東京 (08/10/21) 江戸城 (25) 内曲輪16門 / 内濠 (8) 坂道巡り (1) 港区 (1)

内濠坂道巡り

六本木一丁目周辺の坂道

  • 道源寺坂
  • スペイン坂
  • 三谷坂 (さんやざか)
  • 御組坂 (おくみざか)

六本木二丁目と三丁目周辺の坂道

  • 南部坂
  • 市三坂 (いちみざか)
  • なだれ坂
  • 寄席坂
  • 閻魔坂
  • 丹波谷坂
  • 不動坂
  • 行合坂 (ゆきあいさか)

六本木五丁目周辺の坂道

  • 芋洗坂
  • 饂飩坂
  • 鳥居坂
  • 潮見坂
  • 於多福坂
  • 永坂 (ながさか)

赤坂六丁目周辺の坂道

  • 檜坂
  • 氷川坂
  • 本氷川坂 (2020年9月29日 訪問)
  • 転坂 (ころびざか 2020年9月29日 訪問)
  • 福吉坂

赤坂四丁目と五丁目周辺の坂道

  • 三分坂 (2020年9月29日 訪問)
  • 円通寺坂
  • 薬研坂 (やげんさか)
  • 稲荷坂、末広稲荷神社 (2021年1月14日 訪問)
  • 丹後坂
  • 牛鳴坂 (2020年9月29日 訪問)

赤坂八丁目周辺の坂道

  • 新坂
  • 稲荷坂
  • 乃木坂

赤坂一丁目周辺の坂道

  • 榎坂
  • 新榎坂
  • 桜坂
  • 鼓坂 (つづみざか)
  • 三谷坂 (さんやざか)
  • 霊南坂 (2020年12月21日 訪問)
  • 汐見坂 (2020年12月21日 訪問)
  • 江戸見坂 (2020年12月21日 訪問)

元赤坂周辺の坂道

  • 九郎九坂 (2020年9月29日 訪問)
  • 弾正坂 (2020年9月29日 訪問)
  • 紀伊国坂(きのくにざか、2020年9月29日 訪問)
  • 鮫ヶ橋坂(さめがはしざか、2020年9月29日 訪問)
  • 安鎮坂(あんちんざか、2020年9月29日 訪問)

愛宕と芝公園周辺の坂道

  • 愛宕石坂 [愛宕男坂]
  • 愛宕女坂
  • 愛宕新坂 (2022年1月14 訪問)
  • 切通坂
  • 銀杏坂
  • 富士見坂 [未訪問]

麻布周辺の坂道

  • 西久保八幡社 (2022年1月14日 訪問)
  • 西久保八幡社男坂/女坂 (2022年1月14日 訪問)
  • しいのき坂 (2022年1月14日 訪問)
  • 土器坂 (かわらけざか)
  • 永井坂
  • 榎坂
  • 雁木坂
  • 狸穴坂 (まみあなざか)
  • 鼬坂 (いたちざか)
  • 鼠坂


今回東京滞在で今日が江戸城巡りの最終日、昨日で内濠にある16門の見附門訪問が完了した。江戸時代から内濠と外濠の間にあった坂道を巡る。江戸城巡りでは、坂道巡りは予定していなかったのだが、まわっているといくつもの坂道の表示板が設置されており、東京都では結構充実した観光案内がされている。途中から坂道に興味が沸き、歴史ある坂道も走ってみることにした。今まで、城めぐりの最中に、幾つかの坂には出くわしたのだが、見落としていた坂道も多くあり、今日は、それらをまとめて巡ることにする。巡る際には、必ず坂道を通ることにしている。その坂道の傾斜や周りの様子が見ることができ、それはそれで楽しい。昔からの風情が残っている坂、昔が想像できる坂、まったく近代的に変わってしまった坂。一つ一つが正確を持っている。

