東京 (19/12/20) 江戸城 (14) 外曲輪12門 / 外濠 (14) 大名屋敷 浜松町
外曲輪12門
- 桂坂、高輪海岸の石垣の石
- 洞坂
- 東禅寺
- 泉岳寺
- 芝口門 (日暮御門) / 高輪大木戸
- 薩摩藩島津家芝新馬場中屋敷 (セレスティンホテル)
- 薩摩藩島津家裏町町並蔵屋敷 (西郷南洲・勝海舟会見の地)
- 芝東照宮
- 旧台徳院霊廟惣門
- 芝大神宮 (飯倉神明宮)
今日は昼食を会社時代の部下達と約束しているので、文化財めぐりは午前中だけになる。朝早く出発してなるべく多く見てみたい。
桂坂、高輪海岸の石垣の石
東禅寺
泉岳寺
[中門] 1836 (天保7) 年に再建された門だが十分に古い。この外側には総門があたそうだが現在は残っていない。
[山門] この門も1832 (天保3) 年に再建されたもの。
[大石内蔵助像] 山門のところに大石内蔵助像が立っていた。大正10年に造られたものでもう100年近くになる。
[本堂] 第二次世界大戦で空襲にあい消失し、昭和28年に再建された。
[庫裏/受処]
[梵鐘・鐘楼堂] 現在の鐘は大正2年作られたもので、江戸の梵鐘は、なぜかウィーン国立民族博物館に所蔵されているそうだ。
[主税梅] 大石主税の切腹した松平隠岐守三田屋敷に植わっていた梅だそうだ。ここに移植されたといわれているが、いつそうしたのかに興味が沸く。
[瑤池梅、血染めの梅、血染めの石] 瑤池梅は義士の墓守をした堀部妙海法尼が瑤泉院から賜った鉢植えの梅を移植したもので、血染めの梅、血染めの石は浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石で、明治39年にここに移植されたそうだ。忠臣蔵の根強い人気を感じる。
[首洗い井戸] 赤穂義士が本懐成就後、吉良上野介の首級をこの井戸水で洗い、主君の墓前に供え報告したと伝わっている。
[義士墓入口の門] 浅野家の鉄砲州上屋敷 (現 聖路加病院) の裏門で、明治時代に移築された。
[大石家の墓 (左上)、天野屋利兵衛浮図碑 (右上)、浅野内匠頭長矩墓 (右下)、浅野内匠頭正室瑤泉院墓 (左下)] 赤穂浪士ドラマで必ず登場する天野屋利兵衛の供養碑なのだが、この天野屋利兵衛は架空の人物とされている。政府に対しての忠義という概念が重要視された明治時代に造られたもの。討ち入り移行、現在に至る300年間何回も忠臣蔵ブームが起こった。これ程までに人気が廃れない歴史の逸話は珍しい。
[赤穂義士墓地] 赤穂義士は1703年 (元禄16年) 2月4日に切腹した後、直ちにこの地に埋葬されている。泉岳寺の墓碑は48基ある。討ち入り直前に逃走した萱野三平の墓が追加されているから47+1となったのだ。 (東海道の藤沢宿にお軽勘平戸塚山中道行の場の碑があったのを思い出した) この墓地には幾度となく来たのだが、いつも墓参りの人が花を手向けて線香を捧げているのを見かける。今日も何人もそうしていた。
大石内蔵助良雄墓 (左上)、大石主税良金墓 (右上) は別格の扱いになっている。
義士の墓の中で寺坂吉右衛門の供養墓の銘が他の墓と異なっている。「刃」の代わりに「遂」となっている。他のものは名誉ある切腹で果てたのだが、寺坂吉右衛門は討ち入り直前に逃走したとされていた。実際は、討ち入りの詳細を関係者に伝えるために討ち入り後仲間たちと別れた。報告が終わり、討ち入り一年後に自首するも、面倒を恐れた幕府はお構いなしとなった。後に吉右衛門が討ち入り理参加していたとの文書が見つかり名誉を回復した。ようやく慶応四年・明治元年 (1868年) に寺坂吉右衛門の供養塔が建立された。この泉岳寺に近くの曹渓寺で寺男をしていたのは、46士の供養の為だったのかもしれない。
