東京 (22/12/20) 江戸城 (16) 外曲輪12門 / 外濠 (16) 幸橋見附 / 芝口御門

外曲輪12門

  • [幸橋見附]
  • [芝口御門]

内曲輪16門 (内濠)

  • 棚倉藩松平家中屋敷 (演舞稲荷)
  • 築地本願寺
  • 熊本藩細川家北八丁堀中屋敷 (坂本公園)
  • 姫路藩酒井家蛎殻町中屋敷 (小網神社)
  • 久留米藩有馬家中屋敷 (水天宮)
  • 熊本藩細川家浜町下屋敷 (浜町公園、清正公寺)
  • 丹波亀山藩松平家江戸見坂中屋敷 (虎ノ門病院)
今日は東京滞在最終日で午後から定期検診があるので、午前中だけしか文化財巡りに使えない。当初計画していた外濠/外曲輪巡りを終えて内濠/内曲輪に進むことは出来なかった。今日半日では外濠/外曲輪巡りを終えるのは無理だろうから、残りは次回3ヶ月後となる。


[幸橋御門]

幸橋御門は江戸時代に江戸城警護などを目的とした江戸三十六見附の一つで、肥後国熊本藩主の細川忠利により築かれた。この門は増上寺参詣の道筋にあたるため御成橋門とも呼ばれていた。出入口は江戸城に向って外側と内側に直角方向に二つの門を有する枡形配置。地理的には外濠川との合流地点西側の汐留川に位置している。外濠はこの幸橋御門で2筋に分かれる。一筋は汐留川でそのまま東に向かい浜御殿手前で江戸湊に注ぐ。もう一筋は北の数寄屋橋門から呉服橋門に向い内堀に続く。この幸橋御門の内側にある地域が内幸町だ。明治時代には門が撤去された。

幸橋御門があったのは新橋と有楽町の間のちょうど山手線が走っている所だが、ここには遺構もなく、史跡表示板も無い。他の見附門は遺構が無くても説明板ぐらいはあるのだが、少し残念。


[芝口御門]

芝口御門は六代将軍の徳川家宣の時代、1710年 (宝永7年) に新井白石の建策により朝鮮来聘使の来日に対して、国の威光を見せつける目的で建設された。汐留川の芝口門に架橋された当初は新橋 (あたらしばし) と呼ばれ、外門を冠木門 (かぶきもん)、内門を渡櫓の二門による枡形様式だった。後に、この橋はに芝口橋と改称。芝口門は15年後の1734年 (享保9年) に焼失し、その後は再建されず石垣も撤去され、芝口橋はもとの新橋の旧称に復した。この橋が現在の新橋の地名の発祥。江戸36見附にはこの芝口御門は入っていない。別のくくりでは外曲輪12門に数えられている。

芝口御門跡にはちょっとした説明板がある。銀座9の高架下街のすぐ近くだ。東京で働いている時には何度もこの通りを通ったのだが、この史跡には気づかなかった。上の古写真と比較しても、全く様変わりをしておりここに堀があり橋が掛かっていたなど想像出来ない。


棚倉藩松平家中屋敷 (演舞稲荷)

この棚倉藩松平家中屋敷があった場所は女忠臣蔵として知られている歌舞伎作品「加賀見山旧錦絵』の舞台。1724年 (享保9年) にこの場所で起こった奥女中の仇討事件がもととなっている。人形浄瑠璃では「加々見山旧錦絵」として上演されている。現在は新橋演舞場が建ち、玄関脇の駐車場入口に演舞稲荷が申し訳なさそうに鎮座している。演舞稲荷はかつては、仇討ちをしたお初にちなみ、お初稲荷と呼ばれていた。舞台関係者、役者衆が、舞台の成功を願い参拝しているそうだ。

東海道を旅した時に、平塚から大磯に向かう途中に、松田たつ (お初) の墓があったことを思いだした。ここにお初神社 (演舞神社) があるとは知らなかった。日本全国を旅していると、遠くかけ離れた地に以前見た史跡と縁がある別の史跡に出会す。これは面白い。イメージがつながってくる。


築地本願寺

築地本願寺は江戸時代の1617年に、西本願寺の別院として浅草御門南の横山町 (現在の日本橋横山町) に建立され、江戸海岸御坊または浜町御坊と呼ばれていた。明暦の大火で本堂を焼失したのだが、その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き1679年に再建を果たし、築地御坊と呼ばれるた。この埋め立て工事が地名築地の由来となった。当時の寺院が錦絵と古写真で残っている。

関東大震災で火災により伽藍を焼失。現在の本堂は古代インド様式をモチーフとした当時の宗教施設としては珍しい鉄筋コンクリート造のもので、1934年に建てられたというから、もう少しで100年が経過する。当時これだけの寺院が造れる浄土真宗の経済力は凄い。

境内には浄土真宗開祖の親鸞像が立っている。数基の墓もある。ある程度知られた人の墓で東京都の文化財と指定されている。墓地からここに移設されたのだろう。狛犬も古風なインド様式になっていた。羽が生えている。狛犬というよりはライオン (獅子) の様相だ。


熊本藩細川家北八丁堀中屋敷 (坂本公園)

この日本橋にある熊本藩細川家北八丁堀中屋敷についてはほとんど情報がない。もともとは下屋敷で江戸後期に中屋敷になったようだ。屋敷跡は城東小学校と坂本公園 (工事中) になっている。敷地跡の隅に小さな祠があったが、細川家と何か関係があるのだろうか?

