杉並区 20 (25/02/25) 旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村 (2) 通り 向山谷 小字 八反目/西山谷

旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村通り (郷)

小名 向山谷 (むかいさんや、小字 八反目、西山谷、中山谷)

小字 八反目 (はつたんめ)

  • 桃園川緑道 (八反目上橋、八反目橋)
  • 高円寺新道 (高南通り)

小字 西山谷 (にしさんや)

  • 高円寺の寺町
  • 萬寿山松應寺 (曹洞宗)
    • 山門
    • 願王殿、日限 (ひぎり) 開運地蔵尊、地蔵菩薩、六地蔵
    • 本堂
    • 佐藤信渕墓
  • 普明山西照寺 (曹洞宗)
    • 山門
    • 鐘楼
    • 妙覚殿 (道了堂)
    • とろけ地蔵 (14番)
    • 脳病平癒 地蔵尊
    • 本堂
    • 無縁塔、戦歿病死者忠魂各精霊位塔、舎利塔
  • 永昌山宗泰院 (曹洞宗) 
    • 山門
    • 開運弁天堂
    • 本堂、開山堂、子授け地蔵尊
    • 観音座像
    • 墓地
  • 冨聚山長龍寺 (曹洞宗)
    • 山門、地蔵菩薩像 (15番)
    • 本堂
    • 地蔵堂、豆腐地蔵 (16番)
    • 地蔵菩薩像
    • 浅間神社
    • 火災横死者供養碑
  • 如法山長善寺 (日蓮宗)
    • 山門
    • 本堂
    • 三十番神堂
  • 祥雲山 福寿院 (曹洞宗)
    • 本堂
    • 水子地蔵、稲荷社
    • 池田英泉墓、千手観音座像
  • 瑞祥山鳳林寺 (曹洞宗)
    • 山門延命地蔵尊 (19番、大石仏の地蔵)
    • 馬頭観音 (17番)
    • 庚申観音像 (20番)、地蔵菩薩立像
    • 三宝荒神堂
    • 本堂
    • 多賀谷楽山/向陵/酔雪の墓、金井莎邨/内山賀邸の墓
    • 阿弥陀如来立像 (18番)
  • 浄雲寺 (真宗大谷派)
  • 杉並第八小学校跡


旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村通り (郷)

村の中程を西から東へ流れている桃園川の北岸から早稲田通りまでの地域を「原」といい、南岸から青梅街道の両側までを「通り」と呼ばれていた。原と通りは各々ーつの集落を形成し、鎮守社も別々だった。文政年間(1818 ~ 29年)には、「原」に四十数戸、「通り」に六十数戸の農家があり、「原」は主に所沢みち、「通り」は青梅街道を利用していた。江戸時代から明治時代まで「通り」 には小沢、南小沢、向山谷の三つの小名があった。

通りの民家の分布を見ると江戸時代から明治時代にかけては、ほとんどの民家が青梅街道沿いに集中している。それ以外は八反目と西山谷に青梅街道の北側に小さな集落があるぐらいだった。この様に住宅地となっていない土地が広く残っていたことで、東京中心から寺院が移って来て寺町を形成している。大正12年の関東大震災後は、東京からの移住者が激増し住宅地が開発され、戦前には寺社、学校、試験場などを除いて、ほぼ全域が住宅街に変わっている。


小名 向山谷 (むかいさんや、小字 八反目、西山谷、中山谷)

小名 向山谷は、本村から見て桃園川の向かい側の山谷だったので、向山谷という小名になったと考えられている。1889年 (明治22年) に町村制が地行されて、高円寺、馬橋、阿佐ヶ谷、天沼、田端、成宗の六ケ村は合併して杉並村が誕生した際に、旧村の小名は廃止され、旧高円寺村の小名 向山谷は西山谷、中山谷、八反目の三つの小字に分割されている。



小字 八反目 (はつたんめ)

1889年 (明治22年) に誕生した小字名の八反目の由来は不明だが、この地には検地の際に八反歩の田圃があったので、その名が付いたと推測する人もいる。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 八反目は小字 西山谷と共に、高円寺三丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、高円寺三丁目は旧小字 中山谷を含めて高円寺南二丁目となり、ほぼ旧小名 向山谷の行政区が復活している。

桃園川緑道 (八反目上橋、八反目橋)

