Tokaido 東海道 04 (2/11/19) Fujisawa Shuku 藤沢宿
(5) Totsuka Shuku 戸塚宿
- 大山前不動
- 首洗井戸
- 鎌倉ハム倉庫
- 元舞橋
- 五太夫橋
- 宝蔵院
- 吉田一里塚跡
- 妙秀寺
- 清源寺
- 内田本陣跡
- 脇本陣跡
- 戸塚宿 澤邊本陣跡
- 高松寺
- 海藏院
- 八坂神社
- 冨塚八幡宮
- 戸塚宿 上方見附跡
- 第六天神社
- 大坂
- 大坂並木
- お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
- 原宿一里塚跡
- 浅間神社
- 諏訪神社
- 鉄砲宿
(6) Fujisawa Shuku 藤沢宿
- 藤沢遊行寺坂の一里塚跡
- 江戸見附
- 遊行寺
- 藤沢宿交流館
- 遊行寺橋
- 江ノ島弁財天道標
(5) Totsuka Shuku 戸塚宿 (続き)
戸塚宿は東海道5番の宿場で保土ヶ谷宿から 2里9町 (8.8km) の距離。本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠75軒、戸数613戸、人口2,906人。
大山前不動
大山講 (大山詣) が江戸時代には流行した。戸塚宿への東海道を江戸から見て右に入る道がある。不動坂の上。大山道入口。そこに大山前不動がある。
先週滞在した東京で両国橋に行ってみたのだが、両国橋の近くに石尊垢離場跡がある。神奈川県伊勢原市にある大山講の出発地点だそうだ。大山の頂上にある阿不利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があると言われ江戸中期、江戸っ子が白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけた。出発前に水垢離を取り、体を清めた場所がここ旧両国橋の南際であった。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流した。
首洗井戸
建武2年 (1335) 足利高氏の家来に殺された後醍醐天皇の王子の護良親王 (もりよししんのう) の首を、ゆかりのものが奪い、ここ柏尾の里まできて、清水で清め、四本の杭を打って祭壇として供養したと言われている。
鎌倉ハム倉庫
日本で最初にハムを製造した鎌倉ハム倉庫で明治28年に建造された。赤レンガ倉庫がハム製造工場だった。異人館の主人カーティスが製造したハムを主に横浜居留地の外国人向けに販売していた。現在もこの鎌倉ハム倉庫は貯蔵庫として使われている。
元舞橋
戸塚市は東海道の主要な橋には案内板を設置している。ただそこが東海道にある事を示しているだけで、説明は無い。東海道を歩いている人は多くいるので、この案内板は道に迷わなくて便利。各地域で東海道の紹介の仕方は千差万別で、力の入れ度合いが分かる。
五太夫橋
ここには説明がついていた。戦国時代の武将の名のついた橋。
宝蔵院
阿闍梨朝興法印が天文16年 (1547) に創建、東之峯光円寺と号していた。寛永年間に本堂を大日山附近より吉田町に移し、東峯山金剛寺宝蔵院と改号、幾度かの移転を経て、ここに昭和18年に移転してきた。時々、寺の場所が移転しているのを見るが、その際に檀家や墓はどうしているのだろうか? 近くならそれほど支障はないだろうが、遠方の場合はどうしているのだろう。
吉田一里塚跡
日本橋からは10里、10番目の一里塚。浮世絵に描かれた大橋のすぐ手前にこの一里塚はあったが、道路拡張工事で削られて消滅。案内板のみ。
妙秀寺
創建が1356年と、かなり歴史のある寺院。鎌倉の小町にある妙厳山本覚寺の末寺。開基は豊島氏一門の妙秀禅尼、開山は身立院日修 (しんしゅういんにっしゅう) 聖人。
清源寺
元和元年 (1615年) 清源院尼が開基となり小石川伝通院三世白誉を開山に迎えて創建した寺。清源院尼は徳川家康の側室の於万の方で本堂には葵の紋が描かれている。
内田本陣跡
戸塚宿には澤辺・内田の二軒の本陣があった。内田本陣跡は戸塚郵便局になっている。
脇本陣跡
戸塚宿には3軒の脇本陣があり、その内のひとつ。
戸塚宿 澤邊本陣跡
もう一つの本陣跡
高松寺
高松寺は、三浦氏の家臣高松三郎頼重が開基となり嘉禄2年 (1226) 創建。
海藏院
黄梅院二世方外が開山となり貞冶2年 (1363年) に創建、その後、澤邊河内守宣友が中興開基となった。境内は寺とは思えないぐらい綺麗にデザインされている。ここでは人形作りやヨガの教室を開いている。本堂など昔からのもの以外の建物などは洒落たデザイン。寺のイメージが変わる。他の寺からの批判もあるだろうが、これで良い様に思えた。写真左中は納骨堂でペットとも一緒に入れるそうだ。
様々なところに可愛い人形が飾ってある。これがあるだけでほっとする。
この寺は散骨型埋葬樹木葬を進めている。普通の埋葬よりこちらの方が良いかな。
八坂神社
戸塚郷の庄司内田兵庫源政親が元亀3年 (1572)創建。その後元禄3年 (1688) に内田佐衛門尉源政利が再興、明治初年社号を八坂社と改めた。狛犬の耳が妙に可愛い。
この神社には変わった祭りが続いている。お札まきと言って、町内男子拾名が女装し渋団扇を打ち、原始的踊をしつつ五色のお札を中天に撒く。
冨塚八幡宮
平安時代、前九年の役平定のため源頼義・義家が奥州へ向う途中、この地にて応神天皇と富属彦命の神託を蒙り、其の加護により戦功を立てる事が出来たのに感謝をして、延久4年 (1072) に社殿を造営したと伝わっている。相当古い神社だ。東北を旅した時にこの前九年の役のゆかりの地をまわった。ここにもそれがあったとは、ちょっとした驚きだった。
戸塚宿 上方見附跡
戸塚宿の京側の端だ。ここでは上方としている。京方見附や京口見附とも言われる。
第六天神社
第六天神社は、関東地方を中心としてその周辺に多く存在し、その内のひとつ。元々は神仏習合の時代に第六天魔王 (他化自在天) を祀る神社として創建されたが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代における第六代のオモダル・アヤカシコネ (面足命・惶根命) に祭神を変更している。第六天魔王 (他化自在天) は元々仏教側だからか?
