杉並区 22 (28/02/25) 旧杉並町 (杉並村) 旧高円寺村 (4) 通り 小名 南小沢
旧高円寺村 通り 小名 南小沢
小名 南小沢 (小字 西小沢、中小沢、東小沢)
小字 西小沢
- 馬橋おん出し、五日市街道
- 都バス車庫
- 火葬場道、堀ノ内斎場
- 遊歩道 (小沢川跡)
小字 中小沢
- 蚕糸の森公園 (蚕糸試験場跡)
- 青梅街道
- 一里塚跡
- 杉並第十小学校
- 桜新道、大灯籠
- 頂光山蓮光寺 (日蓮宗)
- チャンドラ・ボースの供養碑
- 天羅山養善院真盛寺 (天台宗)
- 参道、木遣塚、元三大師碑
- 山門、句碑
- 元三大師堂
- 石仏群
- 地蔵菩薩立像 (151番)、庚申塔 (152番、153番) 他
- 八万四千体地蔵
- 手水舎、無縁塔
- 茶室 (暁雲庵、一方庵、坭子関)
- 新鏡ケ池 (小沢の池)、鯉塚、十五重の石塔
- 弁財天
- 不動尊石仏
- 聖観音座像
- 鐘楼
- 客殿・庫裡
- 本堂
- 中玄関書院
- 真盛寺所蔵文化財
- 梅里公園
小字 東小沢
- なし
今日は旧高円寺村散策の最後の地域の旧小名 南小沢を巡る。
旧高円寺村 通り 小名 南小沢 (小字 西小沢、中小沢、東小沢)
江戸時代の小名 南小沢は小沢村 (後の高円寺村) に属し、小名 小沢の南側に位置し、旧高円寺村の南端で、旧堀之内村と旧和田村に隣接していた。の鎮守の高円寺天祖神社があることから、かつての小沢村 (後の高円寺村) の中心地だったと思われる。1889年 (明治22年) に町村制が施行され杉並村が成立した際に、旧小名 南小沢は小字 西小沢、中小沢、東小沢に分割されている。
江戸時代から明治時代には、青梅街道沿いに民家が集まっており、それ以外には民家はみられない。戦前まで、民家は西小沢と東小沢に増加している。特に東小沢はほぼ全域に民家が建てられている。大正時代に蚕糸試験場が設置され、多くの寺院が移ってきた中小沢は民家はほとんど増えていない。戦後は寺社や公共施設以外は住宅地で埋め尽くされている。
史跡等地図
小字 西小沢
江戸時代の小名 南小沢が、1889年 (明治22年) の町村制施行で誕生した小字 西小沢は、1932年 (昭和7年) の町名改定の際に高円寺三丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法で梅里一丁目となっている。この町名変更の際、当初は堀ノ内になる予定だったが、火葬場が連想されると住民が反対して梅里と決まったという。
馬橋おん出し、旧五日市街道
青梅街道の地下鉄丸の内線新高円寺駅入り口付近から南へ五日市街道が分岐している。この青梅街道と五日市街道の合流地点は馬橋おん出し (写真上) と呼ばれていた。江戸時代、武蔵野では大宮前新田、関前新田、吉祥寺、小平、砂川新田など多くの新田が開発され、これら新田の農作物を江戸へ運搬する道として、寛文年間 (1661 ~ 1673年) に、五日市街道が整備された。この馬橋おんだ出しから五日市まで42km (約10里余りで) の道で、地域によっては、砂川道、青梅街道脇みち、青梅街道裏道・小金井道、長新田道、五日市道などと呼ばれていた。当時の五日市街道は道も狭く、善福寺川の尾崎橋辺りの七曲りなど道の曲りが多く、久我山、大宮前、松庵方面から野菜など荷物を運ぶ人々は大変難儀し、百姓の家族など手伝って荷車を運び、青梅街道まで押し出していた。この事で五日市街道と青梅街道の合流点を「押し出し」と呼び、それが訛って「おんだし」となった。杉並には「おんだし」と呼ばれる処は、田端おんだし (成田東四丁目)、観音おんだし (上荻一丁目タウンセブン西側)、保久屋おんだし (上荻四丁目) などがある。馬橋おんだ出しからの細いみちは現在の五日市街道が大きくカーブしている場所 (写真下) に合流している。
都バス車庫
馬橋おん出しから青梅街道を東に進むと道沿いに都バス車庫がある。
ここには1921年 (大正10年) 以来、青梅街道を走っていた西武電車の車庫があった。
1951年 (昭和26年) に都電杉並線となり、中野、杉並の住民の足として活躍していたが、1961年 (昭和36年) に地下鉄丸ノ内線が開通し、新高円寺駅、南阿佐谷駅が開業し、乗客が激減し、路面電車は交通渋滞になるとの理由から、1963年 (昭和38年) に廃止され、都電車庫は都バス車庫になった。
