Kii Peninsula 紀伊半島 4 (11/12/19) Matsuzaka Castle Ruins 松坂城跡

松坂宿

  • 松阪商人の館 (旧宅小津清左衛門邸)
  • 三井家発祥の地
  • 肘折橋跡
  • 松坂本陣跡
  • 新上屋跡
  • 和歌山街道との追分道標
  • 旧長谷川二郎兵衛邸
  • 樹敬寺 (本居宣長墓)
  • 本居宣長の宮
  • 松坂神社

Matsusaka Castle Ruins 松坂城

  • 大手門
  • 三の丸/御城番屋敷
  • 表門
  • 二の丸
  • 隠居丸
  • 本丸
  • 中御門
  • 本丸下段
  • 太鼓櫓
  • 月見櫓
  • 遠見櫓
  • 本丸上段
  • 金の間櫓
  • 敵見櫓
  • 天守閣
  • 鐘の櫓
  • 藤見櫓
  • きたい丸
いよいよ松坂に入る。当初の予定では赤阪は昨日中に終える予定であったが、地元の人との話にかなり時間を使い今日にずれ込んだ。川を渡って松坂市中心に近づくと街道の雰囲気、商人の町、松坂城の城下町の趣が感じられる。津市の雰囲気と随分と異なる。

松阪商人の館 (旧宅小津清左衛門邸)

松坂は商人の町として知られる。その起源は戦国時代にここに松坂城を築いた蒲生氏郷が、城下町としての発展のため、移封前の知行であった近江から近江商人や伊勢の豪商をここに呼び寄せた時から始まった。その後、氏郷は国替えで松坂を去るのだが、彼の作った城下町はそのまま発展していくことになった。阪内川を渡り、松坂宿に入ると雰囲気はガラッと変わり、商業都市の松坂が現れる。直ぐにこの旧宅小津清左衛門邸が松阪商人の館として公開されている。小津清左衛門は三井や長谷川などと並ぶ屈指の伊勢商人で江戸や大坂に進出していた豪商だ。朝早くまだ開いていないのだが、外観だけでもそれが伺える。

三井家発祥の地

商人の館の直ぐ近くに三井家発祥の地がある。三井財閥のルーツは松坂だったのか。ここに三井の前身である越後屋を始めた三井高利の生家があった。道路の向かい川は休憩所になっており、お馴染みの三越のライオンがいた。明治以降昭和まで日本の経済成長には三井系の企業が深く関わっている。松坂の直接的、間接的な関わりがかんじられる。
町にはXX屋と言う屋号を掲げて店が多く見られ、まさに商人の町の雰囲気が漂っている。

肘折橋跡

理由は分からないが史跡表示。

松坂本陣跡

本陣があると言う事はも、大名もここに泊まったと言う事だろう。伊勢街道の情報は東海道程整備されていない。東海道から伊勢街道が日永の追分で分岐するが、そこから白子、津、六軒、松坂、斎宮を通り伊勢までは18里(72km) で当時の旅人であれば2日で歩ける距離で、どこで宿を取るかは定型はなかったと思う。松坂が宿場としてどれほど機能していたかはわからない。

新上屋跡

松坂の旅籠跡でここに宿泊していた賀茂馬淵を本居宣長が訪ねて教えを乞うた所。ここでの出会いが後の本居宣長に大きく影響している。お互いに初対面であるが、師と仰ぎ、弟子として思いを託したいと感じれる二人の出会いはそうざらにある物では無い。この後、本居宣長は古事記研究を完成させて荷田春満、賀茂真淵、平田篤胤とともに国学の四大人と呼ばれる様になる。この時代は儒教思想が中心であった中、日本独自の文化を古事記や源氏物語といったものから再評価しようとした。学問としてのレベルには到底及ばないが、日本の文化でなんとなく日本人が持っている、「わびさび」や「もののあはれ」などの日本固有の情緒は大切にしたいと思う。

和歌山街道との追分道標

伊勢街道には色々な所からの道が合流している。関宿からは伊勢別街道、奈良からの道、そしてここは和歌山からの道。昨日、市場庄で出会った地元の爺さんによると伊勢街道を歩いて参宮している人はあまり見当たらないと言っていた。この2年間で、東海道、中山道、日光街道、奥州街道など多くの街道を走ったが、一番歩きの旅人が多かったのは中山道、次いで東海道の様な気がした。これ以外で断トツは四国遍路道。伊勢街道も参宮と言う巡礼に近いもので、日数も3日と短く手頃で社会人でも週末や連休に手軽にできるはずなので、最も観光化すれば良いのに思う。街道沿いの市町村連携が非常に薄いのだろう。

旧長谷川二郎兵衛邸

江戸時代の豪商の木綿問屋「丹波屋」江戸にも店を持っていた。広重の東都大伝馬街繁栄之図の中にその店が出ている。(左手前の店)

本居宣長旧宅跡

本居宣長は今日通った松阪商人の館 (旧宅小津清左衛門邸) の小津家の出身。歩いて数分の距離。
建物は松坂城の隠居丸跡に移設されている。
松坂の市内には本居宣長のこんなモニュメントも見かけた。松坂では人気者の様だ。