[熊本藩細川家江戸屋敷: 大名小路上屋敷、麻布白金村中屋敷、北八丁堀中(下)屋敷、戸越下屋敷、目白台拝領屋敷、木挽町拝領屋敷]



姫路藩酒井家蛎殻町中屋敷 (小網神社)

水天宮の近くの蠣殻町には姫路藩酒井家の中屋敷があったが、この屋敷についての情報は見つからなかった。屋敷跡は雑居ビルが立ち並んでおり、江戸時代を偲ぶものは何もない。屋敷跡の隅に小網神社がある。境内の前庭もなくビルの間にある。平日というのに道路まで参拝者が行列をなしている。年末の混雑を避けて今のうちに参拝をしているのだろうか? 調べると、金運アップと厄除けで人気がある有名な神社だそうだ。どうりで人がいっぱい来ていたのか。

[姫路藩酒井家江戸屋敷: 大手角上屋敷、蛎殻町中屋敷、小石川村下屋敷、大手前拝領添屋敷、浜町蛎殻中屋敷、橋場村抱屋敷]


久留米藩有馬家中屋敷 (水天宮)

先日訪れた赤羽根にあった久留米藩有馬上屋敷にあった水天宮はこの貝殻町に移ってきている。移ってきたのは1871年 (明治4年) で有馬家中屋敷があった所だ。
この水天宮には以前来た事はあるのだが、随分と綺麗に近代的な建物に変わってしまっている。2016年 (平成28年) に工事を終えて再開したそうだ。今でも宮司は有馬家の当主だそうで、有馬家と水天宮との深い関係がわかる。
水天宮の付近は江戸の下町の雰囲気が残っている。多くの小さな商店街密集している。
平日にもかかわらず、人通りは多い。近くに甘酒横丁という通りがある。明治初期に横丁の入口あたりに甘酒屋があったことに由来し、今でも酒店や和菓子店が軒を連ねている。


熊本藩細川家浜町下屋敷 (浜町公園、清正公寺)

松平周防守屋敷のあった場所を、1806年 (文化3年) に拝領し、幕末には下屋敷として使われていた。1861年 (文久元年) に8代藩主細川斉護により、熊本市日蓮宗本妙寺から勧請された加藤清正を祀る清正公寺がある。

いつも使っている二つの江戸古地図には載っていない。一つは1850年 (嘉永3年) の江戸切絵図をベースに造られた地図だ。ほかの切絵図を調べると江戸末期 (年代は不明) の切絵図をベースのGoo地図に載っていた。明治維新が1868年なので、1850年からの20年間にめまぐるしく屋敷の主が変わっている。これは現在の社宅に転勤族が数年単位で変わっているのとよく似ている。

下屋敷跡には明治も細川家の邸宅があったが、のち浜町公園として整備され、1929年 (昭和4年) に開園している。

[熊本藩細川家江戸屋敷: 大名小路上屋敷、麻布白金村中屋敷、北八丁堀中(下)屋敷、戸越下屋敷、目白台拝領屋敷、木挽町拝領屋敷]



丹波亀山藩松平家江戸見坂中屋敷 (虎ノ門病院)

今日予定していた文化財巡りを終えて、定期健診のために虎ノ門病院に行く。昨日もこの屋敷に沿っている江戸見坂に来た。ここも大名屋敷があった場所だろうと調べると隣のJTも含めて丹波亀山藩松平家中屋敷跡であった。地図を見ると虎ノ門病院とJTがそのまま屋敷跡と綺麗に一致している。広大な敷地だった。この中屋敷についての情報は見当たらなかった。丹波亀山には山陰の旅の際に訪れ、亀山城を訪れた。その時の訪問記はこちら: Ride in Setouchi & San-in Day 121 (14/7/19) Kameyama Castle Ruins 亀山城跡

定期健診はいつも混んでおり時間がかなりかかっていたので、今日も同様と思っていたが、予想外で患者が少ない。検診前の血液検査は待ち時間なくすぐに採決が終わり、検診予定時間には待ち時間なくすんなりと終わった。こんなことはここ十数年この病院で受診s手初めてだ。新型コロナが東京ではどんどんと感染が広がっているので、高齢者は受診を控えているのかもしれない。検査結果は良好で、担当医は前回検査した肝臓のエコー検査では脂肪肝が全くないので驚いていた。ここ3年間は、ほぼ毎日のように自転車で走り回っていたので、その効果があるのだろう。

虎の門病院は新しく建て替えられ現在は旧病院の取り壊しをしている。

[丹波亀山藩松平家江戸屋敷: 雉子橋御門外上屋敷、江戸見坂中屋敷、白山中屋敷、巣鴨御駕篭町下屋敷、柳島村下屋敷、芝田町下・拝領屋敷]


今回で外濠はあと一つの見附を残すのみとなった。外曲輪の主要な大名屋敷も後数か所之井となった。次回東京訪問で外濠、外曲輪は終了し、内濠、内曲輪の文化財巡りとなるだろう。今回の東京訪問では新型コロナ感染が急速に広がっている最中なので、友人との会食は最低限に抑えた。本当は会いたかった人は幾人かはいるのだが、会食には神経質になっているようなので、今回は我慢だ。次回定期健診が4月なので、多分その時期に東京を再訪する予定。その時には新型コロナが収まっていればよいのだが....

明日は沖縄に帰るので、この後土肥さん宅に向かい、自転車を次回東京訪問まで預かってもらう。明日は朝一番電車で成田に向かうので今夜は早寝となる。





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