火葬場道、堀ノ内斎場
青梅街道を更に東に進み、高円寺陸橋下交差点の手前に細い道が南へ分岐している。この道は江戸時代からあったが、1921年 (大正10年) に建てられた堀ノ内斎場 (東京博善社堀之内火葬場) への道になったので、地元では火葬場道と呼ばれていた。また、この道は1923年の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急速な都市化による水の需要に応えるために建設された荒玉水道道路 (都道428号線) でもあり、南の多摩川の砧浄水場まで続いている。道路の地下に荒玉水道の水道管が埋設されている。ここは明治時代は小字 西小沢だったが、1962年 (昭和37年) に住居表示法で梅里一丁目となっている。この町名変更の際には堀ノ内になる予定だったが、火葬場が連想されると住民が反対して梅里と決まったという。
火葬場道の先に堀ノ内斎場が建っている。当初は火葬場名を高円寺火葬場と名付ける予定だったが、東京市より「高円寺には、貞明皇后 (大正天皇妃) が幼少期に里子として過した大河原家があり、由緒ある高円寺の名を付けることは畏れ多い」と差し止められ、隣村の堀之内の名をとり、堀ノ内火葬場と名付けられたという。1920年 (大正9年) に、この場所に火葬場の設置が決まったが、地元住民はこの決定に反対し、東京市長に反対の陳情をした。当時の東京市長の後藤新平は火葬場は将来市外に移す事、道路用地の高価格での買収、地域が発展につながる二業地( 花柳界) の許可という好条件を示した。これにより、地域住民は賛成派と反対派に分かれる騒ぎとなった。19201年 (大正10年) の春には、道路用地の買収が未だまとまらないうちに、火葬場が操業が始まった。火葬場から煙突の煙の悪臭は風下住民を苦しめたが、当時は公害問題などの概念も無く、住民は泣き寝入りを強いられた。被害を受けた地主たちは、団結して火葬場への道路用地の買収を拒否している。そのため火葬場道は拡張することができず、狭いままで現在に至っている。
遊歩道 (小沢川跡)
堀ノ内斎場の北側から青梅街道まで、細い遊歩道になっている。恒例の金太郎の看板が車止めにある。この場所には江戸時代の地図には道も水路も見当たらない。この様に遊歩道となっている道はかつては水路だった可能性が高い。調べると、小沢川が流れていたそうだ。小沢川は真盛寺の小沢池 (新鏡ヶ池) を水源として流れ出し、中野富士見町駅近くで神田川に注いでいた。現在では暗渠化されている。写真を撮った区間は真盛寺の小沢池より北側で、元々の小沢川では無いようで、後に人工的に作られた水路と思われる。
小字 中小沢
江戸時代の小名 南小沢が、1889年 (明治22年) の町村制施行で小字 中小沢が誕生している。火葬場道が小字 西小沢と中小沢の境界線だった。小字 中小沢は、1932年 (昭和7年) の町名改定の際に、小字 中山谷と共に高円寺二丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法で旧小字 中小沢は旧小字 東小沢と共に和田三丁目となっている。
蚕糸の森公園 (蚕糸試験場跡)
青梅街道の高円寺陸橋下交差点を東に渡ると煉瓦積みのゲートがある。蚕糸の森公園の入口だが、以前は農林省蚕糸試験場になっており、その正門がそのまま公園入り口に使用されている。
蚕糸試験場は1911年 (明治44年) に、蚕の種紙の製造と品種改良を目的として創設され、当初は原種製造所と呼ばれていた。その後、養蚕業全般の試験研究を行う施設となり、1914年 (大正3年) に蚕業試験場と改称され、1938年 (昭和13年) には製糸機械の研究と絹繊維の研究部門が設けられ、蚕糸試験場と改称されている。戦前には生糸、絹織物は日本の輸出総額の40%を超えており、この利益が日本が先進工業国へ発展する事に大きく貢献していた。戦後は生糸、絹織物を見返り物資として、食料を輸入し、困窮する国民を救ったという。その後、近代工業の発達で農村人口は減少し、養蚕農家も激滅し、生糸絹織物の輸出は減少し、1966年 (昭和41年) 以降は生糸絹織物の輸入額が輸出額を上回っている。1980年 (昭和55年) に、研究機関を地方へ分散させる政府の方針により、蚕糸試験場は筑波学園都市へ移転している。
