杉並区 21 (26/02/25) 旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村 (3) 通り 向山谷 小字 中山谷 / 小名 小沢

小名 向山谷 小字 中山谷

  • 桃園川緑道 (中山谷橋、中山谷下橋)
  • 六つ塚跡 (旧高円寺図書館)、六地蔵跡、地蔵坂
  • 光塩女子学院、カトリック高円寺教会
  • 観音寺
  • 庚申堂、庚申塔 (9番、10番)、阿弥陀如来像 (11番、12番)
  • 杉並第三小学校

小名 小沢 (小字 東山谷)

  • 桃園川緑道 (稲荷橋、東山谷下橋)
  • 高円寺天祖神社
  • 田中稲荷神社、稲荷前
  • 堀之内新道
  • 共栄市場 (ニコニコロード)


今日は、昨日に巡った旧小名 向山谷の残りの史跡がある小字中山谷と旧小名 小沢を散策。



小名 向山谷 小字 中山谷

江戸時代には小名 向山谷に属し、西山谷と東山谷に挟まれた地域の中山谷は、1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際に、旧小名 向山谷は3地域に分割され、その一つとして小字 中山谷となった。1932年 (昭和7年) の町名改定の際に小字 中山谷は小字 中小沢と共に、高円寺二丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、旧小字 中山谷は旧小字 西山谷と旧小字 八反目と共に高円寺南二丁目となっている。

民家の分布を見ると江戸時代から明治時代にかけては、ほとんどの民家が青梅街道沿いに集中している。1923年 (大正12年) の関東大震災後は、東京からの移住者が激増し住宅地が開発され、民家が青梅街道から北側へ増えていっている。戦前には更に住宅街は広がっていき、1960年代には寺社、学校、試験場などを除いて、ほぼ全域が住宅街に変わっている。

小字 中山谷、小字 東山谷の史跡等


桃園川緑道 (中山谷橋、中山谷下橋)

この小字 中山谷の名が桃園川緑道に中山谷橋跡、中山谷下橋跡として残されているこの小字 中山谷の北の境界線は桃園川だった。桃園川はかつては曲がりくねっており、現在の桃園川 (緑道) とは川筋が大きく異なっていた。桃園川は氾濫を防ぐため、1961年 (昭和36年) に直線に改修された。1967年 (昭和42年) には完全下水道となり、暗渠化され、その地上部分が整備されて桃園川緑道なっている。


六つ塚跡 (旧高円寺図書館)、六地蔵跡、地蔵坂

寺町の東、環状7号線の西側に六つ塚跡がある。移転作業中の高円寺図書館の前に、説明板が置かれている。この六つ塚に関しては1477年 (文明9年) に、太田道灌に攻め滅ぼされた石神井城の豊嶋氏の落武者が、この地で殺され、その遺骸を葬ったという伝説がある。この六つ塚の北側には現在の桃園川緑道よりも南側に昔の桃園川が流れていた。1918年 (大正7年) に高円寺耕地整理組合により、桃園川流域の低湿地の埋め立て工事の際が行われ、図書館 (旧高円寺第三尋常小学校) の西側の4 ~ 5個の塚が取り壊され、その際に刀が十数本や青銅製の鉦が出土している。現在では六つ塚は完全に消滅し、住宅街となっている。

旧高円寺図書館の前の道は地蔵坂と呼ばれていた。図書館から北に緩やかに下っている。地蔵坂を下り突き当たると別の道に合流する。この合流地点に、かつては六地蔵が置かれていた事で、地蔵坂と呼ばれていた。ここにあった六地蔵は1926年 (大正15年) に高円寺に移され、地蔵堂に鎮座している。


光塩女子学院、カトリック高円寺教会

六つ塚があった場所の西側には光塩女子学院がある。スペインカトリックのベリス・メルセス宣教修道女会が、日本における教育活動の場として設立したミッションスクール。1931年 (昭和6年) に五年制の光塩高等女学校を、生徒28名、教師8名で開校している。聖書のマタイ伝にある「あなたたちは、世の光である。あなたたちは地の塩である」の教えから光塩高等女学校と名付けられた。第二次世界大戦では外人教師、修道女は、特高等察の命令で山梨県へ強制疎開させられ、生徒は軍需工場へ動員されている。校舎は1945年 (昭和20年) 5月の空襲で全焼し、終戦後はカマボコ校舎を建てて授業を再開している。1947年 (昭和22年) に新教育制度に基づき、初等科、中等科、高等科の光塩女子学院と改称している。

