Tokaido 東海道 05 (3/11/19) Hiratsuka Shuku 平塚宿

(6) Fujisawa Shuku 藤沢宿

  • 藤沢宿 蒔田本陣跡
  • 八王子社跡・弁慶塚〔弁慶の首塚〕
  • 常光寺
  • 妙善寺
  • 荘厳寺
  • 永勝寺
  • 伝 義経首洗井戸
  • 白旗神社
  • 真源寺
  • 京見附跡
  • おしゃれ地蔵
  • 大山道入り口
  • 四ツ谷一里塚跡
  • 二ツ家稲荷神社庚申供養塔
  • 上正寺
  • 牡丹餅立場 (牡丹餅茶屋) 跡碑
  • 茅ヶ崎松並木
  • 茅ヶ崎一里塚
  • 第六天神社 (茅ヶ崎)
  • 鶴嶺八幡宮
  • 旧相模川橋脚
  • 妙厳山信隆寺
  • 馬入の一里塚

(7) Hiratsuka Shuku 平塚宿

  • 番町皿屋敷 お菊塚
  • 平塚宿江戸見附跡
  • 平塚宿脇本陣跡
  • 平塚宿高札場跡
  • 平塚宿本陣旧跡
  • 春日神社 (平塚)
  • 平塚の塚
  • 平塚宿京方見附跡

今日は藤沢宿の残りの史跡を巡り、次の宿場町の平塚に向かう。午後から雨の予報。小雨の様なので決行。


藤沢宿 蒔田本陣跡

江戸時代初期は大久保町の堀内家が藤沢宿の本陣であったが、類焼のため坂戸町の蒔田家に移り、明治3年まで約120年間本陣を務めた。今はその名残は一切なく案内板があるのみ。藤沢宿には、本陣1軒、脇本陣2軒、旅篭46軒があった。


八王子社跡・弁慶塚〔弁慶の首塚〕

この後に行く常光寺の西側に八王子社跡があり、そこに弁慶塚がある。奥州平泉から、自害した源義経の首と武蔵坊弁慶の首が鎌倉の在の腰越に送られ、首実検がなされた。その夜の間に2つの首は寒川神社に飛んで来たという。このことを頼朝に伝えると、二人をこの神社に祀るよう下知し、義経を御祭神として白幡神社となった。弁慶の首は八王子社として祀られた。これは伝承なのだが、義経と弁慶に関わる伝説は各地に見られる。相当の人気者だ。


常光寺

創立は元亀三年 (1572) と言うから、約450年前の戦国時代。綺麗に庭が手入れされており、境内には、かながわの名木100選の推定樹齢300~400年と言われているカヤの巨木がある。庭を掃除していた住職と話した時に自慢していた。多くの人がこの巨木を触ってパワーをもらっていると言っていた。古い庚申供養塔が2基あった。350年前のもの。境内には昨日行ったお寺ほどでは無いが、可愛い置物がさりげなくあった。お寺は暗いイメージがあるが、綺麗な庭にこの様な物があると、明るく見える。


妙善寺

日蓮宗の寺で、創立は永正元年 (1504) で約500年前。先程訪れた本陣職を務めた蒔田家の墓がある。ここも綺麗に手入れされている。


荘厳寺 (しょうごんじ)

藤沢宿では最も古い寺で、創立は元暦元年 (1184) という。


永勝寺

創立は元禄四年 (1691)。境内には入った所には39基の飯盛女 (女給兼遊女) の墓が立ち並んでいる。彼女達が働いていた旅籠屋の主人 小松屋源蔵 が建てた墓。遊女の墓を建てるのは当時では異例の事だった。飯盛女は遊女に代わって出現した非公認の私娼で、旅籠屋1軒につき2人までしか置けないことになっていた。(であれば公認と同じではと思うのだが....) 全盛期で100人近い飯盛女が藤沢宿にいたらしい。飯盛女のほとんどは宿内や伊豆、遠江、駿河等の出身で、借金の返済などの為に働いていたと言う。


伝 義経首洗井戸

平泉から鎌倉に送られてきた義経の首は、首実検の後に片瀬の浜に捨てられ、白旗神社付近に漂着。里人が義経の首を取り上げ、この井戸で洗い清めたという。別の説もあり、前述の弁慶塚で触れたが、ここから夜間に首が目を見開いて亀の背に乗り飛んできたと言う。別の言い伝えは首実検に備えて化粧を施した場所とも言われている。