芝口門 (日暮御門) / 高輪大木戸
江戸時代初期に現在の田町駅の近くのここに高札場が設けられ、「札の辻」と呼ばれた。1616年 (元和2年) には、ここに「芝口門」が建てられ、江戸府内への出入口を簡易的な関所的役割も担う。海を隔てて房総の山々が望める景色の美しい場所だったそうだ。一日眺めても飽きないことから「日暮御門」とも呼ばれた。
下の浮世絵は左が札の辻で右は多分高輪大木戸を描いたもの。現存しているのは片方だけだが、この浮世絵に描かれているものと同じだ。ここに旧東海道が通っていたのだ。それも海岸沿いに東海道がのびていた。
薩摩藩島津家芝新馬場中屋敷 (セレスティンホテル)
江戸古地図には上屋敷となっている。これは、幸橋御門内上屋敷は手狭なために、かつては中屋敷であったこの屋敷を、上屋敷としてして使っていたことによる。この薩摩藩邸は、大河ドラマにもなった篤姫が江戸に来た時に住んでいた。斉彬や西郷隆盛もここで執務を行っていた。1867年 (慶応三年) 暮、幕府方の庄内藩らによって焼き討ちをかけられ焼失、それが戊辰戦争の引き金となった。屋敷が焼けてしまったので、篤姫は渋谷にあった別の屋敷に移ったそうだ。
江戸時代の屋敷の様子の古写真が残っている。
セレスティンホテルには「芝さつまの道」というパネルが展示されていた。
[薩摩藩島津家江戸屋敷: 幸橋御門内上屋敷、芝新馬場中屋敷、下高輪下屋敷、中渋谷下屋敷、芝新堀下屋敷、裏町町並蔵屋敷、下高輪村抱屋敷]
薩摩藩島津家裏町町並蔵屋敷 (西郷南洲・勝海舟会見の地)
東征軍の江戸城総攻撃を目前にひかえた1868年 (慶応4年) 3月14日、東征大総督府下参謀・西郷隆盛と、旧幕府徳川家陸軍総裁 勝海舟の会談が、田町のこの薩摩藩邸 (蔵屋敷) で行われた。新政府軍の江戸城総攻撃は、3月15日と予定されていた。その直前に、西郷隆盛と勝海舟の会談は2回にわたって行われ、一度目の予備会談は3月13日高輪の薩摩藩下屋敷で、二度目は翌14日の田町薩摩蔵屋敷で行われた(薩摩藩上屋敷は前年末に幕府側によって焼き討ちにされ焼失していた)。勝は、徳川家が降伏する条件を西郷に提示し、会談の結果、西郷は江戸総攻撃を中止、勝の案を京都に持ち帰って討議することとなった。そして4月4日には新政府側と徳川家の間で最終的な合意がなされ、4月11日に徳川慶喜は謹慎先の寛永寺を出て水戸へ出立し、江戸城は無血開城された。この蔵屋敷は江戸の古地図で見るように海に面していた。跡地は現在は三菱自動車工業本社ビルとなっており、道路沿いには会見の記念碑が設置されていたのだが、現在はビルの工事中で碑は別の場所で保管されており、元あった場所には写真で展示されていた。
[薩摩藩島津家江戸屋敷: 幸橋御門内上屋敷、芝新馬場中屋敷、下高輪下屋敷、中渋谷下屋敷、芝新堀下屋敷、裏町町並蔵屋敷、下高輪村抱屋敷]
筑後久留米藩有馬家の上屋敷跡地には三田国際ビル、三田高校、赤羽小学校、簡保事務センター、済生会中央病院、国際福祉大学三田病院が建っている。九州の旅の際に藩庁が置かれていた久留米城を訪れている。
