Kii Peninsula 紀伊半島 2 (9/12/19) Tsu Castle Ruins 津城跡

Tsu Castle Ruins 津城跡

  • 西の丸
  • 内堀
  • 玉櫓
  • 日本庭園
  • 西鉄門虎口/土橋/西黒門/西鉄門 
  • 本丸
  • 藤堂高虎像
  • 天守台
  • 月見櫓
  • 丑寅櫓
  • 東鉄門/東之丸
  • 戌亥櫓
  • 多聞櫓
  • 高山神社
  • 二の丸御殿/馬場跡
  • 有造館
四天王寺
偕楽公園
護国神社
龍津寺
正覚寺
西来寺
上宮寺
寒松院 (藤堂家墓)

Tsu Castle Ruins 津城跡

江戸時代初期に築城の名手の藤堂高虎により近代城郭に改修された城。加藤清正、黒田如水と並ぶ戦国三大築城名人の一人。この藤堂高虎が手掛けた城は数多くあり、主要なものでは、江戸城、宇和島城、大洲城、今治城、篠山城、津城、伊賀上野城、膳所城、二条城、駿府城 などがあり、今回の旅では伊賀上野城以外は全て立ち寄った。その度にこの高虎の城普請の凄さがわかる。これ以外にも訪れた城で彼の名前が出て来る事がしばしばあった。それほど、豊臣秀吉や徳川家康に重宝にされていた。津城には津藩藩庁が置かれていた。津市は現在三重県の県庁所在地。津城は安濃川と岩田川に囲まれて天然の要害。当初は安濃津城と呼ばれていた。 内堀で囲まれた本丸と、それに付属して東の丸・西の丸があり、それを取り囲んで二の丸が配されていた。現在は内堀内の本丸と西の丸がお城公園として整備され、二の丸の二の丸御殿の一部がお城西公園となっており、その他の城の輪郭は今では分からなくなってしまった。XX跡という様な表示もなく、津市が史跡保存に対してはあまり力を入れていない様に見受けられた。津は昔は安濃津 (あのつ) と呼ばれ、平安時代より伊勢国の中心地地。鎌倉時代から戦国時代にかけ長野氏の支配地であった。(昨日訪れた上野城の分部氏の主君) 津城は戦国時代の永禄年間 (1558年 - 1569年) に、長野氏の一族の細野藤光が小規模な安濃津城を構えたことに始まる。永禄11年 (1568年)からの織田信長の伊勢侵攻により、織田信包が長野氏の養子として入城し、城郭を拡充。信包は母の土田御前や妹のお市の方、姪の茶々、初、江を引き取りこの城で養っていた。豊臣家の時代になると、信包は丹波国柏原へ移封し、富田一白が入城。関ヶ原の戦いでは東軍につき、西軍方の毛利秀元・長宗我部盛親軍3万の軍勢に城を攻撃され、城内の建造物の大半を焼失。奮戦の末、木食応其の調停により開城。安濃津城の戦いと呼ばれる。慶長13年 (1608年) 信高は伊予宇和島藩に移封となり、代わって伊予今治藩より藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石でを入城。高虎は城の大改修と城下町を整備し、明治4年 (1871年) の廃藩置県まで藤堂氏の居城となった。津は江戸期を通じて伊勢神宮参拝の宿場町として栄え「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と伊勢音頭に謡われた。

西の丸

津市役所に自転車を停めて、一番近い城跡への入り口に行く。市役所が建っているところもかつては外堀と内堀の間の城内であった。今入ろうとしているところは内堀の土橋。これを渡り、門の跡がある。名前は出ていない。枡形になっている。
西の丸は島になっており内堀に囲まれていた。今は内堀は大半が埋められて一部だけ残っている。

玉櫓

櫓門だったのだろう。門の石垣の上には玉櫓跡があった。

日本庭園

西の丸は日本庭園になっている。庭園には移築された入徳門がある。

西鉄門虎口

西の丸から本丸へは堀にかかる土橋 (写真左上) を渡り西黒門 (右上) を通る。門の内側は枡形になっており、更に西鉄門 (左下) から本丸へ抜ける。西黒門の所、右上写真の石垣の反対側にも同じような石垣がありその上には伊賀櫓があったとされているが、今は陰も形もない。現在の姿は一部石垣も撤去され、案内板が無ければ想像出来ない。

本丸

本丸はかなり広い。ここも今は公園になっている。本丸は四角形で堀と高い石垣に囲まれている。その四隅には天守台、月見櫓、丑寅櫓、戌亥櫓が存在していた。それぞれの櫓を結ぶ様に多聞櫓があった。
本丸は石垣で囲まれている
城を築いた城主の藤堂高虎の像がある。