跡地利用について、住民は蚕糸試験場の本館、守衛所、正門、塀を保存して、郷土資料館に再利用し、他の建物は取り壊して緑地公園にするよう運動を行ったが、区議会の賛成が得られず、1985年 (昭和60年) に本館は取り壊され、その跡地の一部に杉並第十小学校と防災公園の機能を持つ蚕糸の森公園となっている。
青梅街道
蚕糸の森公園の前の青梅街道は、1606年 (慶長11年) に石灰を江戸城の白壁材料を運ぶために大久保長安が開設した道路で新宿追分から青梅宿まで48km (12里) の道で、当初は成木街道と呼ばれていた。1707年 (宝永四4年) に石灰輸送は川越からのルート変更となり、成木街道は青梅地方の材木、薪炭、織物、沿道の農作物、江戸の下肥などの輸送路と変わった。また、成木街道は武州御嶽山や秩父三十四観音の参詣道になり、青梅往還と呼ばれ、明治以後は青梅街道と呼ばれるようになった。
一里塚
青梅街道 (成木街道) には一里塚が置かれ、旧蚕糸試験場の正門付近にも、日本橋から三里目、新宿追分から一里目の一里塚が設けられていた。一里塚には標し木の榎か植えられ、「一本榎」と呼ばれていたが、榎が枯れて株だけになったので、「株榎」と呼ばれ、明治初年には榎が消えて、「株山」または、「カメ山」と呼ばれていた。現在では一里塚は消滅している。
杉並第十小学校
蚕業試験場跡地には公園の隣りに杉並第十小学校が建っている。
杉並第十小学校は1936年 (昭和11年) に現在の梅里1丁目に杉並第十尋常小学校として開校し、戦時下の1941年 (昭和16年) には杉並第十国民学校となり、1945 年 (昭和20年) に空襲により校舎は焼失している。戦後、鉄筋コンクリートの校舎で再建された。1986年 (昭和61年) に蚕業試験場跡地に移転している。この移転の際には、1985年 (昭和60年) に導入された文部省の多目的スペース補助制度の元、オープンプラン型小学校として建設されている。蚕業試験場跡地に建てられたことから、学年毎に児童による「蚕糸の森研究所」と呼ばれる研究学習が行われているのはおもしろい。
桜新道、青銅大燈籠
蚕糸の森公園の西側に道があり、その入口両脇に青銅の大燈籠が立っている。この道は両側に桜並木が植えられたので桜新道と呼ばれ、1896年 (明治29年) に、叶屋・関口兵藏により、中野駅から妙法寺の門前町までのアゼ道や農道を直線に直し建設された堀之内新道の一部になる。
堀之内新道は、中野駅から田中稲荷社を通り青梅街道へ出るのだが、桜新道へは青梅街道を200m程西に進まねばならず、妙法寺参詣人がまごつかないようにと、新道沿いに桜の木を植え、桜新道の入口に、「妙法寺参道」と記した木製の常夜燈を建てて参詣人への目印にしていた。1910年 (明治43年) に多くの妙法寺参詣者がいた花柳界の人々が中心となり、木製の常夜燈を現在の青銅製大燈籠に建て替えている。夜間には点灯され、東京名物の一つだった。西側の大燈籠は、1923年 (大正12年) の大震災に倒壊し1926年 (大正14年) に改鋳されている。
頂光山蓮光寺
桜新道を南へ進むと日蓮宗の頂光山蓮光寺が道沿いにある。蓮光寺は、本尊の十界茶羅を祀り、1594年 (文禄3年) に両国矢ノ倉に甲斐国身延山久遠寺末として、開基を源受院日宝で創建され、1644年 (正保元年) には、浅草永住町に移り、当時は、境内には円理院、受教院、専玄房、寿房などがあったという 。1915年 (大正4年) に浅草の区画整理により、現在地に移ってきている。
境内には法華経にある煩悩の汚泥を洗い流す水徳を持つ浄行菩薩立像 (写真中) があり、病気、怪我などで痛む箇所を、浄行菩薩を「南無妙法蓮華経」と唱えながら磨くと治るといわれている。隣りには題目塔 (上右)、そして手水舎 (上中) が置かれている。道沿いの塀の内側には宗主御詠 (下中)、浮世節 三味線の立花橘之助門弟橘楽之塚碑 (下右) などもあった。本堂右手の大黒殿 (中左) には、日蓮聖人が母の妙蓮尼の病気見舞のため、安房国小湊に赴き病気平癒祈願のため松の木で彫った通称「土富店の大黒天」と呼ばれた大黒天を祀っているそうだ。
チャンドラ・ボースの供養碑
