Ride in Setouchi & San-in Day 59 (13/5/19) Taikoganaru Fort Ruins 太閤ヶ平陣跡
Minoura Family ResidenceGate 箕浦家武家門
Taikoganaru Fort Ruins 太閤ヶ平陣跡
Tottori Toshogu Shrine 鳥取東照宮
Grave Yard of Ikeda Family 池田家墓所
Inaba Regiobal Gavernment House Ruins 因幡国府跡
昨日見学した鳥取城攻めの本陣が置かれた太閤ヶ平陣跡に登る。
Minoura Family ResidenceGate 箕浦家武家門
向かう途中、市内の中心地に江戸時代の遺構がある。武家屋敷の門。昨日、案内をしてくれたガイドさんからきいたのだが、鳥取は昭和18年に鳥取大地震、第二次世界大戦の空襲、昭和27年の鳥取大火災で、歴史的史跡はほとんどなくなってしまった。残った数少ない史跡のひとつ。
鳥取城の内堀のすぐ前にある。この地域は鳥取藩の重臣が屋敷を持っていた所。それぞれが広大な敷地で、廃藩置県が実施された時、この広大な敷地跡には県庁など公共機関が建てられた。それ以降、行政が整っていくにつれ建て替えが行われ、昔の家屋は亡くなったという。この10名もの永代家老は他藩に比べてかなり多い。美濃の池田恒興が織田信長に使えていた時代からの古参や池田氏の外戚などである。江戸時代も町割図にはこの内堀のすぐ外にはこの古参家臣が屋敷を構えている。中でも大きいのは荒尾但馬家(伯耆米子領1万5000石・藩主外戚)、荒尾志摩家(伯耆倉吉領1万2000石・藩主外戚)でそのほかの家臣が3000石が最大なので突出している。米子と倉吉も訪問したがこの荒尾氏は市の歴史には重要人物と使われている。
鳥取藩の特徴は自分手政治と呼ばれる統治方法がある。家臣にその地域の自治権を与えている。下の図は県立博物館にあったのだが、自分手せいじを任されたのは重臣10名の中から選ばれている。何故この様な制度になりそれが明治維新まで続いた。後日やまびこ館の研究員に尋ねたが、未だこれは研究課題ではっきりは分からないと言っていた。米子、倉吉などは鳥取藩で重要なところでここに自治権を与えるとはよっぽど信頼関係が出来ていたか、藩主が古参重臣に頭が上がらなかったからか?個人的には両方だと思う。この後、訪問した池田家墓所でわかったのは多くの藩主が幼少で藩主になり早逝している。家臣団がしっかりしないと成り立たない状況だったと思われる。
Taikoganaru Fort Ruins 太閤ヶ平陣跡
鳥取城のある久松山(きゅうしょうざん)から谷を挟んだところにある本陣山山頂に築かれた秀吉の本陣。鳥取城とは1.4kmと非常に近い。毛利勢が守る鳥取城を織田勢として秀吉が指揮をしていた。
この鳥取城攻防は二度に渡って行われた。一度目は大内がすんなりと興奮したが、それに不満を持った家臣が毛利と連携して反旗をあげた。この時に毛利から派遣されたのが吉川経家だ。第二次鳥取城攻め。この時の本陣にいく。
本陣山山頂には無線鉄塔が立っており、そこへの道が舗装されて自動車が通れるようになっている。ただ無線局のメンテナンス道路で一般車両やバイク/自転車の通行はできない。自動車道できつい坂はなく、約4キロ近くの長さがある。多くの地元住民 (高齢者ばかりだが)朝の散歩をしている。散歩にしては往復7-8キロで、散歩というより健康維持のウォーキングトレーニングなのだろう。それにしても多くの人が行き交っている。観光客は見当たらない。ショートカットの未舗装で急坂の山道もあるのだが、この時点では知らずこの楽な舗装道で登る。帰りは急坂の山道で下ったが、流石に誰ともすれ違わなかった。
本陣跡は土塁がはっきりとわかるぐらいに保存状態は良い。かなり大きな本陣跡だ。ここで秀吉が采配を取った。本陣からは鳥取城の久松山の本丸がはっきりと見える。当時も状況が
よく見えただろう。
鳥取城攻めは兵糧攻めで行われた。毛利の援軍と鳥取城との連絡や兵站線を遮断する為、鳥取城の周りに多くの織田勢が布陣をしていた。籠城は3〜4ヶ月に及び経家の切腹で幕を閉じた。いつも思うのだがこの兵糧攻めほど残酷なものはない。
Tottori Toshogu Shrine 鳥取東照宮
江戸時代の創建より因幡東照宮と称されていたが神仏分離令で、明治7年から平成23年までは樗谿神社(おうちだにじんじゃ)となった。祭神は、主神として東照大権現を祀り、配神として池田忠継・忠雄・光仲・慶徳を合祀する。
神社の前は公園になっている。幼稚園児が先生と一緒に梅を拾っていた。梅ジャムにすると言っていた。ここで面白い看板。表現に笑ってしまった。普通は散歩禁止となるのだろうが.....
Grave Yard of Ikeda Family 池田家墓所
初代から11代までの墓がある。庭園の中にあるようで、墓も立派なものばかり。それぞれの藩主に没年齢が記載された札が立っている。少し異常な感じがする。何故、これほど若く逝ってしまった藩主が多いのか、初代から3代までは50-60代、4代-6代は30代、7代は21才、8代で40代と持ち直したが、9代で20代に逆戻り、10代-11代は17才。何が原因か気になる。おそらく4代以降は藩主が政治をしていた訳ではなく、家臣団が仕切っていたのだろう。自分自政治はひょっとして藩主が機能しないから、重臣が都合よく半自治権を持てる制度にしてしまったのかも知れない。鳥取城のガイドさんに説明を受けたがトップ3の家老の屋敷は内堀外すぐのところにあり、一つ一つがとんでもなく広大だった。
あと気になった事がもう一つ。12代藩主の慶徳の墓がここではなく、東京で埋葬されて平成15年に鳥取市の別のところに改葬されている。何故一人だけ外れたのかが疑問。(これはガイドさんに聞いたが分からなかった) 12代藩主の慶徳は廃藩後しばらくして東京に移ったので、家族の墓参りには東京の方が良かったのだろうが、鳥取に墓を移す時にここにしようとに話は出なかったのだろうか? そもそもこの墓所は誰の所有なのだろうか? 池田家が所有していたとは思うのだが。そうすればますます何故か? ネットで調べたが、そのような疑問自体でていない。
Inaba Regiobal Gavernment House Ruins 因幡国府跡
今まで訪れた国庁跡と比較的小さななもの。鳥取市中心部からそれほどの距離ではないのだが、田園風景で一面畑だらけ。
畑を耕作している跡をアオサギが付かず離れずで追いかけている。掘り起こした土から幼虫やミミズが目当てなのだろう。サギも地元の人が悪さをしないことを知っているのだろう。警戒心は無い。共存共栄の一つの例。
2コメント
2019.05.16 04:05
2019.05.16 03:27