東京 (04/04/21) 江戸城 (18) 内曲輪16門 / 内濠 (1) 山下門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常磐橋門
内曲輪16門 (内濠)
- [山下門]
- 白河藩阿部家上屋敷 (帝国ホテル)
- 北村透谷、島崎藤村記念碑 (泰明小学校)
- 薩摩藩島津家桜田中屋敷 (鹿鳴館跡)
- [数寄屋橋門]
- 明治大学発祥の地
- 摂津高槻藩永井家上屋敷 (有楽稲荷社)
- 南町奉行所跡
- [鍛冶橋門]
- 東京府庁舎跡
- 千葉定吉道場跡
- 八丁堀同心屋敷跡
- 八丁堀 (桜川公園)
- [呉服橋門]
- 港屋絵草紙店跡
- 北町奉行所跡
- 熊本藩細川家上屋敷
- [常磐橋門]
- 紙幣寮 (印刷局 日本銀銀行本店)
- 一石橋、一石橋迷子しらせ石標
- 銭瓶橋
- 道三橋
- 日本橋
- 日本橋三越本店、三井ハウス
- 福徳神社
- 江戸橋
- 日本郵便局発祥の地
- 旧三菱倉庫江戸橋倉庫跡
- 伊勢町堀跡
- 常磐稲荷神社
- 神田八丁堀跡
- 思案橋跡
- 八丁堀同心組屋敷
- 鎧橋跡
昨日は二人の娘と昼食を挟んで一日を過ごしたので、江戸城巡りは休みとした。
一昨日で外濠にある外曲輪12門とその外側のにある主要な大名屋敷巡りは終了し、今日からは江戸城を囲む内濠にある内曲輪16門と内濠と外濠の間にある大名屋敷を巡る。今日は午後過ぎから雨予報なので、明日早く出発する。
内曲輪16門 (内濠) は 山下門、数寄屋橋門、鍛冶橋門、呉服橋門、常磐橋門、神田橋門、一橋門、雉子橋門、竹橋門、清水門、田安門、半蔵門、桜田門、日比谷門、馬場先門、和田倉門の16の見附門がある。
内濠の東側はほとんどが町屋になっており、他の地区に比べて大名屋敷はそれほど多くない。下の図の赤枠の部分が町人が住まわされた地域だ。町人を集中させて住まわせるのは理解できるのだが、なぜこの地域を町人地域にしたのだろうか?西側はまだ豊臣恩顧の大名の領地があり、江戸城が攻められるとすれば西からだろう。そうすると西側は武士集団でかためて守りを万全とし、町人地区は東側にしたのかもしれない。これ以外に考えられる理由ついては、江戸を商業で栄えさすという狙いがあり、物流がそのカギになる。海運や漁業に便利な江戸湾岸を町人の地域にしたとも思える。街づくりを考えると、これが一番合理的とも思える。色々とその理由をインターネットで探したが見つからなかった。
江戸城の北側に行くまでは、武家屋敷跡は少なく、主として町人文化に触れることになるだろう。
[山下門]
山下門は、外濠と内濠の合流地点に設けられた外郭門のひとつで、1636年 (寛永13年) に、高松藩の藩主 生駒高俊によって山下町に造られた。渡櫓のない形で、江戸城の門の中では最も小さいものだった。門内に佐賀藩鍋島家の屋敷があったことから鍋島御門の別名があった。外日比谷御門とも称されていた。山下門は1873年 (明治6年)に桝形石垣と橋を残して撤去され、1900年 (明治33年) には外堀が埋め立てられた際に橋も撤去された。現在は遺構は残っておらず、外堀がそのまま山手線の高架になり、「山下橋架道橋」が山下門があったところで、名前のみが残っている。(山下橋架道橋下には案内板があった。)
白河藩阿部家上屋敷 (帝国ホテル)
この山下門を江戸城方面に入った所にあった大名屋敷 (白河藩阿部家上屋敷) は1890年 (明治23年) に賓客接待のために建てられた帝国ホテルとなっている。現在のホテルは戦後のもので、当時のホテルの写真が残っている (写真下右下)
北村透谷、島崎藤村記念碑 (泰明小学校)
薩摩藩島津家桜田中屋敷 (鹿鳴館跡)
帝国ホテルの隣の日比谷公園に面した場所に、鹿鳴館跡の碑があった。江戸時代には薩摩藩島津家桜田中屋敷だった場所で、装束屋敷ともいわれていた。装束屋敷とは、登城の前に装束を整える屋敷の事で、江戸時代に薩摩藩の支配下にあった琉球国王が、江戸城登城の際に、装束を整えたのがこの屋敷だそうだ。