この小字 八反目には見るべき史跡などは残っていないが、桃園川緑道に八反目上橋、八反目橋として、その地域の古い名が残されている。この小字 八反目の北の境界線は桃園川だった。桃園川はかつては曲がりくねっており、現在の桃園川 (緑道) とは川筋が大きく異なっていた。桃園川は氾濫を防ぐため、1961年 (昭和36年) に直線に改修された。1967年 (昭和42年) には完全下水道となり、暗渠化され、その地上部分が整備されて桃園川緑道なっている。


高円寺新道 (高南通り)

高円寺駅から南へ幅広の道路が走っている。この道を南に進み、今日の目的地に向かう。この道は高南通りと呼ばれ、高円寺駅から桃園川緑道を越え、新高円寺駅にある青梅街道 (写真右下) に合流している。この道は江戸時代には存在しておらず、戦後に整備された道路で、完成当初は高円寺新道とも呼ばれていた。



小字 西山谷 (にしさんや)

1889年 (明治22年) に誕生した小字 西山谷は旧小名 向山谷内の山谷の西地域だった。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 西山谷は小字 八反目と共に、高円寺三丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、高円寺三丁目は旧小字 中山谷を含めて高円寺南二丁目となり、ほぼ旧小名 向山谷の行政区が復活している。


桃園川緑道 (西山谷上橋、西山谷橋、西山谷小橋)

この小字 西山谷の北の境界線は桃園川だった。桃園川はかつては曲がりくねっており、現在の桃園川 (緑道) とは川筋が大きく異なっていた。桃園川は氾濫を防ぐため、1961年 (昭和36年) に直線に改修された。1967年 (昭和42年) には完全下水道となり、暗渠化され、その地上部分が整備されて桃園川緑道なっている。桃園川緑道には、西山谷上橋、西山谷橋、西山谷小橋跡が、かつての小字 西山谷を偲ばせるように残されている。


高円寺の寺町

高円寺南二丁目の中程、明治時代の小字 西山谷には曹洞宗のお寺が六つ、日蓮宗が一つ、浄土真宗が一つあり、寺町をつくっている。この寺町一帯は、もと高円寺村の大地主・紺屋 (こうや) 村田為吉 (半次郎) の所有地だった。

明治時代、村田家は紺屋を営んでいたが、ドイツから化学染料が輸入され、藍の価格が一挙に大暴落した影響で倒産してしまい、所有地が東京の金融業者の手に渡った。移転先を探していた福寿院がその土地の一部を買い、明治41年に移ってきた。これを契機に同じ宗派の西照寺、長龍寺、宗泰院などがつぎつぎと移ってきて、大正の始めには寺町が形成されている。寺町とは言え、門前町の雰囲気はなく、住宅地の中に寺が集まって建っている。最も、住宅地は寺が移転した後に形成されているので、寺が移転して来た当初は畑の中に寺があるという雰囲気だっただろう。


萬寿山松應寺 (曹洞宗)

曹洞宗の萬寿山松應寺は、1657年 (明暦3年) に浅草森下町で開山大松寺5世悦州舜喜大和尚、開基雪岩長卯大和として創立され、江戸時代は与力・同心などの檀家が多く、武家寺として栄えた。墓地が狭小なことから、1918年 (大正7年) の区画整理が行われた際に、この場所に移ってきた。1945年 (昭和20年) の空襲で直撃弾を受け、本尊、寺宝、寺録などが焼失しており、寺の記録は失われている。


山門

山門の前には剪定された立派な松が山門を覆う様になっている。山門の扁額は江戸時代の高名な書家高玄融によるもの。山門を入ると、広くはないが庭が綺麗に手入れされている。

境内の所々には愛らしい地蔵が置かれていた。


願王殿、日限 (ひぎり) 開運地蔵尊、地蔵菩薩、六地蔵

本堂への参道の脇には願王殿がある。堂内正面には丸彫りの日を限定して開運を祈願する日限開運地蔵尊立像 (造立年不詳 写真中右端) が宝珠を抱えている。その隣には、大正時代造立と思われる月輪を背にし、錫杖を右手に持ち、ニ幼児を左手に抱えた地蔵菩薩が置かれている。二体の地蔵菩薩像の両脇には、六地蔵 (写真下) が祀られている。この六地蔵にはそれぞれ名札が置かれて、何の地蔵菩薩が分かる様になっている。六地蔵は死後の六道の何れかに輪廻する人の救済を司っているとされる。

宗派や寺で六地蔵の名や、持ち物、並び方などが微妙に異なっている。ここに置かれている六地蔵名は以下の通りになっていた。(括弧内と図は一般的な真言宗の六地蔵)

