Kii Peninsula 紀伊半島 5 (12/12/19) 斎宮

松坂から伊勢

  • 小津安二郎青春館
  • 信楽寺
  • 神戸神社
  • 上川の町並み
  • 浄林寺
  • 道標
  • 櫛田川/櫛田の渡し場
  • 六字名号碑
  • 祓川
  • 斎宮/斎宮歴史博物館
  • 隆子女王墓
  • 竹神社
  • 紀州藩高札場/鳥羽藩高札場
  • 参宮人見附道標/宮川桜の渡し

小津安二郎青春館

松坂に小津安二郎に関係する場所があるとは知らなかった。見た時はレトロ風の建物でマイナーな映画館かと思ったが、小津安二郎の資料館だった。生憎、今日は休館日。解説では小津が9才から19才まで松坂で過ごした。だから青春館なのかと納得。最近の映画はアクションとかファンタジーとかホラーとか娯楽性を追求しているものが多い。小津の様な監督は見かけない。これは映画を作る方より視聴者に原因が会うのだろう。
松坂を過ぎると極端に田舎になる。これは伊勢まで続くことになる。畑が多くなり、街道につきものの常夜燈が出て来ると集落が街道沿いにあり、抜けるとまた畑が目立つ様になる。この情景も伊勢市に入るまで続く。

信楽寺

信楽寺は天台宗真盛宗の名刹。門前には閻魔堂、常夜燈。卍の紋の鬼瓦が飾っている。

神戸神社

神戸神社は、この地、旧垣鼻村の鎮守社。

上川の町並み

常夜燈を過ぎると古い家屋が多くある上川と言う地域になる。残念ながら古い建物が軒を連ねると言った感じでなく、ポツンポツンと古い建物が残っている。

浄林寺

たまたま通りすがりで、参道が立派なので境内も庭園の様かなと思い寄って見る。参道は良かったが、境内は期待はずれ。
豊原町に入る。渡場がもう少しなので、その船の順番を待つ旅人の宿か休憩所があったのだろうか、今でも古い街並みの面影が残っている。もうすぐ川に差しかかるので道に迷わないようにか道標が二箇所にもある。一つは、街を抜けて川の堤防にぶつかった所、もう一つはその堤防沿いに進み、渡場への道標。前にも書いたが、伊勢神宮までも大きな川は、政策上、橋ではなく渡し船での渡川となっていた。

櫛田川/櫛田の渡し場

ここから、日本神話や伊勢神宮、そして天皇家に関わる史跡は登場してくる。ここに来るまでも、日本武尊に関わるところはあったが、伊勢神宮迄は次々と出てくる。どこまで神話の世界で、どれだけ史実なのかは、不明な物が多いのだが、天皇家の成り立ちを考える上では面白い。この櫛田川にまつわる話もその一つで、フィクションとノンフィクションが微妙に混じっている様に思える。天皇家の神秘性を高めるのに大いに貢献しているのだろう。天皇家が神の末裔の証が「三種の神器」と言われている。天照大神が瓊瓊杵尊 (ニニギ) に授けた三種類の宝器で、八咫鏡 (やたのかがみ)、叢雲剣 (あまのむらくものつるぎ 別名を草薙剣)、八尺瓊勾玉 (やさかにのまがたま) を指している。日本神話でこの三種の神器が登場している。八咫鏡は天の岩戸に隠れた天照大神の興味を引くために照らしたかがみ、八尺瓊勾玉もその時に造られたと言われており、叢雲剣は須佐之男命が出雲でヤマタノオロチ (八岐大蛇) を倒し、その尾から出てきた剣。同年代の人達は子供の頃に絵本で読んだことがあるだろう。今の子供達は日本神話に触れる機会はあるのだろうか? 実物は鏡、剣、勾玉が、それぞれが、伊勢神宮内宮、熱田神宮、皇居剣璽の間にあると言う。鏡と剣は形代 (かたしろ) と呼ばれる代用品が古代に作られて皇居に保管されている。この形代はレプリカでは無く、実物の分身で形代自身が有効なものと宮内庁は言っている。この実物と形代の真贋についての多くの議論がある。この三種の神器は天皇も含め誰にも見る事が許されていないので、どうやって真偽を判定するのだろう。実物と呼ばれるものが、その言われ通りなのかもわからないので、不謹慎と言われるかもしれないが、この議論自体滑稽に思える。この真贋の議論は、その造られた年代を議論しているのか、本物の定義を議論しているのか、永遠に解決しない事を議論している。天皇の即時にはこの三種の神器が必要なのだが、偽物であったとしても、天皇の過去も含め存在が否定されるわけでは無い筈だが。虚実混合で天皇を神秘のベールで覆ってきたため、今更、嘘でしたとは言えないのだろう。令和への皇位継承でもこの三種の神器が登場していた。この真偽については、多分国民はあまり気にしていないと思うが....
前置きが長くなったが、この櫛田の渡し場で登場する倭姫命 (やまとひめのみこと) はこの三種の神器の八咫鏡に関わっている。八咫鏡は宮中に保管されていたのだが、第10代崇神天皇の代に神の威力が強すぎると言う事で笠縫邑に移し、第11代垂仁天皇の代に、四女の倭姫命に託されて、笠縫邑から宇陀、近江、美濃と巡り、伊勢にまでたどり着き、ここで天照大御神からの神託を受け、祠を建てて天照大神を祀りすることになった。これが伊勢神宮の始まりで、託されていた八咫鏡も伊勢神宮に安置したという経緯。この時に八咫鏡の形代が与えられ、それが現在宮中に保管されていると言われている。
この櫛田川は倭姫命が天照大神の鎮座地をもとめて諸国を巡行の際に櫛を落としたことからこの名前が付いたとされている。この倭姫命の時代に、建てた伊勢神宮への奉仕の為に斎宮が伊勢の西の端に建てられた。それ以降、歴代の斎王は斎宮へ群行の際に櫛をこの川に捨て、神に仕える決心をしたという。斎王がこの地に出発する時に父親の天皇から櫛を贈られるのだが、この川で捨てた櫛はそのものなのだろうか、そうだとすると辛い儀式であっただろうと思われる。