明治16 (1883) 年、政府や貴族の社交場として鹿鳴館がこの屋敷跡に建設された。当時の外務大臣 井上馨が、不平等条約の改正を早める目的で、外国に日本の西欧化をPRするためではあったが、条約改正は失敗、鹿鳴館は明治27 (1894) 年に華族会館として払い下げられた。
[数寄屋橋門]
山下門からすぐのところには数寄屋橋門があった。数寄屋橋門は1602 (慶長7年) に築かれ、1629年 (寛永6年) に陸奥国仙台藩主の伊達正宗によって石垣と枡形門が整備された。
明治維新後に城門は撤去され、1929年 (昭和4年) に石造りの二連アーチ橋に架け替えられ、1958年 (昭和33年) には外堀が埋められ東京高速道路の建設で取り壊され数寄屋橋門は消滅。数寄屋橋公園に橋の存在を示す碑が立っているのみ。公園には岡本太郎の時計台もあった。
明治大学発祥の地
摂津高槻藩永井家上屋敷 (有楽稲荷社)
南町奉行所跡 (有楽町マリオン、有楽町イトシア)
この数寄屋橋門の枡形門裏手はテレビドラマでおなじみの大岡越前忠相が務めていた南町奉行所が存在した。
有楽町イトシア前の駅前広場に、発掘された南町奉行所の石組が置かれ、地下には、南町奉行所の地下室として使われた木製の「穴倉」が展示されている。
この地は織田信長の弟の織田有楽斎の屋敷があり、有楽原と呼ばれていたことから、明治時代にこの地は有楽町と名付けられた。江戸時代にはこの南町奉行所以外に北町奉行所があった。南と北に管轄部署を分けていたのかと思っていたのだが、この二つはそれほど離れていないので、その管轄地域を調べてみると、この二つの奉行所は月番制であり南北に管轄を分けていたわけではなかった。
[鍛冶橋門]
この鍛冶屋橋の古写真が残っている。江戸時代は木造橋 (写真上左中)、明治時代には石橋二架け替えられている (写真右上)、そして近代的な橋になっている (右下)。浮世絵にも描かれている。内濠から見た鍛冶屋橋 (左下)、鍛冶屋橋を江戸城側に入った大名屋敷跡には1871年 (明治4年) に裁判所が設けられ、当初は大名屋敷を使用、後に洋館に建て替えられた。(写真下中)
東京府庁舎跡
千葉定吉道場跡
北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の弟の千葉定吉の道場が鍛冶屋橋から町人街に少し入ったところにあった。
八丁堀同心屋敷跡
江戸時代初期は八丁堀は寺町だったが、1636年 (寛永13年) の江戸城拡張工事のため、八丁堀寺町の寺院は、玉円寺以外はすべて江戸の郊外へ移転となった。移転後、その跡地にあたる現在の茅場町から八丁堀一帯には与力同心の組屋敷が建設され、江戸町奉行板倉勝重の配下に与力10人、同心50人から始まった。南北両町奉行成立後は与力50人、同心280人に増え、両町奉行所に分かれて勤務していた。この場所には46軒の同心屋敷が建っていた。
八丁堀の地名は同心屋敷ができる数十年前に造設された八丁堀から来ている。八丁堀は明治時代になると桜川と名を変え、昭和35年から埋められ、現在は当時を偲ぶものは残っていない。八丁堀の一部は桜川公園となっている。公園の中には入一地蔵菩薩と入一観音菩薩があった。虫歯祈祷石なるものがあり、歯痛にご利益があるようだ。
[呉服橋門]
呉服橋門は1629年 (寛永6年) に陸奥国または出羽国の大名によって枡形門が築かれた。呉服橋門は濠の外域に幕府御用達の呉服商が多く住んだことで名付けられた。家康は真っ先に道三濠を築き、平川 (日本橋川) から隅田川と結ばれ、大量の物資を和田倉門に隣接した辰ノ口の堀留まで搬入していた。
港屋絵草紙店跡
呉服橋交差点から永代通りを日本橋方向に少し進んだ所に竹久夢二の港屋絵草紙店がありる。この絵草紙屋は大正3年に、夢二の妻が亡き夫の商業美術への意欲を具体化するために開業。跡地には記念碑が建っている。
北町奉行所跡
江戸時代には呉服橋門内には北町奉行所があった。
熊本藩細川家上屋敷 (丸の内オアゾ)
呉服橋門を江戸城側に入って所には熊本藩細川家上屋敷があった。現在は丸の内オアゾになっている。会社員をしていたときには数年間、この場所にあったビルで働いていたが、そこが熊本藩細川家上屋敷跡とは知らなかった。