  • 地獄道:鶏亀地蔵 (宝珠/錫杖、大定智悲地蔵、日光地蔵菩薩)
  • 餓鬼道:陀羅尼地蔵 (与願印/宝珠、大徳清浄地蔵、持地地蔵)
  • 畜生道:法印地蔵 (旗/如意、大光明地蔵、徐蓋障地蔵)
  • 修羅道:宝性地蔵(合掌/梵篋、清浄無垢地蔵、宝印地蔵)
  • 人間道:地持地蔵 (無畏印/数珠、宝珠地蔵)
  • 天道:法性地蔵(柄香炉/経典、大堅固地蔵、檀陀地蔵)


本堂

現在の本堂は1982年 (昭和57年) に耐火造りで再建されたもので、本尊の聖観音像が祀られている。元々の本尊の釈迦如来像は空襲で焼失し、中野の宗清寺から江戸時代の半ば頃に造立された聖観音像を遷している。


佐藤信渕墓

本堂の裏は墓地になっており、無縁塔 (写真右上) などが置かれていた、墓地内には幕末の大農政学者である佐藤信渕 (1769 ~ 1850年) の墓 (写真下) がある。江戸時代の為政者や学者は、勤勉努力と勤後貯蓄とを根本にした消極的な経済論を説き、実行していたが、佐藤信渕は生産の増大に重点を置き、肥料と品種の改良、天然資源を開発して、新しい事業を興し、富を増やして庶民の生活を向上させる積極的な経済論を主張して、「農政本論」「経済要録」など多くの本を著している。当時は世に受け入れられなかったが、明治新政府は信淵の理論を、農政の基本にして行政を行って大きな成果をあげ、その功を賞して佐藤信渕には正五位を追贈されている。


普明山西照寺 (曹洞宗)

松応寺の西隣りには曹洞宗の普明山西照寺がある。昔、日比谷の漁師が東京湾で漁をしていた時、阿弥陀如来の木像が網にかかり、信心の深い漁師は小さな庵を建てて木像を祀り拝んでいたが、1574年 (天正2年) に文龍という僧侶がこの庵を改修して西照寺を創立されたと伝わっている。その後、徳川家康の江戸入府による江戸城大造営のため、寺域は武家屋敷地となり、1612年 (慶長17年) に芝金杉へ移り、1643年 (寛永20年) に類焼に遭い、寺地は御用地となり、拝領した代替地は狭くて本堂の再建も不可能なため、1665年 (寛文5年) に芝白金村の地を買収して移転し再興。この再興に力を尽くしたのが、中興開基でもある旗本の岡田豊前守善政で、以来代々岡田家の菩提寺となっている。その後、江戸三十三観音の第二十六番札所になったので、参詣人が絶えず栄えていた。1867年 (慶応3年) に討幕派の放火で本堂、伽藍全てを焼失。官軍による倒幕の際、1868年 (明治元年) には官軍の宿舎となったが、その時の失火により伽藍は全焼し、その後、1877年 (明治10年) 頃に再建された。 1910年 (明治43年) に区画整理により、現在地に移されている。この時に第二十六番札所名は、渋谷の永泉寺へ寄進されている。


山門

山門の扁額「普明山」は、明国から亡命し、水戸光国の師となった東皇心越禅師 (1639 - 1696年) の書だそうだ。1845年 (弘化2年) の青山火事 (武家屋敷400、寺院187、126町を焼失、多くの焼死者)、1772年 (明和9年) には江戸三大大火の一つの明和大火 (行人坂大火) にも本堂も山門もは焼失するが、この扁額だけは残り、その霊験が知れ渡り 「火防せの山額」 と呼ばれていた。


鐘楼

山門から本堂に伸びている参道の右側に1960年 (昭和35年) に信徒により寄進された鐘楼が置かれている。


妙覚殿 (道了堂)

参道の左、本堂の左手前奥には瓦華総けやき造りの妙覚殿が置かれ、妙覚道了を祀っている。道了 (14世紀末 ~ 15世紀初頭) は神奈川県の最乗寺を開創し、死後衆生救済を誓い、天狗に姿を変じて昇天したと伝わる。建物は明治初年に、芝赤羽橋の旧久留米藩主有馬邸から芝白金の西照寺に移し、この地に寺が移ってきた後、1913年 (大正2年) に移築されている。


とろけ地蔵 (14番)

墓地入口の小祠には、1652年 (承応2年) 造立の舟型石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。杉並区内では最も古い地蔵尊石像になる。西照寺が芝白金台町からこの地に移ってきた際、この地蔵尊も共に移設されている。移設された時には、既に東京湾の潮風に当たっていたため、溶けるように風化していたので俗称「とろけ地蔵」 と呼ばれていた。