当時を偲ぶ遺構などは一切残っていないのだが、江戸時代の浮世絵では当時ここにあった水天宮と物見櫓は観光名所であった。この地を描いた浮世絵にはすべてこの物見櫓が描かれている。よほどの名所だったのだろう。水天宮は藩邸内にあったため一般人の参拝が難しかったが、毎月5の日には一般開放されて、「情け有馬の水天宮」と呼ばれていた。古写真も残っていた。浮世絵に描かれた長屋塀が写っている。水天宮は1871年 (明治4年) 有馬家屋敷の移転とともに赤坂に遷座し、更に翌年、有馬家中屋敷のあった現在の日本橋蛎殻町に移転した。(後日水天宮を訪問)
この有馬家上屋敷には有馬猫騒動といわれる話がある。久留米藩主であった第八代藩主有馬頼貴の時代に、酒宴の席で犬に追われた子猫を助けた女中が殿様に気に入られ、側室となりお滝の方と名を改め寵愛を受けていた。同僚の岩波を中心とする女中から嫉妬されイジメを受けお滝の方は自殺をしてしまった。お滝の方に仕えていた女中が敵討ちをするが、返り討ちになりそうになった時に、可愛がっていた猫が怪獣に化けて現れ、岩波を喰い殺してしまった。その後も、猫は様々な悪さをしていた。そこで、藩士山村典膳と有馬家のお抱え力士小野川喜三郎が、上屋敷の火の見櫓にひそんでいる怪猫を退治した。たたりをおそれ、ここに猫塚を建てたとつたわっている。その猫塚が、赤羽小学校に残っている。
芝東照宮
明治以降の浮世絵と古写真があった。以前は門もあり、立派な塀で囲まれていたのだが、東京大空襲によって社殿が焼失してしまい。現在は本殿のみが再建されている。各地にある東照宮と比較しても少し寂しい感じだ。
旧台徳院霊廟惣門
江戸幕府二代将軍徳川秀忠の霊廟の惣門だった建物で、秀忠の院号が台徳院であったのでこの門がそう呼ばれていた。広大な敷地を持つ霊廟は、秀忠が死去した1632年 (寛永9年) に増上寺境内南側に建立されたのだが、東京大空襲で本殿 (写真右下) や奥院宝塔 (写真下中) など大部分が焼失し、この惣門 (写真左上) が戦火から免れた。他に勅額門、御成門、丁字門も残ったのだが、これらの門は所沢市の狭山不動寺へ移築されている。
門内の金剛力士像は元々のものではなく、川口市の西福寺にあったものを移設したもの。
芝大神宮 (飯倉神明宮)
武蔵国にあった伊勢神宮の御厨の飯倉御厨に創祀された神明社に起源を持つとされ、当初は飯倉山 (現港区芝公園) にあった。鎌倉時代には源頼朝をはじめ、東国武家から厚く崇敬され、その後、足利直義や太田道灌、北条氏直、そして豊臣秀吉や徳川家康も先勝祈願や寄進などを行っている。1598年 (慶長3年)、増上寺が芝大神宮 (飯倉神明宮) があった飯倉山 (現港区芝公園) へ移転することとなったため、現在地へ奉遷となった。以後、歴代将軍家の庇護を受け、社殿の造営・修復等は幕命により執行するとともに、幕府より種々の祈祷依頼があり、大名による参詣等諸侯からも崇敬を受けた。毎年9月11日から21日まで行われる芝大神宮の例大祭は11日も続くのでだらだら祭りといわれ、この周辺に広がっていた生姜畑で取れた生姜が賛同で売られていたので生姜祭ともいわれた。賑やかであった祭りの様子が浮世絵に描かれている。右下の浮世絵には生姜が売られている様子が見られる。
この神社は1876年 (明治9年) に焼失したため、翌10年に再建、1923年 (大正12年) の関東大震災により倒壊延焼、1927年 (昭和2年) に再建、1945年には東京大空襲により再度焼失、1947年 (昭和22年) に本殿再建、1964年には再造営という苦難の歴史を持っている。階段を上がったところにある狛犬は江戸時代から残っている。
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