泊っているホテルがが六本木一丁目なので、その周りから開始する。この地域は港区で、港区の観光案内や文化財紹介は非常に充実しており、港区のホームページでかなり詳しい情報を得ることができる。歴史ある坂道として紹介されているのは86スポットもあった。他の情報源も含めると、約120もの名前の付いた坂道があるそうだ。

まずは六本木から始め、赤坂、元赤坂、愛宕、芝公園、麻布の順序で巡る。



六本木一丁目周辺の坂道

まずは、今泊っているホテルから近いの六本木一丁目周辺の坂道から始める。港区のホームページには86もの坂道が紹介され、それぞれに説明がされている。


道源寺坂

地下鉄六本木一丁目の駅入り口から登坂がある。かなり急な坂だ。この坂は江戸時代初期から坂の上にある道源寺があったことから、この坂は道源寺坂または道源坂と呼ばれていた。


スペイン坂

道源寺坂を登りきると、そこから、下に降る坂道がある。スペイン坂と名が付いている。この名からすると江戸時代の坂ではない。1986年 (昭和61年) にアークヒルズの建設時に整備された坂で、今では桜の名所にもなっている。江戸時代松の地図にも道はないのだが、ちょうど道源寺東側の敷地境界線二あたる。この坂を降りたところがスペイン大使館があるのでこのように呼ばれている。


三谷坂 (さんやざか)

スペイン大使館の北の道路でアークタワーイーストから下り坂になっている。この坂は三谷坂 (さんやざか) と呼ばれている。坂下がかつては今井三谷町とよばれていた。したがって、この坂も今井三谷町であったことから三谷坂と呼ばれている。江戸時代と現在ではこの坂の一が少しだけ変わっている。


御組坂 (おくみざか)

アークヒルズ千石山森タワー近くに、綺麗に整備された坂がある。昔の御組坂 (おくみざか)。幕府御先手組 (おさきてぐみ、戦時の先頭部隊で、常時は放火盗賊を取締まる) の屋敷が南側にあったのでこの坂名となった。


六本木二丁目と三丁目周辺の坂道

次は六本木二丁目と三丁目にある坂道へ移動する。


南部坂

六本木二丁目から、首都高都心環状線の高架の道路を渡り、六本木一丁目二移動。六本木一丁目ノほとんどがアメリカ大使館の敷地になっている。この地域にある坂は、南部坂だけだ。今回泊っているホテルは、このすぐ近くのアパホテル。南部坂はアメリカ大使館の北東に沿って通っている。江戸時代初期に南部家中屋敷があったので、南部坂と呼ばれる。険しい坂だったので難歩坂とも書いたそうだ。また、なんぽ坂とも赤坂とも呼ばれていた。南部家は現在の有栖川宮記念公園のある場所へと移動し、そこでも「南部坂」が生まれたために、こちらの坂を「難歩坂」「なんぽ坂」などと呼び始めたそうだ。この坂は、歌舞伎の忠臣蔵の名場面で、大石良雄が瑤泉院に暇乞いに訪れた「南部坂雪の別れ」の舞台。


市三坂 (いちみざか)

六本木三丁目に進む。首都高都心環状線の高架下の道路は明治20年代に開かれた道で坂になっている。確かに江戸時代の地図にはこの坂はなく、大名屋敷を突っ切っている。名主の名がついた市兵衛町と松平三河守忠直邸のあった三河台町との間で両頭文字をとったとあるが、幕末の江戸地図には松平三河守忠直邸は見当たらない。


なだれ坂

この坂は色々な名称で呼ばれていた。江戸切絵図ではナダレ坂と記されているが、地元の住民のあいだでは長垂坂 (ながたれさか) と呼ばれていた。その他では、流垂坂、那だれ坂、奈太礼、坂側に幸国寺があったので幸国坂、旧市兵衛町にかかる坂なので市兵衛坂などとの別名でも呼ばれていた。