蓮光寺本堂の左手前に、インド独立の志士チャンドラ・ボースの供養碑と胸像が建てられている。インドは1757年に英国の植民地となり、インド人はたびたび独立を企てたが、英国の厳しい弾圧で実現しなかった。チャンドラ・ボースは独立実現を目指して、日本に援助を求め、第二次世界大戦では、ビルマでインド独立軍を編成し、日本軍と共にインドへ向かって軍を進めた。英空軍の爆撃で大勢の部下を失い、インド進攻作戦は失敗に終わった。終戦の1945年に台湾空港の飛行機事故で亡くなった。遺骨を長い間、この蓮光寺で預かり供養していた事から供養碑として、1975年 (昭和50年) に記念碑、1990年 (平成2年) に胸像が建てられている。
天羅山養善院真盛寺 (天台宗)
蓮光寺から環状7号線を西に渡ったところには天台真盛派東京別院の真盛寺 (しんせいじ) が建立され、本尊として木像阿弥陀三尊立像が祀られている。真盛寺は、1631年 (寛永8年) に伊賀国出身の真観上人によって湯島天神前樹木谷に開創した。1673年 (延宝元年) に三井高利が江戸日本橋に越後屋創業して、三井家はこの真盛寺を支援し、創業以来の三井家の菩提寺となり、三井寺とも称されてる。1683年 (天和3年) に寺域が御用地となり谷中清水町に、1688年 (元禄元年) には東叡山拡張のために本所小梅寺町に移っている。1922年 (大正11年) に煤煙と浸水を避けて、この場所に移転している。
参道、木遣塚、元三大師碑
環状7号線から参道が山門に向かって伸びている。参道を入った所に木遺塚が造られている。江戸城本丸の建築で、大石や材木の運搬をしていた人夫の掛け声から生まれた木遣節を後世に伝える目的で、蔦職の有志が1931年 (昭和6年) に和泉の木遣塚を建て、毎年5月3日に江戸消防記念会主催で、塚の前で木遣節が盛大に歌われているそうだ。その向かい側には第18代天台座主で比叡山延暦寺の中興の祖の元三大師 (がんざんだいし) 碑も置かれている。
山門、句碑
参道を進むと山門があり、山門前には句碑が置かれている。山門をくぐると、更に長い参道が本堂に向かって伸びている。
元三大師堂
山門を入ると、右側には和風の建物の浄蓮坊 (写真左) があり、少し進むと1820年 (文政3年) に建てられ移築された元三大師堂 (右) が建っている。元三大師堂比叡山の天台宗中興の祖と言われる慈悲大師を祀っている。正月三日の大師命日には護摩を焚いて、摺り上がった「角大師 (つのだいし) 厄除けのお札」の供養が行われている。
石仏群
元三大師堂の側には多くの石仏が集められている。
幾つかの石仏が置かれているかたまりがあり、参道から墓地への道の入口に一つある。
地蔵菩薩立像 (151番)、庚申塔 (152番、153番) 他
道を入ると岩の上に別の石仏のかたまりがある。ここに置かれている石仏は殆どが造立年不詳のもの。
資料に紹介されているものは以下の通り
- 地蔵菩薩立像 (151番): 一番上には造立年不詳のほほえみ地蔵と呼ばれる鉄製錫杖と宝珠を持った丸彫りの地蔵菩薩立像が置かれている。本所小梅寺町から移設されている。
- 地蔵菩薩立像: その右側にも月輪を背に錫杖と宝珠を持った丸彫り地蔵菩薩立像 (造立年不詳) がある。
- 地蔵菩薩立像: 左側にも錫杖と宝珠を持った丸彫り地蔵菩薩立像 (造立年不詳) がある。
- 地蔵菩薩立像: 月輪を背に合掌する丸彫り地蔵菩薩立像 (造立年不詳)
- 地蔵菩薩立像: 舟形石塔に宝鉢をかかえた地蔵菩薩立像 (造立年不詳) が浮き彫りされている。
- 地蔵菩薩立像: 錫杖と宝珠を持った丸彫りの地蔵菩薩立像 (造立年不詳)
- 地蔵菩薩立像: 合掌している丸彫りの地蔵菩薩立像 (造立年不詳)
- 地蔵菩薩立像: 錫杖と宝珠を持った丸彫りの地蔵菩薩立像 (造立年不詳)
- 地蔵菩薩立像: 1727年 (享保12年 ) に造立された舟型石塔に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされている
- 地蔵菩薩立像: 隅丸角柱塔に月輪の地蔵菩薩立像 (造立年不詳) だが地蔵菩薩蔵は殆ど剥がれ落ちている。
- 庚申塔 (152番): 1704年 (宝永元年) 造立の駒型石塔の庚申塔で本所小梅寺町から移設されたもの。上部には梵字の「ア」が刻まれ、日月が浮き彫りされ、中央に合掌六臂の青面金剛立像が三叉劇、宝輪、弓、矢を持った姿で浮き彫りされている。足元には三猿も浮き彫りされている。
