東京 (21/12/20) 江戸城 (15) 外曲輪12門 / 外濠 (15) 大名屋敷 新橋

外曲輪12門

  • 増上寺
  • 有章院霊廟
  • 御成門
  • 開拓使仮学校跡 (芝公園)
  • 紀伊和歌山藩徳川家芝海手下屋敷 (旧芝離宮恩賜庭園)
  • 二本松藩下屋敷跡、石垣跡
  • 青松寺
  • 愛宕神社
  • 一関藩上屋敷 (浅野内匠頭終焉地)
  • 仙台藩伊達家愛宕下中屋敷 (鹽竈神社)
  • 愛宕下大名小路 (赤レンガ通り)
  • 烏森神社
  • 江戸見坂
  • 塩見坂
  • 霊南坂
  • 川越藩松平家上屋敷 (ホテルオークラ、大倉集古館)
昨日は久しぶりに娘と会うので、江戸城巡りはお休みにした。今日から再開し、浜松町から新橋の間にある大名屋敷を巡る。


増上寺

9世紀に空海の弟子の宗叡が武蔵国貝塚 (千代田区麹町) に建立した光明寺が増上寺の前身で、室町時代に真言宗から浄土宗に改宗し寺号も増上寺と改めた。徳川家康が江戸入府後、江戸城の拡張に伴い、1598年 (慶長3年)、家康によって現在地の芝へ移された。これ以降、徳川家の菩提寺となる。徳川家康が熱心な浄土宗信徒であったからだろうか? この寺に伝わる逸話に、真偽は不明なのだが、1701年 (元禄14年) に江戸下向した勅使が増上寺を参詣する前の畳替えの際に、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の松の廊下での殿中刃傷の引き金になったという逸話がある。


[大門] 浜松町駅から増上寺に向かう途中に門があるが、これは増上寺の旧総門で、増上寺が明治維新の上地令により寺領が奪われ経済的に困窮し維持困難となり東京府に寄付された。 現在の大門は昭和12年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のまま高さを1.5倍にし、コンクリート造りで改築したもの。


[三解脱門] 1622年 (元和8年) に建立された二重門で、別名三門と呼ばれ、この門をくぐると、三毒 (貪、瞋、癡) から解脱できるされている。幸いにも戦災を免れた建物の1つで、内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。


[黒門] 三解脱門の近くにもう一つ古いもんがあった。これは慶安年間 (1648~1652年)に、三代将軍家光の寄進により建立された増上寺方丈の表門。増上寺方丈は現在の芝公園にあったのだが、明治時代にそこに北海道開拓使の仮学校や海軍施設が置かれた際に鐘楼堂脇に移築したものを、更に1980年 (昭和55年) に通用門として日比谷通り沿いに移築。


[水盤舎] 普通の手水舎と思っていたが案内板を見ると、三代将軍徳川家光の三男綱重の霊廟の清揚院殿にあったものをここに移設している歴史のあるものだ。揚院殿霊廟は本堂の裏手にあったが東京大空襲の際にほとんどが焼失したが、この水盤舎は焼け残った。


[大殿 (本堂)] 戦争で焼失し、1974年 (昭和49年) に再建された。室町期の阿弥陀如来像、脇仏に法然上人像、善導大師像がまつられている。現在修復中。


[安国殿] 安国殿は、宗祖法然上人八百年御忌で、2010年 (平成22年) に建立された新しい殿で、徳川家康の院号「安国院」からその名が付いている。19日に訪れた隣にある芝東照宮は、安国殿と呼ばれていたので少し混乱するネーミングだ。現在の安国殿には徳川家康が崇拝し念持仏でもあり、勝運・厄除けの仏として江戸時代から信仰をあつめてきた恵心僧都の作と伝えられる黒本尊阿弥陀如来 (写真左下) が祀られている。この像は元々は金色の像だったが、長年の香煙で黒ずんでしまったことから「黒本尊」と呼ばれ、家康が名付けたのだという。


[鐘楼堂] 1633年 (寛永10年) に建立されたが、鐘楼堂は戦後に再建されている。大梵鐘は江戸三大名鐘の一つに数えられている。


[熊野 (ゆや) 神社] 1624年 (元和10年)、熊野権現を増上寺鎮守として東北の鬼門に勧請したもの。 ここでは熊野をユヤと呼んでいる。


[西向聖観世音菩薩] 鎌倉時代、執権北条時頼が観音山 (現 東京タワー) に辻堂を建て、鎌倉街道に向けて安置した観音像で、子育て、安産に霊験あらたかと伝えれている。1975年 (昭和50年) に安国殿前に移設された。周りには多くの地蔵がひしめき合っている。