隣には1928年 (昭和3年) にこの地で布教を始めたカトリック高円寺教会 (聖ヨハネ・マリア・ビアンネ) がある。光塩女子学院とは経営団体は異なるが、お互いに協力して活動を行っている。カトリック高円寺教会はこの近くには1933年 (昭和8年) に聖心学園幼稚園を設立している。


観音寺

光塩女子学院から東に進んで環状7号線に出る。1964年 (昭和39年) に環状7号線が建設されるまでは野方道と呼ばれていた。高円寺村から野方村に南北に伸びた道だった。

この環状7号線沿いに観音寺と書かれたビルがある。お寺かと思っていたのだが、これは長龍寺が運営する斎場で、長龍寺の方には和風建築の斎場があり、大人数収容できる。観音寺はビル内の部屋にあり家族葬など小規模葬儀を行なっているそうだ。


庚申堂、庚申塔 (9番、10番)、阿弥陀如来像 (11番、12番)

観音寺から環七通りを東に渡り、高円寺陸橋の側に庚申堂が置かれている。堂内に庚申塔が二基、堂前に阿弥陀菩薩像が二基が祀られている。ここにある説明板では回国供養塔一基もあるとなっていたが、見当たらない。撤去移設されたのだろうか? (この後に訪れた高円寺天祖神社内で見つけた)

庚申堂は、元々はこの横を寺町に伸びていた寺町通り (中通り) の北側道沿いに面して、東の中野村方面から疫病や災難が高円寺村に入ってこないようにと、寺町通り (中通り) の入口に祀ってあったが (写真右下)、1964年 (昭和39年) の東京オリンピック開催のための「オリンピック道路」として環状7号線 (東京都道318号) の建設により、1967年 (昭和42年) にここに移されている。

  • 庚申塔 (9番 右下): 1713年 (正徳3年) に高円寺村同行20人により造立された駒形石塔の上部に梵字のアと刻まれ、その両側に日月、中央に邪鬼を踏みつけた合掌六臂の青面金剛像、その下には三猿が浮き彫りされている。石塔右には「奉納庚申供養」と刻まれている。
  • 庚申塔 (10番 左下): 1694年 (元禄7年) に造立された駒形石塔の上部に日月、中央に三叉劇、宝輪、弓、矢を持った合掌六臂の青面金剛像、その下には三猿が浮き彫りされている。石塔右には「奉建立庚申施主諸旦那為平等利益也」と刻まれている。
  • 阿弥陀如来像 (11番): 1721年 (享保6年) に念仏講中により造立された舟形石塔に阿弥陀如来立像が浮き彫りされ、その脇には「寒念佛供養為同行二世安楽」と刻まれている。
  • 阿弥陀如来像 (12番): 1670年 (寛文10年) に和田村多数の住民により造立された舟形石塔に阿弥陀如来立像が浮き彫りされている。この石仏は杉並区内最古の阿弥陀如来像だそうだ。