寄席坂

坂の途中の北側に、明治から大正3年にかけて、福井亭という寄席があったために、寄席坂と呼ばれるよう二なったとある。江戸時代にはこの坂は存在していないようだ。


閻魔坂

閻魔坂という恐ろしそうな名の坂がある。この近辺は覆うの寺や墓地があった場所。坂を登った所に崇巌寺があり、崇巌寺の閻魔堂に因んだ坂の呼称だそうだ。坂なのだが階段になっている。江戸時代も階段だったのかは分からない。自転車を担いで登る。


丹波谷坂

閻魔坂を登った所から、短く勾配が急な狭い下り坂があった。江戸時代の地図には出ていない。港区の説明では「元和年間旗本岡部丹波守の屋敷ができ、坂下を丹波谷といった。明治初年この坂を開き、谷の名から坂の名称とした」とある。やはり明治以降の坂だが、ちょうど江戸時代の不動院の敷地に沿って下る坂になっている。


不動坂

丹波谷坂の南の並行して坂がある。かつての不動院の敷地を突っ切っている。この坂も明治時代以降のものだろう。坂の上は、かなり細い抜け道になっていた。閻魔坂の坂上からこの不動坂を探したが、抜け道があるとは知らず、行き止まりと思い、坂下から登ることになり、この抜け道があるのがわかった。不動院は広いものだったが、その大半は住宅街になって、この坂の途中に小さく不動院があった。


行合坂 (ゆきあいさか)

本木二丁目から首都高都心環状線が分岐しており、東側の南に伸びる方の高架下の道路は江戸所代は行合坂 (ゆきあいさか) と呼ばれていた。双方から行合う道の坂であるため行合坂と呼ばれたと推定されているが、市兵衛町と飯倉町の間であったことからこの名になったともいわれている。



六本木五丁目周辺の坂道


芋洗坂

六本木通りと外苑東通りが交差する六本木交差点にあるアマンドの左脇からの下り坂は芋洗坂と呼ばれていた。何か謂れがありそうな名前だ。坂下の朝日稲荷の前で芋が売られていたためにこの名が付いた。付近に芋問屋があったちか、坂下に芋問屋があったためとも言われている。また別の説では、芋は当時、あばた、疱瘡の事でもあり、「いもあらい」は疱瘡に罹った際に神仏に祈願し、水で洗うことを意味していた。坂沿いにあった法典寺の弁財天で「いもあらい」の祈念が行われていたのが名称の起源であるとの解釈もある。江戸時代の地図では、この坂の途中で登り坂に分岐している饂飩坂が芋洗坂と記されているが、こちらを芋洗坂と記した地図もあると言う。


饂飩坂

芋洗坂に合流している坂は饂飩坂という。天明年間末(1788)頃まで松屋伊兵衛という、うどん屋があったために、うどん坂と呼ぶようになった。昔の芋洗坂とまちがうことがあ芋洗坂と饂飩坂の位置については江戸時代でも論争があったようで、幕府機関がその解明に乗り出し、ここで紹介している様に結論を出したそうだ。決め手は疱瘡祈願説にあり、芋坂ではなく芋洗坂で「あらい」を祈願の際の水洗いであったという。

鳥居坂

シンガポール大使館の西側の鳥居坂は、元禄年間 (1688~1703) ごろ開かれた道で、慶長初期、この坂の東に鳥居(鳥井)彦右衛門元忠が坂の東側に屋敷を拝領し、江戸時代中頃まであったことに由来している。また、一説では氷川神社の二の鳥居か三の鳥居があったからともいう。

潮見坂

江戸には幾つもの潮見坂があり、ここもその一つ。どの坂も海がのぞめたのでこの名で呼ばれている。ここは高台なので、江戸時代には海が見えたのだろう。路地裏の道のような短い曲折の坂。

於多福坂

フィリピン大使館のすぐ裏に於多福坂がある。坂の傾斜が、途中でいったんゆるやかになって、また下がったので、顔の真ん中の低いお多福面のようだと名づけられた。


永坂 (ながさか)

