東京 (28/09/20) 江戸城 (6) 外曲輪12門 / 外濠 (6) 牛込見附/市谷見附跡
- 旧古河庭園
- 加賀藩前田家平尾下屋敷跡 (加賀公園、観明寺)
- 鬼子母神堂
- 厳島神社抜弁天
- 幸国寺
- 林大学下屋敷 (林大学墓所)
- 武家屋敷門
- 小浜藩下屋敷
- 秋葉神社
- 松岡藩上屋敷
- [牛込見附跡]
- [市谷見附跡]
- 尾張藩上屋敷
- 亀岡八幡神社
- 高松藩松平家上屋敷・中屋敷 (2020年2月23日に記載)
今日は少し遠くにある前田藩下屋敷まで行き、それから新宿近辺の大名屋敷を巡り、外堀に戻ってくる予定。
旧古河庭園
この地は元々は陸奥宗光の別宅があったのだが、1905年 (明治38年)、宗光の次男が古河財閥創業者である古河市兵衛の養子となり、古河家に譲渡。当時の建物は現存しない。その子供の古河虎之助が1914年に周りの土地も購入して造園を始め、旧岩崎邸洋館、鹿鳴館、ニコライ堂などを手掛けたイギリス出身の建築家ジョサイア・コンドル (そういえば昨日訪れた護国寺に彼の墓あると見た覚えがある) の設計で、1919年 (大正8年) に現在の形 (洋館、西洋庭園、日本庭園) に整えられた。ここは国が所有者なのだが、東京都が借り受けて一般公開している。
この庭園は有料だが150円と格安。庭園をのんびりと歩くだけでも気持ちが良い。
加賀藩前田家平尾下屋敷跡 (加賀公園、観明寺)
観明寺
鬼子母神堂
厳島神社抜弁天
応徳3年(1086年)、鎮守府将軍 源八幡太郎義家が後三年の役 (1083~1087) で奥州平定に向かう途中ここに宿営し、富士山を望み、さらにその先の厳島神社に戦勝を祈願した。義家は奥州平定の帰途、戦勝のお礼のためこの地に神社を建立し、厳島神社を勧請したと伝えられている。抜弁天とは「義家がこの地に立ち寄り祈願して苦難を切り抜けた」という言い伝えか、「境内参道が南北に通り抜けできる」ことから来ているそうだ。江戸時代、ここには稲荷神社もあり、徳川綱吉による生類憐れみの令により付近に野犬のための2万5千坪の犬小屋が設置されていたそうだ。今は広い道路の交差点でかなり狭い敷地の中に立っている。
幸国寺
寛永7年 (1630年)、加藤清正の開基で創建した寺。ここを訪れた理由はここにある山門が、武家屋敷からの移築だということ。山門は江戸幕府御三卿の田安家屋敷門であったという。この寺は江戸時代に二度の大火で焼失、さらに東京大空襲でも焼失し再建されたもの。
移設された田安家屋敷門
田安家屋敷は新宿御苑の四谷4丁目交差点のところにあった、
林大学下屋敷 (林大学墓所)
林家 (りんけ) は林羅山を祖とする儒学者・朱子学者の家系で、江戸幕府の儒家として代々任じられた林家と、第二林家の二つの家系がある。林家は元禄4年 (1691年)、上野不忍池の池畔にあった家塾を湯島に移し、湯島聖堂として竣工した際に大学頭に任じられた。以後、林家は聖堂学問所 (のちに昌平坂学問所) を管掌し、大学頭の官職も世襲することとなった。
屋敷跡は住宅街になって面影は一切ないのだが、屋敷跡のすぐそばに林家の墓所があり初代の林羅山から歴代大学頭の墓がある。この墓所は国史で11月初旬の限られた日しか公開していない。訪れた時は門の修理をしていた。中に入れるかと聞いたが、やっぱりダメと断られた。そこで柵の外からの写真撮影となった。
武家屋敷門
見つけた資料ではここに武家屋敷門があると出ていたが、当時から改修しているのか、少し武家屋敷門とは趣が違ってきている。
小浜藩牛込矢来下屋敷 (矢来公園)
1657年 (明暦3年) に起きた明暦の大火で江戸城が焼失、家光はここに避難し、矢来を巡らせて警備に当たったことから今の地名が生まれ、今でもここは矢来町として残っている。広大な敷地には小堀遠州の作といわれる庭園があり、江戸名園の一つとされたが、現在はその様な庭園は無くなり、どこにでもある公園となっている。この公園の場所は梅畠があったと江戸の地図には書かれている。また、「解体新書」を訳した蘭学者の杉田玄白は1733年 (享保18年)、この屋敷内で生まれたとされている。
矢来秋葉神社
小浜藩酒井家邸内にあった邸内社。この地もかつては小浜藩牛込矢来下屋敷内の場所。キリシタン灯籠といわれている正雪地蔵が境内にある。これが地蔵と言われなければただの石柱に見える。確かに当時のキリシタン灯籠は他の人にわからない様になっていたので、多分そうなのだろう。少し疑問なのは、なぜキリシタン灯籠がキリシタンでもない酒井家邸内の邸内社にあったのかだ。矢来町秋葉神社の創建年代等は不詳なのだが、寛永年間 (1624-1644) までは火除の神として牛込寺町にあり、その後、同所住民の願いにより矢来町の酒井若狭守家の邸内に移設、邸内社となっていたそうだ。移設以前にキリシタン灯籠が作られ、密かに進行されていたのかもしれない。移設時に一緒に移ってきたのだろう。
常陸松岡藩上屋敷 (白銀公園)