脳病平癒 地蔵尊

とろけ地蔵の前には何体かの石仏がある。その中に造立年不詳の舟型石塔に錫杖、宝珠を持った地蔵菩薩立像 (写真右上) が浮き彫りされている。地蔵菩薩の横には「脳病平癒 地蔵尊」と刻まれている。


本堂

参道突き当りの本堂は1910年 (明治43年) に区画整理により現在地に移った二年後の1912年 (明治45年) に建立された。本尊の釈迦如来坐像、伝説の海から上がったとされる阿弥陀如来坐像(室町時代末期造立)、江戸時代初期造立の釈迦如来立像、札所の本尊・不空精索観音像などが祀ってある。


無縁塔、戦歿病死者忠魂各精霊位塔、舎利塔

本堂の奥は墓地になっている。そこに多くの石塔、石仏を集めた無縁塔があり、その上にこの世のあらゆる生命あるものの霊を供養する三界萬霊塔、海軍大将山本権兵衛書の日清戦役および日露戦役の戦歿病死者忠魂各精霊位塔 (1906年 明治39年建立) が置かれている。その他、釈迦の遺骨を納めている舎利塔 (右下) も置かれていた。


永昌山宗泰院 (曹洞宗)

永昌山宗泰院は曹洞宗の寺院で木造釈迦如来坐像を本尊として祀っている。嘯山春虎 (しょうざんしゅんこ) 和尚が1584年 (天正12年) に麹町表四番町に草庵を結んだのが始まりとい。その後、1593年 (文禄2年) に小田原万松院の格峰泰逸和尚を勧請、寺地拝領して開山し、堂塔を整えた。その後、1616年 (元和2年) に寺地が旗本屋敷地と定められ、市ヶ谷左内坂町に境内地を拝領して移転し、市谷組の寺院の取り締まりにあたる市谷組寺院触頭を命ぜられている。江戸時代の檀家は旗本、御家人、尾張藩士などの武家350家とその出入商人などで、本堂、開山堂、客殿をはじめ、武家檀家参詣のための供待ち部屋、槍小屋、馬小屋など16棟の堂宇を有する旗本寺として隆盛を誇ったといわれている。明治維新後の一時期には寺勢が衰えたが、明治20年代には復興している。1909年 (明治42年)、陸軍士官学校の校地拡張のため寺地を買収され、現在地へ移転している。


山門

山門から境内に入る。


開運弁天堂

本堂への参道の左側にある堂宇は開運弁天堂で尾張藩主の持仏堂といわれ、1750年 (寛延3年) に市ヶ谷左内坂町の寺院内に建立されたものを移築している。


本堂、開山堂、子授け地蔵尊

本堂も1757年 (宝暦7年) に市ヶ谷左内坂町の寺院内に建立されてものをそのまま移築している。本堂の前にはガラス張りの箱に木造観音立像が置かれている。大切にされている様だが、この観音立像についての情報はわからなかった。本堂内に隣接する開山堂には胸前を開き、両手をもって小児を横抱きにして右乳を含ませ、右肩には別の小児が寄り添った造形の木造地蔵菩薩坐像があり子授け地蔵尊と呼ばれている。堂内にはあがらず、写真はインターネットに掲載されていたものを拝借した。


観音座像像

境内の庭に観音座像が一つ置かれれいる。この観音像の情報は見つからなかったが、合掌の座像姿から、普賢菩薩か勢至菩薩かと思われる。


墓地

墓地には、萬霊供養塔 (写真上中)、水子地蔵尊(左)、鈴木派無念流の始祖で幕末の名剣士の鈴木大学重明 (1784~1831年) の墓 (右) がある。鈴木大学重明は通称を斧八郎といい、忠也派一刀流を学んでいたが、神道無念流の剣士に敗れ、神道無念流に改め、その後、剣理を追究し、創意工夫を加えて一流をたて、鈴木派無念流の名のもとに、麹町六番町に道場を開いた。尾張藩の先鋒物頭として召し抱えられ 江戸詰藩士たちの師範に任じられている。道場は大いに繁昌して、門弟一万人といわれるほどだった。その他、相撲年寄の松ヶ根・東関の墓 (下中) などがある。


冨聚山長龍寺 (曹洞宗)