[常盤橋 (常磐橋門)]
常磐橋門は、1590年 (天正18年) 家康が入府して真っ先に木造で架橋したといわれ、江戸では最も古い橋の一つ。1629年 (寛永6年) に陸奥国または出羽国の大名によって常盤橋の前に外側に高麗門、内側に渡櫓門を配した常盤橋門が設置された。日本橋川に架かる常磐橋門は田安門 (上州道)、神田橋門 (芝崎口)、半蔵門 (甲州道)、外桜田門 (小田原口・旧東海道) と並び江戸城から奥州道への出入り口である江戸五口の 1 つとなった。当初は江戸と浅草を結ぶ奥州道の起点となる交通の要所であることから「大橋」や「浅草口橋」と呼ばれていた。江戸時代に入り徳川家光の時代に常盤橋と名前が変わる。常盤橋名は金葉和歌集の「色かえぬ松によそへてあづま路の常盤の橋にかかる藤なみ」の歌からきている。外濠に架かる常盤橋の門外は日本橋商人の町として栄えた。
旧常磐橋の隣70mの所には新しく架けられたもう一つの常盤橋がある。こちらの方は関東大震災後の復興計画で昭和初期に建設された橋で、古い方は歩行者専用になっている。
常磐橋公園の中に今年の大河ドラマの主人公である渋沢栄一の像が建っている。東京駅周辺は渋沢栄一が起こした会社などが多く残っており、栄一ゆかりの地にあたる。
紙幣寮 (印刷局 日本銀銀行本店)
常盤橋門跡、常磐橋周辺には、日本銀行本店などもあって、歴史の中でも江戸・東京の中心となっている。1876年 (明治9年) 大手町側の常磐橋内には二階建ての赤煉瓦造りの西洋建築として紙幣寮 (印刷局) が造られた。(古写真上中と浮世絵) 後に、1882年 (明治15年) に日本銀行となった。1896年 (明治29年) に石積みの煉瓦造のネオバロック建築建て替えられている。 (古写真左上)
一石橋 (八ツ見のはし)、一石橋迷子しらせ石標
安藤広重が『八ツ見のはし』を描いている。これはこの一石橋から、西に道三堀の銭瓶橋、道三橋、北に外堀の常盤橋、 南に外堀の呉服橋、鍛冶橋、東に日本橋川の日本橋、江戸橋が見えたそうで、この一石橋を加えてその名を「八つ見橋」や「八橋」とも呼ばれたと呼ばれた。
一石橋は外濠 (外濠川) と日本橋川の分岐点に架橋されていた。北橋詰の本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南橋詰の呉服町に御用呉服商の後藤縫殿助の屋敷があり、当時の橋が破損した際に、これらの両後藤の援助により再建され、後藤の読みから「五斗」、「五斗+五斗で一石」ともじった洒落から一石橋と名付けられたと伝わる。江戸期〜明治期にかけて付近はかなりの繁華街であり、迷い子が多く出た。当時は迷い子は地元が責任を持って保護するという決まりがあり、地元西河岸町の人々によって1857年 (安政4年) に「満よひ子の志るべ(迷い子のしるべ)」が南詰に建てられた。しるべの右側には「志 (知) らする方」、左側には「たづぬる方」と彫られて、上部に窪みがあり、迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、それを見た通行人の中で心当たりがある場合は、その旨を書いた紙を窪みに貼って迷子、尋ね人を知らせたという。このほかにも往来の多い場所に数多く設置された。この場所も工事中で近くまでは行けなかった。
銭瓶橋
八つ見橋の残り7つの橋を見ていく。江戸には107の河川と400もの橋があったといわれている。徳川家康が江戸に入府後に手を付けたのが河川の整備だった。洪水対策、農地灌漑工事、物流機能の整備だった。江戸の町の中も多くの運河が建設され、この運河を利用して物の運搬を行っていた。現在では約15の運河が残っている。徳川家康は江戸に入府して真っ先に掘ったのがこの道三堀で、その際にこの銭瓶橋も架けられ、道三堀を掘った時、地中より銭の入った瓶を掘出したので橋の名となったともいわれている。別の説には、この辺で永楽銭の引換えをしたので、銭替橋といったとの説もある。これ以外にもいろいろな説があると案内板には書かれている。道三堀で運ばれてきた船荷は和田倉濠と道三堀の合流する「竜の口」で荷揚げされ、江戸城和田倉門内の「和田倉」で保管されていた。明治42年(1909)に埋立てられ、銭瓶の名だけ残っている。橋の跡地はビル街になっており現在は工事中。