六字名号碑 (ろくじみょうごうひ)

川を渡ると、畑が続きその中に号碑があった。この旅でも時々名号碑を見かけた。名号碑は六字名号で「南無阿弥陀仏」と刻まれている。その他には九字名号「南無不可思議光如来」や十字名号「帰命尽十方無碍光如来」がある。この名号碑は江戸時代に念仏行者などが行脚の途中、旅の交通安全,海上安全病魔退散,子育て,古戦場の慰霊などを願い造られたもの。和歌山県や信濃に多く建てられており、それぞれ170基/200基が確認されている。

祓川 (はらいがわ)

ここから伊勢神宮領で聖域への入口とされ、その境に流れる川。斎王が都から5泊6日かけて斎宮へ赴任する際に、この川で最後 (6回目) の禊を行って斎宮に入ったとされている。

斎宮跡/斎宮歴史博物館

道標があり、外宮まで三里とある。伊勢までは、あと12キロの地点だ。ここに斎宮 (さいくう) の案内があった。知識不足で斎宮の事は知らなかった。櫛田川、祓川と立て続けに斎王所縁の地が出てきたので、斎宮とは何なのかに興味を持ち、立ち寄る事にした。斎宮が一部復元されているというので楽しみだ。斎宮に行く前に、古代伊勢街道 (伊勢街道も時代によってルートが変わっている) 沿いに斎宮歴史博物館があり、まずは斎宮の事について知る事にした。
斎宮とは古代から南北朝時代にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所。斎王は天皇の未婚の内親王か女王から亀卜により選ばれ、その時の天皇が逝去するまで、斎宮にとどまった。ガイドさんによると亀卜は形式的なもので、事前に候補者は決まっていたという。斎王に選ばれる事は名誉ではあるが、本人にとっては決して喜ばしい事では無かっただろう。天皇家の為に、人生を犠牲にする可能性もあるからだ。選出後、直ちに斎王は宮中の初斎院という所で1年間斎戒生活を送り、ついで嵯峨野にあったと言われる野宮 (ののみや) で斎戒生活を続け、2年後に宮中で群行の儀に臨み、伊勢へ発向した。出立時には父である天皇とは今生の別れになるので、天皇から櫛が送られた。
平安京から130kmの道のりを5泊6日かけ、200人余りの官人との群行になるのだが、群行の途中、六度の禊を行い斎宮に赴任する。
斎宮には斎宮寮を運営する官人や斎王に仕える女官、雑用係など500人もの人々がいた。斎宮は碁盤の目に区画され、斎王とその世話をする人々が暮らす内院、斎王に関する事務を処理する役所である斎宮寮の庁舎がある中院、官舎や官人の居宅が並ぶ下院に区分され、100棟以上の建物が建ち並ぶ広大な宮殿であった。当時は平安京以外の地方都市規模では太宰府に次ぐ大きさであったと推定されている。発掘調査から、斎宮の規模は東西およそ2キロメートル、南北およそ700メートルに及んでいた。斎宮跡には、斎宮の様子を再現した縮小模型が展示されている。
斎王の仕事は年に三回、伊勢神宮内宮の三時祭 (6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭)で神宮へ赴き神事に奉仕した。これだけという印象を持ったのだが、ガイドさんからは、この伊勢神宮へは200名もの人を引き連れ何日をかけ行くので、年に三回と言えども大掛かりなものだった。それ以外にも下宮の祭礼への参加や、この近辺には100以上もの社があり、その祭礼にも参加していたので、決して暇では無かったと説明された。
斎宮は伊勢神宮と天皇家の微妙な関係を表していると感じる。斎王は巫女の様に神との橋渡しの様なものではなく、天皇の代理として天照大神を参拝する者との位置づけで、伊勢神宮は自分たちが上位にあると思い込んでいただろう。伊勢神宮は天皇家に支配される立場ではなく、別格の様な扱いだった。後に伊勢神宮と斎王との軋轢もあった様だ。天皇家が直接神官を担っていない所が、天皇家が今の様な形で存続している事につながった様に思える。歴史を見ると国王が宗教を直接コントロールし、神官も政府の組織内に置いているケースが多い。これでは国王よりも宗教が下位に位置づけられた印象がでてしまう。日本のやり方は天照大神を天皇の上位に置き、その子孫として仕える形態をとった。天皇は神から遣わされて日本を統治しているストーリーが作られたと思える。伊勢神宮は広大な独自の領土を持ち、特権が与えられたが、同じく天照大神に仕える立場であった。天皇が直接伊勢神宮に参拝は明治天皇までは無かった、その代わりにこの斎王という存在を作り上げた。国家の第一位としての天皇の尊厳を保ちながら、不可侵の神々とのつながりを世に知らしめた。どこまで政治的な熟慮でこの仕組みが考えられたのかは分からないが、相当頭の切れる人物が側近にいたと思う。この斎王については奈良時代に編成された日本書記に記載があり、この日本書記自体が天皇家の位置づけを政治的に行った歴史書の形態をとっている。
