東京 (02/04/21) 江戸城 (17) 外曲輪12門 / 外濠 (17) 浜御殿大手門

外曲輪12門

  • [浜御殿大手門]
  • 浜御殿 (浜離宮恩賜庭園)
  • 会津藩松平家芝新銭座中屋敷 (イタリア公園)
  • 仙台藩伊達家芝口上屋敷 (日本テレビ、コンラッド東京)
  • 龍野藩脇坂家上屋敷 (旧新橋停車場 鉄道歴史展示室)
  • 尾張藩徳川家木挽町築地蔵屋敷、桑名藩久松松平家下屋敷 (築地市場)
  • 浴恩園跡
  • 軍艦操練所跡、築地ホテル
  • 海軍発祥之地 (未訪問)
  • 築地波除稲荷神社
  • 海幸橋跡
  • 海軍兵学寮跡 
  • 海軍軍医学校跡海軍経理学校之碑
  • 築地居留地
  • 雙葉学園発祥の地
  • 関東学院発祥の地
  • 築地居留地跡
  • ガス街灯柱
  • 暁星学園
  • 明治学院発祥の地
  • 女子聖学院発祥の地碑
  • 青山学院記念の地碑
  • ヘンリフォールズ住居跡
  • アメリカ公使館跡
  • 聖路加国際病院トライスラー記念館
  • 立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑
  • 女子学院発祥の地
  • 立教学院発祥の地
  • 芥川龍之介生誕の地
  • 浅野内匠頭邸跡
  • 慶応義塾発祥の地
  • 蘭学事始めの地
  • 築地川 (築地川公園)
  • 暁橋跡
  • 堺橋跡
  • 備前橋跡
  • 門跡橋親柱跡
  • 鉄砲洲稲荷神社
  • 汐見地蔵尊
今日から江戸城巡りを再開する。外曲輪門では浜御殿大手門が残っている。今日はこの近辺の史跡、文化財を巡る。


今日の走行ログ


[浜御殿大手門]

浜御殿大手門は江戸時代に浜離宮に建造された枡形門で、架かっている橋は南門橋とも呼ばれている。芝口御門と同じように、江戸36見附にはこの浜御殿大手門は入っていない。別のくくりで外曲輪12門には数えられている。これを見附門と書かれているケースもあるのだが、他の見附門とは性格が異なるように思える。他の見附門は一般人も含めて、江戸に入る、江戸から出ていく通行人を監視しているのだが、この浜御殿大手門は浜御殿にしか通じておらず、ごく限られた将軍家関係者しか使用していなかったはず。単なる御殿への大手門にしか見えないのだが、何か理由があって見附と呼ぶのだろうか? 橋梁部分は関東大震災で消失し、関東大震災復興事業の一環として復元されたもの。石垣は当時のままで残っている。


浜御殿 (浜離宮恩賜庭園)

浜御殿大手門を通ると浜御殿に入るのだが、貼紙で当面の間、休園となっていた。警備員に聞くと、5〜6月頃まで続くのではと言っていた。残念だが仕方がない。次の機会に来ることにする。今日は外側からの見学とする。

浜御殿の堀の外側から見ると水門や将軍が船で行き来した乗船口が見える。
この場所は、寛永年間 (1624~1644年) までは、将軍家の鷹狩場だった。1654年 (承応3年) に四代将軍家綱の弟で甲府藩藩主松平綱重がこの地を拝領し、将軍家の鷹場の海を埋め立て、下屋敷を造り、海ノ手屋敷 (甲府浜屋敷) と称した。綱重の子の綱豊が6代将軍 家宣になったため甲府徳川家は絶家となり、下屋敷は将軍家の別邸の浜御殿となった。以来、歴代将軍によって幾度かの造園、改修工事が行なわれ、11代将軍家斉のときにほぼ現在の姿の庭園が完成。浜御殿内には潮の干満で海水を引き入れる回遊式泉水庭園が造られていた。幕末には幕府海軍伝習屯所として使用され、明治維新後、1870年 (明治3年) に宮内省の管轄となり皇室の浜離宮となる。その後、関東大震災や戦災により、建造物が焼失、樹木が損傷、往時の面影はなくなったが、1946年 (昭和21年) に都立庭園として整備開園。