白旗神社

神社の創建時期は不明だが、鎌倉時代以前から寒川神社として寒川比古命を祀っていた。文治5年 (1189) に源義経と弁慶の首が奥州から鎌倉に送られ、そこで和田義盛・梶原景時によって首実検がなされて、伝承では、夜の間に二つの首は、白旗川を上り、この地に辿り着いたといわれている。このことを頼朝に伝えると、白旗が源氏の旗であったことから、白旗明神としてこの神社に祀るように命じられたのが、白旗神社に名を変えることになった。これが一般的な神社の由来なのだが、義経がこの神社に祀られたのが、宝治3年 (1249) で、首実検されてから60年後の事だ。頼朝は1199年に既に亡くなっており、頼朝の命令で義経を祀ったという事と符号しない。想像するに頼朝存命のうちは義経を祀る事は憚られ、頼朝の死後にほとぼりが覚めてから地元の住民が義経を祀ったのではと思う。
変わり種の狛犬。角のある狛犬までも...
義経と弁慶の人気は根強い。義経藤、弁慶藤、弁慶松、弁慶の力石などがあった。


真源寺

京からの旅人が藤沢宿への入り口の京見附を過ぎた所にある寺。立ち寄る人も多かっただろう。安永元年 (1772年) に空寂が今日、先に訪れた常光寺の末寺として開山。


京見附跡

ここで藤沢宿は終わる。
歌川広重の東海道五十三次之内 石薬師にこの見附が描かれている。


おしゃれ地蔵

この名前を見た時には、近年に観光スポットを開発したのかと思っていたが、ここは古くからある道祖神だった。昔からこの道祖神に願をかけ、その願いが叶うと道祖神に白粉を塗る習慣があったそうだ。今日は白粉と口紅で化粧がされていた。誰かの願いが叶った様だ。


大山道入り口

戸塚宿にも大山道入り口があった。
最初に見たときは、先に見た戸塚の大山道からここを経由して大山詣をするのかと思ったのだが、調べるといくつかのルートがある。ここはその一つの四ツ谷から入る田村通り大山道。考えてみれば、色々な方面から大山詣をするのだから、複数のルートがあるほうが自然だ。


四ツ谷一里塚跡

日本橋から13里で13番目の一里塚。塚は道路拡張で削り取られて、今は何もない。東海道は多くの部分が国道1号線になってしまい、一里塚は当時はその国道上の所にあった。


二ツ家稲荷神社庚申供養塔

東海道には庚申塔が多くある。それも三猿が一緒に刻まれている事が多い。庚申塔は中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔。沖縄を除く日本全国にあるが、関東に多くみられる。三猿はこの道教の庚申信仰とは何の関係も無いのだが、申は干支で猿なので、江戸時代初期の頃から猿を刻む様になったらしい。


ここら辺りから松並木が始まる


上正寺

この寺が保有する聖徳太子の幼児像が重要文化財になっているが、見る事は出来ない。聖徳太子が2歳の時に、東を向いて「南無仏」と唱えると、手の中から舎利(釈迦の遺骨)がこぼれたという話をモデルにしたもので、室町時代後期から、江戸時代初期頃の作と考えられている。


牡丹餅立場 (牡丹餅茶屋) 跡碑

藤沢宿 と平塚宿 の間には、四谷、牡丹餅、南湖、八幡の四つの立場 (宿場間の休憩所や茶屋の事) があり、ここの茶屋の牡丹餅が人気があったので、牡丹餅立場と呼ばれる様になった。


茅ヶ崎松並木

さすが茅ヶ崎、優雅な街並みになっており、当時からの松並木がよく似合う。


茅ヶ崎一里塚

日本橋から14里、14番目の一里塚。ここの一里塚は復元ではなく、当時から残っている。それも二つとも。東海道の一里塚は殆どが道路拡張工事の際に撤去されているので貴重な史跡。


第六天神社 (茅ヶ崎)

ここにも第六天神社がある。東海道を旅していた人々の道中安全の守護神として崇められていたので、多くの旅人がここに立ち寄ったであろう。鎌倉時代の創建とも考えられている。


東海道南湖左富士之碑

東海道では富士山はほとんどが右に見えるのだが街道の方向で左に見える橋がここと富士市吉原だ。珍しいと言う事で名所になっている。
晴れていればこの様に見えるそうだが、今日は生憎見えなかった。


