Ride in Setouchi & San-in Day 58 (12/5/19) Tottori Castle Ruins 鳥取城跡

Tottori Castle Ruins 鳥取城跡
Nagata Shrine 長田神社

Tottori Castle Ruins 鳥取城跡

復元CG
天正8年 (1580年)に2回に渡り、秀吉の中国征伐の中で毛利の日本海側の伯耆での最大の攻防戦がこの鳥取城で行われた。
第1回目は天正8年 (1580年)5-6月で、定石通り、鳥取城を囲む毛利方支城を落とし、鳥取城を囲い込む。これで城主の山名豊国は降伏。しかし、この降伏に不満を持つ山名氏の家臣が豊国を追放し、毛利の山陰方面の責任者に吉川元春に支援を要請し、天正9年
 (1581年) 3月に石見国福光城主の吉川経家が鳥取城 城主として入城。冬まで持ちこたえ秀吉軍の疲弊を待つ籠城戦をとった。しかし、伯耆は青田刈りや不作で兵糧の確保に苦慮し、毛利方からの兵站に期待してのことだった。しかしもうこの時点では、秀吉は支城を落とし、鳥取城の近くの高山に本陣を敷き、総延長12キロの鳥取城包囲網を作り上げていた。陸路による補給路は完全に秀吉軍に抑えられ、日本海からのルートしか残っていなかったが、これも因幡沿岸の制海権も秀吉が握り兵站補給は非常に困難な状況であった。10月には城内にいた兵士や民衆4000人の兵糧は底をつき悲惨な状態に陥り、経家は城兵の助命と引き換えに10月25日に自刃して果て、合戦が終結となった。
鳥取城は幅25mの内堀に囲まれて山から放射状に城が形成されている。内堀から城へは3ヶ所の橋を渡って入る。北から北ノ御門、中ノ御門、南ノ御門がある。
北ノ御門
中ノ御門
ここに復元プロジェクトが進行中。まずは1年前に写真で見えている擬宝珠橋(ぎぼしばし)が復元された。木造で26mの橋。
南ノ御門 現在は残っておらずこの近辺にあった。
吉川経家像
この豊臣秀吉の城攻めで鳥取城での籠城戦の末、ここで自刃。入城し7ヶ月、そのうち4ヶ月に渡る籠城で食料が尽き、援軍も間に合わず、城兵の助命に為、自ら自決した。城主では無いのだが、鳥取では一番人気だ。他の城主の銅像は見当たらない。水野氏の藩主の銅像もない。
これを見て思い出したのだが、吉川経家の居城の不言城を思い出した。浜田から出雲への移動の際に城跡があった。
大手門
擬宝珠橋を渡ると大手門にあたる。ここを復元すべく石垣の補強と欠けていた部分を再建中。後2年で完成予定。
大手門からほぼ一直線に三の丸と二の丸に登城道があった。ここも修復中。
太鼓門
三の丸への入り口でここも復元予定、櫓と門が造られる予定。
復元後はこの様になる予定。この復元の話は20年も前から出ていたが、まずは経済的な問題と、その費用対効果に疑問があった。議論ばかりで前に進まなかった。しかし、市民は砂丘以外これといった観光地がない。鳥取城は貴重な史跡で観光にはもってこいとの意見が強く、やっと計画立案に着手した。その時には文化庁の復元許可の条件が厳しくなっており、遺跡調査や昔の写真や絵図面等で、提案している復元図が過去の姿と同じであるという証明の調査資料が必要だった。この調査とレポート作りに何年もかけ、ようやく実行となった。市民の間では、時間がかかりすぎとの批判も出たが今は完成を心待ちにしている。
内堀を入ったところは、大きな広場になっており、昔は馬場や倉庫があった。
三の丸
現在は鳥取西高等学校になっている。校舎は石垣の上に建てられていた。グラウンドは本は籾蔵だった。
二の丸に行く道は石垣で囲まれており、二の丸から下に何段か曲輪になっている。(写真左の階段を上がった所)

