Kii Peninsula 紀伊半島 3 (10/12/19) Birthplace of Matsuura Takeshiro 松浦武四郎生誕地
雲出島貫常夜燈/明治天皇小休所の地
松浦武四郎記念館
松浦武四郎誕生地
伊勢街道 (常夜燈、道標、庚申塚など)
市場庄
津の史跡巡りは昨日で終わり、今日は伊勢街道に戻り松坂牛で有名な松坂に行く。ここからは10キロ程と近いので、ゆっくりと行く。今日のお目当ては松浦武四郎の故郷と松坂城。
津から松坂への伊勢街道は畑の中を走る。伊勢街道は東海道程、観光地として整備されておらず、宿場町の表示すら無い。四国遍路道と比べ随分と見劣りがする。今でも伊勢参宮の道は東海ほど開発が進んでおらず、街道の史跡は随分と残っている。良い観光資源と思えるのだが... うまく観光に利用されていない様だ。最も多く残っているのは、常夜燈、庚申塚、道祖神などである。空に寺社も多い。当時の参宮の旅人がどの様な旅をしたのか、残っているこれらの史跡を繋ぎストーリー化できれば結構面白い観光ルートになる。それに伊勢街道の距離は東海道や四国遍路のように何百キロでも無く、日永追分 (四日市市追分) から伊勢神宮内宮までは約74kmで数日で歩ける距離。伊勢街道を観光地化出来れば、サラリーマンの週末休暇でも十分楽しめる筈だ。勿体無い。
雲出島貫常夜燈
雲出川 (くもずがわ) に着く。ここを渡れば松浦武四郎の生家と記念館がある。この雲出川には渡し場があったそうだ。伊勢街道が通っている大きな川には意図的に橋が架けられていなかった。防衛上そうしたそうだ。その背景については今はよく分からない。これからおいおい分かってくるだろう。場所は少し移動しているのだが、雲出橋の袂に常夜燈。案内板で松坂迄の見所をチェック。
この渡し場の手前に明治天皇小休所の地という石碑があった。雲出川を渡る前にお付きの人達が準備している間ここで休んだのだろう。それまで伊勢神宮に参拝した歴代天皇は持統天皇を除きいなかった。これは暗黙の内に参拝すべきでないという決まりになっていた。何故参拝しなかったかの確かな理由は不明で、天照大御神を恐れていたとか、大行列を組んでの参拝の莫大な費用が無かったとかの説があるが、天皇は現世を総べる王であり、伊勢神宮は異界、後生へ続く入口で、
伊勢神宮への参拝どころか伊勢の地に入ることすらタブーとされてきたとか。個人的にはその理由よりなぜ明治天皇は今までのタブーを破って参拝したのかの方が気になる。明治新政府側の武士の時代から王政復古で天皇中心の政治への変換のPRだったという説が最もの様に思える。実際の政治は天皇で無く、薩長が進めていたが、彼らには絶対統治者の元で政治を行なっているという大義名分が必要だったのだろう。明治天皇が偉いのはそれを理解して、振る舞ったバランス感覚と思う。伊勢神宮への行幸には皇室内部で大きな反対があっとと思われるが、その時代に必要と思い受諾したのではないかと思う。
いよいよ松浦武四郎所縁の地に行く。北海道で松浦武四郎特別展を札幌博物館で見て、三重が出身地とは知っていたが、昨日公園で会った犬の散歩をしていた女性にここを教えられ思い出した。教えられなかったら素通りしていたかも知れない。松浦武四郎は気になっていた人物。途方もない才能を持った人だが不可解な行動をした様に思える。偉人の様に思えるのでは無く、比類稀な天武を持っているにもかかわらず、何か人間として欠けている所もある様に思え、素直に自分にとってのヒーローリストに追加するには躊躇があった。それがずうっと気になっていた。
松浦武四郎記念館
まずは松浦武四郎に関する資料がある記念館に行く。この記念館は平成6年 (1994) に開館しているのだが、当時は松浦武四郎に興味を持った人も少なく、それほど多く訪問者があった訳では無い。昨年、北海道開拓150年の事業として、北海道の名付け親として武四郎が取り上げられて、更にはテレビドラマが放映され (かなりフィクションが入っているのだが)、一気にブレークし、多くの観光客が来たという。地元の人でさえ、松浦武四郎の名は知っているが、何をした人なのかまで知っている人はそれほどおらず、地元を代表するという存在では無かった。この松坂で過ごしたのは青年期まででその後は、旅に明け暮れ晩年は東京に住んでいた。業績は卓越しているが、世の中を変えると言ったものでは無いので、非常に地味な業績だったからだろう。