戌亥櫓

西の丸から西鉄門虎口を入った所にあった。

月見櫓

丑寅櫓

丑寅櫓は位置が少し変わっているのだが復元されている。 (写真右下が元々櫓があった跡) その他の建物はもはや存在せず跡のみだ。しかしこの跡だけでも、城がどの様であったかは想像出来る。これだけを見ても、築城の名人、さすが藤堂高虎の普請だ。
ありし日の丑寅櫓 (手前) と戌亥櫓 (向こう側)

東鉄門

丑寅櫓があった場所には東之丸から本丸への入り口である。本丸へはこの東之丸からの東鉄門と西之丸の西鉄門の2カ所からしか行けない。東之丸も西之丸と同様に堀で囲まれていたが今では堀は埋め立てられ、面影は無い。写真左下の道路の手前半分ぐらいが東之まから東鉄門への土橋であっただろう。

天守台

多聞櫓

高山神社

城の遺構では無いのだが、天守台の直ぐそば、元は内堀だった埋められた場所に藤堂高虎を祭神として明治10年に建てられた高山神社がある。高虎も神様になっている。
これで内堀内の津城見学は終了。次は外堀まで広げて見てみる。史跡は殆ど残っていないが、城の規模を見てみたい。

二の丸御殿/馬場跡

二の丸御殿は現在は市役所 (左) になっている。市役所の駐車場が馬場跡 (右)。

有造館

藩校で、この藩校の門が西の丸内に移設され残っている。

四天王寺

聖徳太子が建立したとも言われているのだが、別の資料では平安初期の創建とも言われている。時代にギャップがある。どちらにしても津では最も古い寺。戦国時代の戦火で荒廃していたのを、安濃津城主 (津城) だった織田信包 (おだのぶかね 織田信長の弟) が再建した。信包は安濃津城に移る前は、昨日訪れた伊勢上野城を居城としていた。この時代にお市に方の三人の娘を面倒を見たと言われていたが、昨日も書いたが、保護していたのは信包ではなく織田信次であるというのが真相の様だ。
織田信長の生母の土田御前と藤堂高虎の正室の久芳院の墓がある。土田御前は信長が本能寺の変で亡くなった後は織田信雄 (信長の次男) が面倒を見ていたが、信雄が秀吉の小田原攻めの後、三河・遠江への転封を断った事により改易となった後に、信包のいる安濃津城 (津城) に移った。この経緯からこの寺に墓が建っている。藤堂高虎の正室の墓がここにある事には少し疑問が湧く。この後に訪れた寒松院には歴代の藤堂家の墓があり、その中には藤堂高虎の側室の松寿院の墓もある。正室が別のところにポツンとある。何か理由があるのだろうが、詮索してもあまり意味が無い。
よくある目洗い石この水で目を洗うと治るそうだ。

偕楽公園

元々は御山荘山と呼ばれ、津藩第11代藩主藤堂高猷 (たかゆき) が安政年間に造った別荘で、現在は公園となっている。園内には多くの灯籠や祈念碑がある。
まだ紅葉が残っている。

護国神社

明治2年 (1869年)、第11代津藩主藤堂高猷 (たかゆき) が、戊辰戦争で戦死した藩士の霊を祀る表忠社という小祠を建てたのが始まり。その後、三重県護国神社となり、禁門の変・戊辰戦争から第二次世界大戦までの三重県関係の戦歿者6万3百余柱を祀っている。

龍津寺

伊勢街道の観光地図に出ていたので立ち寄ってみた。この寺の情報はインターネット上にはほとんど見当たらなかった。ここにある猪飼敬所 (江戸後期の儒学者) の墓の形が珍しいという事だけだった。猪飼敬所は津藩主藤堂高猷 (たかゆき) に招ねかれて津藩で儒学を講義し、この地で客死。ここに葬られた。儒学者として儒式の墳墓の形になっている。儒式の墳墓を見るのは初めてだ。
ここにもう一つ案内板があった。頭の病気に御利益のある山溪地蔵尊。三重独特のものかも知れない。山渓さんと親しみを込めて呼ばれているのは江戸時代に山溪寺住職の敬叟玄粛和尚が飢餓と重税で苦しむ農民の救済の直訴状を書くのを手伝った事で一揆の犯人に連座する事になり、処刑されてしまった。無実であるとして助命を請う弟子や民衆を制して、和尚は弟子には「天命は避くべからず、国法は柱けるべからず、唯我が代わりに将来仏門の光に尽くされよ。」と民衆には「今刑刃に倒れても、我霊は不滅なり、今日より後、頭上の煩いあれば必ず救わん。」と言い放ち、首を刎ねられた。この時には無実は明らかになり、処刑中止の使者が出立していたが、処刑までには間に合わなかったという。それで三重にはこの山溪地蔵尊が多くある。祠の中には首から上の頭だけの地蔵さんもいる。これがこの山溪さんだろう。