杉並第三小学校

庚申堂から高円寺天祖神社へ向かう途中に杉並第三小学校がある。杉並第三小学校は、1884年 (明治17年) に桃野小学校の分教場として始まった。その後、1893年 (明治26年) に、現在の高円寺図書館の場所に校舎が新築され、桃野学校から独立して高円尋常小学校となっている。1921年 (大正10年) に新宿荻窪間に西武電車が開通、1922年 (大正11年) に中央線の高円寺、阿佐ヶ谷、西荻窪駅が開業し、東京中心地から移住者が増えて児童数も急増し、教室が足りなく近くの村田邸を借りて授業を行っていた。1923年 (大正12年) の関東大地震により罹災者家族の転入で、児童数がさらに増え、蚕糸試験場の作業室を借りて授業を行っていた。児童数は4年間で5倍になっている。昭和初期の校舎の写真が残っている。(写真上)  1945年 (昭和20年) に米軍の空襲で校舎が全焼し、戦後、1947年 (昭和22年) に校舎が再建されるまでは、杉並第四、第八小学校の教室を借りて授業が行われていた。1948年 (昭和23年) に運動場の大部分が環七通りの道路用地となり敷地が縮小され、1952年 (昭和27年) に現在の第三小学校の場所分教場を新築し、二部授業を行なっていた。1958年 (昭和33年) には旧本校が廃止され、分教場が本校となり、1,300人が新本校で授業が受けている。1972年 (昭和47年) に校舎は鉄筋コンクリート四階建校舎に改築新された。現在では少子化の影響が大きく、第三小学校の児童数は225名 (9学級) で杉並区の48の小学校の中では最も少ない児童数にまで減少している。多分、近くの小学校と合併するのではないだろうか。



小名 小沢 (小字 東山谷)

小名 小沢には村の鎮守の高円寺天祖神社があることから、かつての小沢村 (後の高円寺村) の中心地だったと思われる。江戸時代には小名 向山谷に属し、西山谷と東山谷に挟まれた地域の中山谷は、1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際に、旧小名 小沢は小字 東山谷となり、1932年 (昭和7年) の町名改定の際に高円寺一丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法により、高円寺南一丁目となっている。


桃園川緑道 (稲荷橋、東山谷下橋)

かつては小字 東山谷 (小名 小沢) の北の境界線は桃園川だった。桃園川緑道に東山谷橋跡としてその名が残されている。もう一つ稲荷橋跡もあるがこれはすぐ南にある田中稲荷社の名が付けられたもの。


高円寺天祖神社

小名 向山谷と小名 小沢の境界線に高円寺天祖神社がある。江戸時代には長仙寺の持、大日靈命 (天照大御神) を主祭神として祀り、高円寺村の通り郷の鎮守だった。1087年 (寛治元年)頃に高円寺村草創の郷士山下久七が、伊勢神宮に参拝して、天照大神の分霊を勧請し、山下久七邸内に仮の社殿を建て祀り、その後、1096年 (永長元年) に村人と相談して小沢村 (高円寺村) の産土神 (うぶすなかみ、村鎮守) としたと伝わっている。新編武蔵風土記稿 (1830年 天保元年) には神明社とある。


鳥居、手水舎、狛犬、神楽殿

1877年 (明治10年) に建てられた鳥居をくぐって左手には1927年 (昭和2年) 建立の手水舎が置かれ、手水舎の奥には神楽殿がある。参道の半ばには、1921年 (大正10年) に寄進された狛犬がいる。


社殿

現在の拝殿は 1831年 (天保2年)、幣殿と本殿は1888年 (明治21年) に建てられたもの。関東大震災後、1926年 (大正15年) には社殿の大修築とその他建物を整備している。


境内末社 (三峯神社、清姫稲荷神社)

社殿横には二つの境内末社の祠が置かれている。向かって右には伊弉諾尊 (いざなぎのみこと)と伊弉册尊 (いざなみのみこと) を祀る三峯神社、左には1936年 (昭和11年)に秩父宮邸から遷座した清姫稲荷神社が鎮座している。清姫稲荷神社は智恵の象徴の白蛇を御神体として倉稲魂命 (うかのみたまのみこと) を祀っており、芸事や学業成就のご利益があるといい、芸能関係者や受験生が多く参拝するそうだ。また、境外末社としては、この後に訪れる田中稲荷神社 (祭神 受持命) がある。


石造手水鉢、六十六部供養之塔

境内末社祠の側に石造手水鉢と石塔が無造作に置かれている。この手水鉢は古く1664年 (寛文4年) に寄進されたもの。石塔は1728年 (享保13年) に造立された六十六部供養之塔で「日本廻国及四国西国秩父坂東巡礼 㞱享保十三申歲十二月朔旦 武州多麻郡野方」「奉納大乗妙典六十六部供養之塔」「高円寺村七左ェ門」と刻まれている。この供養塔は先程訪れた庚申堂で見当たらなかった供養塔だ。環状7号線 (東京都道318号) の建設の際に、庚申堂からこの供養塔だけが、ここに移設されている。