先に触れたが伊勢神宮と斎宮の間が不仲の時代もあったと紹介していた。
天皇の逝去で斎王の任が終わった後どうなるのだろう?特に女性としてその後幸せになれたのだろうかの疑問があった。博物館ではそこも歴代斎王のその後について一人一人について書かれてあった。多くの斎王のその後は文献では見当たらないのだが、何人かはその後が分かっている。天皇の皇后には4人、皇族以外に降嫁したのが二人、皇族に嫁した人もいるようだが、多くは生涯独身だった様だ。
斎宮歴史博物館では斎王の生活などのパネル展子もあった。
斎王がどの様に生活を送ったのかは分からないが、源氏物語や伊勢物語で登場する。
伊勢物語では在原業平と斎王の恬子内親王のロマンスが書かれてある。(真偽は不明)
斎王の研究では第一人者の榎村寛之さんがこんな事を書いていた。「斎王としてきたみんなはその時代とまっすぐに向き合っていた、ということです。無事に務めを果たした人はもちろん、自主的に帰ったかもしれない人、スキャンダルを起こした人、託宣と称して大騒ぎを起こした人、いろんな斎王がいましたが、みんな彼女らなりに大真面目だったのです。」 第一印象では時代の犠牲者で可哀想と思っていたが、どの時代でも女性は強い。運命を受け入れて精一杯生きていた斎王も多くいたのだ。
飛鳥時代から鎌倉時代まで660年間続いた斎宮も南北朝時代に、遂にその終焉を迎える。660年間も維持していた事が驚きだ。鎌倉時代から南北朝時代は武家が国の主導権を取り始め、天皇の権威が弱くなり、それと同時に経済的にも逼迫してきた時代だ。特に終焉を迎えた南北朝時代は天皇家が南朝と北朝に分離し、それを武家が権力闘争に利用した時代で、斎宮にかまっていられる時代では無く、500人 (末期は人員整理もあっただろうからこれほどの人数では無かったと思うが) もの斎宮官僚を養っていく経済状況では無かっただろう。想像では斎宮自体がどんどん形骸化し、宮中では金食い虫として問題視されていたのではと思う。しかし、斎宮をやめる理由が見当たらず細々と続けていたのだろう。それが南北朝時代の政治的混乱期には続けられなくなり自然消滅となった。その後、政治が安定しても復活は無かった事を見ると、宮中では斎宮がなくなり、ほっとしていたと想像する。先に個人的意見だが斎宮の造られた政治的意図を書いたが、斎宮が660年も続き、その目的は十分に達成されていた。天皇の漠然とした神格化や国の象徴としての天皇の立場が作られたと思う。その意味では、伊勢神宮の存在より、この斎宮の存在の方が歴史的には面白い。
いつきのみや歴史体験館というものが博物館から少し離れた斎宮跡ににある。平安時代の貴族の屋敷「寝殿造」をモデルに造られている。平安装束の試着体験や古代の貝覆いや盤双六などの遊び、織物体験、古代の香体験などを用意してあった。
斎王の森
博物館から古代伊勢街道が伸びて、斎王の御殿があった場所に通じる。斎王の森と呼ばれており、発掘された井戸跡や建物の柱跡が復元されている。
ビジターセンターとして平安の村が斎宮跡内にあり、斎宮寮の中心区画の正殿、東脇殿、西脇殿が復元されている。ボランティアガイドさんが丁寧に1時間ほど説明をして、色々な質問に付き合ってくれた。地元出身の人で、この史跡を誇りにしていた。
ここにはまだ紹介していない施設が二つあり、充実した史跡造りをしつつある。明和町では斎王祭りなるものも毎年開催している。斎王の都から斎宮までの群行を時代行列で平安の杜から斎宮の森、そして古代伊勢街道を通って博物館まで平安時代の衣装で総勢120人で行うものだ。来年の出演者の募集のビラを渡された。県外者でも良いので斎王候補者を推薦してと頼まれた。これもPRの一環なのだろう。明和町は小さな町だが頑張っているのがよくわかる。応援したい。

