東京 (26/09/20) 江戸城 (4) 外曲輪12門 / 外濠 (4) 大名屋敷 駒込

  • 秋田藩佐竹家下屋敷 (道灌山、向陵稲荷社)
  • 与楽寺
  • 谷田川/田端不動尊
  • 旗本本郷丹後守下屋敷跡
  • 大和郡山藩柳沢家下屋敷跡 (六義園)
  • 津藩藤堂家染井下屋敷 (旧丹波家裏門)
  • 駒込富士神社
  • 旧安田楠雄邸

今日26日も一日中雨。昨夜の天気予報は曇りだったのだが、朝確認すると昼過ぎ迄雨に変わっていた。今日は自転車ではなく、徒歩にて昨日見れなかった近くの史跡巡りとする。

秋田藩佐竹家下屋敷 (道灌山、向陵稲荷社)

西日暮里駅の南側には秋田藩の下屋敷跡がある。この場所は道灌山と呼ばれており、太田道灌が築いた江戸城の出城があった場所。道灌山の「道灌」は太田道灌から来ているのではなく、この地に住んでいた関道閑が道灌にいつとなく変わったと言われている。道灌山通りを挟んで、二つの丘に城は築かれていた。どちらも道灌山と呼ばれている。元々二つの丘に分かれていたのか、道灌山通りを通す時に工事で別れたのか? まずは南側の道灌山。
    北側の道灌山にあった秋田藩の佐竹氏は、上屋敷、中屋敷、下屋敷以外にも、独自で購入した抱屋敷も持っていた。上屋敷は藩主とその家族の住居。中屋敷は隠居した藩主の住居や上屋敷が火事の際の避難所の役割。下屋敷は物資の保管場所であった。参照した本と江戸の古地図にはここが秋田藩佐竹家の下屋敷となっていたが、別の情報では墨田区にある浩養園跡が下屋敷となっていた。屋敷は幾たびか引越しをしているので、どの時代の地図かによって異なるのかもしれない。大名屋敷としては随分と端にあり、江戸時代の地図では周りは空き地が多い。
    屋敷跡は開成中学/高校になっている。丘の斜面に校舎があり、丘の上には広いグラウンドになっている。今日は土曜日だが、教室には電気が灯り、授業をしている。さすが一流進学校だ。
    道灌山の北の端は坂になっている。ここが城跡と下屋敷の終点。
    丘の北側は崖になっており、下には山手線/京浜東北線が走っている。この京浜東北線は江戸時代には音無川という川であった。ここにあった道灌山の城の防御線であった事が分かる。
    この屋敷跡地には向陵稲荷社がある。江戸時代初期に佐竹右京太夫屋敷の邸内鎮守として創建され、大正の初期にここに移転したとある。祠を守っている狐と共に猫も....
    もう2年も前になるが、秋田藩の藩庁があった久保田城にも訪問した。居城が久保田城だったので、佐竹氏秋田藩は久保田藩とも呼ばれていた。秋田城もあるのだが、こちらは奈良時代に造られた蝦夷の監視の城柵で、佐竹氏とは関係がない。その詳細は「Tohoku Hokuriku 東北北陸の旅 46 日本海沿岸 (29/10/18) 久保田城/秋田城」に載せている。

    与楽寺

    秋田藩佐竹家下屋敷に隣接していた寺院。寺伝によれば弘法大師によって創建されたというので、かなり古い寺だ。秋田藩佐竹家と何か関わりがあったのかと思い調べたが、それらしき事は出てこなかった。

    谷田川/田端不動尊

    駒込方面に向かう。通った道は谷田川通りという。名が表しているように、この道路は川を埋め立て、道路としている。暗渠にもなっておらず、完全に埋め立てたみたいだ。
    この谷田川沿いに不動尊が立っている。田端不動尊。元々田端駅付近にあったのだが、明治45年 (1912) に、駅の工事で移転、更に昭和10年 (1935) に谷田川の改修工事で現在位置に再移転したもの。

    旗本本郷丹後守下屋敷跡

    駒込駅に近づいてきた。六義園から北東のすぐのところには、江戸時代後期以降旗本・御家人の屋敷地があった。旗本は一般的には江戸城から一番離れた所に土地を与えられていた。ここも江戸時代には周りは空き地がひろがっていたので、当時は江戸の端だったのだろう。現在は住宅街になり、小さな公園があるのみ。明治時代には、木戸孝允 (桂小五郎) がこの地を購入し別邸としていたそうだ。
    屋敷跡に建てられているマンションの入り口に2基の石碑がある。旗本本郷氏が1795年 (寛政7年) に「鹿碑」と、1849年 (嘉永2年) に「瘞賜豬碑」を造立したとある。鹿碑には、将軍が行なった鹿狩に本郷氏が側近として同行し、その際将軍から獲物を可賜されたことなどが刻まれている。


    大和郡山藩柳沢家下屋敷跡 (六義園)