曹洞宗の冨聚山長龍寺は、1593年 (文禄2年) に徳川幕府より草創麹町四番町の河野家の屋敷内に御用地を拝領し、徳川家康の家臣で幕府御使番の河野盛政の開基で長隆寺と名付け精舎を創建した事に始まる。開山の宗頓禅師が本寺の雲松院で鎮守調経を修業していたところ、一天俄かにかき曇り、真っ黒な雲間より大龍が下がってきた。師が印を結び経文を唱えたところ、大龍がたちまち小龍となって、師の両肩に障った。師はこれを掴み布に包んで長隆寺に持ち来たり寺宝とした。これ以後、長隆寺を長龍寺と改めたと伝わっている。その後、1616年 (元和2年)に寺地が御用地となった為、市ヶ谷左内坂に境内地を拝領して移転している。江戸時代は、開基の河野家をはじめ、甲斐武田氏支流である油川家など旧武田家臣団、徳川一門の松平十四家の滝脇松平家(世良田家)、血鎗九郎の異名で知られる長坂家、応仁の乱の西軍の将の山名宗全を排出した山名家(但馬山名家)、その他多数の旗本、名家など76家の菩提寺となって栄え、代々住職は朝廷より勅賜号を賜る格式のある寺院だった。1909年 (明治42年) に、士官学校用地拡張 (現 防衛省) で、宗泰院とともに現在の場所に移ってきている。


山門、地蔵菩薩像 (15番)

薬医門形式の黒塗り山門は、1737年 (元文2年) の建立と伝わり、この地に移築され、杉並区内では最も古いもの。山門に掲げられている冨聚山の扁額は、江戸時代初期の名僧月舟宗胡 (1618 ~ 1696年) の筆と伝わっている。

山門横の駐車場には聖観世音菩薩像、山門前には月輪を背にした丸彫りの地蔵菩薩立像 (造立年不詳) と市ヶ谷左内坂からこの地に移ってきた際に移設された丸彫りの地蔵菩薩座像 (造立年不詳 15番) が宝珠を左手に持ち鎮座している。山門を入ると、新しく造られた六地蔵が、悪霊の侵入から寺を守っている。


本堂

本堂は1756年 (宝暦6年) に建立されたものが、この地に移って来た際に移築され、近年に大改修され、現在に至っている。本堂には釈迦如来坐像の本尊が祀られている。


地蔵堂、豆腐地蔵 (16番)

本堂手前の左側には大きな堂宇がある。地蔵堂でその中央には1708年 (宝永5年) 造立の豆腐地蔵 (16番) と呼ばれる丸彫りの地蔵菩薩立像が祀られている。かつては市ヶ谷佐内坂で山之手二十八番地蔵の第十一札所の地蔵だった。その両脇には錫杖を持ち幼児を抱いきに幼児が足下に縋り付く丸彫りの水子地蔵菩薩立像 (造立年不詳) と錫杖を持ち幼児を抱いた子育地蔵菩薩立像 (造立年不詳) が置かれている。豆腐地蔵菩薩の右耳は欠けている。なぜ右耳は欠けているのか、その伝説が残っている。

昔、長龍寺がまだ左内坂にあった頃、佐内坂下の豆腐屋へ夕暮れ時に、みすぼらしい姿のお坊さんが豆腐を買いにきました。帰ったあとで貰ったお金を見ると木の葉でした。こんなことが何回もあったので、豆腐屋の主人 はお上へ訴え出ました。いつものように豆腐を買って帰るお坊さんを、張り込んで居た寺社奉行所の役人の清水兵吉が呼び止めると、お坊さんは慌てて逃げ出しまし た。兵吉は抜き打ちに一刀を浴びせますと、カチンと音がした瞬間、お坊さんの姿が消え、道路に血がついた小さな石片が転がっていました。血のしたたりをつけて行くと、長龍寺門前のお地蔵様の前で消えておりました。お地蔵様を見ると、右耳が欠け、頬に刀傷があり、怨めしそうな顔で兵吉を見つめていました。お坊さんがお地蔵様の化身であったことをさとった兵吉は、申し訳ないことをしたと深く後悔し、長龍寺の弟子になって、生涯お地蔵様の供養をしたそうです。豆腐屋の主人も、毎日お地蔵様へ豆腐を供えて供養したところ、商売が大変繁盛しました。これを見た江戸中の豆腐屋さんは、商売繁盛祈願にお詣りするようになったので、いつしか豆腐地蔵と呼ばれるようになったという。