神輿庫

社殿奥には、各町の神輿が納められている神輿庫が並んでいる。9月16日の秋の例祭で庫から出されて披露される。


田中稲荷神社、稲荷前

田中稲荷は日本神話の女神の受持神 (うけもちのかみ、保食神、字迦之御魂神、稲荷神) を祭神とする旧高円寺村農家の守り神で高円寺天祖神社の境外末社となっている。創建等の由緒は不詳だが、桃園川沿いに広がっていた水田の中にあったことから、田中稲荷の名で呼ばれるようになったという。昔は毎年2月最初の午の日(初午)に村の農家が赤飯のおむすびを供えて豊作を祈願していた。祈願後に、このおむすびを家に持ち帰り、鶏に食べさせると鶏が狐に盗られないといわれたそうだ。現在でも、この風習は稲荷講によって3月の初午の日に続けられているそうだ。

祠の前にはおにぎりではなく酒と油揚げが供えられていた。昔は境内には一本松があったそうだ。真夜中に人を呪いながらこの松の木に釘を打ち込むと、呪われた人に災難が起こるという迷信があり、釘が何本も打ってあったという。大正の始め頃に松は枯れてしまい、新たに松の木を植えている。

田中稲荷社の北側には桃園川が流れていた。神社と川の間には稲荷前と呼ばれた水田があったという。この稲荷前という呼称は水田が姿を消していく大正末期まで用いられていた。稲荷は農神であり、武蔵野では開拓された水田の側に稲荷の祠を置き豊作を祈願していた。東京では住宅街となり、このような風景はみられなくなったが、関東北部の田圃には稲荷を祀る祠が多くみられる。古文書にはこの田中稲荷社は「村民持」と記載されているので、田中稲荷社も地域農民が豊作を願い建立したと思われる。



堀之内新道

田中稲荷神社の前の道は堀之内新道と呼ばれ、中野宝仙寺前に住んでいた日蓮宗妙法寺檀家総代で馬糧商叶屋の関口兵蔵 が、1896年 (明治29年) に私財を投じ、中野駅から田中稲荷神社の前を通り、高円寺天祖神社から、蚕糸の森公園の西側を経て堀之内妙法寺の門前まで畦道や農道を直線に直し2kmの道に整備したもの。「かいば屋」の叶屋が開いた道なので、通称「かいばや道」つまって「かいば道」といわれていた。堀之内新道 (かいば道) が出来る前迄は、妙法寺参詣には中野駅から鍋屋横丁を経て十貫坂を下り、和田本町を横切っての 3km程の道だった。堀之内新道完成で、妙法寺参詣人をはじめ、地元住民にも大きな便宜を与えたということで、1928年 (昭和3年) に地元有志が関口兵蔵の功績を讃えて田中神社内に「故関口兵蔵翁開道記念碑 (写真右下)」を建てている。


共栄市場 (ニコニコロード)

田中稲荷神社から堀ノ内新道を南に進み、大久保通り (都道433号線) を越え、南に進むと細い路地が分岐し、青梅街道 (写真下) に抜けている。この路地はニコニコロードという商店街 (写真上) だ。堀之内新道を造った関口家が事業に失敗し没落し、青梅街道以北の道路用地の一部は、数人の個人所有地となり、堀ノ内新道の一部は狭い元の道に戻ってしまった。大久保通りと青梅街道の間の堀之内新道区間は高橋紋左衛門の手に渡り、1925年 (大正14年) に山谷市場が開業している。1927年 (昭和2年) に二階建に改築し、当時では杉並町第一の市場だった。戦後、出店者各自が土地と店を買い取り、名を共栄市場と改めた。この共栄市場は現在では東高円寺駅通り商店会となり、ニコニコロードと呼んで活性化を図っているとあったが、ここを通っててみると商店はまばらで、人通りも少なく、活気があるようには思えなかった。



今日は夕方早い時間から友人と新宿で会食を予定しているので、史跡巡りは早めに切り上げて自転車で新宿に向かう。



参考文献

  • すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)

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