Tokaido 東海道 06 (4/11/19) Oiso Shuku 大磯宿
(7) Hiratsuka Shuku 平塚宿
- 松風庵観音堂跡碑
- 八王子神社
- 大鷲神社
- 妙安寺
- 東組問屋場跡
- 西組問屋場跡
- 宝善寺/須賀神社
- 教善寺
- 清水山医王寺薬師院
- 阿弥陀寺
- 要法寺/七面社
- お初の墓
- 五霊社
- 平成の一里塚
(8) Oiso Shuku 大磯宿
- 化粧井戸
- 化粧坂一里塚
- 大磯宿 江戸見附
- 日枝神社
- 虎御石
- 大磯宿 北組問屋場跡
- 大磯宿 小島本陣跡
- 大磯宿 南組問屋場跡
- 新島襄終焉の地碑 (百足屋跡)
- 照ヶ崎海岸
- 湘南発祥の地碑
- 鴫立庵
- 旧島崎藤村邸
- 大磯宿 上方見附跡
- 統監道
- 旧吉田茂邸
- 西長院
- 国府本郷の一里塚
- 押切坂一里塚
- 松屋本陣跡
- 茶屋旧道路傍の道祖神
- 小八幡一里塚跡
(9) Odawara Shuku 小田原宿
- 新田義貞の首塚
- 江戸見附跡
- 小田原山王原一里塚
(7) Hiratsuka Shuku 平塚宿
昨日からの続き。
松風庵観音堂跡碑
昔は旅の道中で亡くなる人も多かった。その人たちの遺骸を埋葬した場所で、戦後は墓石が転がり、掘ると遺骨が出るきたそうだ。ここから1km先にある薬師院に弔ってもらい、ここにあった松風庵観音堂を薬師院移した。
八王子神社
創紀は不詳であるが、徳川家康の従者の笹尾正成が石祠を社殿とし神社にしたと伝わる。八王子権現の由来は、天照大神と須佐之男命が天ノ安河で誓いの禊抜いをし、3人の姫神子と5人の神子を生んだとも、傍らに八王子古道が通っていたからとも言われる。
大鷲神社
現在は大鳥公園の一角にあり、当時は裏門を出たところに平塚遊廓があった。セエトバライ (道祖神の火祭り ドント焼き) がこの神社で行われ、その夜には大磯や平塚の在の若者達で賑わった。 ここ須賀では十五歳になるとこの日初めて遊廓に連れてこられたといい、 道祖神の祭が成年式の機会であった。あり、この日を境に子供仲間を離れ若い衆の仲間入りをすることになったのである。境内には平塚遊廓から移設された関東大震災の慰霊碑がある。平塚では死者は275人、負傷者は232人の大きな被害であった。
妙安寺
建立されたのは江戸の初期。平塚鬼子母神として古くから親しまれている日蓮宗の寺。徳川家康の側室の、日蓮宗を信仰していたお萬之方に幼少の頃から奥女中としてお使えしていた後の妙安信尼が開基。お萬之方様が、肌身離さず持っていた鬼子母尊神のお像を妙安信尼がこの地に安置されたと伝わる。
東組問屋場跡
問屋場とは、人馬の継立(取り替え)や旅宿の手配を始めとする業務を取り扱った場所。
平塚宿には、西仲町の西組問屋場と、二十四軒町の東組問屋場の2箇所の問屋場があった。
平塚宿当初は小さな宿場であったが、交通量の増大で、賦役を請け負わされていた住民の負担が急増し、大きな負担となっていた。平塚宿は加宿を願い出て、八幡新宿が平塚宿に加えられた。その加宿となった八幡新宿に設けられたのが東組問屋場。この様に宿場は江戸幕府が設置したのではあるが、その運営には地元住民の大きな犠牲のもと行われていた。宿場で潤ったのはごく一部のもので、大半は以前よりも苦しい生活を強いられていた。
西組問屋場跡
こちらの問屋場は元からあった方。
宝善寺/須賀神社
建久年間 (1190年〜1199年) に、鎌倉八幡宮寺に下向した京都東寺の学問僧により開山した東寺真言宗の寺。本尊は不動明王。境内は綺麗に手入れされており、光悦寺垣と書かれた垣根で庭を囲んでいる。垣根の種類は山ほどあるが、その中で多くは安土桃山時代から江戸時代にかけて寺院により考案された物が多く、やはり京都で考案されたものが圧倒的に多い。和文化の貴重な工芸。
教善寺
開山が元応元年 (1319) の時宗の寺で本尊は聖観音。カフェのガーデンの様に手入れされている。