樹敬寺 (本居宣長墓)

小津家 (本居家) の菩提寺で本居宣長とその子孫の墓26基がこの寺にある。宣長の曾祖父、祖父は熱心な浄土宗信者だったそうだ。宣長の墓もここにあるのでそうなのだろう。国学というイメージから神道の方かと思っていたが、よくよく考えると国学イコール神道である必然性は無い。

本居宣長の宮

城の三の丸の四五百 (よほい) の森にある神社。ここ松坂では本居宣長はヒーローの様で、小さな神社ではあるがこの神社では祭神として学問の神様にまでなっている。どの様な理由なのかは不明だがやはり国学の大家の平田篤胤も相殿として祀られている。(インターネットではこの理由までは書かれていない。少し気になる)

松坂神社

創建の年代は不詳だが、1000年以上前と推測されている。意悲 (いひ) 神社と呼ばれていた。天正16年 (1588年)、蒲生氏郷が意悲の森に松坂城を築城して、意悲神社を城の鎮守とし、八幡神を合祀し、以降、江戸時代まで「御城八幡」と呼ばれていた。1908年 (明治41年) に松阪神社に改称。

Matsusaka Castle Ruins 松坂城

1584年 (天正12年) に、近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ松ヶ島城に入城。 その後、1588年 (天正16年)に、氏郷は、松ヶ島城から現在の松坂に城を築き移る。移動前の松ヶ島の住人を強制的に移住させ、旧領の近江商人を呼び寄せ、楽市楽座を設けた。湊町には伊勢の豪商の角屋氏を呼び寄せ、商都松阪の礎を築くという大胆な施策で城下町を形成した。1590年(天正18年) 氏郷が若松城に移封されると服部一忠が入城。1595年 (文禄4年) 服部一忠は豊臣秀次事件に連座し。次いで古田重勝が入城し、江戸時代に入ると松坂城は松坂藩の藩庁となったが、1619年 (元和5年)に古田氏が石見国浜田城に転封となり、南伊勢は紀州藩の藩領となり、城代が置かれ、明治時代の廃藩置県により廃城となるまで、この体制が維持された。
城は東に大手、南に搦手を配し、外郭に深田堀及び水堀を巡らせた。四五百森北峰に3重5階の天守の本丸を配し、その南側に二の丸が置かれた。現在は、石垣のみが残っており、城址公園となっている。
下の衛星写真にこの日にまわったルートのログを被せている。城はかなり大きい印象を持った。かなり歩き回っている所が本丸と二の丸で、それを取り囲んで、家臣が住む三の丸がある。当時の三の丸の外側は変わってしまっており、そこを進む事はできないが、それに近い道路を走った。この外側が大体三の丸と城下町の境と考えられる。
  • 大手門
松坂城三の丸への入り口。
  • 三の丸 城の中核をなす北丘と八幡宮のある南丘の周囲一帯を指し、外側は堀と土居で囲まれていた。城ができた当初は身分の高い家臣の屋敷があったが、紀州藩統治下の江戸時代に侍屋敷は城外へ移され、役所や馬屋などが置かれていた。大半は空き地で畑地として使用されていたそうだ。三の丸城の中核をなす北丘と八幡宮のある南丘の周囲一帯を指し、外側は堀と土居で囲まれていた。城ができた当初は身分の高い家臣の屋敷があったが、紀州藩統治下の江戸時代に侍屋敷は城外へ移され、役所や馬屋などが置かれていた。大半は空き地で畑地として使用されていたそうだ。
三の丸の中でも、二の丸に近いところは、昔の武家屋敷の雰囲気が残っている。
殿町同心町に残る江戸時代末期の武家屋敷の原田二郎旧宅 (写真中)。三軒隣りには料亭八千代 (写真下)がある。この地域は明治以降に、富裕層が競って別宅、分家を設けており、八千代の前身敷地も伊勢豪商の小津清左衛門家が購入し建てたものを今は旅館割烹八千代となっている。
  • 御城番屋敷 三の丸の現在は、殆どが住宅街と商業施設となったいる。一部史跡を保存している地区がある。江戸時代末期の武士の住宅の御城番屋敷と呼ばれている所だ。ここは昔ながらの組屋敷 (長屋) 形式の武家屋敷の造りを見る事ができる。この長屋建設の経緯が解説されてあった。紀州藩紀州藩主徳川頼宣から家老田辺安藤家に派遣されていた与力 (200-300石) が、安藤家の陪臣になる命令に抗議して20人が脱藩。田辺与力騒動と言われている。その6年後に、紀州藩主直臣40石取りとして帰参が許され松坂御城番職に就き、この組屋敷が造られ住居とした。現在一つを展示に使用して、あとは市民の住居として使われている。長屋形式だが、結構洒落ており、各家々はそれぞれに工夫して綺麗に保っている。
  • 表門 大手門を通り緩やかな坂を進むと表門に着く。城の玄関口で二の丸への入り口。
  • 二の丸
  • 表門をからまずは二の丸に向かう。土居御門を通ると二の丸。
二の丸は高い石垣と多聞櫓 (上) に囲まれ、南側には無名だが櫓 (下) があった。二の丸広場には徳川家陣屋が置かれていた。
明治初期の陣屋が石垣の上にあった。石垣の下は三の丸。
二の丸からは本丸への登り石階段 (右上)、三の丸に抜ける裏門 (右下)、そして隠居丸への階段 (左下) がある。
  • 裏門 三の丸と二の丸の門
建てられた当時は瓦葺の二層門であったが、の後に藁ぶきに変えられている。(再建の資金不足?)
  • 隠居丸 おかしな名前の曲輪だ。本丸の南にあり、当時は、2棟の道具蔵と宝蔵、米蔵があった。藩主の隠居後の住居があったのだろうか? 縄張り図では倉庫が中心の曲輪の様に思えるが、詳細は調べてもわからなかった。ここには松坂宿で見た本居宣長旧宅の鈴屋が移設されている。(写真は本居宣長旧宅跡に含めている。) 
隠居丸への門 (左上)、明治42年に移設された本居宣長旧宅の管理事務所として移設と同時に建てられ、今は茶席 桜松閣として使用されている (写真右上)  隅櫓跡 (右下)