浜御殿が閉鎖中なのでその全景が見える場所を探すと、浜御殿の南側の埋立地にウォーターズ竹芝という新しい商業施設がある。ウォーターズ竹芝は昨年8月にオープンしたばかりで、商業施設んほかホテル、劇場、オフィスビル、船着場もある。公園は竹芝桟橋まで続いており、浜松町から散歩には静かでよい場所だ。コロナ禍で碑ともまばら、レストランもガラガラ、遊覧船の乗船客もほとんどいない状態で気の毒なぐらいだが、コロナが落ち着いたら、人気の観光スポットとなるだろう。

竹芝桟橋の南、橋を渡った日の出桟橋の場所も小ぎれいになっている。倉庫群の横にレストランや公園が造られ、そこには徳川3代将軍家光の時代に造船した安宅丸をモチーフにしたクルーズ船が停泊していた。これは主に外国人観光客向けなので、今は本数を減らして営業しているそうだ。


会津藩松平家芝新銭座中屋敷 (イタリア公園)

陸奥会津松平家 (23万石) の中屋敷 (芝藩邸、芝新銭座邸) は、1639年 (寛永16年)、保科正之が、希望していた海の見える景勝地を拝領。北は伊達屋敷、南は新銭座町、東は舟路を隔てて後の浜御殿、西は露月町や柴井町に接していた。堀を隔てた伊達屋敷との間に流れる会仙川に会仙橋が架かっており、よく行き来していたそうだ。会仙とは会津と仙台の事だろう。この中屋敷は上屋敷の控え屋敷で藩主が登城しない時はこの中屋敷に居住していた。

屋敷の跡地の真ん中は第一京浜が走り、高層マンション街になっている。新橋界隈とは趣が全く異なり、ゴミゴミとはしておらずゆったりとした環境だ。かつての江戸の面影は全くない。敷地跡の南側はイタリア公園の一部になっている。このイタリア公園は「日本におけるイタリア2001年」を記念し、イタリアから寄贈されたもの。イタリア人設計のイタリア式庭園で、イタリア製の彫刻や噴水がある。この他屋敷跡地にはイタリア街なるものがある。

公園内にある彫刻のレプリカ。全部で12体あった。手入れをしているのだろう、彫刻には鳥の糞もなく綺麗に保たれている。

[会津藩松平家江戸屋敷: 大上屋敷 (皇居外苑 和田倉門)、芝新銭座中屋敷、下屋敷 (慶応義塾女子高)、深川抱屋敷、大川端抱屋敷]



仙台藩伊達家芝口上屋敷 (日本テレビ、コンラッド東京)

会津藩松平家芝新銭座中屋敷の隣には、仙台藩の上屋敷があった。元々は、外桜田 (日比谷公園) にあったが、1641年 (寛永18年)、この場所に浜屋敷と屋敷替えが行われ、1676年 (延宝4年) 以降は幕末まで上屋敷として使われている。仙台藩の御用絵師菊田伊洲による江戸藩邸芝口上屋敷庭園図で当時の屋敷が描かれており、複数の池や遣り水、橋脚、石積みなどからなっていた。

屋敷は広大で、この跡地内にはコンラッドホテル、汐留駅、日本テレビタワーがすっぽりと入っている。ここも当時を偲ぶものはなく、ゼロスタ前に広場に説明板があるのみ。

もう一つ説明板があった。ここは浜屋敷の表門にあたり、1702年 (元禄15年) 12月15日、本所吉良邸への討ち入りから主君浅野匠頭長矩の墓所高輪泉岳寺へ向かう赤穂浪士たちを仙台藩士が呼び止め、粥を振舞った場所といわれている。

[仙台藩伊達家江戸屋敷: 芝口上屋敷愛宕下中屋敷袖ヶ崎下屋敷、品川大井村下屋敷、麻布下屋敷、深川蔵屋敷]



龍野藩脇坂家上屋敷 (旧新橋停車場 鉄道歴史展示室)

更に、仙台藩伊達家芝口上屋敷の隣が龍野藩脇坂家上屋敷があった場所。龍野藩脇坂家は、賤ヶ岳の七本槍の1人に数えられる脇坂安治を藩祖とする家で、浅野家が改易になった際に、当時の藩主脇坂淡路守安照は、備中国足守藩主木下肥後守公定と共に赤穂城受け取りを行った。翌元禄15年11月に次の赤穂藩主が烏山藩主永井直敬に決まるまでの間、赤穂城は幕府の直轄下に置かれて、脇坂家が赤穂城在番を勤めていた。

