東京 (25/09/20) 江戸城 (3) 外曲輪12門 / 外濠 (3) 大名屋敷 千石

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  • 加賀藩前田家駒込中屋敷
  • 姫路藩酒井家小石川村下屋敷
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沖縄から東京へ

7ヶ月ぶりに東京を訪問する。病院での定期検診と役所の事務関係の為だ。東京へは3−4ヶ月に一度はと行こうと思っていて、6月ごろに行く予定だったのだが、新型コロナ感染拡大のため、病院から8月への延期の依頼があり、そして8月は東京も沖縄も新型コロナの感染が再拡大し、1ヶ月遅らせて今回の東京訪問となった。実はこれがメインの訪問目的ではなく、今年2月から中断していた江戸城徹底探索の再開だ。江戸城は巨大城塞であったので、納得できるまで見るとなるとかなりの日数がかかるだろう。今後もこれが東京に来る理由になるだろう。
24日。いよいよ出発。アパートの前が那覇空港への高速バスの乗り場で、飛行場までは20分で着いた。チェックインカウンターに近づくと、出国便案内盤には赤く欠航便が表示されている。台風12 号の影響だ。嫌な予感。東京へは欠航との連絡はきていなかった。おそるおそるカウンターへ行くと飛ぶ予定との事で一安心。大阪方面は欠航、東京へは大丈夫のようだ。
今回の宿は千駄木にある格安ホテル。近くには谷中銀座があり、東京の下町の雰囲気が溢れている。いつもはゲストハウスを使うのだが、新型コロナ感染をできるだけ避けるために個室でキッチン付きのホテルが見つかった。値段もゲストハウスやインターネットカフェと同じぐらい。東京は観光客の減少で、通常よりも値段を安くしている様だ。
今日 (25日) は役所手続きを済ませたいので、朝一番で東京の土肥さん宅に保管してもらっている自転車を取りに行き、今年2月で終わった所から江戸城巡りを再開しようとしたが、雨が降っている。まずは雨の中、区役所に行き役所関係だけは済ませて、雨が止むのを待つとする。その間は図書館で、今回の江戸城巡りの資料関係を閲覧し、雨が止むのを待ったが、結局止まず、諦めて雨の中ホテルに帰る事にした。4時過ぎにホテル近くまで来てやっと雨が止んだ。日没まで、少ししか時間がないが、見れる所は行く事にした。結局この日 (25日) は殆ど予定していた所は訪問できず、残りは翌日とする。


加賀藩前田家駒込中屋敷跡

大和郡山藩柳沢家下屋敷跡 (六義園) に隣接してあったのが、加賀藩前田家中屋敷。今年の2月には加賀藩前田家上屋敷跡の東京大学で赤門を見たが、その前田家の中屋敷。ここも広い。上屋敷は10万4千坪、この中屋敷は2万坪、更に、板橋区にある下屋はなんと22万坪 (東京ドームの約15倍) もあり。江東区深川には2600坪の蔵屋敷を所有していたという。

元々は牛込に中屋敷として6万坪を拝領したが、明暦2年に上地となり、その代替地としてこの駒込に4万坪、本郷に2万坪を拝領。ただこの地の中屋敷は拝領屋敷ではなく、抱屋敷なので、この駒込に拝領した4万坪は藤堂和泉守邸になったったのでは?

今は住宅街になっており、当時の中屋敷の面影は無い。六義園の塀の外が加賀藩前田家中屋敷だ。大きな邸宅が並んでいる。裕福な人が住んでいるのだろう。

姫路藩酒井家小石川村下屋敷

今年2月に東大赤門のある加賀藩前田家上屋敷跡のすぐ側の西教寺の山門に移設された赤門は元々はこの酒井家下屋敷にあったもの。ここは特に興味深い物が残っているわけでは無いのだが、西教寺の山門があった場所として訪れた。
屋敷は現在の千石駅から京華女子中学校/高等学校のところまで伸び、広大な敷地の下屋敷であった。


一橋下屋敷 (千石緑地) 

元は一橋徳川家の下屋敷で樹林地であった場所。
江戸時代末期には、一橋刑部卿慶喜の抱え地で、この千石緑地辺りから一行院の東に回り酒井雅楽頭下屋敷に接し、今の白山通りに沿って寂園寺の向こうまで2万坪もあった。明治時代に東京市に寄付され今に至っている。下屋敷跡は殆どが住宅街になっており、千石緑地として残っている樹林地は今ではごく僅かで、少し寂しい感じだ。
今地域は明治時代は林町と呼ばれていたそうで、その歴史を記した案内板があった。樹林地だったからか林大学の屋敷があったからとかの説があるそうだ。
今日はこれで日没。雨が止んだのは最後の30分だけだったので、3つしか訪問できなかった。明日は晴れれば良いのだが.....

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