麻布台上から十番へ下る長い坂であったためにいう。長坂氏が付近に住んでいたともいう。


赤坂六丁目周辺の坂道


檜坂

この檜坂は、江戸時代には、大名堀田家の下屋敷に向かって登る坂になっており、檜の木が多く茂った檜屋敷と呼ばれた萩藩毛利家麻布龍土中屋敷/下屋敷 (現在の檜町公園) に添っていたので、このように呼ばれた。


氷川坂

八代将軍徳川吉宗の命で建てられた氷川神社入り口の前に緩やかな坂道があり、氷川坂と呼ばれている。


本氷川坂 (2020年9月29日 訪問)

氷川坂道と平行にもう一つ坂がある。本氷川坂と書かれていた。先程の氷川坂と関係があるのかと思っていたが、直接的には関係は無かった。江戸時代にはこの地に元氷川明神と呼ばれた神社があったので、この名がついたそうだ。元氷川明神は1883年 (明治16年) に氷川神社に合祀され、現在は存在しない。この本氷川坂の坂下あたりには、勝海舟邸宅跡がある。


転坂 (ころびざか 2020年9月29日 訪問)

本氷川坂の途中に分岐する登りの坂道ある。江戸時代から道が悪く、通行する人たちがよくころんだために転坂と呼ばれている。本氷川坂もころび坂といわれた時代があったそうだ。


福吉坂

赤坂繁華街から抜ける登り階段がある。これは福吉坂と呼ばれている。どうも江戸時代にあったのかどうかは分からないが、この名は明治以降に付けられている。明治維新後、福岡藩、人吉藩、結城藩の三藩邸を合併して、福岡藩の福、人吉藩の吉をとって赤坂福吉町となった。その町名が坂の名になっている。



赤坂四丁目と五丁目周辺の坂道


三分坂 (2020年9月29日 訪問)

急坂のため通る車賃を銀三分増した事から三分坂と呼ばれる様になった。確かに、この坂は勾配がきつくクランクしている。自転車で登るのはきついが、登れないほどの激坂でも無い。距離がそれ程では無いので何とか登れた。


円通寺坂

1695年 (元禄8年) に元々は三分坂の上あたりにあった円通寺が火災の為、この坂の上南側に移転してきた事からこの名が付いたとあるが、それ以前に同名の別寺があったそうだ。坂下には土木に従事していた黒鍬組屋敷があった。円通寺の江戸時代にあった時の鐘で時刻を知らせた七つの寺院のひとつ。


薬研坂 (やげんさか)

坂の形が、道の中央が窪んでおり、これが薬を砕く薬研に似ているために薬研坂と呼ばれている。付近住民は何左衛門坂とも呼んでいた。


稲荷坂、末広稲荷神社 (2021年1月14日 訪問)

薬研坂から黒鍬谷に下る坂。坂下一帯は江戸城内の掃除や荷物などの運搬等の雑役おこなう下級役人の黒鍬組の屋敷があったため黒鍬谷と呼ばれた。坂名は末広稲荷 (江戸時代の地図では末広稲荷ではなく、すぐ近くの場所に赤廣稲荷がある) があったことに由来している。末広稲荷神社は1701年 (元禄14年) に江戸幕府黒鍬同心の鎮守として造られた。

丹後坂

丹後坂は階段になっている坂道で、1688年 (元禄元年) に造られたとされている。当時、坂の東北側に米倉丹後守 (西尾丹後守) の屋敷があった事からこう呼ばれている。自転車を担いで階段を下る。


牛鳴坂 (2020年9月29日 訪問)

西大平藩大岡家下屋敷跡に沿って登り坂があり牛鳴坂がある。その由来を記した柱には「赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づけられた。さいかち坂ともいう。」とある。現在の坂はそれ程では急では無いので、削られて緩やかな坂になったのだろう。