    徳川5代将軍 徳川綱吉の側用人の柳沢吉保の下屋敷が六義園として残っている。

    この下屋敷は1695年 (元禄8年) に旧加賀藩下屋敷跡地を綱吉から拝領し、7年の歳月をかけて回遊式築山泉水庭園を造園した。この庭園は今は六義園 (りくぎえん) と呼ばれているが、当初は六義館 (むくさのたち) と命名された。(上の写真右下が六義館が建っていた場所) 将軍綱吉はここには58回も頻繁に訪れている様に、この二人はかなり親密な関係だった。徳川綱吉が館林藩主だった時に家臣の立場であったので、何十年もの関係だ。六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用され、明治になり岩崎弥太郎が六義園を購入し、庭園を整備している。1938年 (昭和13年) に東京市に寄贈され、以後一般公開されている。
    六義園は紀伊 (和歌山) の88の名勝をイメージして造られている。
    園内では六義園のどの場所が紀伊のどの名勝を再現したのかの案内板もあった。江戸時代には流石に案内板は無かったのだが、その場所には石柱で表示してあった。現在は88の石柱は残っておらず30ほどあるそうだ。
    宝暦年間 (1751~1764年) に描かれた「六義園全図」の一部。右下に「六義館」が描かれている。

    津藩藤堂家染井下屋敷

    大和郡山藩柳沢家下屋敷跡 (六義園) に隣接している大名屋敷がもう一つある。津藩藤堂家染井下屋敷だ。先に触れたが、元々は加賀藩前田家中屋敷の一部だった場所ではないかと思う。今年の2月には津藩藤堂家柳原上屋敷跡と津藩藤堂家下谷中屋敷跡を訪れたのでこれで3つ目。

    ここを拝領した経緯は、1622年 (元和8年) に藤堂家の上野にあった上屋敷を寛永寺用地として献上し、その代替地として1658年 (万治元年) に幕府から高虎に下賜されたもの。明暦の大火の際は、この下屋敷に避難し、一時期はここが実質上の上屋敷として機能していた。この屋敷に隣接した所には、藤堂家と関係が深かった植木屋の丹羽家があり、そこには下屋敷の裏門が移設され残っている。何故植木屋が登場するのかと言うと、この地域には、この津藩藤堂家染井下屋敷、六義園 (大和郡山藩柳沢家下屋敷)、加賀藩前田家中屋敷など本格的庭園を備えた大名屋敷があり、その手入れを行う需要があり、江戸時代に植木の技術改良が行われて、植木職人では一流の集団がこの地に多くいたそうだ。

    初めて知ったのだが、ソメイヨシノはこの染井の地域で品種改良が行われたとある。染井通りと言う名の通りがあり、至る所に染井吉野にちなんだ名の店や商品があった。
    江戸時代にこの屋敷内にあったいくつかの石像が、板橋赤塚にある東京大仏で有名な乗蓮寺に移設され残っている。これは藤堂高虎が慶長の役で朝鮮から持ち帰ったと伝わっている。この寺には以前訪れたが、この石像の事は知らなかった。

    駒込富士神社

    今日は歩きでの史跡見学で、もうそろそろ帰路に着かないと日が暮れる。千駄木に向けて帰る事にした。その道の途中に駒込富士神社があった。以前からいくつかの富士山に関わる神社を訪れた。関東にある富士神社と名のついたものは殆どが富士講の物だ。ここもそうだ。元々は現在の東京大学にあった加賀藩前田家上屋敷の場所にあったが、上屋敷ができる事になり、この地に移転して来た。この神社には氏子はおらず富士講組織からの寄付で運営していたと言う。江戸時代には富士講は盛んだったから金は集まっただろうが、今はどうしているのだろうか?社殿は富士山に見立てた富士塚の頂上 (?) にある。
    ここは最も古い富士講組織の一つがあり町火消の間で深く信仰され、火消頭の組長などから奉納された町火消の纏を彫った石碑が富士塚に数多く飾られている。

    旧安田楠雄邸

    千駄木の西側の高台地区は屋敷町と呼ばれていた。ここには多くの実業家や文化人が住居を構えていたそうで、今でもちょっと清楚な街並みだ。ここは旧安田財閥の安田楠雄の邸宅があったところ1919年に建造され、修理を重ねて、現在は日本ナショナルトラストが管理し、一般公開している。入場料が500円と少し割高。経営が苦しいのかもしれない。

    今日は一度ホテルに帰り、電車で練馬まで行き1年半ぶりに娘と夕食。元気にやっているようで、一安心。

    ホテルに帰ると脚と腰が痛む。今日は久々に15キロほど歩いたからだろう。自転車だと回転運動で衝撃が無く100キロ走行も特に問題が無いのだが、歩きは自転車とは異なる運動なので15キロ程度でのこの有様。今後は、史跡巡りに歩きももっと入れていかないとと思う。


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