が置かれていた。工部省営繕課は明治の西洋化政策の元、西洋建設を担っていた。1932年 (昭和7年) には、跡地に日清生命保険が本社ビルを竣工。当初は日清生命館と呼ばれていた。1941年 (昭和16年) には、戦時統制により日清生命は野村生命保険に吸収され、丸ノ内野村ビルディングと改められた。戦後、財閥解体で、野村生命は東京生命保険へ改称。その後、1994年 (平成6年) に、時計塔や尖塔など、旧ビルの一部が再現された東京生命大手町野村ビルが竣工している。


熊本藩細川家龍ノ口上屋敷 (鉄道省、丸の内オアゾ)

肥後細川家は、細川藤孝、その子の細川忠興を祖とし、肥後熊本の加藤清正の嫡子加藤忠広が改易となり、豊前小倉藩二代藩主だった細川忠利が、肥後熊本54万石に加増転封され、明治維新まで続いた。この龍ノ口上屋敷は細川忠興が関ケ原の戦いの三年後の1603年 (慶長8年) 徳川家康からに拝領している。

[熊本藩細川家江戸屋敷: 龍ノ口上屋敷麻布白金村中屋敷北八丁堀中(下)屋敷、下屋敷 (歌舞伎座)、戸越屋下敷抱屋敷 (肥後細川庭園)浜町下屋敷 (清正公寺)、深川下屋敷、下屋敷 (平井新田塩浜跡)]


明治維新後、この近辺の大名屋敷と同じように陸軍用地として、陸軍倉庫として使われていた。陸軍がこの地から移転して何になったのかは調べられなかったが、1937年 (昭和12年) には、鉄道省の新庁舎が竣工され、呉服橋の仮庁舎より移転してきている。1943年 (昭和18年) に鉄道省と逓信省は統合され運輸通信省となるが、1945年 (昭和20年) に、分割され運輸省と逓信院となった。1949年 (昭和24年) に日本国有鉄道が誕生し、その運営が移管されている。1962年 (昭和37年) には、新しい国鉄本社ビルが西隣に竣工し、運輸省 (1966年 (昭和41年) に霞が関へ移転) と国鉄本社が移転してきている。

1987年 (昭和62年) の国鉄分割民営化により、国鉄本社ビルはJR東日本の本社となった。1997年 (平成9年)、JR東日本本社は新宿へ移転し、旧本社ビルは売却取り壊され、その後、一帯で再開発が行われ、跡地は丸の内オアゾになっている。


[大手御門]

和田倉御門から内濠に沿って北に進むと江戸城の玄関口である大手門に着く。大手御門は大名が登城する下馬門の一つ。江戸城への下馬門は全部で7つあった。表下馬門は大手門、桔梗門、西ノ丸大手門の三つ、裏下馬門が平川門、坂下門、矢来門、北桔橋門の四つ。通常大名が登城するのは、この大手門と桔梗門の両下馬。全大名が総登場などで特に混み合うときは、和田倉門、馬場先門、桜田門が臨時の下馬所となり、これは外下馬と呼ばれた。この江戸城内への入り口の門である下馬門巡りは次回東京を訪れた際に詳しく見ることにするので、ここでは写真だけ載せておく。


姫路藩酒井家大手角上屋敷 (内務省、大蔵省、大手センタービル、大手門タワー)

姫路藩は戦国時代は播磨の守護大名赤松氏の領土であったが、赤松氏が衰え、赤松氏支流の小寺氏の勢力下となり、姫路は小寺氏の重臣黒田氏 (姫路城を居城としていた) が治めていた。黒田氏が豊臣秀吉に仕えると、姫路は豊臣秀吉に明け渡され、秀吉の正室北政所の実兄木下家定が姫路城主となった。1600年の関ヶ原の戦い以降、この地には池田輝政が入り姫路藩が成立。その後、姫路藩は本多氏、奥平松平家、榊原家、再度本多家、越前松平家を経て、1749年 (寛延2年)、酒井忠恭が藩主となり、明治維新まで10代続く。姫路藩酒井家は三河時代の徳川家康の重臣酒井正親、重忠を祖とし、酒井家宗家として、代々、雅楽頭を名乗り、大老を数多く輩出した譜代の名門。酒井家が輩出した4人大老の一人の雅楽頭系酒井家9代忠清 (上野厩橋藩主) は下馬所にこの上屋敷があったので下馬将軍と呼ばれ、勢力を誇っていた。