地蔵菩薩像

地蔵堂の前は三体の地蔵菩薩像と石柱が置かれている。向かって左には豆腐地蔵と同じ1708年 (宝永5年) に造立され、1768年 (明和5年) に再建された地蔵菩薩半跏像がある。左内坂から移設されたもの。台座には「毎日晨朝入諸定 入諸地獄今離苦 無佛世界度衆生 今世後世能引導 (地蔵菩薩は毎日早朝に諸々の定に入り、諸々の地獄に入って衆生の苦を離れさしめ、仏なき世界に衆生を済度し、現世も来世もよく引導したもう)」と刻まれている。その隣には、舟型石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像。文字が摩滅していて造立年も分からない。足元には小さな地蔵菩薩像があり、右端には常燈明供養塔が置かれている。燈明供養とは仏教では闇を照らすことは仏の智慧を象徴し、無明を消滅するとの教えがあり、わずかな灯明を供養することで功徳があると説かれている。

地蔵堂の脇にも三体の観音菩薩像が置かれている。左端は1973年 (寛文13年) の大姉の戒名、その隣には造立年不詳の信士の戒名、右端は1664年 (寛文4年) の禅定尼の戒名が刻まれているので信徒の墓石だろう。


浅間神社

境内には鳥居と祠が置かれた浅間神社がある。この神社についての情報は見当たらず、どの様な経緯で浅間神社が寺院内に置かれているのかはわからない。富士山信仰の浅間神社は、どの地域でも富士講などが組織され、祠や富士塚などを建立している事が多い。市ヶ谷左内坂から移築したとは思えないので、この向山谷の富士講が建立した浅間神社を引き継いだものではないかと思う。


火災横死者供養碑

墓地には無縁墓の山に、江戸三大大火の一つ、死者数知れずといわれた1772年 (明和9年) の明和の大火 (目黒行人坂大火) の焼死者を供養した火災横死者供養碑が無縁塔の中にある。

旧暦2月29日に盗みのため武州熊谷無宿の真秀という坊主 (後に捕縛され、市中引き回しのうえ火刑に処されている) が大円寺庫裡への放火し、炎は南西からの風にあおられ、麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、神田、千住方面まで燃え広がった。一旦は鎮火したが、本郷から再出火し、駒込、根岸を焼いた。30日の昼ごろには鎮火したかに見えたが、3月1日には馬喰町付近からまたもや再出火、東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。この大火で類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数え、死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えたという。


如法山長善寺 (日蓮宗)

日蓮宗の如法山長善寺は、1590年 (天正18年) に十界諸尊と日蓮聖人を本尊として、限立院義によって、江戸府内の谷中(台東区) に開創された。当初は、実蔵坊と称していたが、二世長善院日行の時代に長善寺と改称したと伝えられている。後に五世日成の時代に谷中本村 (荒川区東日暮里) の地に移り、1926年 (大正15年) に境内地が国鉄線路拡張のあたり、現在の場所に移っている。


山門

題目塔が置かれた山門は朱塗りのゲートが設置され、寺町の七つの寺院では少し風変わりな物となっている。

山門を入ると、正面に立正安国と彫った台石の上に、日蓮聖人立像が立っている。

山門を入った境内には、白雪姫と七人のこびとたち、高円寺阿波踊り、現代風の地蔵、何種類もの蓮を育てている甕、観世音菩薩の像が置かれている。其々に、ここに訪れる人へのメッセージが付けられていた。住職の思いが込められているのだろう。


本堂

1945年 (昭和20年) に、不審火で本堂、客殿が全焼し、1959年 (昭和34年)に本堂が再建された。目についたのは、本堂の屋根で、宝珠を中心に向き合う二頭の龍の像が置かれている。2015年 (平成27年) に屋根の改修が行われ際に設置されたもの。本堂内陣は金庫型の土蔵造りで、日蓮聖人坐像、題目塔や、江戸初期に造立された鬼子母神像、十羅刹女像、毘沙門天像などが祀られ、また、應仁元年銘板碑等も保管されている。


三十番神堂

本堂の左手前には三十番神堂で、1833年 (天保4年) 再建された古い堂宇で、元々は旧谷中村の鎮守だった。堂内には、一日から三十日まで毎日一体づつ交替で法華経を守る三十番神の30体が祀っている。

三十番神は神仏混淆 (神仏習合) で日本の30の神社の神々を仏教に取り込んだもの。


祥雲山 福寿院 (曹洞宗)