赤坂八丁目周辺の坂


新坂

新坂とあるのは、新しくできた坂で、東京には多くこの名が付いた坂がある。この坂も比較的新しい坂かと思っていたのだが、道標には、この坂が開かれたのは1699年 (元禄12年) とあるので、比較的古くからあった坂だった。


稲荷坂

新坂の南に別の坂道があった。坂道は蛇行し、比較的急な坂だ。坂下北側に先に通った円通院があり、その境内の中にあった稲荷への門があり、そこに向かう坂という事で、稲荷坂と呼ばれていた。坂上には江戸城中清掃役の役人が住んでいた町があったので掃除坂ともいわれた。


乃木坂

乃木坂の名は乃木希典から来ている事は知っていたので大正時代以降にできた坂かと思っていたが、江戸時代の地図には幽霊坂と記載されている。この坂は行合坂、膝折坂、なだれ坂とも呼ばれた。1912年 (大正元年) に乃木将軍の死後、この幽霊坂は乃木坂と改められ、後にこの周辺の地域も乃木坂と呼ばれる様になった。


赤坂一丁目と虎ノ門周辺の坂


榎坂

ちょうどアメリカ大使館の門の前の道が榎坂だ。江戸時代には、この道の前の古街道に一里塚があり、そこに大きな榎があったと伝えられていたことからこの坂が榎坂と呼ばれた。大使館の前を写真に撮ると、警官に職務質問されそうなので、少し離れたところから大使館が移らないように写真を撮った。東京は警備の警官が多く、何度も職務質問された。質問されると、江戸巡りをしていることを話し、少しその地の歴史などを話すと少し警官の表情も緩む。若いころは面と向かって憤慨して議論をふっかけたのだが、警官も大変だ。職務とは言え、同じところに何時間も、ただ立ってみているだけと思い、最近は低調な対応をしている。


新榎坂

榎坂を登ると、次は下り坂になる。この下り坂は新榎坂と呼ばれている。江戸時代の地図では記載がない。2005年ごろに地域の再開発により新しく造られた坂なので、アメリカ大使館前の通りの榎坂にちなんで、この坂名になった。


桜坂

新榎坂を下ると西側への登坂の桜坂があった。江戸時代の地図では大名屋敷内にあたり、明治中期に新しく造られた坂道で坂下に大きな桜の木があったことからその名が付いた。現在は桜並木が植わり、六本木のスペイン坂と同じく桜の名所となっている。


鼓坂 (つづみざか)

桜坂を進むと道は曲がり霊南坂教会の近くに来る。ここに鼓坂 (つづみざか) があるのだが、この坂についての由来などは見つからなかった。鼓坂という名がどのようにしてつけられたのかが気になって色々と調べたのだが、残念。江戸時代の古地図では記載なく、大名屋敷の敷地内を突っ切ることになる。明治以降にできた坂だろう。


三谷坂 (さんやざか)

鼓坂 (つづみざか) を進むと三谷坂 (さんやざか) に出る。この坂下の辺りに今井三谷町という町屋が広がっていたのでこの名が付いたのだろう。江戸時代の古地図では、この坂道にあたる道は見受けられるが、坂道表示はなかった。


霊南坂 (2020年12月21日 訪問)

三谷坂を下ると、突き当りに南北の道があり、これを北に進むとアメリカ大使館の東の道路だった。この道の坂は霊南坂と呼ばれている。江戸時代のはじめ高輪の東禅寺が嶺南庵としてここにあり、開山嶺南和尚の名をとったが、いつしか、嶺南が霊南になった。ここには多くの警察官が監視しており、霊南坂の標識はちょうど大使館の入り口で警官が立っている。写真を撮ろうとすると制止され、この近辺はセキュリティーで撮影禁止という。何が撮影してはいけないのかと聞くとアメリカ大使館が写るとだめだそうだ。インターネットでも写真があり、Google Mapではストリートビューで丸見えなの少し変なのだが、若い警察官は教えられたとおりに忠実に職務を遂行しているつもりだけなのだろう。アメリカ大使館が写真に入らなければと許可が出たので、霊南坂を撮影。坂の上からの撮影は特に問題はなかった