隠居丸からの埋め門を潜って外に出るとすぐに本居宣長記念館がある。この場所が城の何にあたるのかは調べてもわからなかったが、ここを下ると直ぐ三の丸の御城番屋敷に出る。
  • 本丸 
もう一度裏門まで戻り、次は本丸に登る。中御門が二の丸から本丸への入り口になる。本丸は本丸下段と本丸上段に分かれ、石垣で区切られてそれぞれが独立している。
  • 中御門 (裏ニノ門) 中御門を潜ると枡形があり、本丸下段と本丸上段への分岐点で、おそらく更に門があったと思われる。想像している一つの門を入ると本丸下段へ、もう一つの門を入ると更に石の階段で本丸上段に通じる。
  • 本丸下段 広場になっており三つの隅にはそれぞれ櫓が存在していた。太鼓櫓、月見櫓、そして遠見櫓でそれぞれが多聞櫓で連結されていた。
  • 太鼓櫓
  • 月見櫓 当時は、2層の櫓で台所棟と付櫓があった
  • 遠見櫓
この本丸下段に通じる道はまだある。最初に通った表門から二の丸方面とは反対側に登ると
表門 (左上) から坂を登ると歴史資料館 (右上) があるが生憎と改装で休館中。ここを越えると表ニノ門 (左中) を抜け、更に坂道を左手に遠見櫓跡に沿って登ると本丸下段への入り口 (下) がある。地図では門が無いのだが、そんな訳はないだろう。無いとすると防備がかなり手薄になってしまう。
  • 本丸上段 本丸下段から本丸上段へは3ヶ所に直角に曲った石の階段を登る。やはり天守閣のある最後の砦の防御は凝っている。
何故かこの通路とは別に石垣を直接登るような階段があり金の間台所の所に出る。元々あったのか後世に付け足されたのか、金の間台所から本丸へは直接は行けないようになっていたか分からないが、先程の本丸上段への通路が凝っているだけに不思議な階段だ。
本丸上段には金の間櫓、敵見櫓、三層からなる天守閣が多聞櫓で連結された連立式天守の構造になっていた。
  • 金の間櫓 当時は、2層の櫓で金箔を貼った黄金の間があった。
  • 敵見櫓 天守閣に隣接している。天守閣とは内部で行き来ができた様だ。小天守の様な役割だったのだろう。
それぞれの櫓と櫓門は多聞櫓で繋がっていたのがわかる。多聞櫓は曲がって作られている所もありこれも攻めてきた敵を攻撃し易くなっている。
  • 本丸上段の中央部には兵部屋敷跡
  • 天守台 三層の天守閣が建てられていた。天守閣への入り口は二つあった様に見える。どの様な天守閣であったかは調べてもわからないのでなんとも言えないが、一つは本丸の広場からのもので写真の上のあるもの。これは納得できる。もう一つがきたい丸からの登り階段がある。写真下なのだが、これも不可解な手造りの様に思える。きたい丸からの階段の横には本丸への通路があり、これを通ると直ぐ左手にもう一つの天守閣への入り口がある。何故、二つも入り口を造ったのだろうか? ガイドさんがいれば、尋ねてみたかった。
きたい丸跡
本丸の西にあり、曲輪の名称は、松坂城を完成させた3人目の城主、古田重勝の子どもの幼名「稀代丸」にちなんでつけたという。東西南北の各角に櫓が配置されている。
このきたい丸へは本丸下段から、鐘の櫓 (写真上) から藤見櫓 (写真下) を通り、
犬走りの様な曲輪を通っていくことができる。
これで松坂城の本丸と二の丸は全て見学終了。見応えはあるのだが、あまり城内の解説がないので、調べるのに時間がかかった。少し城の縄張りで不可解な所があった。再度、ここにきたときには、資料館が再開しているだろうから、聞いてみたい。
これで今日は終了。松坂に今晩泊まり、明日は伊勢街道を通り伊勢まで進む予定。


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