大坂
第六天神社からダラダラ坂が始まる。大坂は、昔は一番坂、二番坂の二つの急な坂が並んだ道だったそうで、「佐野の馬、戸塚の坂で二度ころび」という江戸川柳があるぐらいだ。今は頂上を削り、下の方は土盛りをしてなだらかな坂にしたので、急坂からダラダラ坂に変わった。
大坂並木
松並木が暫く続く。
お軽勘平戸塚山中道行の場の碑
東京では赤穂浪士所縁ので史跡を巡ったばかりなので、ここにもう一つあったので特別に興味を引いた。最もこれを赤穂浪士所縁の地とは言えるかは疑問だが.... ここは仮名手本忠臣蔵の作り話の一場面。勘平のモデルは浅野長矩の刃傷事件を赤穂に伝えた使者のひとりの萱野三平重実で、仇討ちの計画が進行中に父から領主への仕官を勧められたので困り果て切腹した。芝居ではお軽との恋沙汰で道を誤った男として描かれている。少し気の毒だ。
原宿一里塚跡
11番目の一里塚で日本橋から46Km余りの地点
浅間神社
延宝2年 (1674) の創建で、戸塚宿字宮ヶ谷の鎮守だった。山道がかなり長い坂で丘陵地の上にある。ここで背負っていたはずのリュックサックが無い事に気がついた。暑いので半袖になった時に忘れて来た様だ。急いで来た道を引き返す。少々焦っている。財布が入っている。あった。中身は無事か?無事だった。日本はこんなに安全な所で良かった。旅行中、これで3回目。そのたびに気をつけないと思うが、時間が経つと忘れてやってしまう。
諏訪神社
創建年代等は不詳。かつてこの地が鉄砲の教練場であったのに因み、武神を勧請したと伝えられている。この後、鉄砲宿という所に出る。
鉄砲宿
この地名には逸話がある。森というお金持ちの家で、「おはん」という名の大蛇を飼っていたが、あまりに大食いなので、近くの池に捨てたところ、空腹のあまり「おはん」は池に映る旅人の影を飲みこむようになった。そして影を取られた人は数日のうちに命を落とすという噂が広まり、困りはてた村人が、鉄砲の名人に退治を頼み、名人が池に向かって「おはん」と呼びかけると、懐かしい森家から迎えが来たと思って大蛇が姿を現した。そこを狙って鉄砲が放たれ、大蛇は撃ち殺された。と言う話だ。先程訪れた諏訪神社は御神体が蛇だそうで、なんらかの関係があるのだろうか?
(6) Fujisawa Shuku 藤沢宿
藤沢宿は東海道6番の宿場で戸塚宿から 2里 (7.9km) の距離。本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠45軒、戸数919戸、人口4,089人。
慶長6年 (1601年) に東海道の宿場となる。後に戸塚宿、川崎宿が追加され東海道6番目の宿場となる。東海道五十三次整備以前から清浄光寺 (遊行寺) の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点。
藤沢遊行寺坂の一里塚跡
日本橋から12里、遊行寺の所に12番目の一里塚跡がある。
江戸見附
藤沢宿の江戸側の入口。遊行寺のところにある。案内板のみ。
遊行寺
時宗の総本山だけあって立派。藤沢はこの寺の門前町。観光客は連休にもかかわらず、ちらほら。中国人観光客を見かけなかった。と言うことはまだマイナーな観光地と言うことか? 戸塚には中国人を多く見かけたのだが。
時宗の開祖の一編上人。今回の旅でしばしばこの一編上人と出会うことになった。愛媛の岩屋寺、東北の平泉、神戸の真光寺、姫路の書写山、広島宮島の厳島神社などなど
遊行寺の上ので長生院には小栗判官と照手姫の墓がある。小栗判官と照手姫は伝説でフィクションの筈だが墓があるとは.... 小栗判官伝説は幾つもあり、これをどう見るか? 実在の人物か脚色されたフィクションか?
遊行寺橋
昔ながらの橋や建物で宿場町の雰囲気を出している。やっと宿場町らしいところに来た。今日はこの藤沢で泊まる。ここで東海道から外れ、江ノ島道を通って藤沢駅まで行く。
藤沢宿交流館
遊行寺橋の袂に藤沢宿交流館がある。ここも宿場町を演出している。建物も昔風で前には高札場を復元して盛り上げている。前は火除け地の広小路になっている。
江ノ島弁財天道標
川沿いを走る江ノ島道には道標があった、江ノ島まで十数ヶ所設置されていたそうだ。遊行橋の所に一つ、藤沢駅の方にもう一つあった。今回は東海道の街道沿いの史跡に限定しているので、これ以上は江ノ島方面には行かない。
3コメント
2019.11.09 04:25
2019.11.05 00:08
2019.11.04 23:53