武四郎はゆるキャラにまでなっていた。あの世で苦笑しているだろう。
まずは武四郎の北海道での足跡を辿るテレビ番組が流れていたのでそれを見せてくれた。北海道には武四郎所縁の地が数々ある。次回北海道に行った際には巡って見たい。
展示内容は、上手にまとめられている。展示物の数は札幌博物館で見た程では無いが、短時間で彼の業績がわかる様なポイントを絞った展示内容であった。後でこの記念館の学芸員とも話をしたが、おそらくその学芸員が考えて作ったと思われる。松浦武四郎の事については博士の様な人で、要点を明確にして話をしてくれた。用事があるという事で途中で外出されたのだが、もっと色々と話をしたかった。この学芸員の方は毎月一回武四郎講座を開いている。
武四郎が何をしたのかを纏めている。ただし、この中で一つを選ぶとしたら、一番初めに紹介されている旅行家/冒険家であったととらえている。その旅行家/冒険家としての活動に彼にとっては必要であったそして副産物として生み出された物を評価するとその他の捉え方も出てくる訳だ。
彼がどの様な目的であったのかは分からないが、多くの紀行文を残している。それも、相当に詳しく、更には玄人はだしの挿絵まで付いている。後に出版して多気志楼物と呼ばれ蝦夷地など知らない好奇心旺盛な江戸の庶民には大人気だったという。想像するに、彼の性格では、細部まで調べないとおさまらないし、書く事で消化しているのだろう。自分の中で消化しないと気がすまない。そんな人だ。その挿絵を見ているだけでも面白い。アイヌの風習などを記録しているのはこれが初めてのことだっただろう。(アイヌは文字を持っていないので記録は一切ない)
アイヌに対しての文書は膨大な数にのぼる。江戸幕府や松前藩はアイヌに対しての対応は、未開人、野蛮人とし人間扱いをしていなかったが、武四郎はアイヌを人間として見、愛情を持って接した。これほどアイヌを理解しようとした人は、後にも先にも彼だけだろう。ただ、何度となく行った蝦夷の旅の資料はあまり無かった。
北海道双六まで作っている。学問だけでなく趣味も幅広かった。
展示は武四郎の業績が中心であった。彼の人となりが一番興味があったが、そこにはあまり触れておらず、それを垣間見る展示はが少しだけあった。
武四郎の最も有名になった写真で身につけていた装身具。武四郎は骨董品のコレクターでも有名で、この古代勾玉の大首飾りもその一つで愛用していたそうだ。感想は失礼だけれど悪趣味に思える。三キロもある大首飾りをどの様な思いで身につけていたのだろうか?これは全くの個人的な意見で、武四郎ファンは憤慨するだろうが、彼は自己顕示欲がかなり強かった印象を持っている。その自己顕示欲は他人に自分を誇示したいためでは無く、自分の為に無邪気に自然とそうしている様に思える。彼にとって人が自分をどう見ているかは、気にはなるが、究極的にはどうでも良いと思っていたのだろう。
先に触れた自然な無邪気な自己顕示欲のもう一つがこの武四郎涅槃図。幕末維新期に人気を博した絵師河鍋暁斎に明治14年制作を依頼し19年に完成したもの。釈迦の代わりに中心に寝そべっているのは武四郎。周りには彼が集めた物品で、坂上田村麻呂、橘諸兄、老子、荘子、達磨、道真、藤原朝忠、岩倉具視、大黒天、布袋和尚、寿老人、鍾馗等の人物像の他、奈良の神鹿、博多の張り子虎、十二支の動物など多種多様を極める。彼が亡くなったのが明治21年なので、その2年前に完成している。死期が近づいて来ているを感じ、こんな物があれば面白いという思いつきで作ったのでは無いだろうか。世間のこの絵に対しての評価は高いのだが、これも悪趣味に思える。ただこれも武四郎の無邪気な思いからなのだろう。