この寺もコンクリート製。平塚には海軍火薬廠や横須賀海軍工廠造機部平塚分工場などの軍需工場が多くあり、米軍の攻撃目標となった。
清水山医王寺薬師院
弘法大師がこの地の水を湧き出る清水に変えたという故事により清水山医王寺と呼ばれている。開山1652年の真言宗の寺。湘南の寺は庭の手入れが行き届いており、この寺も古風な趣の綺麗な庭があった。
阿弥陀寺
開山が文禄2年 (1593年) の浄土宗の寺と説明されているが、本当はこれ以前からあり、安貞元年(1227年)河津三郎信之が親鸞の弟子となり了源と称し、平塚庄に阿弥陀寺を建立している。この時は親鸞の弟子というからには浄土真宗であったろう。(これは寺の案内では書かれていない) その後、文明年間 (1469年〜1487年) に天台宗の比叡山の衆徒が親鸞の墓の大谷祖廟を破却した際に、浄土宗に改め現在に至っている。浄土宗の法然、その弟子の浄土真宗 (一向宗) の親鸞共に、元は天台宗の比叡山延暦寺で修行していた。この寺の歴史はさらりと書かれているが、この仏教の各派の確執が裏に伺える。特に浄土真宗はその広がりが急激で庶民には大人気であったのと他の宗派と異なっている所が多かった事から、他の仏教宗派からの批判や攻撃を受けていた。
要法寺/七面社
日蓮宗の寺。ここはもともとは、執権北条泰時の次男の泰知の屋敷だった。北条泰知は日蓮聖人に帰依しており、弘安5年 (1282) 身延山久遠寺から池上に向かう150人以上もの日蓮一行が宿泊をしたと記されている。その数年後に寺となったそうだ。境内の奥に赤い鳥居の七面社の祠がある。七面社とは日蓮宗の法華経を守護するとされる女神だそうだ。この七面社が寺なのか神社なのかよく分からない。調べると寺としての七面社や神社としての七面社がある。これも神仏習合の影響なのだろうか?
お初の墓
葬られているのは歌舞伎や浄瑠璃の演目の加賀見山旧錦絵 (かがみやまこきょうのにしきえ) に登場するお初のモデルとなった平塚宿の松田久兵衛の娘のたつ。物語はお初の主人の中老 尾上の仇討を遂げるという筋。江戸時代に流行った仇討ち物。実際にこの演目のストーリーと同じ様、松田たつは主人の仇討ちをして、後には年寄まで出世したと書かれてあった。お初の墓として紹介されているのだが、本名の松田たつの墓としての方が故人には失礼にならないと思うのだが...
五霊社
樹齢390年といわれる巨大なタブの古木の下に小さな祠がある。 この大木が有名らしい。
平成の一里塚
広重の描いた東海道五拾三次の平塚の高麗山がよく見える所に休憩所があり、平成の一里塚と名付けられている。
ここで平塚の市街地は途絶えて、民家も減ってくる。旧家も所々にあり、少しは昔の東海道の雰囲気も出てきた。
大磯宿へは国道1号線を横切り、昔からの旧東海道に入り向かう。
(8) Oiso Shuku 大磯宿
大磯宿は東海道8番の宿場で平塚宿から27町 (2.9km) の距離で非常に短い。本陣3軒、旅籠66軒、戸数676戸、人口3,056人。
化粧井戸
ここの旧東海道は松並木が続く。その街道沿いには、民家が程よい間隔で建っている。別荘かと思う様な立派な家も見受けられる。ゆったりとした空間で、行き交う自動車も少なく静かな雰囲気だ。別荘地で有名な大磯ならではの空気を感じる。街道の脇に化粧井戸と書かれた史跡があった。見てほおっと思った。仇討ち物語の曽我兄弟の兄十郎祐成の妾であった虎御前がこの近くに住んで、この井戸の水を汲んで化粧をしたと伝えられている。鎌倉時代の大磯の中心はここら辺だったそうだ。曽我兄弟の仇討物語は小学生の頃に本で読んだ。時代劇が大好きで、遊びはいつもチャンバラごっこだった時代。今でもこの物語は記憶にある。それ以降、曽我兄弟の仇討は忘れていたので、ここで曽我兄弟所縁の地に遭遇した事は嬉しい。物語が頭の中で蘇ってくる。虎御前が大磯の遊女だった事も初めて知った。読んだ本は児童向けなので、遊女などとは出てこなかった。