階段ではなく登城道を登ると右に天球丸、左に二の丸がある。
天球丸
天球丸のすぐ下は小姓達の詰所があった場所。石垣が面白い形をしているのは、石垣の崩れを防ぐために補強で施したもの。巻石垣と呼ばれている。
上の天球丸から見たところ
天球丸は三層の櫓があったが消失。幕末は武芸場や蔵があった。
ここから山上の本丸への登り口がある。
表御門
二の丸へは表御門を通ってはいる。ちょうど天球丸と反対側にある。
菱櫓
表御門にある櫓。2層の櫓があった。
二の丸
二の丸には3層の櫓があったが、平時、その後本丸が消失した後は、この櫓が本丸の役割をしていた。二の丸には御殿があり、城主の生活の場でもあった。
二の丸へ登城道はもう一つあり、北ノ御門からがある。
門をくぐり上がると登り石垣がある。珍しい松山城と彦根城で見ただけ。ここのはかなり急な登り石垣だ。敵が入ってこないように斜面にも石垣を築いている訳だ。
二の丸の山側の斜面には石垣の採石場跡がある。石垣を自給自足していた。多くの城は遠方から運んで来ていることを考えると非常に都合が良かっただろう。
本丸
本丸は久松山の山頂にある。標高260m。先ほどの天球丸のところの登り口から登っていく。ほぼ全行程は石の階段で急な所も多くある。実は先ずはこの久松山の本丸を登り、それから下の三の丸や二の丸をボランティアガイドさんと回った。ガイドの時間が決まっており、次は1時間10分後で、ガイドさんから先ず本丸に登ってからでいいでしょうと言われた。260mを1時間で往復はきついとは思いながらも、それで行く事にした。登り25分昼食20分、下山20分でこなした。汗だくになった。
この山道はほとんどが石の階段。所々きついところがあるが、難所と言うほどでは無い。とにかく時間が限られているので急いで登る。
久松山の本丸に到着。北東に豊富秀吉が鳥取城攻めのために本陣(太閤ケ平)を構えた山が見える。それほどの距離では無い。当時の様子はわからないが、林などで隠れていなければ、お互いの状況が見えた事だろう。吉川経家はこの山に3-4ヶ月籠城し、力尽きた。水は花崗岩の表面に溜まる水を飲んだそうだ。食料は追加補給は秀吉軍に完全に囲まれてしまい不可能だった。話では人の肉まで食したという。最後は悲惨だった。秀吉は正攻法の武力による攻撃より、長期戦で相手が疲弊する戦法を好んだようだが、この攻め方の方が残酷な方法かもしれない。
秀吉が陣を構えた太閤ケ平まではここから尾根伝いに山道があるのだが3キロほどある。明日、太閤ケ平に行くのだが、この道ではなく、麓から登る予定。
本丸の天守台から眺めは最高で、鳥取市内はもちろん、日本海側は鳥取砂丘も見える。快晴の時は隠岐まで見えるそうだが、今日は残念ながらそこまでは見えなかった。
なんとか約束時間ギリギリで下山し、ガイドさんと1時間半ぐらい城を歩く。その様子は前述の通り。鳥取市の観光の状況について聞くと、鳥取市は大火と空襲で殆どが焼けてしまい。武家屋敷や城下町など史跡は残っていない。鳥取砂丘と鳥取城が主要な観光地だ。鳥取砂丘にしても、砂丘だけに観光客数は一時境港に抜かれるかと言った状況だった。(参考に鳥取県の観光客数の資料を載せておく)
鳥取城復元プロジェクトが終わると、やっと鳥取城に石垣以外のものが見せられるようになる。観光客が増える事を期待している。
鳥取県の観光事情を調べていて、面白い記事に出くわした。なんと外国からの観光客が訪れたい所調査で鳥取が一番になっていた。(故郷の小豆島が4位にあったのは嬉しい)
終わると、まだ時間がある。内堀内にある県立博物館を見学する事にした。その時の説明は別途。
ガイドさんと回っているときは話に集中する為に写真はなるべく取らない事にしている。博物館見学が終わり、もう一度聞いた話を思い出しながら城を回る。この紀行文もこの2回目を歩きながら書いている。

Nagata Shrine 長田神社

1545年に山名誠通が久松山に築城した際にここに神社を奉還した。以後、鳥取城主 (山名、吉川、宮部、池田)の崇敬社となる。現存しているのは1741年に池田宗泰により造営されたもの。
明日はこの鳥取城を攻めた豊臣秀吉の本陣があった太閤ケ平に行く予定。


2コメント

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  • Kazu Saeki

    2019.05.15 23:40

    自然が豊富にあると言う事らしい。ただ外人観光客は一度しか来ないだろうし、比較的表面上の回答かも知れない。あまり参考にならないだろう。ただ土肥さんの言うように何が魅力なのかは行政は深掘りして次の手を考える必要がある。行政の対応が課題
  • sumito dohi

    2019.05.15 23:34

    なぜ鳥取??見ました。「Top 10 Japan Travel Destinations」熊本なんて2018年も2019年も、かすりもしてません。。。沖縄、北海道が皆無(沖縄は2017年に7位)。選考基準を知りたいですね~(半分自棄)しかしインバウンドにおける新しい基準値を知り得たのは有難いです。