鶴嶺八幡宮

相模国茅ヶ崎の総社。源氏が関東へ進出する際、創建した最初の氏社。長元3年 (1030年) 河内国を本拠とする源頼義が下総の乱鎮定の折り、京都にある石清水八幡宮を勧請したのが始まり。天喜3年後 (1055年) の前九年の役の際に源頼義が戦勝祈願し、後に勝利を収めると、康平6年 (1063年)、更に元八幡を建立。応徳2年 (1085年)、源頼義の嫡男である八幡太郎義家が領地を寄進、今の鶴嶺八幡宮を創建。この様に、源氏との関わりが深い神社だ。
境内には子授や女性病にご利益のある石、鳩のおみくじなどちょっと変わった物もある。
神木、樹齢何百年もの杉、夫婦杉などパワースポットもある。


旧相模川橋脚

鎌倉時代の建久9年 (1198) に源頼朝の重臣稲毛重成が亡き妻の供養のために架けた橋の橋脚で、大正12年 (1923) の関東大震災と翌年の余震によって、水田に橋杭が出現した珍しいケースで発見された。


妙厳山信隆寺 (しんりゅうじ)

寛永元年 (1624年) に、源義光 (新羅三郎義光) の後裔勝沼信就 (武田信就) が剃髪し信隆院日閑となり開基し創建。境内には日蓮ので像があるが、ここには古い日蓮の坐像があるそうだ。
相模川を渡る。


馬入の一里塚

日本橋から数えて15番目の塚。


番町皿屋敷 お菊塚

この番町皿屋敷の話は有名だが、子供の頃からよく行っていた姫路城にお菊井戸があった。てっきり播州の伝承と思っていたので、ここ墓に遭遇したのは驚き。調べると播州、番町いずれも伝説の域を出ないのだが、話が酷似している。江戸時代の番町皿屋敷の話は、姫路城の話から作られたと推測されている。この様に架空の人物であろう人の墓にしばしば遭遇する。どの様な経緯でこの様な墓が造られたのかは気になる。


(7) Hiratsuka Shuku 平塚宿

平塚宿は東海道7番の宿場で藤沢宿から 3.5里(13.7km) の距離。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒、戸数443戸、人口2,114人。


平塚宿江戸見附跡

ここから公に平塚宿が始まる。モニュメントとして見附が再現されている。


平塚宿脇本陣跡

脇本陣は本陣の補助的な役目を担い、本陣が満室で大名が泊まれない時はこちらを使用していた。平常時は一般の旅籠としての営業も許されていた。


平塚宿高札場跡

宿場には必ずある高札場跡。


平塚宿本陣旧跡

平塚宿の本陣は一つだけで、代々加藤七郎兵衛宅がその機能を果たしていた。現在は銀行になっている。


春日神社 (平塚)

平塚にも春日神社がある。春日神社は全国に約1,000社もあり、奈良の春日大社を総本社としている。創祀年代等不明なのだが、源頼朝が神馬を奉納したと伝わるので鎌倉、平安時代以前からあった様だ。


平塚の塚

一里塚かと思ったが、これはそうでは無かった。桓武天皇三世の孫、高見王の娘である平真砂子が都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で病いで亡くなった。土地の人々は遺体を里外れの松の大木の根元にに葬り、塚を築いて弔った。時を経てその塚は風化して平たくなり、これがこの地域が平塚と呼ばれるようになったとされる。別の説では平真砂子が桓武平氏の祖といわれる高望王の妹、平国香 (平氏嫡流、平清盛の祖)、平良将 (平将門の父)、平良文 (坂東八平氏の祖) 等の叔母に当たるので「平氏の姫の墓 (塚)」と呼ばれ、それが「平塚」となったとする。


平塚宿京方見附跡

平塚宿の西の出入口。言い伝えなどからここに復元されている。広重の東海道五十三次平塚宿の錦絵はこの付近からの眺めのものと思われる。
大正時代の写真。広重の浮世絵の時代とそう変わっていない。
これで今日の見学は終了。今晩は平塚駅前のインターネットカフェに泊まる。このインターネットカフェは便利で、予約不要で、入店からチェックアウトまでの時間で料金が決まる。カプセルホテルより安い。大体1500円から高くとも3000円で泊まれる。1.5畳ぐらいの個室に座椅子、毛布、パソコンとテレビがついている。最近はシャワーがついているところも増え、ドリンク無料で、店によっては朝食付の所もある。コインランドリーもついているところも出てきているので、旅人には重宝。その日の出発時に予定ルート上の何軒かをチェックして、その日の進み具合でインターネットカフェに飛び込むといった感じだ。だいたいは夜7時に入り、夕食、シャワー、インターネットでレポート編集し12時には就寝、朝6時に起床朝食、7時にチェックアウトし、その日が始まる。インターネットネットカフェがないところは、ドミトリーか民宿などを事前に探し、直前に予約して泊まる。雨が続く様だとドミトリー、民宿、ビジネスホテルに連泊することにしている。


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