調べ物をしている時に、この上屋敷は伊達騒動で伊達安芸宗重、柴田外記朝意、原田甲斐宗輔が審問中に刃傷沙汰に至った場所と知った。小学生の時に大河ドラマの「樅の木は残った」を見た。第4代将軍徳川家綱時代の幕府の老中の酒井雅楽頭と仙台藩主一族の伊達兵部との間に伊達家取り潰し、私物化を画策され、その謀計を見破った宿老の原田甲斐は伊達藩の安泰のため逆臣の汚名を被りつつその企てを阻止するというストーリー。これは海音寺潮五郎の小説をドラマ化したもので、原田甲斐が仙台藩を救うために行ったものとなっており、原田甲斐は忠義者として描かれている。

徳川時代以降の歴史の通説では悪者、反逆者となっている。仙台藩三代藩主の伊達綱宗は道楽者で、叔父の一関藩藩主の伊達宗勝による諫言も聞き入れず、1660年 (万治3年)、21歳で強制的に隠居させられ、四代藩主には二歳の嫡男の伊達綱村が就任するが、藩の実権は大伯父の宗勝や、奉行の奥山常辰に握られていた。このなか、奉行の原田宗輔 (原田甲斐) は専横を行っていたという。これに対し、宗勝派と対立する伊達家一門の伊達宗重は所領紛争での不利な裁定をは宗勝派の専横として、幕府に上訴。1671年 (寛文11年)、江戸表の老中 板倉重矩邸にて、伊達宗重、柴田朝意(反宗勝派)、原田宗輔 (宗勝派) らが審問を受けた。二度目の審議が大老 酒井忠清の姫路藩上屋敷で行われた。柴田朝意の審議の最中に、控え室で原田が宗重を斬殺してしまう。戻ってきた柴田と斬り合いとなり、互いに負傷するが、両者ともに酒井家家臣らに討ち取られた。その後、藩主伊達綱村は幼少の為お構いなしとなったが、原田家は断絶、一族の男子は皆殺しとなり、宗勝も処罰され、一関藩は改易となる。」

現在は上屋敷の遺構は残っていないが、当時の表門が、西教寺移築されている。

[姫路藩酒井家江戸屋敷: 大手角上屋敷蛎殻町中屋敷小石川村下屋敷大手前拝領添屋敷、橋場村抱屋敷]


明治維新後、姫路藩酒井家江戸屋敷跡には、1874年 (明治7年) に内務省新庁舎が建設され、それまで事務所があった大蔵省庁舎から移って来ている。この庁舎は関東大震災で焼失し、1933年 (昭和8) 年に霞が関の新庁舎へ移転している。

現在は大手センタービルと大手門タワーが建っている。


将門首塚

姫路藩酒井家大手角上屋敷内庭園の池の近くに平将門の首塚がずうとあり、現在でも残っている。入れ代わり立ち代わり、人が訪れて拝んでいっていた。

丸の内で働いている時には何度か来たのだが、今日久しぶりに来ていると、あまりにも綺麗に整備され、以前の史跡としての趣が失われてしまっている。以前はこんな感じだったのだが..

この場所は明治維新後、大蔵省となった。屋敷跡をそのまま使っていたのだろう、明治時代の地図には庭園の池がまだあり、その近くに将門首塚が残っている。いつ頃からこの首塚があったのかは分からないが、大名屋敷、GHQ、大蔵省、民間企業ビルになっても残っている。これには将門の祟りがあると伝わり、それが民衆の信仰になった事により、何度も取り壊しの危機から免れたのだろう。

この将門やのその呪いは歌舞伎や浮世絵の題材になっている。逆賊とされていた将門の民衆の中での人気には驚かされる。


福井藩松平家大名小路中屋敷 (大蔵省、Otemachi One Tower)