虎御前は江戸時代の浮世絵の人気を集めた人物
化粧坂一里塚
日本橋から16里。16番目の一里塚。ここは緩やかな坂になっており、化粧坂と呼ばれている。先程の化粧井戸と関係があるのかと思っていたが、この化粧坂の由来は不明だそうだ。日本各地に化粧坂なるものがあり、そのいわれについては色々な説がある。化粧した遊女がいた地域を指しているとも言い、敵将の首の化粧をした所との説、生贄の若い女性が最後の化粧をした場所、鎌倉や国府などに入る前に身だしなみを整えた (”けわい“と言われていた) 場所とも色々な説があった。
大磯宿 江戸見附
ここが大磯の宿場の入口。ここが安藤広重の浮世絵の場所だそうだ。浮世絵には雨が描かれている。これを「虎が雨」という。曾我十郎の死を聞いた虎御前の涙のことで、浮世絵の雨がそれだという。広重のロマンチックな一面が表れている。
日枝神社
由緒や創建時期などは不明。現在の社殿が安政五年 (1858) に再建されたと伝わっている。境内にはいくつもの庚申塚がまとめて建てられている。多分この界隈にあった庚申塚を移してきているのだろう。
大磯宿の中心地に近くなってきて、史跡も多くなる。
虎御石
ここにも虎御前所縁の史跡がある。虎女の生石とも言われる虎御石。この石にまつわる伝説が書かれていた。山下の長者が子宝が授かる様弁財天に願をかけ、ある日枕元に石が置かれており、無事に女の子を授かった。その子が虎女で、虎女が成長するにつれ、この石もどんどん大きくなったという。この虎御石は 「十郎の身代り石」 とも言われ、曽我十郎が 仇討相手の工藤祐経に襲われた時、矢ははね返され、 太刀で切りつけられたが、刃がたたない。切りつけた相手は大きな石であった。その石には矢きずのくぼみと刀きずが付いていた。この伝承から、この石には安産、厄除け、大願成就のご利益があるとされている。また、江戸時代にはこの石は大磯の名物の一つで、美男子しかこの石を持ち上げられない色好みの石と言われたそうだ。この虎御石は延台寺に保管されている。延台寺は曾我十郎が仇討ちを果たし、討死した後、虎御前が出家して開いた寺。
江戸時代の浮世絵に虎御石が出ている。今ではこの石が大磯のゆるキャラで使われている。
延台寺には虎女供養塔、虎池弁財天の碑、虎御前祈願の龍神、大磯宿遊女の墓などがあった。
曾我物語は江戸時代には庶民には人気があった。多くの浮世絵に描かれている。
大磯宿 北組問屋場跡
大磯宿の問屋場は北本町、南本町に一カ所ずつあり、地福寺の門前通りを境として北組と南組に分かれていた。それぞれに問屋年寄1人、帳付4人、人足指2人、馬指2人が置かれ交互に役を勤めていた。案内板の英語が変だ。Wholesale Store となっている。この間違いに気がついているのだろうか? 問屋 (とんや) はこれで良いのだが、宿場にあったのは問屋場 (といやば) で卸売の店ではなく人馬の継立、助郷賦課などの業務を行うところで、Forwarding Agency と Staffing Agency の機能を兼ね備えたOffice とした方が正確と思う。
大磯宿 小島本陣跡
大磯宿には尾上・小島・石井の3つの本陣があった。小島本陣は間口30m、奥行48m、建坪246坪で大磯宿最大であった。天保7 (1836) 年の大火で他の本陣とともに消失したが、再建し明治まで続いた。
大磯宿 尾上本陣跡
本陣三つのうち、明治まで続いた二つのうちの一つ。石井本陣はこの尾上本陣の斜め向かいにあったが、天保7 (1836) 年の大火で消失し、再建されなかった。
大磯宿 南組問屋場跡
もう一つの問屋場跡
新島襄終焉の地碑 (百足屋跡)
明治時代には、この問屋場の所に百足屋 (むかでや) という旅館があった。新島襄は明治22 (1889) 年11月に病に倒れ、病気療養の為に12月28日からこの旅館に宿泊をしていたが、翌年1月23日に46歳11ケ月の生涯を終えた。この地に来て、1ヶ月足らずで亡くなっている。この場所に新島の愛弟子の徳富蘇峰の筆による碑が建っている。