長善寺の西側にある曹洞宗の祥雲山福寿院は、御府内備考続編では1591年 (天正19年) に境内地を拝領したのを開創としている。また、寺院明細帳では1614年 (慶長19年) に伊賀藩土と伊賀出身の旗本が、四谷筆笥町に建立した寺とあり、開山は四谷勝興寺の雪庭春積(1627年寂) で、徳川幕府創業に功績のあった伊賀藩士の慰霊のために、同藩士の三浦氏等十二人が開基となって開創したと寺には伝わっている。当時は本堂、鎮守堂、薬師堂が建てられていた。 1908年 (明治41年) に区画整理で、現在地へ移ってきている。


本堂

本堂は1936年 (昭和11年) に隣接するから杉並第八小学校の火災の類焼で失われ、1964年 (昭和39年) にけやき造りで再建され、本堂内には江戸時代に造られた金銅造りの釈迦如来坐像を祀っている。

水子地蔵、稲荷社

境内には水子地蔵、稲荷社が祀られている。


池田英泉墓、千手観音座像

本堂裏手の墓地には池田英泉の墓がある。福寿院がこの地に移転してきた際に、共に移設されている。池田家の家紋を彫った台石上にある三基のうち、向かって左が英泉夫妻の墓碑になる。

英泉は1790年 (寛政2年) に生まれ、はじめ狩野白珪齋に就いて画法を学び、後に、菊川英山の門に入り浮世絵を学び、多くの美人画、絵本、木曽街道六十九次などの風景画などを描き、文化文政期 (1802 ~ 29年)の代表的な浮世絵師といわれる。

また、墓地にあらかじめ無縁塔の正面中央に置かれてある角形石塔の仏像は千手観音座像で造立年は不明ながら古いものと思われる。


瑞祥山鳳林寺 (曹洞宗)

長善寺の東隣りには曹洞宗の瑞祥山鳳林寺がある。鳳林寺は1558年 (永禄元年) に、江戸牛込御門外舟河原 (現新宿区市ヶ谷飯田橋駅周辺) で創立された。本寺の吉祥寺 (現文京区本駒込) の八世松栖用鶴大和尚 (1630年歿) が開山となり寺容が整えられ、開基は旗本荒川長右衛門重照 (1657年歿) で、以後荒川家の菩提寺となっている。中興開基は旗本で御蔵奉行をつとめた長田新右衛門房重 (1693年歿) と伝わっている。その後、1635年 (寛永12年) に、寺域が幕府御用地となり、牛込七軒寺町 (現新宿区弁天町) に拝領地を得て移っている。1874年 (明治7年) には、新宿区戸塚にあった吉祥寺末寺の夾山寺 (かっさんじ) を合併し、更に明治末年に区画整理で弁天町通りが拡張され寺域が狭くなり、1916年 (大正5年) に現在地に移っている。


山門

山門の前には禅宗の結戒の「不許葷酒入山門」と刻まれた石塔が置かれている。禅宗では他人を苦しめる様な臭気の強いネギ・ニラなどの野菜や心を乱し修業を妨げる酒を持って入る事を禁じている。山門には瑞祥山と書かれた扁額が掲げられている。


延命地蔵尊 (19番、大石仏の地蔵)

山門を入ると左手に堂宇が置かれている。堂宇内には江戸時代初期に造立された厄除け子育ての延命地蔵尊が置かれ、高さが3.6mもあり、都内最大の石地蔵になる。これは1737年 (元文2年) に回国行者清雲が、各地の300名程の信者から浄財を集め、夾山寺に造立した地蔵菩薩立像で、全国の神社仏閣の御霊符が台座の中に納められている。この地蔵菩薩は「大石仏の地蔵」と呼ばれ、お詣りすれば全国のお寺や神社をお詣りしたと同様のご利益があるとされ、参詣人が絶えなかったという。1874年 (明治7年) に夾山寺を合併した際に、鳳林寺に移され、鳳林寺が現在地に移ってきた後、1925年 (大正14年) にここへ遷座している。堂宇入口左右の柱には大きな杓子と擦りこぎが吊るされている。元々は愛染明王像を祀っていた愛染堂の前に吊るされていたもので、愛染明王の愛を表しているという。杓子は「身を挺して熱いご飯をすくいあげ」、擦りこぎは「身を磨り減らして人に尽くす」という意味が込められているそうだ。

先に触れた愛染堂は現在では存在していない。杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹) ではこの愛染堂は本堂の手前にあったと記載しており、少なくとも、1970年代まではあったようだ。


馬頭観音 (17番)

延命地蔵尊のすぐ前、塀沿いに幾つかの石塔が置かれている。左端には馬頭観音 (写真右上) で、1838年 (天保9年) 造立の角柱に「馬頭観世音菩薩」と刻まれている。青梅街道筋にあったものをここに移設している。