[経蔵] 一見新しい建物と見えるのだが、この経蔵は徳川幕府の助成により建立された土蔵造りになっている。


[慈雲閣 (開山堂)] この御堂は、増上寺開山 酉誉聖聰 (ゆうよしょうそう) 上人の550年遠忌記念事業として1989年 (平成元年) に戦災で焼失した開山堂の再建をおこなった。慈雲閣 (開山堂) の裏にはカヤの大木が植わっている。


[徳川将軍家墓所] 徳川将軍家の菩提寺はこの増上寺と上野の東叡山寛永寺 (天台宗) がある。ここに葬られているのは二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂の6人の将軍と崇源院 (二代秀忠夫人)、皇女和宮 (十四代家茂夫人) ら5人の正室、三代家光側室桂昌院 (五代綱吉実母) はじめ5人の側室、及び、三代家光第三子甲府宰相綱重ほか歴代将軍の子女多数。かつての墓所 (霊廟) は増上寺大殿の南北にあったが、戦争でほとんどが焼失し、現在地に改葬された。 墓所の鋳抜門 (写真右上) は文昭院殿霊廟 (六代将軍 徳川家宣) の中門を移設している。


[貞恭庵] 十四代将軍徳川家茂正室の皇女和宮ゆかりの茶室で、和宮の法号の貞恭から名付けられている。 四畳半二間の茶室で、1980年 (昭和55年) に移築されたもの。

[大納骨堂 (舎利殿)] 1933年 (昭和8年) に建立された納骨堂で、高村光雲作の本尊が中にある。


[圓光大師堂] 宗祖法然上人八百年御忌の記念事業として2009年 (平成21年) に造られた大師堂。


[景光殿表門] 圓光大師堂への入り口に門がある。この門は移設されたもので、徳川家光次男の甲府宰相綱重が1705年 (宝永2年) に伝通院から増上寺に改葬された時に増上寺本堂裏山に整備された清揚院霊廟のものでないかと推測されている。


有章院霊廟

有章院霊廟は、七代将軍徳川家継の霊廟で死去した翌年の1717年 (享保2年) に、八代将軍徳川吉宗によって芝増上寺に造営されていたが、1945年、太平洋戦争の空襲で大部分が焼失した。焼失前の古写真が残っている。八代将軍吉宗は享保の改革の一環として、御霊屋の建立を禁止し、吉宗以後の将軍の霊は既存の霊廟に合祀されるようになり、この有章院霊廟の奥院には崇源院 (徳川秀忠夫人)、文昭院 (徳川家宣)、有章院 (徳川家継)、月光院 (徳川家継母)、惇信院 (徳川家重)、慎徳院 (徳川家慶)、昭徳院 (徳川家茂)、静寛院宮 (徳川家茂夫人和宮) が埋葬されていたが、宝塔8基は増上寺御霊屋に移設されている。

焼失を免れた二天門が現存して芝公園にある。上の見取り図には二天門は二か所ある。現存しているのは有章院 (徳川家継) の二天門で、綺麗に塗りなおしがされており、門中には二天の広目天と多聞天の仁王像が立っている。もう一つあった文昭院 (徳川家宣) の二天門 (持国天と増長天) は焼失し現存していない。


御成門

有章院霊廟を中に入ると東京プリンスホテルの駐車場があり、その北側に老朽化している門がある。もともとは増上寺の裏門で、現在の御成門交差点の場所にあったのだが、明治25年にこの場所に移設された。将軍家が参詣する際にこの門を使用したことから、やがて御成門と呼ばれるようになり、現在の地名の御成門の由来となっている。


開拓使仮学校跡 (芝公園)

増上寺の黒門が芝公園にあった増上寺方丈のものということで、芝公園に来てみた。増上寺方丈の遺構はないのだが、後にここに建てられた開拓使仮学校跡碑が立っていた。明治政府が増上寺の方丈の25棟を購入して、1872年 (明治5年) に開拓使仮学校を設置し、北海道開拓の人材を育成、養成された学生とともに札幌に移転し、それが札幌農学校となり、そして北海道大学となった。

公園内にイチョウの大木があり、木の側面が焼けて焦げ跡が残っている。65年も前の戦争の時の空襲で焼けたものだ。半分焼けてはいるが今でも葉をつけている。戦争に屈しない象徴として残っているのだろう。


