Okinawa 沖縄 #2 Day 63 (28/12/20) 旧兼城 (5) Zaha Hamlet 座波集落
座波集落 (ざは、ザーファ)
- 兼城間切番所 (兼城村役場)、座波馬場跡
- 座波古島
- 仲座之殿
- 仲間の殿
- 殿 (トゥヌ)、カーオー
- 平田の殿
- 産泉 (ンブガー 、ウーガ-)
- 大泉 (ウフガ-)
- シーシ (獅子)
- ハーメーチジン、ガラミンの按司墓、ガラミンガー、無縁仏墓
- イリクミ
- 華守の塔
- 村屋跡
- 座波公民館
- 新井 (ミーガー、ヒラタガー 平田井泉)
- 南平田泉カーオー、東平田泉カーオー
- ウフゴー (ウーゴ-)
- ヌルミチムン (根屋)
- 下之御嶽 (スムヌウタキ)
- 神道 (カミミチ)
- アシビナー
- 殿内 (トゥンチ)
- 具志堅の神屋
- 中之御嶽 (ナカヌウタキ)
- 後之井 (クシンカー)
- 後原北の拝所
- 龕屋 (ガンヤー)
座波集落 (ざは、ザーファ)
字座破は糸満市の北東に位置し、報得川中流域の北の平地に集落があり、賀数集落と隣接している。西北部は玻球石岩の丘蘰になっていて、南東託はジャーガル土壌の農地が広がっている。北は字阿波根、字賀数と接し、東は八重瀬町字当銘と糸満市字豊原に接している。報得 (むくえ) 川を挟んで南東部を字与座に、南を字大里に、南西部を字照屋と字兼城に、西は字潮平に接している。糸満市域では比較的広い面積をもつ字。
この15年間はコンスタントに人口が増えている。他の集落は沖縄の本土復帰後、急激に人口が増えているのだが、この座波は急激な人口増加は起こらず、それでも少しずつ人口が増えている。
明治時代初期には旧兼城村では最も人口の多い字であったが、その後の人口増加は他の字に比べて低く、現在では人口の少ないグループとなってしまった。
糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編に記載されている文化財
兼城間切番所 (兼城村役場)、座波馬場跡
座波集落は当原 (トーバル) 地区にある。賀数集落との境は現在の兼城小学校にあたり、この場所には兼城間切番所、後の兼城村役場があった。
座波古島
座波馬場跡の南側の兼城中学校とその南のウグゥアンモー地域が元々座波集落が始まった場所で古島と呼ばれている。この古島にはいくつかの文化財が残っており、まずはそれらから見てみる。
仲座之殿
古島にあったウグワン山の東側には仲座門中が正月やウマチーに御願している仲座之殿ある。以前はマーニ (クロツグ) の葉が生い茂っていたのでマー二ードゥヌとも呼ばれている。祠と自然石が4つある。それぞれが何を祀っているのかは書かれていない。通常門中の拝所は神屋を屋敷内に建てているので、古島時代はこのあたりに屋敷があったのだろう。この地にあるので、仲座門中は古くからこの座波集落の有力門中だったのだろう。
仲間の殿
川之尾原の北東側の土手近くにある殿で、クートゥヌグワーとも呼ばれている。琉球由来記にも記載がある。土手にはカーオーとばれるカー (井泉) があり、現在ではムラや門中の関係者はカーオーで御願を行っているそうだ。確証は無いのだが、多くのカーオーがあるので、この地域ではカー (井戸) の事をカーオーと呼んでいる様だ。
殿 (トゥヌ)、カーオー
殿 (トゥン) の西側にあるカーオーと呼ばれる井泉は二個所に円状の石列で形式保存されている。
平田の殿
ウフガーの東側にある小さな丘の上に、南に面した石の祠とコンクリートの祠があり、それぞれに香炉が置かれている。琉球国由来記にも記載がある平田の殿だ。大腹が御願している。
産泉 (ンブガー 、ウーガ-)
産泉と書きンブガーと呼ぶ。別の地域では産井と書くところもあり、ウブガーとも書かれている。元々沖縄には文字が無く、日本のひらがなを使用していたので、沖縄方言を表すとンブガーやウブガーと場所によって異なる。また漢字も表音の場合と表意の場合がある。井泉のカーも井と書かれたり、泉や川と書かれたりしている。今でも綺麗な澄んだ水が湧き出ている。ウフガーの所のガジュマルの大木の下に石の香炉が3個置かれている。そこには母御川 (何と読むのだろう、母ウッカー、母の沖縄読みが分からない) と書かれた標柱が立っている。この様にも呼ばれていたのだろう。このンブガーは子どもが生まれたときに産湯の水や正月の若水 (ワカミジ) 、葬式のワカリミジ (死水) にも利用されていた。麻疹やミジガサー (水疱瘡) に罹ったときにも、ンブガーから汲んだ水で水撫でをしたという。