明治になり脇坂家上屋敷は、明治5年に開業した新橋停車場の駅舎の建設のために敷地を明け渡すことになった。(新橋停車場は平成15年に駅舎が復元されている。) 大正3年、新しく建設された東京駅に旅客搬送の機能が移り, それまでの烏森駅が新橋の名を引き継いで現在の新橋駅となった。旧新橋駅は貨物専用駅となり、汐留駅と改称。「旧新橋駅停車場」内部は鉄道歴史展示室とレストランになっている。

当時の写真と浮世絵を見ると忠実に再現されていることがわかる。

上屋敷から芝口御門方面に行ったところに龍野藩江戸藩邸脇坂家 手水鉢跡が残っていた。移設されたのだろう。

歩道橋を渡った歩道橋の3つの隅には発掘された礎石が置かれ、その一つは仙台藩伊達家上屋敷御殿の土台の礎石とある。ここも仙台藩の上屋敷の場所ではないので、移設されているのだろう。

[龍野藩江戸屋敷: 新橋上屋敷、亀戸 蔵前橋下屋敷]



尾張藩徳川家木挽町築地蔵屋敷、桑名藩久松松平家下屋敷 (築地市場)

浜御殿の前には尾張藩徳川家木挽町築地蔵屋敷があった。江戸初期には南八丁堀にあったが明暦の大火のあとにこの築地地区の埋立地に移転された。明治時代の蔵屋敷地区の地図が残っている。尾張藩の蔵屋敷内には大きな池があり築地川に続いている。この池は江戸古地図には描かれていない。明治以降に海軍がここを基地として使用していたので、その時代に造られたのだろう。

尾張藩だけではなくこの埋め立て地には他の大名の蔵屋敷もある。その中でも、松平定信が寛政の改革後、政治の表舞台をしりぞき、屋敷をこの尾張藩徳川家木挽町築地蔵屋敷の隣に設けた。そこには浴恩園と呼ばれた庭園があった。江戸古地図ではこの場所は桑名藩松平家下屋敷となっている。桑名藩は本田忠勝により始まるが、その後、久松松平家が治めていた。次に奥平松平家が入封となる。久松松平家の松平定信が桑名への帰還を望み、ごり押しで久松松平家が桑名藩主に返り咲き、幕末まで続いたといういわくつきの場所だ。

幕末期には、1853 (嘉永6) 年のペリー来航をうけて、江戸幕府は近代海軍の創設を決定し、この築地に、1857 (安政4) 年、海軍の教育機関である「軍艦操練所」が置かれた。1862 (文久2) 年には勝海舟が頭取となっている。1866 (慶応2) 年に「海軍所」へ改称、翌年、「浜御殿」(現 浜離宮恩賜庭園) に移転。明治期に入ると、築地のこの大名屋敷跡に海軍の施設が建てられる。「海軍省」は1872 (明治5) 年に「兵部省」から独立、初代庁舎は築地に置かれた。現在はここが築地市場になっている。大正時代の海軍省に地図があった。(下の図中)まだ浴恩園の名残が残っている。尾張藩徳川家木挽町築地蔵屋敷跡は敷地のほどんどが船溜まりのように変わっている。海軍軍艦の停泊地だろう。

[尾張藩徳川家江戸屋敷: 市ヶ谷上屋敷、麹町中屋敷、和田戸山下屋敷、四谷内藤宿下屋敷、木挽町築地蔵屋敷]

この辺りには海軍に係わる記念碑がいくつかある。



軍艦操練所跡、築地ホテル

軍艦操練所は1857年 (安政4年) 築地講武所内 (現在の築地中央卸売市場) に幕府により設けられた。オランダから寄贈された観光丸で乗組員の操練を行っていた。

ロンドン覚書により、1868年 (慶応3年) に江戸は外国人に向け開市されることになっており、江戸に滞在する外国人の為の宿泊施設が必要となった。このため、軍艦操練所の跡地に築地ホテル館が建設された。土地は政府が提供し、建設及び運用資金は民間負担、そして利益は出資金に応じて分配という条件で民間から資本を募り、これに清水組 (現在の清水建設) が応募、1968年 (慶応4年) に完成した。この時点では、すでに幕府は瓦解しており、開業は1969年 (明治元年) となった。しかし、築地居留地はあまり発展せず、次第にホテル館の経営も厳しくなり、明治3年に清水組は経営から退き、1872年 (明治5年)、ホテルは海軍の手に渡り、それから間もなく銀座大火で焼失し、再建はされなかった。