紀伊和歌山藩徳川家芝海手下屋敷 (旧芝離宮恩賜庭園)

JR浜松町駅の東側にある旧芝離宮恩賜庭園がかつての紀伊和歌山藩徳川家芝海手下屋敷で、1864年 (弘化3年) に拝領していた。明治元年が1868年で明治3年に有栖川宮邸となったので、紀伊和歌山藩徳川家の下屋敷と使用されたのは僅か7年間だけだった。もともと、このこの屋敷は、1678年 (延宝6年) 老中大久保忠朝が拝領した上屋敷で、庭園の基礎はこの大久保家時代にできたとされている。その後、堀田家、徳川清水家の屋敷を経て、1846年 (弘化3年) に徳川清水家から当主 斉彊が12代紀州藩主となった際に、この屋敷も紀州徳川家に移り、紀州徳川家芝下屋敷となった。この下屋敷は物資を貯蔵、管理する蔵屋敷の役割も兼務していた。上の図とは別の江戸時代の古地図には当時の庭園の池が載っているのだが、現在の旧芝離宮恩賜庭園の池とほとんど同じだ。つまりかつての庭園の形がのこっている事がわかる。

インターネットサイトに紀伊和歌山藩の江戸屋敷に関して詳しいレポートがあった。これには感心するほどくわしく、なおかつ、良くまとまったものだ。大いに参考になった。

[紀伊和歌山藩徳川家江戸屋敷: 麹町上屋敷、赤坂中屋敷、芝海手下屋敷、渋谷村下屋敷、千駄ヶ谷村抱屋敷]



旧芝離宮恩賜庭園

回遊式泉水庭園: 池は海水を引き入れた潮入りの池。引き潮の時は中島から浮島に渡れ、潮の干満により州浜や島々の風景が変化したが、今は海水の取り入れはできなくなり、淡水の池になっている。


西湖の堤: 中国の杭州にある西湖の蘇堤を模した石造りの堤。古来、詩歌や絵画の題材として珍重された。


鯛橋・根府川山・飛石(根府川) : 小田原から運んだと思われる石郡。鯛形の根府川石の橋を渡ると右手に築山がある。その山麓に根府川石の飛石が敷かれている。


蓬莱山: 中国で仙人が住むと言われる蓬莱山を表した中島の石組。


枯滝: 山渓を流れ落ちる滝を彷彿とさせる石組。


その他


二本松藩下屋敷跡、石垣跡

旧芝離宮恩賜庭園の南にある東京ガス本社構内に江戸時代の石垣がある。旧芝離宮恩賜公園の南側から発掘された石垣をこの場所に移設したそうだ。この東京ガス本社がある場所は二本松藩下屋敷跡地で、この石垣はこの屋敷の築地の護岸用の石垣として用いられていたと考えられている。


青松寺

江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の1つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して1476年 (文明8年) に創建。当初は武蔵国貝塚 (現在の千代田区麹町周辺) にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転。長州藩、土佐藩、津和野藩などの菩提寺となっていた。境内には獅子窟学寮があり、多くの人材を輩出。後に、駒澤大学へと発展した。


愛宕神社

ここには何度となく通っているのだが愛宕神社には来たことがなかった。愛宕神社がある愛宕山は標高25.7メートルで天然の山としてはこれは23区内で一番の高さだそうだ。前回東京に来た時に、箱根山という所に行ったときに、その山が一番高いと解説板があったが、箱根山は人工的に造られているので、自然な山としてはここが一番高いそうだ。東京を走っていると、沖縄に比べて坂道は少なく走りやすい。愛宕神社に上がる急な石段は「出世の石段」と呼ばれ、代将軍、家光が増上寺を参詣の帰りに急な坂の上の梅を所望した。家臣たちが急坂を前にして狼狽している中、曲垣平九郎が馬でこの坂を駆け上がり無事梅をとってきた。家光はその勇気と卓越した馬術を褒めたたえたという逸話が残っている。その後も、馬でこの坂を駆け上がる挑戦者が絶えず何人かは成功しているそうだ。確かにかなり急な階段で、これほど急な階段は今までではじめてだ。ほとんどの参拝者は手摺伝いで登っているくらいだ。この階段を馬で登る豪傑がいるとは驚き。というよりはその馬がすごい。


一関藩田村家上屋敷 (浅野内匠頭終焉地)