道三橋
銭瓶橋から道三堀を江戸城和田倉門方面に行くと堀の中程にもう一つ橋がある。幕府の侍医の登城の便宜のために架けられたと伝わっている。この橋の南岸に、その侍医、曲直瀬家 (2代目道三) の屋敷があったことから、道三堀と呼ばれ、この橋は道三橋と呼ばれた。西側には細川越中守の屋敷があり、越中守の幼名が彦次郎で会ったので彦次郎橋とも呼ばれていた。慶長 (1596~1614) の頃は堀に沿って町屋を建設するには大切な資材を扱う材木屋等の町屋が多くできたが、その後武家地となり、1909年 (明治42年) に堀は埋立てられ、橋は撤去されてしまった。
日本橋
江戸時代には日本橋は五街道の起点として江戸における交通・物流の要所であった。これまで何度もここを訪れた。奥州街道、東海道、中山道を走った時もここを起点にして出発した。この地域の日本橋本町を含む一部地域は江戸時代には「江戸本町」と呼ばれる江戸で最初に整備された街であり、江戸の商業・町人文化の中心として栄えた。武家屋敷が立ち並ぶ山手に対して、町人文化の中心として下町を代表する地域。日本橋の古写真がある。
日本橋三越本店、三井ハウス
江戸時代、この地域は駿河町と呼ばれ、ここには伊勢の松坂の三井家が商っていた1673年 (延宝元年) 創業の呉服屋の越後屋があり、商売は大成功を納め、大店であった。1872年 (明治5年) に三井首脳陣は大蔵大輔 井上馨に、「三井家は呉服業を分離して、銀行設立に専念せよ」と内命を受け、越後屋呉服店を大元方の所管事業から切り離した上で、新たに「三越家」を興し、三井家が三越家へ呉服業を譲渡する形を取り分離独立させた。これが三越の始まり。三越の2文字は三井の「三」と越後屋の「越」の字に由来する。1888年 (明治21年) に洋館に建て替えられた。1904年 (明治37年) に呉服商から百貨店に発展させた。1914年 (大正3年) にはルネサンス様式の外観、採光天井の中央ホール、エレベーターなどを備えた5階建て鉄筋コンクリート造りとなった。
一方、両替商の三井組は、明治5年海運橋の側にあった三井組ハウスを、第一国立銀行に譲り渡し、明治7年、越後屋呉服店の隣に駿河町に新しい洋風建築「為替バンク三井組」(現在の日本橋兜町三井本館)を設立。この建物は、一般に「三井ハウス」と呼ばれていた。
福徳神社
日本橋のビル街の中に神社があった。福徳神社でかなり古くからあるそうで、9世紀半ばには既に鎮座していたという。福徳村の稲荷神社として祀られていた。平安時代には源義家に深く信仰され、その後太田道灌を合祀している。徳川家康も数度お参りに来たそうだ。ここを通るサラリーマンも立ち止まり拝んでいく人を多く見かけた。
江戸橋
江戸橋は、日本橋より四半世紀ほど遅れて17世紀に大船町 (後に本船町) と本材木町の間の日本橋川下流に架けられた。当初の位置は現在より下流にあり、すぐ東脇を楓川が縦貫していた。都市化以前の江戸中心部はこの周辺だったのではないかと推測されている。橋の下は漁船や乗合の舟が集まり、南側には船宿があった他、隅田川の舟遊びのための屋形船なども停泊していた。南西側は木更津河岸と呼ばれ、江戸と上総国木更津を行き来する木更津船が発着した。南詰には明暦の大火後防火のため江戸橋広小路が設けられ賑わっていた。1875年 (明治8年) に石橋 (浮世絵 上中、上右、下左) に、1901年には鉄橋 (写真右下) へ改架されている。1927年 (昭和2年) に昭和通り開通に伴い現在地に架け直された。
日本郵便局発祥の地
浮世絵には江戸橋を渡ったところに白い洋館と赤煉瓦の蔵が描かれている。白い洋館が東京郵便局で日本の近代郵便制度は1871年 (明治4年) にこの場所から始まった。明治維新からまだ何年もたっていない明治8年に江戸橋が石橋へ、明治4年にこの郵便局、明治13年にこの煉瓦蔵。この短期間に既にこれだけの西洋化が進んでいる。明治初期の原動力のすさまじさを感じる。
旧三菱倉庫江戸橋倉庫跡
伊勢町堀跡