正覚寺

藤堂高虎の嫡男で第2代伊勢津藩主の藤堂高次の四女の石姫の墓がある。当時は珍しい洋風墓石。幼い石姫は熱心なキリスト信者で、当時はキリシタン禁令であったが、石姫を可愛がっていた高次は、外部に知られぬよう御殿の奥で自由に信仰させていましたが、4才で亡くなりここに葬ったそうだ。これがキリシタンの石姫の墓である事は明治になるまで誰も知らなかったという。墓を守るという代償に御殿の赤門を下げ渡して山門にさせた。特にしなくてもよかったのだが、敢えて墓をキリシタン風にした高次にとっては石姫が余程可愛かったのだろう。墓の隣にはマリア観音が建っている。これが勿論禁制が解けてからだろうが、この寺の寛大さにも感心する。

西来寺

西来寺の創建は延徳2年 (1490)、真盛が大津坂本の西教寺の支院として開山。永禄12年 (1569)、織田信包が安濃津城 (津城) 城主になり城の拡張と城下町の整備が行い、西来寺も城下に移設。慶長5年 (1600) の関が原の戦いの際の津城攻めで、西来寺は山門以外を焼失、翌慶長6年 (1601) に現在地に境内を移し再建。太平洋戦争で再び焼失しだが、その多くは戦禍を免れた。寺院内には縄張り図にある様に数多くの堂があるが、その一つ一つが塀で囲まれ、庭もあり、人が住んでいる独立した民家になっているように思え、敷地内に立ち入ることが憚られる。住職の家族が住んでいるのか、貸家にしているのだろうか? 少し普通の寺院の境内の雰囲気とは異なっていた。

上宮寺 (じょうぐうじ)

推古天皇の飛鳥時代に創建され、聖徳太子が紫雲寺と命名、後に舒明天皇から上宮寺の号を賜ったという伝承のある寺。昨日訪れた専修寺の浄高田派に属している。境内に二つの案内板がある。江戸初期の僧の清韓の墓。あの豊臣秀頼が滅ぼされた大坂の陣の言いがかりにされた方向寺の「国家安康」鐘銘を書いたのが、秀吉時代から豊臣家の庇護を受けていた清韓だった。これが原因で清韓は捕らえられたが、藤堂高虎のとりなしもあり、津城下で謹慎となり命拾いをした。もう一つは阿漕平治の伝承で津市民には広く知られているそうだ。平治は禁漁区で漁をし事で死罪となったが、成仏できず、阿漕の海から平治の泣き声や網を打つ音が聞こえていたという。ある晩、当時の住職の西信律師の夢に平治が現れ、その頼みでお経を書いた石を海に沈め、平治の霊を成仏させ、阿漕塚を築いて、平治を弔ったという話。今でも平治の法要が続いているそうだ。

寒松院 (藤堂家墓)