汐見坂 (2020年12月21日 訪問)

霊山坂を下り、突き当りの道の左側が先ほど通った榎坂で右側が下り坂の汐見坂とになっている。東京には後二つ汐見坂と呼ばれるところがある、一つは千代田区二もう一つは大田区にある。どれも海が見えたことからこの名が付けられている。こちらの汐海坂は江戸時代中期以前には、海が展望できたという。坂の南側に川越藩松平大和守上屋敷があったことから大和坂とも呼ばれていた。


江戸見坂 (2020年12月21日 訪問)

この坂はこの日定期健診の虎ノ門病院のすぐ横にある。江戸の街がひらけて、その大半を眺望できたことより、江戸見坂といわれている。歌川広重の「東都名所坂つくしの内 江戸見坂之図」にこの坂が描かれている。当時の坂の様子が垣間見れる。かなり急な坂で、上野沼田藩土岐美濃守の上屋敷の塀沿いにの坂道は段々になっており、石の土留めがあるのがわかる。江戸時代の坂道の大半はこのような坂だったそうだ。向こう側には名のごとく江戸の町と海が見えている。この坂の上から移した古写真も残っており、どのように江戸の街が見えたかがわかる。坂の左側に写っているのは川越藩松平家上屋敷の一部。この急な坂は明治になって改修され、なだらかな坂になっている。坂沿いは江戸見坂公園に整備されており、ちょっとした庭園の雰囲気がある公園となっていた。


元赤坂周辺の坂道


九郎九坂 (2020年9月29日 訪問)

紀伊国坂から青山通りへ向かう坂がある。九郎九坂と立て札がある。九郎九と言う人が住んでいた体そうだ。かつては、ここには鉄砲練習場があり鉄砲坂とも言われている。


弾正坂 (2020年9月29日 訪問)

牛鳴坂の道をそのまま進んで、青山通りに戻る道がある。これも坂道。こちらからだと下りだが、弾正坂と書かれていた。代々、弾正大弼 (だいひつ) を任命された吉井藩松平氏の屋敷があったことからこの名で呼ばれている。弾正大弼は太政官制での監察・治安維持などを行う官職だが、戦国時代、江戸時代は実際の職務ではなく、位としての称号で与えられたもの。

紀伊国坂(きのくにざか、2020年9月29日 訪問

坂の西側に江戸時代を通じて、紀州(和歌山県)徳川家の広大な屋敷があったことから呼ばれた。赤坂の起源とする説がある。外堀に沿って中屋敷跡 (赤坂離宮) の東側は坂道になっている。紀伊国の中屋敷があったのでこの名がついている。別名もあり、茜草が生える赤根山(迎賓館付近の高台)に登る坂であることから赤坂・茜坂とも呼ばれたそうだ。これがこの地が赤坂と今でも呼ばれている由縁だ。


鮫ヶ橋坂(さめがはしざか、2020年9月29日 訪問

明治時代まで坂下に鮫河橋という橋があり、この辺りを鮫河橋町と呼んでいたことからこの名がついた。


安鎮坂(あんちんざか、2020年9月29日 訪問

付近に安鎮(珍)大権現の小社があったので坂の名になった。武士の名からできた付近の地名によって権田原坂ともいう。


愛宕と芝公園の坂道


愛宕石坂 [愛宕男坂]、愛宕女坂 (2020年12月21日 訪問)

愛宕神社の参道の愛宕石坂 [愛宕男坂] は、傾斜角度は約40度で86の石段の急坂。寛永11年 江戸三代将軍家光の時代、家光所望により、この坂を馬で登り切り梅を摘み献上した曲垣平九郎の逸話から出世の階段ともいわれている。愛宕石坂 [愛宕男坂] の右側には女坂 (写真右上) と呼ばれた道がある。女坂と言っても、少しだけ緩やかで、109段あるので、女性にとっては休まず登るのはつらいだろう。