- 庚申塔 (153番): 造立年不詳の駒型石塔の庚申塔で、これも本所小梅寺町から移設されたもの。駒型石塔に四臂の青面金剛立像が三叉劇、宝輪を持ち、ショケラをぶら下げ、邪鬼を踏みつけている姿が浮き彫りされている。足元には三猿も浮き彫りされている。造立年は不詳だが、関東では四臂の青面金剛像は悪鬼とされ、ある時期を境に造られることは避けられた。その後は、改心して善神になった六臂像が主流となっている。四臂青面金剛像は庚申塔が造られた初期に多く見られるので、この像も1600年代半ば頃に造られたのかも知れない。
- 羅漢座像: 造立年不詳の仏の弟子の羅漢像
- 聖観音菩薩座像: 羅漢座像の前に造立年不詳の聖観音菩薩座像が置かれている。
- 聖観音菩薩座像: 舟型石塔の上部に梵字の「サ」 が刻まれ、聖観音菩薩座像 (造立年不詳) が浮き彫りされている。
- 如来像座像: 造立年不詳の花崗岩の舟型石塔に如来像座像が浮き彫りされている。
- 二如来並座像: 造立年不詳の花崗岩箱型石塔に二人の如来座像が並んで浮き彫りされている。
八万四千体地蔵
更にその奥に石仏に並んでいる。この中の11体は八万四千体地蔵だった。この八万四千体地蔵は、1879年 (明治12年) に上野の天台宗浄名院第38世妙運大和尚が仏恩に報い、衆生済度のため、釈迦入滅100年後に84,000塔の宝塔を建立したと伝えられる古代インドのアショーカ王に倣い、八万四千体の地蔵建立を発願し造られたもの。その後、八万四千体の地蔵像は全国各地に広がり、約5万体が確認されている。「八万四千」とは84,000体ではなく、仏法では無数の意味を表している。ここに置かれている八万四千体地蔵はほぼ同じ形で、角柱石塔の全てに側面には「発願者 上野浄名院比丘妙運 [其々の造立年月日]」と別の側面には施主名、正面には「八萬四千體之内」と刻まれ、月輪に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩立像が浮き彫りされ、[登録番号] が刻まれている。
- 第3210番 1909年 (明治42年) 造立
- 第38003番 1901年 (明治34年) 造立
- 第3700番 1911年(明治44年) 造立
- 第2811番 1907年(明治40年) 造立
- 第38004番 1901年 (明治34年) 造立
- 第2870番 1908年 (明治41年) 造立
- 第38005番 1900年 (明治35年) 造立
- 第3800?番 1901年 (明治34年) 造立
- 第38001番 1901年 (明治34年) 造立
- 第1798番 1898年 (明治31年) 造立
- 番号や造立年が刻まれていないか、摩耗してしまった様だが、形は八万四千体地蔵と同じ
八万四千体地蔵以外にも多くの石仏が並んでいる。
八万四千体地蔵群の奥にも石仏が並んでいるかたまりがある。この場所には比較的新しい地蔵菩薩像が置かれている。
この先には池が作られており、橋を渡ると墓地へ入る門がある。
手水舎、無縁塔
石仏群の墓地への道を挟んだ所には手水舎が置かれ、その横には無縁塔があった。
茶室 (暁雲庵、一方庵、坭子関)
参道に戻り、本堂に向かって進むと茶室の暁雲庵が建てられている。
真盛寺にはこの他にも一方庵、坭子関と呼ばれる茶室が三棟がある。一方庵は本堂の裏側の林の中にあったが、坭子関がどこに置かれているのかはわからなかった。
新鏡ケ池 (小沢の池)、鯉塚、十五重の石塔
茶室の暁雲庵の道は奥に続き、新鏡ケ池に通じている。この新鏡ケ池は昔は小沢の池と呼ばれ、高円寺村の古名の小沢村の地名の由来になったと言われている。小沢の池は捕まえた魚介類や動物などを殺さずに放す放生池 (ほうじょうち) で、池の畔には鯉塚が作られている。池で死んだ魚の供養塔なのだろう。池の向こう岸には十五重の石塔も見られる。
弁財天
新鏡ケ池には歌碑も置かれ、池の中島には弁財天を祀る祠が建っている。
不動尊石仏
参道に戻り、本堂に向かう途中、右手に狩野芳崖の不動尊石仏が置かれている。
狩野芳崖(1828 - 1888年) は幕末から明治期の狩野派の日本画家で近代日本画の父と称される。下の写真の中に狩野芳崖作の不動明王があるが、真盛寺の石仏像と構図が同じなので、後世に誰かがこの絵を元に石仏像を彫刻したと思われる。
聖観音座像
本堂の前は広い空間に枯山水を思わせる様な庭園になっている。派手さはないのだが、心がやすまる様な質素な造りになっている。庭園の中には青銅製の聖観音座像が鎮座している。