海軍発祥之地 (未訪問)

築地中央卸市場内には水神社前に海軍発祥之地の石碑があるのだが、現在築地市場は解体作業中で中には入れず見る事は出来なかった。この碑には「旗山」と刻まれているのだが、1872年 (明治5年) 旧尾張藩邸に海軍本省が置かれた時に「海軍卿旗」を掲揚したことに由来する。築地の場外市場は平日にもかかわらず、それなりの人ではあるが、外国人観光客、特に中国人観光客がいないので、以前の活気は見られない。

築地波除稲荷神社

江戸時代の明暦の大火後、築地の埋め立て工事が行われたが、荒波の影響で工事は難航した。ある晩、光を放ち海面を漂う御神体が見つかり、1659年 (万治2年)、現在地に社殿を建て祀った。その後、波が収まり工事が順調に進んだことから、「波除稲荷」として厄除けなどに信仰を集めることとなった。

境内にはすし塚、海老塚、鮟鱇 (あんこう) 塚、活魚塚、玉子塚、昆布塚、蛤石といった海産物の塚が幾つもある。築地市場に近いため、そこで売買された魚介類や卵焼きなどに感謝し、霊を慰めるための塚・石で、まさに築地らしい。

境内には二つの獅子頭が置かれている。それぞれが珍しい。一つは獅子殿 (厄除天井大獅子)、もう一つは弁財天社 (お歯黒獅子) 。

ここが吉野家が開業した場所だそうだ。元々は大阪の商店だったそうだ。初めて東京に来た時にこの吉野家の牛丼を食べた時に、その味の濃さで決して美味とは思わず、東京の味の濃さに当惑したので、てっきり東京の店と思っていた。

海幸橋跡

波除神社は橋の袂にあったそうだ。今はその橋は撤去されている。海幸橋という築地川の東支川に掛かっていた。


海軍兵学寮跡 海軍軍医学校跡

海軍兵学寮は明治4年に新築され、1876年 (明治9年) に海軍兵学校と改称、1887年 (明治20年) に江田島に移転するまでこの地にあった。現在の国立がんセンター駐車場入口付近に建てられ、となりには海軍軍医学校跡の碑が並んでいる。


海軍経理学校之碑

1874年 (明治7年)、芝山内天神谷に海軍会計舎として設けられ、1888年 (明治21年) に築地に移転、1907年 (明治40年) に海軍経理学校となった。石碑の建つ勝鬨橋の袂付近に昭和7年に移築された。戦後の海軍解体に伴い1945年 (昭和20年) に廃校となった。


勝鬨橋、勝鬨の渡し

海軍経理学校之碑が建っている隣には勝鬨の渡し跡の石碑もある。勝鬨橋ができる前までは船で川を渡っていたのだ。


築地居留地跡

1858 (安政5) 年に江戸幕府は、欧米五カ国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港を開港し、江戸と大阪には開市を設けた。江戸の開市は明治政府になってからで、1869年に築地鉄砲洲 (現在の明石町一帯) に外国人居留地を設けた。築地居留地は商館の多い横浜や神戸と異なり、外国公使館や領事館、宣教師、医師、教師など知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行った。1872 (明治5) 年に新橋 (汐留) - 横浜間 (桜木町) に開通した鉄道はこの居留地と横浜の居留地を結ぶものでもあった。その築地居留地は1899年の治外法権撤廃で廃止された。


雙葉学園発祥の地

1872 (明治5) 年 サンモール修道会の宣教師がフランスより来日し、横浜で布教と教育慈善活動を開始。 1875 (明治8) 年、この地に築地語学校を開校した。これが東京では有名な雙葉学園の始まりだ。その後、1909 (明治42) 年に四谷駅前にフランス風の校舎を建設し、雙葉高等女学校となった。1947 (昭和23) 年 には雙葉高等学校となる。

 