これは武四郎が晩年、東京の住まいに造った泰山荘高風居または一畳敷と呼ばれる庵。現在は非公開だが国際キリスト教大学に移築され残っている。この庵も8年をかけて造り死の一年前に完成した。晩年は色々な所に旅行し、自宅でその紀行文を書き続けていた。死ぬまでそうしたかったのだろう。その書斎を造った。多分、これが武四郎の姿なのだろう。生涯を冒険家として生き、それを消化し、その経験を自分の所有物として形にする為、紀行文を書き続けた。他人の為で無く、純粋に自分の為にだろう。それをこの一畳敷が物語っている様に思える。
この展示室では紹介されていないのだが、札幌博物館で見た物で印象に残っているものがある。この松坂の実家の甥に作成を依頼した蝦夷屏風と呼ばれるもので、それには大久保利通の手紙や、アイヌの少年が書いた手習いの書、蝦夷地で買った酒やタバコの領収書などが貼り付けられている。明治3年 (1870) 武四郎は北海道の役人を明治政府と北海道開拓方針の見解の相違から辞してから、明治21年に亡くなるまで、二度と北海道には行かなかった。これがずうっと気になっていた。明治政府に蝦夷開拓御用掛を命じられ、北海道と名付け、その北海道の各地の名も編集した。役所内の嫌がらせもあり、アイヌをないがしろにした明治政府の開拓方針に憤慨そして失望し、職をわずか一年で辞した。ここで思ったのは、職に残りアイヌの代弁者となるべきでなかったのではないか。彼が我慢をし職に残っていれば、アイヌの状況は変わったのでは無いか。あれだけ愛したアイヌ民族を見捨てた形になった。ここは残念に思っていた。
この蝦夷屏風は、武四郎が本当は蝦夷地をずうっと気にはしていたが、彼の性格から明治政府に背を向け、隠遁生活に固執してしまった事への後悔、アイヌに対しての申し訳なさ、政府に対しての抵抗などが凝縮しているように思う。無邪気ではあるが政治的駆け引きはできない人だったのだろう。屏風に貼られているのは20年の間ずうっと持っていた物だ。多分、時に蝦夷時代の物を取り出し、人知れず見ていたと思う。武四郎は最期まで武四郎のままだった様に思えた。これだけの天武を持った武四郎はリーダーではなかった。なりたいとも思っていなかった。彼は多くの物を残したが、世の中を変える様な偉業は無い。北海道の名付け親として北海道の発展には関わったが、彼の残したものを明治政府が都合良く利用したに過ぎない。彼に野心がなかった事が彼の晩年の生き方に影響したように思える。明治政府の中で武四郎を可愛がり北海道を任せようという太っ腹の人物がいなかったのが残念だ。武四郎の様な人物が世に最も貢献できるのは、彼を理解できるリーダーの元でのみと思われる。彼の理解者であったと聞いたのだが、木戸孝允がもう少し生きていれば変わったのかも知れない。
松浦武四郎誕生地
記念館のすぐ近くに松浦武四郎の実家が復元されているので、そこに行く。どの様な少年期を送ったのだろうか。武四郎が生まれた家は伊勢街道にある。子供時代はこの街道を多くの伊勢詣の旅人が行き交っていた。武四郎が13才の時の文政のお陰参りでは、1年に400~500万人も伊勢詣があり、旅人から日本諸国の話を聞いたであろう。それが武四郎の旅への憧れに繋がったかも知れない。
武四郎は肥前国平戸の松浦氏の一族であった郷士の松浦桂介の四男として生まれた。紀州藩の飛び地の場所。父は庄屋で帯刀も許された裕福な家であった。武四郎はなに不自由もなく育っただろう。今で言えば、村のぼんぼんで悪ガキの様な感じだったと思う。比較的恵まれた中、武四郎は13才から3年間、近所の伊勢津藩士で漢学者の平松楽斎のもとで学んでいた。16才で家出をして江戸の親戚のところに行くのだが、一般の解説では旅への憧れが高じての家出と言われているが、札幌博物館の解説では金銭の横領が明らかになりそうで、もはやこの地には居られないと言う背景があったそうだ。これはあまり知られていない事なのだが、ここにいたボランティアガイドさんに真相を聞いてみた。ガイドさんは少し戸惑った様子だったが、にやりと笑い話しをしてくれた。武四郎は子供の頃から骨董品の収集に凝っていたそうで、その資金を実家にある色々なものを売り、その金で買っていた。ついには、師匠の平松楽斎の物にまで手をつけて金を捻出していた様だ。これがばれそうになり家出と言うのが本当の事。彼の自伝では触れられていない。家出の一ヶ月後に江戸から連れ戻されるのだが、横領の後始末は家族のものがやってくれたそうで、武四郎は何事もなかったかの如く、またこの地で生活をしていた。(どうも、この話はボランティアガイドさんたちのガイドラインでは話さない事になっているみたいだ。) あまり他人への迷惑は気にしない性格だった。これは一生治らなかった。