この辺りは奥州一之関藩田村家の上屋敷があった。以前東北を巡った際に、田村家の居城の一関城を訪れた。伊達政宗の正室の愛姫の実家が田村家。赤穂藩主浅野内匠頭が江戸城松の廊下での刃傷沙汰を起こしたあと、この屋敷にお預けとなり、その日のうちに庭先で切腹させられた。日比谷通りに面して「浅野内匠頭終焉之地」の碑が建っている。辞世の句「風さそう花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとやせん」


仙台藩伊達家愛宕下中屋敷 (鹽竈神社)

現在の塩釜公園は、江戸時代、仙台藩の中屋敷内にあり、鹽竈神社の境内になっていた場所。伊達家が四代藩主綱村の時、将軍家からこの屋敷を拝領した際に、国元の仙台より分霊をして屋敷内に社を設けたのが、鹽竈神社の始まり。1856年 (安政3年) にこの地に移し、庶民も参拝するようになり、安産の神様として信仰されていた。現在の社殿は空襲で焼失した後に再建されたもの。東北を訪れた際にはここの鹽竈神社の本社がある塩竃市 (塩釜市) を訪れている。(鹽竈神社本社は残念ながら訪れていない)

[仙台藩伊達家江戸屋敷: 芝口上屋敷、愛宕下中屋敷、袖ヶ崎下屋敷、品川大井村下屋敷、麻布下屋敷、深川蔵屋敷]



愛宕下大名小路 (赤レンガ通り)

鹽竈神社がある通りが赤レンガ通りと呼ばれている。現在はごく普通の通りで、赤レンガ通り匂わすものは見当たらない。この赤レンガ通りは江戸時代には愛宕下大名小路と呼ばれ、西側の薬師小路角には、浅野内匠頭切腹地である田村右京太夫邸 (陸奥国一関)、大名小路御成門脇には柳生対馬守邸 (大和国柳生)、露月町西側の神保小路に遠山金四郎邸等があった。


烏森神社

940年 (天慶3年)、平将門が乱を起こした時、鎮守府将軍藤原秀郷 (俵藤太) が武蔵国のある稲荷神社に戦勝を祈願したところで、白狐が現れて白羽の矢を秀郷に与えた。その矢によって速やかに乱を鎮めることができたので、それに感謝してここに神社を創建したのが烏森神社の始まりと伝わっている。神社は新橋の飲み屋街の真っただ中にあり、狭い参道にも飲み屋がある。


江戸見坂

今日最後の訪問地の川越藩松平家上屋敷があったホテルオークラに向かう。ちょっとした高台にあるので、まずは江戸見坂を上る。江戸時代にはこの坂を上がると江戸の町並みが見通せたことから名がついている。


塩見坂

別の方向からもホテルオークラに通じる道があるのだがそこにも坂がある。この坂は緩やかな坂で、かつてはここから海が見えたので塩見坂という。目的地の川越藩主 松平大和守の屋敷に面していたことから、大和坂とも呼ばれていた。現在はそのような風情は失われている。


霊南坂

塩見坂からもう一つの坂に入る。霊南坂でアメリカ大使館の横を走っている。ここには多くの警察官が監視しており、霊南坂の標識はちょうど大使館の入り口で警官が立っている。写真を撮ろうとすると制止され、この近辺はセキュリティーで撮影禁止という。何が撮影してはいけないのかと聞くとアメリカ大使館が写るとだめだそうだ。インターネットでも写真があり、Google Mapではストリートビューで丸見えなの少し変なのだが、若い警察官は教えられたとおりに忠実に職務を遂行しているつもりだけなのだろう。アメリカ大使館が写真に入らなければと許可が出たので、霊南坂を撮影。坂の上からの撮影は特に問題はなかった。

Google Mapではストリートビューではこんな感じ。



川越藩松平家上屋敷 (ホテルオークラ、大倉集古館)

川越藩松平家上屋敷跡に建つホテルオークラの前には、創業者の大倉喜八郎が収集した古美術・典籍類を収蔵・展示している大倉集古館がある。1917年 (大正6年) 開館というから100年が経っている。数年前にもここに来たのだが、こんな感じではなかった。近代的なホテルに建て替えられていた。

ホテルには小さな庭園があるのだが、他のホテルの庭園に比べると見劣りがする。


今日も日暮れが近くなってきたのでホテルへの帰路に着く。今日は丸の内の仲通りを通った。ここもクリスマスのイルミネーションが点滅していた。東京滞在も明日が最終日。あっという間に8日間が過ぎてしまった。

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