照ヶ崎海岸
海水浴発祥の地と標識があった。湘南の海は見たい所なので、昼食には良い場所と思い、海岸まで行ってみた。やはりサーファーが沖に出ていた。サーファーは冬でも海に入る。この寒い中、よほどサーフィンが好きなんだろう。この海水浴場は潮湯治、医療の目的で1885年に松本順により開設された。病気の療養に多くの人が来たそうで、先程触れた新島襄もその一人だった。
海岸の入り口には湘南発祥の地碑がある。
鴫立庵 (しぎたつあん)
鴫立庵は寛文4年 (1664年) に建てられた西行法師ゆかりの俳諧道場で、京都の落柿舎、滋賀の無名庵と並び、日本三大俳諧道場の一つとされる。
江戸時代の浮世絵にも描かれている。
旧島崎藤村邸
町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家。この一室の茶室風に作られた小座敷で、藤村はこの部屋で大作『東方の門』を執筆もほぼ終わりに近くなった時、昭和18年8月22日0時35分に大磯のこの地で永眠、東方の門は未完となった。藤村がここに住んだのは二年余りだが、ここを気に入っていたという。最後まで自分が求める事をして、その途中で死ねるとは、羨ましい人生の終わりだ。ここにはガイドさんがいて、島崎藤村について、説明をしてくれた。藤村の生まれは信州木曽の馬籠村と聞き、中山道を旅した時の馬籠宿を思い出した。藤村は馬籠村には7歳までしか過ごしていなかったが、彼の中にあの馬籠村の記憶がずっと残っていたと思う。幼少期を過ごした所の記憶は不思議といつまでも残っている物だ。
庭や書斎には藤村をテーマとした現代アートが飾られている。島崎藤村が最後に残した言葉「涼しい風だね」をキューブで表現。未完の遺作「東方の門」の秩序の文章を記したペーパークラフト作品。
大磯宿 上方見附跡
京都側にある見附跡。ここは江戸見附と同じく、土居を互い違いの配している簡素な見附跡。
統監道
東海道大磯駅から滄浪閣 (そうろうかく) へ向かう途中に伊藤博文ゆかりの「統監道」と呼ばれている道がある。伊藤が大磯駅と別邸の滄浪閣の往来にこの道を通ったことから「統監道」と呼ばれるようになった。当時の大磯には、山縣有朋、西園寺公望、大隈重信等の政財界要人が別荘を構え、滄浪閣への来訪者も絶えなかった。1907年(明治40年)頃の大磯には、150戸以上の別荘が存在したと言う。
大磯から小田原を目指す。
切通し
血洗川に架かる切通し橋を渡ると、小磯城がある城山を切通しにしてそこを国道が走っている。
旧吉田茂邸
切通しを抜け下り道の途中に、吉田茂の邸宅が復元され公開されている。邸宅は切通しを挟んで両側にあったのだが、公開されているのは海岸側。吉田は昭和20年 (1945) より、この邸宅を本邸とし、晩年を過ごした。
広大な庭。
庭の海岸側は小高い丘になっており、ここから湘南の海が見える。吉田の銅像の近くに、何故か墓がいくつか建っている。邸宅建設時に残っていた墓を集めているのだろうか? 中には愛犬ポチの墓がある。吉田茂は大の犬好きだったそうで、ポチのほかにも何匹かの墓がこの邸宅内にあるそうだ。
西長院
先程通った切通橋を流れる血洗川の伝承の「切通しの身代り地蔵」が、東海道拡張工事の時に切通しの岩窟の中からここに移されて祀られている。