鐘楼
不動尊石仏の奥には鐘楼が建てられている。鐘楼の前には延命泉 (写真下中) が造られているが、水は無く、枯山水風の庭園の一部になっている様だ。
客殿・庫裡
庭園の西側には客殿と庫裡が建っている。1894年 (明治27年) に明治天皇の行幸の際、天皇を迎える為、目白高田老松町に建てられた細川侯爵邸 (細川御殿) の主要部分を1925年 (大正14年) に譲り受け移築したもの。客殿は書院造の玄関棟と奥殿棟の二棟からなっている。
本堂
本堂は1776年 (安永五年) に本所小梅寺町時代に建てられたものが、この地に移築されている。「天羅山」の山号額は山岡鉄舟の筆で、本堂内陣にある「慈攝」の額は、1935年 (昭和10年) 昭和天皇の筆で下賜されたもの。
中玄関書院
本堂の西には1865年 (慶應元年) に建てられた中玄関書院がある。元々は庫裏として再建されたもので、その一部を移築したと考えられる。改造、増築はあるが、江戸末期の姿をよく留めている。
真盛寺所蔵文化財
一般公開はしていないのだが、真盛寺では数々の文化財が保管されている。
- 作者不明の紙本著色真観上人画像 (左下) で、真盛寺の開基の真観上人が描かれている。上人没後間もなくの江戸時代前期に制作された可能性が強いという。
- 住吉内記廣守作 (1705 ~ 1777) の紙本著色四季耕作図屏風 (上) には農家の庭先や田圃にくり広げられる稲作作業の様子が描かれている。屏風は二つあり、右隻には右から左へと、春の魚取りから始め、苗の準備、田植と各作業、夏の草取り、灌漑までを表し、左隻には、秋冬の稲刈り、脱穀、詰めまでが描かれている。背景には遠山が描かれ、画中には獅子舞、猿廻し、収穫祭なども見られる。
- その他、円山応拳の地獄変相図 (下中)、谷文晁の不動尊像図 (右下) なども所蔵されている。
小字 東小沢
江戸時代の小名 南小沢が、1889年 (明治22年) の町村制施行で小字 東小沢が誕生している。小字 東小沢は、1932年 (昭和7年) の町名改定の際に高円寺一丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に住居表示法で旧小字 東小沢は旧小字 中小沢と共に和田三丁目となっている。
東小沢には見るべきスポットはなかった。
真盛寺の見学はかなり時間を使い、今日はここで打ち止めとした。真盛寺の隣にある梅里公園で、休憩を取り、帰路に着いた。
梅里公園
梅里公園は、その名の如く、何本も梅の木が植えられている。他の地域の梅は時期を過ぎていおり、花が散り始めていたが、ここの梅はまだ綺麗に咲いている。赤色、桃色、白色の梅が綺麗に咲いていた。
今日の訪問ログ
参考文献
- すぎなみの地域史 4 杉並 令和2年度企画展 (2020 杉並区立郷土博物館)
- すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
- 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
- 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
- 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
- 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
- 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
- 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
- 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
- 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 5 杉並風土記 中巻 (1978 森泰樹)
- 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)
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