江戸初期に開削された堀割の一つ。一昨日に築地をめぐった際にも、この様な掘割があった。通常の河川から街の中に引き入れて、海上交通のポイントとした訳だ。江戸のこの時代は物流は海上輸送も重要だった。明治中期ごろまでは伊勢町堀といわれ、その後は西堀留川と呼ばれた。日本橋川を北西に入った西岸には「米河岸」、東岸には「小舟河岸」、かぎ状に折れ曲がった北側には「塩河岸」があり、江戸の中心地の日本橋に近いところから物流の一大拠点として賑わったという。明治中期には北側奥の堀が埋め立てられ、関東大震災後は日本橋川に通じる堀も埋め立てられ、今は掘割は道路になって、当時の面影は残っていない。
常磐稲荷神社
伊勢町堀跡の近く小さな祠がある。常盤稲荷神社は、1457年 (長禄元年) に太田道灌が江戸城を築城の際、京都伏見稲荷大社から分霊し、当時の城内に常磐稲荷を建立し、同城の守護神としていた。徳川幕府開府後、江戸城郭の拡張工事が行われ、先程訪れた常盤橋付近に移設。常盤橋は元々大橋と称されていたが、この社号にちなみ常磐橋と改称された。その後、日本橋魚市場内に移り、市場の守護神水神大神(罔象女神)を相殿に祀っていた。(水神大神は、明治34年に神田神社境内に遷座。1873年 (明治6年) には神田明神の兼務社となり、1901年 (明治34年) に再度神田神社境内に遷され水神社と改称、築地市場の守護神として奉斎された。関東震災後の区画整理により換地が行われ、現在の地に移された。日本橋魚市場の築地市場の守り神だったからか、魚市場関係者らによる奉納額が掲げられていた。
神田八丁堀跡
小伝馬町駅の近くにも掘割跡がある。1657年 (明暦3年) の本郷の振袖火事で江戸城の西丸を除いた天守閣・本丸御殿などが焼失、城下でも大名屋敷が160軒、旗本以下の屋敷が770軒余、町屋が1200町にわたって焼失し、死者も十万人を数えたといわれている。この大火の後、防火のために八丁 (約870m) にわたる土手が築かれた。1691年 (元禄4年) 頃に町人自ら費用を負担して土手の明地に掘割を開削したのがこの神田八丁堀。当時 材木町と称した川筋の町には材木商の倉庫が並び、川を利用した木材の運搬・繋留などがおこなわれ、物流の動脈となっていた。1857年 (安政4年) に埋め立てられたが、1883年 (明治16年) に再び堀を開き、竜閑川と呼ばれていた。終戦後に埋め立てられ、架かっていた10もあった橋も廃橋となり、今日では当時の面影を残すものは無くなっている。神田八丁堀跡の説明板があるこの場所は、かつて地蔵橋が架かっていたあたりで、地蔵橋東児童遊園という小さな公園になっていた。
思案橋跡
明治まではこの場所には思案橋があった。明治9年に橋の袂で思案橋事件が起こっている。前原一誠等の旧会津藩士が神風連の乱、秋月の乱、萩の乱、に呼応して挙兵し、千葉県庁を襲い県令を殺害し、佐倉鎮台兵を説き、日光を経て会津を扼し若松に大挙しようと計画があった。。この思案橋の袂で、14名の旧藩士と警官4名と斬り合いになり、2人の警官が死亡、1人重傷の犠牲を出し、挙兵としては未遂として終わり、一向は数名を除いて捕縛され、関係者も国事犯として手配され捕縛され、翌年に処刑された。東掘留川が戦災により、昭和24年に埋められ、同時に橋も撤去された。
鎧橋跡、鎧の渡し場
源義家が陸奥の安倍氏討伐(前九年合戦)に赴く際、この地で嵐に見舞われた為、鎧一領を海中に投じて祈りを捧げたところ、嵐は治まり無事に渡る事ができたという伝説に由来している。鎧橋は1872年 (明治5年) に木橋で近隣の豪商が自費で架設したそうだ。1888年 (明治21年) には、鋼製のプラットトラス橋に架け替えられ、1904年 (明治37年) からは橋上を路面電車が通った。現在の橋は3代目のもの。
橋が掛かる前の江戸時代には、鎧の渡しがあり、日本橋川で唯一の渡し場だった。
午後2時頃から、時々、パラパラと雨が降ったり止んだり。本降りになる前に今日予定していた史跡巡りを終え、ホテルに戻る。明日も不安定な天気だそうだ。
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