この建物は復元した物で、元々は裏にある空き地になっている場所に建っていた。実家を継いだお兄さんの子孫が別の人に売却しており、市が残っていたここを買い取り、こちらの方に復元した。ただ家があった場所の売却の条件が、家が建っていた場所には新たな家屋は建てず、庭として使用する事になっていたそうで、ガイドさんに連れられそこま行った。そこが写真右上。
復元された家の方の坪庭には武四郎が開拓判官に任命され従五位を贈られたさいに造った従五位守開拓判官阿倍朝臣弘建之と刻まれた石灯籠が立っている。東京の自宅にではなくこの故郷の兄の家に建てている。故郷に錦を飾る意味もあったかも知れないが、武四郎にとっては大切な故郷にとの思いがあったのだろう。
武四郎は膨大な数の骨董品を収集しているのだが、一つの物を集めだすと、とことんのめり込み、その種類のものを買い漁った様だ。彼の不思議なのは、その莫大な資金を平然と自然に稼いでいる所だ。若い頃は篆刻 (てんこく) 作りで金を捻出し、旅をしていた。北海道には私人として3回も旅をしている。商人の助けもあったが、この費用はこの篆刻作りで賄っている。その後は旅の紀行文の出版で金を作り、骨董品の収集と旅に明け暮れたと言う。
(2018/8/15に訪れた札幌博物館の特別展示を見た時のレポートは以下のリンク)
ボランティアガイドさんと2時間以上にわたって、武四郎の話やこの地の話をしてもう、午後2時半になっていた。予定していた松坂城にはとても行く時間は無い。予定がどんどん遅れるのが、旅の常。松坂には2泊にして明日にじっくりと松坂城見物にすれば良い。残りの時間で松坂までの伊勢街道を楽しんで行こう。
始めにも書いたが、伊勢街道には伊勢詣の旅人の為の常夜燈、庚申塚、道標が多く残っている。伊勢街道の大部分は市街地に近づくまでは畑の中なので開発がされておらず、当時のままで多く残っているのだ。
常夜燈
月本追分/常夜燈
伊勢街道と奈良街道の合流点
道標 (右さんぐう道)
小津一里塚跡
一里塚は削り取られ、石標が立っているのみ。
またまた常夜燈
常夜燈がもう一つ
市場庄 (いちばしょう)
伊勢街道沿いの市場庄地区には、妻入りと連子格子の町並が残っている。東海道の宿場街の建物はほとんどが平入り形式だったが、この妻入り形式は九州の宿場でも見かけた。西日本に多い形式なのだろうか?
伊勢街道沿いの昔の建物には東海道の当時の建物と比較して特徴があるように思える。気づいたのは
- 切り妻形式に建物が主流 (妻入りと平入りの違い)
- 梲 (うだつ) が比較的シンプルで凝った装飾はあまりない。(写真右の中山道の宿場のうだつは立派な物が多かった)
- 雁木と呼ばれる軒下のひさしがある建物が多い。東北の宿場町には雪よけのため、アーケードの様なひさしが伸びており、それを雁木と言っていたが、ここではそんなに大がかりな物ではなく短く真下向かって、雁木が軒先につけられている。(写真左上は雪国の雁木、残りの3つの写真は伊勢街道の雁木)
目の細かい連子格子の家が大半 (一般の宿場の建物は右)
家屋の敷地が通りに沿っておらず、通りの面に角度がつけられて建てられている。(ギザギザになっている) 東海道の宿場の建物は通りに一直線で家々が繋がっている。
古民家を利用したカフェもある。ここは菜乃穂と言うカフェもで明治15年築の古民家を使っている。本日はお休みの様で中は見れなかった。
庚申塚
常夜燈
松坂に到着した時には既に夕暮れ。宿に向かう。
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