大泉 (ウフガ-)
産井 (ンブガー) の隣には大きな溜池がある。大泉 (ウーガー)、ザハガーとも呼ばれている。県による座波への給水が正式に開始されたのは1988年で、それ以前はこのウフガーの水を座波簡易水道事業共同組合がタンクとポンプ小屋を造り行なっていた。この池の西に三つの香炉がある。一つはこの大泉 (ウフガー) で残りの二つは、かつて近くに存在していた前原泉 (メーバルガー) と具志堅腹のカーオーの後之泉 (クシンガー) へのウトゥーシ (お通し、遥拝所) だ。
シーシ (獅子)
ウフガーの南西側に石獅子が設置されている。この座波の石獅子は加工されているものではなく、獅子に似た自然石を石垣の上に置かれている。ちょっと珍しい石獅子だ。獅子と言うよりはワニとか恐竜の様だ。両目もあり、よくこんな自然石を見つけてきたものだ。元々は現在の公民館の東側にあったが、終戦後ここに移設された。旧暦1月2日のハチウクシー (初起こし) の際に拝まれている。
ハーメーチジン、ガラミンの按司墓、ガラミンガー、無縁仏墓
古島原の中央に農地にガラミンモーまたはコンコン山グワーと呼ばれる小さな丘がある。
ハーメーチジンへの階段の途中にガラミンガーが形式保存され香炉が置かれている。元々ガラミンガーはガラミンモーと呼ばれる丘の北東にあったが、上地改良工事の際に、ここに移設された。その脇にはこの周辺で見つかった無縁仏墓を移設している。
イリクミ
華守の塔
村屋跡
古島から与座集落の間にある掘川原、西鞍割原、古島原にはいくつかの集落があったと考えられており、その集落がいつの時代かに現在の場所に移動して来て現在の座波集落が形成された。集落は細かく規則正しく区画整理がされているので、碁盤型の集落区画が実施される寛文年間 (1661-1671年) 以降に移動してきたと思われる。旧村屋は集落の北側の下之御嶽 (スムヌウタキ) の近くにある。茅葺の建物であったが沖縄戦で焼失し、終戦後に再建された。その後、現在の公民館の建っている場所に移り、今は民家になっている。
座波公民館
1952年 (昭和27年)、シマスメーの広場に製筵共同作業場としてクリート平屋造りの建物が建設されたときに、村屋機能をそこに移し、事務所として利用し、1958年 (昭和33年) 以降公民館として使われていた。この公民館は集落の南に位置する。旧村屋が北側にあったことから、集落はまずは北側に造られ、それからだんだんと南に広がってきたのだろう。昭和の時代には、南側が集落の中心になったと思われる。現在の公民館は1979年 (昭和54年) に建て替えられたもの。公民館前の道は幅が広い。多分この道が中道だろう。公民館の前の広場には赤で塗られた酸素ボンベの鐘が吊されている。公民館の横はサーターヤー (砂糖小屋) があった場所で空地になっている。
新井 (ミーガー、ヒラタガー 平田井泉)
集落の南側にはヒラタグワーモーとばれていた場所があり、その西にミーガーがある。ヒラタガー (平田井泉) とも呼ばれていた。この井戸は比較的新しく造られたカーで、今でも水量は豊富だ。ミーガーはフェンスで囲まれて中には入れない。
南平田泉カーオー、東平田泉カーオー
ウフゴー (ウーゴ-)
集落後方の旧村屋の近くにウフゴーという拝所があり、現在の場所に集落を移した人が祀られていると伝わる。座波の祭祀には必ず御願されている場所。ウフゴーの北西に隣接する場所はニーヤ (根屋) で座波の草分け筋の国元の屋敷跡。根神 (ニーガン) は代々このウフゴーから出していた。拝所はコンクリート造りなのだが、下半分は石積みになってり、珍しい造りだ。中には火の神が祀られている。
ヌルミチムン (根屋)
ウフゴーの北西には国元のウフゴーの屋敷があった場所で、ここにコンクリート造りの祠がある。ヌルミチムンとも呼ばれている。ウフゴーは絶えて現在は存在しないのだが、その屋敷跡に1981年に建てられたと書かれている。17世期末にこの地に移動して来たと考えられるので、300年後に造られた訳だ。他の集落でも同じだが、現在での集落の人達にとって国元はいつまでも特別な存在だ。
下之御嶽 (スムヌウタキ)
ヌルミチムンの後方に別の拝所があり、石の祠と井戸跡があり、下之御嶽 (スムヌウタキ)と呼ばれている。他の地域では下はシチャとなっているのだが、ここではスムと読んでいる。沖縄方言は集落単位で微妙に異なっている事が多い。ここは集落と聖域との境にあたる。今でもここから北側には殆ど民家が無い。庚 (カニ-) の日はこの先にあるナカヌウタキへ行くことは禁じられており、その日にはここからナカヌウタキを拝んでいた。