関東学院発祥の地

東京中学院は アメリカ北部バプテスト派が設立した男子校で、後の関東学院のひとつとなった学校で、1895 (明治28) 年 ここ築地居留地に開校した。


築地居留地跡

この碑は、明石小学校の角地にたっている。

         

ガス街灯柱

明治元年開設の築地居留地内にあったものが、関東大震災後、現在の明石小学校に移された。東京の都市ガス事業は1874 (明治7) 年という早い時期に始まっている。まだ江戸時代の名残が強く残っていた東京では異国風情の場所だった。

ガス街灯柱跡はもう一つあった。

        

暁星学園

明石小学校の向い側にカトリック築地教会がある。

その前の歩道上に1888 (明治21) 年に創立された暁星学園発祥地の石碑があった。本のモニュメントには『あなたがたは 地の塩 世の光である』とキリスト教精神が刻まれている。暁星学園は1890 (明治23) 年、麹町区飯田町に移転した。

 

明治学院発祥の地

江戸末期1863年、横浜居留地に 私塾であるヘボン塾が開設され、1880 (明治13) 年に築地のこの地に移転。これが明治学院の始まり。明治学院は1877 (明治10) 年に始まった東京一致神学校を基とする。

 

女子聖学院発祥の地碑

この地は女子聖学院発祥の地。そこに建つ14番館が、宣教師ジョン・マッケレフ教師の居宅だった。1905年、米国のクルスチャン・チャーチの宣教師バーサ・F・クローノン女史が借り受け婦人伝道師の養成を始めた。開校時は教師3人に生徒10人であった。

 

青山学院記念の地碑

米国メソジスト監督協会の宣教師により創立された3つの学校を源流としている。 「海岸女学校」は、ドーラ・E・スクーンメーカーによって創立された源流のひとつ「女子小学校」(1874年麻布に開校)が「救世学校」を経てこの地で大きく発展したもので、青山学院の礎となった。

 

ヘンリフォールズ住居跡

指紋研究発祥の地とある。築地居留地に住んでいた英国人医師ヘンリー・フォールズが、日本の拇印の習慣から指紋は個人認識に利用できることを発見し、1880 (明治13) 年に、この家でネイチャー誌向けの論文を執筆した場所だそうだ。

         

アメリカ公使館跡

アメリカ公使館は1859 (安政6) 年、初代アメリカ行使ハリスにより元麻布の善福寺に開設されたが、1875 (明治8) 年、築地居留地内のこの地に新築された。1890 (明治23) 年には赤坂の現在地に移転され、現在の大使館になっている。

記念モニュメントが聖路加看護大のキャンパス内にあった。今日は聖路加看護大の入学式で、多くの人が来ていた。校舎からは讃美歌が聞こえていた。


聖路加国際病院トライスラー記念館

聖路加病院の初代院長トイスラーの名がつけられたこの記念館は、1933 (昭和8) 年、隅田川畔に聖路加国際病院の宣教師館として建設された。昭和初期の住宅建築には珍しい鉄筋コンクリート造り一部木造の2階建てで、ヨーロッパの山荘を思わせる重厚な風格のある建物であった。平成年度に解体し、現在地に移築復元した。


立教女学院 築地居留地 校舎跡記念碑

立教女学院は1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立され、その後、1882年に築地居留地に移転した。1923年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続した。

 

女子学院発祥の地

1877年キリスト教に基づく女子教育を目的に、米国聖公会により派遣されたC.M.ウイリアムズ主教によって、湯島に創立された。1882(明治15)年立教女学院は築地居留地に移転して、新校舎を建設した。1923(大正12)年の関東大震災までこの地にあってその教育事業を継続する。

 

立教学院発祥の地

米国長老会のジュリア・カロゾルスが1870年、築地居留地に女学校を創設した。

 

芥川龍之介生誕の地

1883 (明治16) 年ごろ、この付近にあった耕牧舎という乳牛の牧場の経営者の長男として芥川龍之介 (1892~1927) が生まれた場所。東京に牧場があったとは驚きだ。ただ、ここにいたのはわずか7ヶ月。家庭の事情 (母親が精神的に不安定だったそうだ) から母の長兄芥川道章に引き取られ、本所区小泉町に移り、12歳の時、芥川家の養子になった。龍之介 にとっては全く記憶にない場所だ。

この牧場の跡に聖ロカ病院が建っている。

         