切通しの身代り地蔵の謂れは、後鳥羽天皇の時代に、梶原平景時の家臣の悪太郎義景がこの地蔵尊を信仰していた。1191年、鎌倉八幡宮に参拝する源頼朝の行列に突然襲いかかる集団があり敵味方入り乱れての大乱戦となり、悪太郎義景は敵方に加わったと間違えられて畠山重忠に討たれるのだが、悪太郎の身体には刀傷ひとつなく不思議に難を逃れた。地蔵尊の身体より血潮が流れ出し、あたかも刀剣の傷を受けたような痕がついていた。これは永年この地蔵尊を信仰していたおかげだと皆が語り合っていることが主君の耳に入り悪太郎は助命された。重忠はこの刀を「地蔵丸」と名付け家宝として今日に伝わっているとのことです。この後にも、この地蔵尊を深く信仰していた大住郡岡崎四郎の娘が首を討ち落とされたが、傷もなく家に帰宅。この話を聞いた村人達は驚いてこの地蔵尊を訪ねると、地蔵尊の首が落ちていた。このような霊験のあることにより人々は「身代り地蔵」と称して1689年に、お堂を建て建立し尊像安置の霊場とした。現在でも、交通事故や旅行中における不慮の事故から身を守るために参拝する人達が訪れている。
国府本郷の一里塚
日本橋から17里。17番目の一里塚。地名から想像するに、この近くに国府があったのだろうが、場所は不明だそうだ。
押切坂一里塚
国府本郷の一里塚から4kmひたすら走ると、次の一里塚跡に出会す。日本橋から18里。18番目の一里塚。
松屋本陣跡
本陣跡がある。大磯宿はもうとっくに過ぎ、小田原宿はまだ先だ。案内板を見て、分かった。大磯宿から、小田原宿までは約16kmと距離が長いので、ここに間の宿があったのだ。大名行列の休憩所として、松屋本陣が設けられていた。
茶屋旧道路傍の道祖神
本陣跡からは国道ではなく、丘を越える道が旧東海道だった。その坂を登り切った所に道祖神がある。
更にひたすら走る。
小八幡一里塚跡
先程から4キロ走ったのだろう。別の一里塚だ。この一里塚と言うシステムは自転車旅にも便利だ。大体の距離感が走っていながら分かる。日本橋から19里。19番目の一里塚。国道が走り、道路拡張で一里塚は残っていない。
(9) Odawara Shuju 小田原宿
小田原宿は東海道9番の宿場で大磯宿から4里 (15.7km) の距離本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠95軒、戸数1,542戸、人口5,404人。
酒匂川 (さかわがわ)
この酒匂川を渡ると小田原だ。江戸時代、この川には橋がなかった。旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。
安藤広重は東海道五拾三次の浮世絵小田原宿でこの酒匂川を幾つものバージョンで描いている。
新田義貞の首塚
新田義貞は好きな武将の一人。子供の頃は南北朝時代の話では、この新田義貞がヒーローとして描かれていたように思える。足利尊氏は悪役。子供は足利尊氏は大嫌いで、1番に新田義貞、2番が楠正成だった。と言うこともあり、ここに来たかった。ただ、新田義貞は、京都での戦いに敗れ、北陸に逃げながら戦って、越前で討死したと理解していたので、この様に遠く離れた小田原に首塚があるのは少し不思議であった。解説では、義貞の家臣の小田原城主 (大久保氏の先祖) の宇都宮泰藤が義貞の晒首を奪い返して、領国三河に往き、義貞の本国の上野国に首級を葬るため東海道を下った。この酒匂川の付近に達したとき、病となり、それ以上進めなくなり、やむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。新田義貞の首塚を調べると、日本に何ヶ所か首塚がある。これもよくある話だ。それだけ人気があったのだろう。
小田原宿に入る。東海道小田原宿の表示が出迎え。
江戸見附跡
ここから小田原宿が始まる。ここにあった見附はさすがに重要な小田原への入り口ということもあり、枡形になっており、真っ直ぐには宿場には入れないようになっていた。
小田原山王原一里塚
日本橋から20里の地点で、20番目の一里塚。
今日から二泊で小田原のゲストハウスに滞在予定。明日は小田原城と小田原市内観光。観光オフィスに行って情報を仕入れ、見たい所が増えれば、滞在を延ばすかも知れない。
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