常陸松岡藩は初めて聞く藩名だ。江戸時代を通して300もの藩があったので聞いたこともない藩は多い。
1607年 (慶長12年)、徳川家康の十一男の頼房の守役に中山信吉を任命。翌々年、水戸藩25万石の附家老となった信吉は1万5千石を拝領。 後に2万5千石となり、居館を常陸松岡 (現茨城県高萩市) に構え、附家老ながら大名格を得ていた。これがこれが将来の松岡藩の始まりとなった。1699年 (元禄12年)、中山家は上屋敷を牛込赤城脇 (現在の白銀公園界隈) に屋敷を構えた。この常陸松岡藩中山家の上屋敷跡地が白銀公園となっている。常陸松岡藩が正式に藩になったのは実は明治維新後の1868年 (明治2年) で、1871年 (明治4年) の廃藩置県までの僅か3年足らずだった。上に掲載した江戸時代の古地図では中山藩と書かれてあるが、別の古地図では附家老とだけになっている。正式な藩でないにしろそれに準じる扱いがされていたのだろう。
牛込見附跡
ようやく外堀に戻った、牛込見附の一つ前が小石川見附で今年の2月23日に訪れているので、半年ぶりの見附訪問となる。牛込見附は、徳川家光の時代,1636年 (寛永13年) に阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって枡形石垣と土橋が普請され、翌年に櫓と門、そして牛込橋が造られ門番が置かれた。楓の御門とも呼ばれていた。田安門を起点とする上州道の出口として交通の要所であった。
江戸時代にあった牛込橋が形は変わっていまったが、同じ場所にある。
道の両脇に石垣が残っている。切込接と打込接の石垣が残る。
古写真と牛込見附近辺を描いた浮世絵が残っている。写真と見比べると位置関係が分かり、江戸時代の様子が垣間見れる。浮世絵右上は牛込見附の外側に行く道の神楽坂で、なんとなく雰囲気が伝わってくる。浮世絵左下を見ると向こうに牛込見附と牛込橋があり外堀端にも店が立ち並んでいたのだ。
次の見附の市谷見附方面への外堀。外堀の岸辺にはJR中央線、総武線が走っているが、江戸時代はこの線路も堀であった。外堀の幅は100mもある。堀と言うよりは川と言ったほうがいいぐらいだ。この外堀の江戸城側の土塁跡は遊歩道がある外堀公園となっており、市谷見つけまで続く。自転車の乗り入れができるので、ゆっくりと外堀の風景を楽しみながら走り、市谷見附を目指す。
市谷見附跡
市谷門は1636年 (寛永13年)、美作国津山藩主の森長継が築いた。少し変わった枡形門になっている。通常は門を入って右か左に次の門があるのだが、ここは門を入り正面の少しずれたところに門がある。地形の制約でこうなったそうだ。市谷見附の周辺に多くの桜が植えられ桜の名所だったそうだ。
この見附跡にはほとんど遺構がなく。市谷駅の構内に石垣が少し見える程度だ。
尾張藩上屋敷
尾張家は徳川家康の九男の義直を祖とし、紀伊家、水戸家とともに「御三家」のひとつ。尾張家は62万石の大大名のため、幕府からは格別な待遇を受けていた。尾張藩の屋敷は、上屋敷、中屋敷、下屋敷のほか築地や河田や新宿などにも屋敷を持ち、総坪数は30万坪程あったと云われている。上屋敷は約7万5千坪で藩主家族の住居と江戸での藩政機構を持ち、更に、回遊式庭園「楽々園」まであった。麹町にある中屋敷は約1万7千坪を有し、隠居した藩主や世子が住む屋敷。外山下屋敷は約13万坪で生活物資の保管場所兼災害時の避難場所、更に別荘としても利用されていた。各屋敷には家臣団の長屋があり、藩主在府時の江戸勤仕の家臣総数は、奉公人も含めて、多い時は5千人〜6千人にのぼったと言う。
幕府が倒れた後、1871年 (明治4年) には兵部省用地として召し上げられ、以後は陸軍用地となり、現在は防衛省、自衛隊、警視庁となっている。当然中に入ることはできず、残っている遺構は屋敷を囲っていた石垣の一部がどこかにあるらしいが、場所はわからなかった。
陸軍が置かれていた当時の写真
亀岡八幡神社
尾張藩上屋敷の東隣にある亀岡八幡神社は太田道灌が1479年 (文明11年)、江戸城築城の際に西方の守護神として鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀ったのが始まり。「鶴岡」に対して亀岡八幡宮と称した。当時は現在の千代田区内にあったが、戦火にさらされ荒廃し、江戸時代に入り1636年 (寛永13年) に江戸城の外堀が出来たのを機に現在地に移転。 江戸時代には市谷八幡宮と称した。境内には茶屋や芝居小屋なども並び人々が行き交い、大いに賑わったという。
高松藩松平家上屋敷・中屋敷 (2020年2月23日に記載)
今年の2月に高松藩松平家下屋敷を訪れたのだが、そのすぐ近くに上屋敷と中屋敷跡があったことを後で知った。今日はホテルへの帰り道にその上屋敷と中屋敷跡を訪れた。レポートは高松藩松平家下屋敷とところに追加している。
今日でここまで来た。まだまだ先は長そうだ。
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