愛宕石坂 [愛宕男坂]、愛宕女坂が描かれた浮世絵。


愛宕新坂 (2022年1月14 訪問)

愛宕山の西北をぐるっと回って愛宕神社に上る舗装道路で、1886年 (明治19年) に、当時ここにあったホテル愛宕館の申請によって造られた坂で江戸時代にはまだなかった。上りつめたところにNHK放送博物館 (写真右下) がある。


切通坂、オランダ大使館、芝給水所

愛宕山の南の青松寺の脇からの坂道で、青龍寺の前を通り、オランダ大使館、芝給水所に至る。この坂は長い坂で切通坂と呼ばれており、オランダ大使館の前の道は手まり坂 (写真右下近辺) とも呼ばれていた。寛永年間のころに山を削り切通しを通して道が開かれた。江戸時代の古地図からも分かる通り、坂下の一帯は寺だらけで、その参拝客目当ての芸人小屋が立ち並び大変賑やかだったそうだ。

オランダ大使館の門、オランダ王国のエンブレムが目立っている。

芝給水所には昔建てられたころの遺構が残っている。正門は明治31年に造られた淀橋浄水場のものを移設復元している。敷地内には、明治28年に建設された当時使用されていた水道管、配水池連絡管、馬蹄型通路が置かれている。新しく造り替えられた配水池の壁面には煉瓦積の流入弁室外壁とその銘板が保存されている。


銀杏坂

江戸時代の増上寺と徳川家の霊屋の敷地だった北部分に建てられている東京プリンスホテルに沿った北側の道は銀杏坂と呼ばれている。この地一帯は芝公園 (写真下) で,建設当時、地形は多くの改造が行われ、新道も開かれて昔とは随分変わっている。銀杏坂も昔とは変わってしまっている。


富士見坂 [未訪問]

東京タワーの東側にある富士見台の上の観音堂へ上る坂道を富士見坂と呼んでいた。昔は東京タワーの下から上がって行く細い坂道があったのだが、現在は観音堂へ上る数段の石段の実が残っている。当時は観音堂から富士山が見えたのだろう。ここは見落としてしまったので写真はインターネットから借用している。次回東京に来た時に訪問予定。


麻布周辺の坂道


西久保八幡社 (2022年1月14日 訪問)

神谷町に西久保八幡神社があった。この神社は、源頼信の祈願により寛弘年間 (1004-1012年) に霞ヶ関に創建されたが、太田道灌の江戸城築城に際して、1600年 (慶長5年) に、この地へ遷座している。関ヶ原の戦での戦勝と安全を祈願し、その報賽として1634年 (寛永11年) に社殿が造営されたと伝わる。愛宕山の西方の窪地にあったので西窪 (西久保) 八幡社と呼ばれるようになった。は,愛宕山の西方の窪地の意味。はじめは霞ヶ関にあり,現在地に移ったの。源頼信は源満仲の三男で、河内国石川郡壷井 (現 大阪府羽曳野市壺井) を本拠とする河内源氏初代当主。摂政藤原道長に仕え武勇に優れた将軍として名を馳せ、平将門以来の大乱となった平忠常の乱 (1030年) を平定、坂東武士を膝下にまとめ河内源氏東国支配の礎を築いた。

西久保八幡社男坂/女坂 (2022年1月14日 訪問)

西久保八幡社への参道は二つあり、西久保八幡社正面の44段の石階を男坂とよび,右方のゆるい石段坂を女坂と呼ばれている。

しいのき坂 (2022年1月14日 訪問)

西久保八幡社の北側にある仙石山レジデンスとスウェーデン大使館の南 (写真左下) にしいのき坂がある。仙石山レジデンス (写真右下) は仙石山テラス・六本木ファーストビルなどと共に,2012年に開発され、その際に、このしいのき坂の道路が新設された。