姫路藩酒井家大手角上屋敷の北側には福井藩松平家中屋敷がある。32万石の福井藩は越前藩とも呼ばれ、藩主は越前松平家で藩庁は福井城にあった。戦国時代は北の庄と呼ばれ、朝倉氏が治めていた、朝倉氏滅亡の後は、柴田勝家、丹羽長秀、堀秀政と移り、関ヶ原の戦い以降は、徳川家康の次男の結城秀康が越前67万石を与えられ、結城姓を松平に復して、越前松平家を興している。秀康の次男の松平忠昌が福井藩を継ぎ、北の庄を福井と改めている。その後は、様々な問題や事件で石高は減らされたが、明治維新まで松平家が福井藩主として17代続いている。幕末には幕末四賢侯の一人といわれた16代藩主の松平慶永 (春嶽) がいる。安政の大獄の時期には、大老井伊直弼と対立し、強制的に隠居させられ、懐刀であった橋本佐内は斬首刑に処されている。井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると、政界へも復帰し、将軍家茂から幕政参与を命じられ、大久保一翁、勝海舟、徳川慶喜らとともに文久の改革を行った。

姫路藩酒井家上屋敷と福井藩松平家中屋敷の跡地には1869年 (明治2年) に馬場先門の北側に創設された大蔵省が、1871年 (明治4年) に移転している。

大蔵省のあった一帯は、1923年 (大正12年) の関東大震災で跡形もなく焼失し、大手町での仮庁舎の時代を経て、1943年 (昭和18年) に新庁舎を建て移転した。大蔵省の跡地には、戦後三井物産ビル、三井生命大手町ビルなどになったが、2020年 (令和2年)、Otemachi One Towerに再開発されている。

(東側大手町通りから)

(西側内濠から)


福井藩松平家常盤橋上屋敷 (大蔵省印刷局、NTT大手町ビル)

福井藩松平家中屋敷の東側、庄内藩上屋敷を挟んで、福井藩松平家常盤橋上屋敷があった。江戸図屏風 (写真左上) にこの上屋敷が描かれている。大手御門の前にあるのがそれなのだが、本来の場所は常盤橋の近くにあった。江戸東京博物館には福井藩松平家常盤橋上屋敷を再現したジオラマが展示されている。(写真下)

福井県のホームページではこの上屋敷の再現CGが公開されている。江戸東京博物館のジオラマや再現CGを見ると、各代大名の屋敷はその豪華さを競っていた。想像以上の豪華さだ。屋敷には物見櫓も設けられ、さながら城の様でもある。大名小路にはいくつもの有力大名が屋敷を構えていたので、当時の景色はきらびやかであっただろう。

[福井藩松平家江戸屋敷: 常盤橋上屋敷大名小路中屋敷、越前堀中 (下) 屋敷、吾妻橋下屋敷]


1876年 (明治9年)、姫路藩酒井家大手角上屋敷跡と福井藩松平家中屋敷跡にあった大蔵省の東側の庄内藩酒井家上屋敷跡とこの福井藩松平家常盤橋上屋敷跡の広大な敷地に、紙幣印刷工場の大蔵省紙幣寮 (翌年 大蔵省紙幣局、翌々年 大蔵省印刷局へ改称、現 国立印刷局) が建設された。赤煉瓦造り2階建ての近代的な西洋建築で朝陽閣と呼ばれた。

現在、庄内藩酒井家上屋敷跡には大手町フィナンシャルシティ サウスタワー、福井藩松平家常盤橋上屋敷跡にはNTT大手町ビル 本館、大手町プレイスになっている。


庄内藩酒井家家神田橋上屋敷 (大蔵省印刷局、大手町フィナンシャルシティ)

出羽国庄内藩 (明治時代初頭には大泉藩と改称) は戦国武将で徳川四天王の一人である酒井忠次 (酒井左衛門尉家五代) の孫である忠勝が1622 年 (元和 8年) に信州松代から出羽鶴ケ丘に転封となり、鶴ヶ岡城に藩庁を置き始まった。これ以降、酒井家庄内藩は江戸時代を通して転封が無く、明治時代まで続いた。歴代藩主では老中となった酒井忠寄と戊辰戦争を戦った酒井忠篤が著名。また、幕末の志士の清河八郎も庄内藩士だった。江戸の上屋敷は神田橋近くにあり、先祖を同じとする姫路藩酒井家 (酒井雅樂頭家) とも非常に近い場所にある。庄内藩酒井家は江戸では江戸城の城門警備を担っていた。上屋跡地には、明治時代は前述したとおり大蔵省印刷局が置かれ、現在は大手町フィナンシャルシティとなっている。


小倉藩小笠原家上屋敷 (農商務省、読売新聞社東京本社ビル)