隆子女王墓

歴代斎王は60名の中で、伊勢での在任中に亡くなった斎王が平安時代の隆子女王と惇子内親王の2人で、いずれも斎宮跡近くに墓所と伝わる御陵が残っており、隆子女王の墳墓を訪れた。ここも宮内庁管轄で柵で囲まれているが、いつもどおり隙間が多いので、失礼して中に入ってみた。いつも通り小山が築かれ鬱蒼と木が茂っているだけだった。隆子女王は円融天皇の娘で969年から僅か5年後の974年に亡くなっている。もう一人の惇子内親王も1073年に赴任し4年で病死と記録されている。どんな思いで、短い斎王時代を過ごしたのだろう。

竹神社

明治44年 (1911)、旧斎宮村にあった25社の神を合祀して誕生した神社。元は先に訪れた博物館の近くにあった。現在の神社の場所には斎王の内院があったと推測されている。斎宮ができた初期には斎宮とはまだ呼ばれておらず「竹の都」と称していた。垂仁天皇の時代に、豪族の竹氏がこの地に進出し、孝徳天皇の時に竹郡が創設され、竹氏の一族がこの神社を創祀したと伝わっている。この地は多気郡なのだが、「多気」という地名は「竹」からきているそうだ。弘治元年 (1555) 頃にはここは野呂三郎により砦 (斎宮城) が築かれ、徳政を求めて一味と立て籠もったが、国司北畠氏によって討伐されたと伝わっている。神社の前に斎宮城跡の柱が建っている。

明和町街並み

斎宮を後にして明和町の伊勢街道を伊勢を目指し走る。町には多くの古民家が立ち並び、昔ながらの伊勢街道の雰囲気が味わえる。明和町はもっともっと観光地になって良い資産を持っている。

紀州藩高札場/鳥羽藩高札場

明和町を抜けて暫く走ると紀州藩高札場跡の石柱そして宮川近くには鳥羽藩高札場の石柱が建っていた。江戸時代にはこの間に藩の境界線があったのだ。
地図で志摩国となっている地域が鳥羽藩領。紀州藩領と鳥羽藩領が入り組んでいる。

参宮人見附碑/宮川桜の渡し

鳥羽藩高札場を過ぎ、汁谷川 (写真右上) に架かる宮古橋袂に参宮人見附碑がある。元は常夜燈があったのだが、伊勢神宮へのおかげ参りで大勢の人が押しかけ治安が悪くなり、夜間の参宮人を監視する参宮人見附があった。この橋を渡ると直ぐに宮川の渡し船を待った場所がある。宮川には渡し場が何ヶ所かあった。下の渡し (桜の渡し)、上の渡し (柳の渡し)、上條の渡し、磯の渡し。
桜の渡し場 (インターネットから拝借)
安藤広重がおかげ参りの宮川の渡し場の情景を描いている。ちょっと面白いのは三枚の左の絵の右下に犬がいる。これは当時「おかげ犬」と呼ばれていた。
足腰が悪い人や病弱な人の主人の代わりにこの「おかげ犬」がお詣りをしたそうだ。知り合いに犬を連れて行ってもらったのだが、犬だけで旅に出すこともあった。しめ縄を首に巻いた犬を見ると、旅人が引き継ぎながら犬を伊勢まで連れて行ってくれる寸法で、首にはその旅の費用がくくりつけられていたそうだ。伊勢でお札を買ってもらい、それを家まで来た時と同じように旅をして持って帰った。なんとも微笑ましい話だ。
この宮川で日没となった。いつものことなのだが、今日は斎宮でガイドさんと長い間歴史談議をしてしまった為。長話も旅の楽しみ。暗くなったので、ライトをつけてゆっくりと伊勢に向かう。


0コメント

  • 1000 / 1000