浅野内匠頭邸跡

浅野長政の三男長重の長男であった常陸笠間藩主浅野長直 (1610~1672) は、1645 (正保2) 年、播磨赤穂に領地替えとなり、53,500石を領して内匠頭と称し、赤穂藩浅野家初代藩主になる。二代藩主の長友の代に分与して5万石となる。 ここから北西の聖路加国際病院と河岸地を含む一帯が赤穂藩主浅野家の江戸上屋敷があった所だ。忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩 (1665~1701) は、長友の子で、赤穂藩浅野家三代藩主。1701 (元禄14) 年、五代将軍綱吉の母親の桂昌院に従一位を与え、その祝いに天皇に勅使が江戸に来た際に、その接待役に長矩が任命され、江戸城松の廊下で刃傷沙汰になり、即日切腹、赤穂藩浅野家は断絶。気の毒な藩主とも映るが、よく考えれば刃傷沙汰が何を招くのかは分かった筈だ。余りにも短慮としか言いようが無い。史実はどうだったのだろう?どのような人物だったのだろうか? 見方によっては家臣を路頭に迷わせたバカ殿かもしれない。そのバカ殿の為に仇討ちをするだろうか?美化された忠臣蔵とは異なる史実があると思う。


慶応義塾発祥の地、蘭学事始めの地

慶応義塾の起源は1858 (安政4) 年、福沢諭吉が中津藩奥平家の中屋敷 (北東聖路加国際病院の構内に当る) に開いた蘭学の家塾に由来する。その場所には「慶応義塾発祥の地」(左)と「蘭学事始めの地」(右奥) がたっている。ここは豊前中津藩奥平家の下屋敷があった所で、この屋敷で藩医であった前野良沢らがオランダの解剖書の翻訳に取り組み、解体新書を完成。蘭学ゆかりの地とされている。


築地川 (築地川公園)

築地居留地跡の西側には築地公園がある。江戸時代に海を埋め立てた際、埋め残された部分が運河となり、築地川と称されていた。現在はこの築地川はほとんどが埋め立てられてている。築地川は本川、南支川、東支川に分かれている。本川は浜御殿の濠に流れ込み、海に通じている。本川は首都高が走る場所で途中から首都高から外れ、築地川公園の暁橋までとなり、そこからは公園内の堺橋、備前橋、そして終点が門跡橋となる。東支川は本川があった首都高の采女端から築地市場はを通り海に流れ込んでいる。築地市場の波除神社の所では海幸橋跡があった。
築地川跡は幾つかの公園になっている。そのうちの一つが築地川公園で、居留地跡のすぐ側にあるので立ち寄った。春休みなので多くの家族は訪れていた。

暁橋跡

堺橋跡

備前橋跡

門跡橋親柱跡

門跡橋は当初は築南橋という名で架橋されていたが、西本願寺の門徒たちの陳情によって、門跡橋と改称された。関東大震災で破壊されたが、昭和3年、震災復興橋梁の一つとして架橋された。

鉄砲洲稲荷神社

築地居留地跡の北、八丁堀に平安時代創建の古社の鉄砲洲稲荷神社があり、京橋地域の産土神だった。元々は、京橋にあったが、室町時代末期に新京橋(現 銀座一丁目付近)へ移り、八丁堀稲荷神社と称した。
江戸時代初期の1624年、桜川が亀島川に合流する地点に稲荷橋南東詰(現 湊一丁目8番地付近)に遷座している。
境内には富士山の熔岩を用いた富士塚があり、頂上には末社鉄砲洲富士浅間神社が鎮座している。

汐見地蔵尊

鉄砲洲稲荷神社から隅田川に向かうと小さな祠があった。汐見地蔵尊と書かれていた。1807年 (文化4年)、富岡八幡宮の祭礼日に永代橋の崩落事故で、2,000余名もの犠牲者が出、その後も大火災、大地震、疫病は江戸一帯を襲い多数の死傷者が出た。明治時代に川底から一体の石像と多数の人骨などが発見され、供養をした。歯痛に御利益がある地蔵尊として篤い信仰を集めている。
ここからの隅田川の風景


これで外濠にある外曲輪12門とその外側のにある主要な大名屋敷巡りは終了。


次回からは江戸城を囲む内濠にある内曲輪16門と内濠と外濠の間にある大名屋敷を巡るルートに入る。


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