藤堂家の墓があると言うので寒松院を訪れた。二代藩主高次がこの寺を建て藤堂高虎の号に因んで寒松院とした。ここには高次の生母、高虎の側室の墓がある。午前中に四天王寺の高虎の正室の墓を見た時の疑問の答えがこれなのだろう。まあ、通常正室と側室は仲が悪い。家督が側室の子になったのだから、どんな形にせよ二人の間には確執があったのだろう。ここには津藩藩主の藤堂本家の初代高虎から10代までの藩主の墓がある。(11代藩主の藤堂高猷の墓は東京染井霊園) それと支藩の久居藩の藩主の墓。久居藩は第2代藩主の藤堂高次が隠居の際に長男高久を第3代藩主とし次男高通に5万石を分与し支藩として久居藩を立藩させた。本家と久居藩が交流が緊密で藤堂本家の11代まで続いた津藩主の内、5代目以降は一人を除き、7名全てが久居藩の系統であった。最後の11代藩主の高猷 (たかゆき) がこの墓地にいないのはなぜ? 明治以降、藩主だった多くの人が東京に移っている。家族も移りその子も東京の生活となり利便性から墓を東京にするケースも多い。高猷の場合もそうかも知れない。高猷は最後の藩主で幕末明治維新の最も難しい時期を経験している。藩政は困難を極め、借金は過去最高になっていた。幕末期には中立から佐幕派へ、最後は新政府側に鞍替えし、辛辣な批判も受けていた。津県の県知事に就任するが、度重なる失政で隠居というあまり幸せな後半生では無かった様だ。
写真を見てわかるが、寺は荒れ果てている。天災や太平洋戦争の空襲で被害があったが、この寺はほぼ藤堂家専属の寺でその藤堂家も各地に散らばり、檀家からも抜け今は檀家がいない寺だ。ただ藤堂家の墓を守っている。境内は駐車場になっている。収入はそれが殆どだろう。本堂 (一つしか無いのだが) 修理も出来ずつっかえ棒で支えるのみ。塀は空襲で無くなってから、そのままになっている。ここを見た時には修復中か、発掘調査などしているのか、工事現場に来たようだった。大通りや側道から丸見え、柵もなく誰でも入れる。しかも墓石は空襲で損傷を受けたままで機関銃の弾痕跡まである。見学を進めていると気の毒になってくる。この見学の後、近くの公園で休憩していた際に犬の散歩をしている女性の人と話をする事になった。この寺の事を話してくれた。どうもこの寺の事は津市民は問題とは思っているらしい。津の行政に何度となく史跡として援助する事を要請したが、津市や三重県は、その意思は無い。(案内板は津市教育委員会が津市指定史跡として作っているのだが... この案内板のみが市のやったことだ) この女性は市の態度には憤慨していた。この寺に住職がいるのかいないのかはわからない。檀家がいないから、いないだろう。所有者はいるから駐車場になっているのだろうが、その人は辛いだろう。これだけの史跡を壊すわけにもいかず、と言って個人の財力で維持していくことも出来ない。ますます廃墟化が進んでいくのだろう。津市にとって藤堂家は歴史そのもののはずだが...
藤堂高虎像 生きていれば、この状態をどう思うだろう。
ここからは余談だが、藤堂家墓地は東京にもある。藤堂高虎が上野の寛永寺が創建される際に神田の江戸上屋敷を返上し、寛永寺の支寺として、同じ名前の寒松院を造った。(津の寒松院より時期は早い。) 戊辰戦争や太平洋戦争で焼失、再建移転を繰り返したのが今ある上野の寒松院。上野公園内に藤堂家代々の墓がある。
また、話が飛ぶのだが、この放浪のような自転車旅の合間に、元会社の同僚と地域活性化のアイデアを練っているのだが、過疎化に悩む地方行政は移住者を募集している。多くのこの募集は形だけ仕事としてやっているだけの所が多く、真剣に取り組もうとしている地方行政は少ないように感じる。移住者が満足のいく所は何処なのかを見て回るのが、この旅の副産物と思っている。その際の一つの基準として考えているのが、史跡をどれだけ大切にしているかを挙げている。史跡を大切にしようとしている所は、自分たちの街のアイデンティティを大切にして、子供たちに伝えていきたい、他地域の人に自分の町を誇りを持って紹介し、何度も来て欲しいという期待がある。史跡を大切にするという事は町を大切にする、さらに住民を大切にする事に通じる。史跡を放置している所は、住民に対してもケアが行き届かず、ましてや移住者には冷たくなると考えた訳だ。残念ながら、津市はおそらく移住者にとっては良い所では無いような気がする。津市にも過疎化が深刻な地域があり、その改善計画は立てている。しかしながら、津市全体では少子高齢化が徐々に進んでいるとはいえ人口は微増で、対策は過疎化地域に限定されている。内容は現状分析がほとんどを占め、対策は何処の市町村が出しているものと変わらず、対策項目はあるが具体性に欠けるものだ。これは地域行政機関の共通の問題と思う。計画書はどこかに参考書があるかの如く、ほぼ同じで全く具体性が無く、心が入っていない計画書。とりあえず言われた計画書作りの仕事は終わったという感じのもの。
  • 津市過疎地域自立促進計画 (平成 28 年度~平成 32 年度) https://www.info.city.tsu.mie.jp/www/contents/1458624583910/simple/kaso.pdf
このような一見まとまった様な計画書無しに、気がついたアイデアを実行しているところもあった。うまくいっており、それを実行している現場には活気があり、次のアイデアが出てきていた。
現状分析は大切だが、おそらく役所の職員はデータの分析グラフや表作りに大半の時間を費やし、残り1ページに課題のまとめとそれぞれに対する超ハイレベルな対策を書いて完成。時間と金の無駄使いを続けている。計画書が目的とする姿などにはなり得ない。重要なことは何かを始め、その試行錯誤から次の道を見つけていくことなのだが、市長や町長の写真入りの挨拶から始まる立派に”見える“計画書の方が大切な様だ。


0コメント

  • 1000 / 1000