土器坂 (かわらけざか)

麻布台地の谷間の赤羽橋から登る緩やかな坂がある。土器坂 (かわらけざか) と呼ばれ、このあたりに土器職人が住んでいたことからこの名が付いた。別の説では、源頼光四天王の筆頭で鬼退治で有名な渡辺綱が、ここで買い求めた馬が河原毛の名馬だったからともいわれている。


永井坂

土器坂を登り切った飯倉交差点から、東に分岐する道があり、ここは永井坂と呼ばれる。増上寺の門前町だった永井裏門前町が、火災で、幾つかの場所に移転し、対にはこの坂の北側に落ち着いた。この周辺は江戸時代から明治初期にかけて芝永井町と呼ばれていた。この移ってきた永井町が名前の由来。


榎坂

飯倉交差点から、西に分岐する下り坂が榎坂。江戸時代より以前の古街道を示す榎があったので榎坂と呼ばれたと考えられている。手持ちん江戸時代の古地図では、先ほどの永井坂が榎坂となっている。


雁木坂

榎坂の一ブロック北側に急な階段になっている坂道がある。雁木坂と呼ばれている。階段になった坂を一般に雁木坂というそうなので、江戸時代からこのような階段の坂だったのだろう。また、敷石が直角に組まれていたことからそう呼ばれたとの説もある。当て字で岩岐坂とも書かれる。自転車を上に停めて下り、また昇る。


狸穴坂 (まみあなざか)

飯倉交差点二戻り先ほどの榎坂を西側に上ると、ここも警備の警察官でいっぱいのロシア大使館を越え、左側、アメリカンクラブ方面への下り坂がある。狸穴坂 (まみあなざか) という。面白い名だが、昔にまみ (雌狸 たぬき) の穴があったからだそうだ。採鉱の穴であったという説もある。



鼬坂 (いたちざか)

ロシア大使館まで戻り、道を東に進むと、今度は鼬坂 (いたちざか) という下り坂がある。狸の次はイタチだ。坂名の由来ははっきりとしないそうで、起伏のはげしい谷筋にあったのでいたちが出没していたからとも、先ほどは狸坂だったので、洒落で鼬とネーミングしたのかもと色々憶測されている。坂道の途中に島崎藤村がが大正時代から昭和初期にかけて住んでいた住宅跡の碑が置かれていた。


鼠坂 (ねずみざか)

鼬坂 (いたちざか) を坂に下ると、道が二股に別れ、その一つの道幅がかなり狭くなった下り坂がある。鼠坂 (ねずみざか) となっている。狸から鼬に続き鼠になった。どうも洒落で名を付けているようだ。江戸時代はもっと狭い道だったようで、ネズミしか通れない細長い坂ということでこの名が付いたと案内柱には書かれている。別名 鼬坂 (いたちざか) とも呼ばれたとあり、先ほど通った鼬坂 (いたちざか) と同じ坂だったのだろう。先ほど見た旧家跡二住んでいた島崎藤村はこの鼠坂を短編小説「嵐」の舞台として使っているそうだ。


植木坂

鼬坂 (いたちざか) から鼠坂 (ねずみざか) への分岐点から、別の上り坂の植木坂がある。容易に想像がつくのだが、近くに菊人形を始めた植木屋があったことからの名だそうだ。できれば、ここも動物の名前にしてほしかった。


この道を進むと、今朝坂巡りを始めた六本木になる。ぐるっと一周した形になる。麻布にはまだ、三年坂 (三念坂)西久保八幡男坂西久保八幡女坂があるのだが、今日は会社で働いていた時代の部下たちが集まって夕食会をアレンジしてくれているので、この辺で今日はおしまいにしたほうが良いだろう。残りの坂巡りは次回東京訪問時とする。明日は、約90キロ先のお山までの長距離ライドとなる。



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