馬頭観音から一つおいて右には自然石の石塔 (下左から二番目) が置かれ、これは1936年 (昭和11年) に造立、その前年に2才で亡くなった愛児の供養塔になる。戒名ではなく実名で「敏治地蔵尊」と刻まれている。


庚申観音像 (20番)、地蔵菩薩立像

更にその前に江戸時代に建立された60体ばかり石仏が集められた無縁塔がある。その中に幾つかの特筆される石仏も混じっている。

  • 庚申観音像 (20番 左): 1669年 (寛文9年) に造立された舟型石塔に聖観世音菩薩立像が浮き彫りされている。その横には 「奉庚申供養南無大悲観世音菩薩」 と刻まれており、庚申塔だった。庚申塔は青面金剛像が多いのだが、青面金剛像が一般的になる前は、様々な像が存在している。この庚申塔はその時代に作られたもので、元々は牛込にあったもの移設している。
  • 地蔵菩薩立像 (右): 無縁塔の中程には造立年不詳だが、月輪を背に、錫杖と宝珠を携えた丸彫りの地蔵菩薩立像もある。


三宝荒神堂

境内の真ん中、本堂の前には神道の祠が置かれている。これは荒神信仰の仏教バージョンの三宝荒神堂で仏・法・僧の三宝を守護する神という。荒神信仰は、商売繁盛の神、火の神、かまどの神とされて、西日本、特に瀬戸内海沿岸地に土着信仰として広がり、後に神道に取り込まれていく。小豆島集落巡りでは、殆どの村に荒神 (こうじんさん) があるのだが、東京では練馬区、杉並区と史跡を巡ったが、初めて荒神を目にした。


本堂

本堂は、江戸時代後期の建物でこの地に移築されたが、移築後、再三修覆され新しくなっている。本堂内には本尊の寄木作り釈迦如来坐像が祀られ、頭上に宝冠を戴いた姿なので宝冠釈迦如来と呼ばれ、珍しい仏像といわれる。


多賀谷楽山/向陵/酔雪の墓、金井莎邨/内山賀邸の墓

墓地には書家・画家の多賀谷向陵 (1766 ~ 1827 写真右上 右端、写真左は作品)、その隣りに向陵の父で医家の多賀谷楽山、その隣りに向陵の子で画家の多賀谷酔雪の三世代の墓が並んでおり、別の場所 (写真左下) には向陵門人の金井莎邨と太田蜀山人の師の狂歌師内山賀邸 (1722-88) の墓にあった。


阿弥陀如来立像 (18番)

墓地の奥には1812年 (文化18年) に造立された舟形石塔に阿弥陀如来立像 (18番) が浮き彫りされている。この石仏も牛込から移設されたもの。


これで高円寺の寺町にある七つの寺の見学が終わった。この寺町の南側にもう一つ仏教寺院があった。


浄雲寺 (真宗大谷派)

長龍寺のすぐ南側に小さな寺がある。真宗大谷派の浄雲寺で、杉並区高円寺南にある寺院です。1951年 (昭和26年) に、説教所として開創され、新潟県魚沼郡川西町 (現新潟県十日町市) の栄行寺の埠頭寺院である浄雲寺の印可を得て、その名跡を移して寺院として公認された新しい寺になる。この時に新潟県から木造阿弥陀如来立像も本尊として移している。


杉並第八小学校跡

寺町の西には杉並第八小学校があったのだが、少子化の影響を受けて、7学級 生徒数176人にまで縮小し、令和2年度を最後に閉校している。1932年 (昭和7年) に東京府豊多摩郡杉並第八尋常高等小学校として開校 (写真左上)、1941年 (昭和16年) に第八国民学校となった。戦時中にはこの地域は空襲にあったが、校舎は焼け残った。戦後、1947年 (昭和22年) に杉並第八小学校として授業を再開している。

杉並第八小学校跡が閉校した後、その跡地には高円寺図書館 (右下) の建設が完了し、旧高円寺図書館からの引っ越しの最中だった。この場所には図書館の他、コミュニティふらっと高円寺南(2025年4月予定)、高円寺東保育園 (2025年4月移転予定)、防災施設、公園もほぼ建設が完了していた。新高円寺図書館通路脇には「第八小学校跡碑」が置かれていた。


今日は寺町の寺を資料を見て史跡を探しながら巡ったので、かなりの時間をかけた。東京で夕方から、前職の部下との会食があるので、これで切り上げて自宅に戻り、電車で東京に向かうことにした。



参考文献

  • すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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