神道 (カミミチ)
各集落には御願に際に各拝所を巡るルートが決まっている。特にノロが祭祀に向かう際にはカミミチを通ることになる。この集落の聖域にある中之御嶽 (ナカヌウタキ) に向かう道が神道だ。集落の中心を南北に細い路地が走っている。
アシビナー
神道が通っている半ばにアシビナー跡がある。他の集落のアシビナーに比べて少し小さな規模だ。
殿内 (トゥンチ)
スムヌウタキの前に、殿内または上殿内と呼ばれている神屋があり、火の神が祀られている。ここは代々ノロを輩出していた仲添腹の屋敷だった。兼城集落の兼城ノロが、兼城、座波、賀数の祭祀を仕切っていたので、本来はこの座波集落にはノロは存在しないはずなのだが、一説では兼城ノロがこの座波に移ってきたともいわれている。神屋の中には遺影なのだろう写真がある。ノロを司った人のものだろう。
具志堅の神屋
殿内 (トゥンチ) の前に嶽元 (タキムトゥ) であった具志堅の神屋がある。瓦葺きの神屋内には火の神が祀られている。この座波集落の造りは古代琉球集落の典型的な造りになっている。集落を外れた北の丘陵地には御嶽がある聖域になり、集落の北側は有力門中の屋敷が並び、一般の住民はその南側に住居を構えていた。この具志堅門中屋敷も先ほど訪れた国元のウフゴーもリーダ的存在だったので北側に屋敷を構えていた。
中之御嶽 (ナカヌウタキ)
スムメウタキから北にある雑木林の中に中之御嶽 (ナカヌウタキ) がある。カニマンウタキとも呼ばれている。奥にはミルク神の拝所があった。
後之井 (クシンカー)
中之御嶽 (ナカヌウタキ) から奥の森に入っていく。ここは後原の丘蘰の北面、字被根赤水原との境界付近の山中に後之井 (クシンカー) と呼ばれる井戸があるのだが表示板も無くなかなか見つからない。多分ここだろうと思える物があった。近くに小さな祠もあったのでおそらくそうだろう。戦前までは水が出ていたそうだ。ウマチーなどで拝まれている。
後原北の拝所
集落がある当原から北側の後原に向かう。先日訪れたビービルの近くに拝所がある。カニマン御嶽という人もいるそうだが、名称は不明だそうだ。昔、座波の人々に芝居や踏りを教えた人が祀られていると伝わっている。
ビービル
ここは先日訪れたのだが、座波集落の人たちからも御願されているので載せておく。
龕屋 (ガンヤー)
集落の西外れに、座波、賀数共有の龕を納めている龕屋がある。龕屋はコンクリート造りで、入りロは鉄製のドアで閉じられている。座波ではガン (龕)、アカンマー (赤馬)、コーンマ (香馬) と呼ばれる。龕を納めておく小屋のことをガンヤー (龕屋) またはアカンマンヤー (赤馬屋) と呼んだ。龕は賀数との共同使用で、費用は座波3に対し賀数が1の割合で負担していたそうだ。「4本の足の内、三本は座波のもので、一本は賀数のものであるよ」と言われていた。
集落を走って気が付いたのだが、この集落には空き地や空き家、廃屋が目立っていた。ほとんどの集落に共通するのだが、昔ながらの集落にはなかなか新参者は入れない。昔ながらの家が絶えたり、別の地域に移動した後は、空き家、廃屋、空き地となってしまうケースが多い。集落の外側にはどんどんと住宅街が造られている反面、集落はこのような正反対の状況になっている。ただ、集落巡りには昔ながらの家の造りが中に入って見れるのでありがたいのだが....
この場所は家もなくなっており、跡地には神屋が建てられている。ここの住んでいた門中の神屋だろう。屋敷跡には石垣が残り、豚便所 (ウーフール) 跡 (写真左下) も元のままで残っていた。
もう一つは空き家になっている場所。ここも屋敷の構造がよくわかる。井戸跡が残ってつるべ之柱も残っている。この集落の家には同じような井戸があるところがほとんどだった。この集落では水は各家庭で自給していたようだ。だからかもしれないが、集落内には共同井戸はなく、共同井戸は集落の外側にある。
集落内には沖縄伝統の造りの家屋がいくつもある。
集落の北側にヤギ小屋を見つけた。近くに行くと小屋から何匹も子ヤギが出てきて、こちらを見てメーメーと泣いている。とてもかわいいのだが、このヤギたちは食用にされてしまうのだろうか?沖縄ではヤギ汁が郷土料理で今江も根強い人気がある。そんなことを考えていると、この子ヤギたちが少しかわいそうになった。
参考文献
- 糸満市史 資料編13 村落資料 旧兼城村編 (2011)
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