小倉藩の前身は1587年 (天正15年)、豊臣秀吉の家臣だった森勝信が豊前小倉6万石を与えられ、関ケ原の戦い (1600年) で敗れ、改易になるまで毛利勝信、勝永親子の二代で終わる。関ヶ原の戦いの後、細川忠興は豊前一国と豊後国国東郡、速見郡都合39万9千石に加増され、小倉藩を立藩。細川家二代忠利が、1632年 (寛永9年) の加藤忠広の改易に伴い、熊本藩54万石に移封され、播磨国明石藩より、忠利の義兄弟である小笠原忠真が入部し、小笠原家が明治維新まで小倉藩主を務めることになる。小倉小笠原氏は西国譜代大名の筆頭として九州の玄関口を抑え、九州の外様大名の監視にあたった。小笠原家小倉藩初代藩主の小笠原忠真は歴史上ある程度知られている人物。茶人 古市了和を招き、小笠原家茶道古流を完成させた。宮本武蔵の嗣子の伊織を家臣として迎え、小倉藩筆頭家老にまで出世し、その後も宮本家は代々その地位を明治維新まで世襲している。この上屋敷は元々は甲斐国甲府藩柳沢吉保の上屋敷であったが、替地となり、東部を越前国福井藩松平家、西部の北側を出羽国鶴岡藩酒井家、南側を越後国高田藩榊原家がそれぞれ上屋敷として分割し、寛保元年(1741)榊原家に代わって豊前国小倉藩小笠原家がこの上屋敷に入り、明治までつづく。

明治維新後。小倉藩小笠原家上屋敷は1881年 (明治14年) に設立された農商務省はの庁舎 (写真左) として使われた。1891年 (明治24年) に農商務省は京橋区木挽町へ移転となり、この建物は会計検査院が使用していたが、関東大震災で焼失、仮設の会計検査院庁舎が建設され、1935年 (昭和10年)、霞が関に新庁舎 (写真右) が竣工し移転した。

戦後、会計検査院跡地の南側は大手町ビルヂング、北側は読売新聞社東京本社ビルとなった。読売新聞社は1968年 (昭和43年) に国有地の払い下げを受け、1971年 (昭和46年) に読売新聞社東京本社ビルを建設 (写真左上)、2013年 (平成25年) には高層ビルに建て替えられている。


和気清麻呂像

大手御門から内濠沿いに、平川門を目指すと途中に和気清麻呂像がある。何度もここを通るたびに、なぜここに和気清麻呂の像が建てられたのか疑問に思っていたのだが、今まで調べなかった。良い機会なのでその背景を調べてみた。和気清麻呂は奈良朝期末の廷臣で、道鏡が皇位を狙った時に宇佐八幡の信託により道鏡のクーデター計画を挫いた。ここまでは一般的な知識として知ってはいた。像が造られたきっかけは昭和15年の紀元2600年記念事業として皇居外苑にある楠木正成銅像とともに建立された。文武の二忠臣を象徴して造られたという。もっと知らない深い背景があったのかと思っていたので、少しがっかり。ただ楠木正成銅像と対だったというのは面白い。当時から、自分の幼少期までは楠木正成は人気武将だったが、文官としての和気清麻呂はそれ程知られていなかったと思う。軍国主義の当時の人たちが、天皇に対しての忠臣としてこのように考えていたのは興味を引いたノチュウ寸たものである。


平河 (川) 御門

和気清麻呂像から裏下馬門の平河御門が見える。もう日暮れが近く、薄暗くなり写真映りガ今一つ。大手御門と同じようにこの平川御門からも江戸城三の丸に入ることができるが、既に入場時間は過ぎており閉門となっている。前回来た時は新型コロナ感染防止の緊急事態宣言下で、入場はできなかった。次回の東京訪問の際に訪れる予定。

この後、内濠沿いを竹橋御門まで走り、内濠一周がようやく終了。これで外濠の外曲輪12門と内濠の内曲輪16門の外側の史跡、文化財巡りは一段落。次はいよいよ江戸城内の散策となるが、今回は東京滞在は後一日しかないので、それは次回 (来年の一月を予定) 東京に来た時に温存しておく。


この日は、約50スポットを巡ったので、沖縄に帰ってから訪問記の編集に数日かかった。この地域には多くの大名屋敷があり、それぞれが明治、大正、昭和と形を変えていっている。それを追いかけるだけでも、調べるには時間がかかったからだ。史跡や遺構などは残っていないので、一つ一つの訪問には、調べていた説明二照らし合わせてみても時間がかからない。訪問時間より、調べる時間が数倍かかってしまった。

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