東京 (15/12/20) 江戸城 (10) 外曲輪12門 / 外濠 (10) 大名屋敷 渋谷/六本木

外曲輪12門

  • 岡藩中川家目黒抱屋敷 (菅刈公園、西郷公園)
  • 福岡藩黒田家渋谷下屋敷
  • 渋谷氷川神社
  • 常陸宮邸
  • 金王八幡宮 / 渋谷城跡
  • 宮益御嶽神社
  • 西条藩松平家上屋敷 (青山学院大学)
  • 淀藩稲葉家下屋敷 (国連大学)
  • 広島藩浅野家青山下屋敷 / 青山内証分家新田藩上屋敷 (表参道ヒルズ)
  • 長谷寺
  • 青山の庚申塔
  • 佐倉藩堀田家下豊沢村下屋敷 (日赤医療センター、清心女子大学、広尾ガーデンヒルズ)
  • 東北寺 (日向国佐土藩島津家墓地)
  • 光林寺
  • 曹渓寺 (寺坂吉右衛門墓)
  • 郡上青山家藩下屋敷 (青山霊園、梅窓院)
  • 長府藩毛利家上屋敷 (六本木ヒルズ、毛利庭園)
  • 萩藩毛利家麻布龍土中屋敷/下屋敷 (東京ミッドタウン、檜町公園)
  • 檜坂
  • 篠山藩青山家下屋敷 (青山中学校)
9月30日に東京から沖縄に帰ってから2か月半が過ぎた。今回も病院での定期健診のために東京に来た。沖縄からとなると一仕事のような印象があるが、実際は非常に便利がよい。那覇の住んでいるアパートの前が那覇空港行のバスの停留所で、20分で那覇空港に着く。今はインターネットでチェックインできるので、フライトの30分前に着くようにすれば問題ない。那覇-東京間のフライトは格安チケットがある。本当に格安で、今回は7000円で往復チケットが入手できた。高くても往復2万円はしない。これは新幹線で東京から大阪を往復するよりはるかに安い。フライト時間も2時間半。ある意味で東京へ行くには最も便利な地方都市だろう。今回は9泊10日の予定で、江戸城巡りを続ける。
今日は渋谷と六本木近辺にあった大名屋敷跡を中心に巡る。

岡藩中川家目黒抱屋敷 (菅刈公園、西郷公園)

江戸時代、現在の菅刈 (すげかり) 公園と西郷公園一帯は大分県竹田市にあった岡藩中川家の目黒抱屋敷で、滝や池のある庭園は江戸の名所と伝えられている。明暦の大火の翌年 (1658年)、豊後岡藩は、石川太兵衛より譲渡された土地に、周辺の土地を買い足して、1665 (寛文5年) に屋敷を普請した。当時、各大名は江戸で多発していた火災に備え、中屋敷、下屋敷、抱屋敷を避難所や保養所として別邸として使っていた。屋敷内には江戸でも評判だった池泉回遊式庭園があった。明治維新後、この屋敷は民間に払い下げられ、後に西郷隆盛の弟の従道の邸宅となり、洋館や書院を建造し、庭園も和洋折衷式に一部改造を行った。第二次大戦前に西郷家の敷地は旧国鉄等に売却され、庭園は埋められて、戦後は国鉄の職員住宅として使用された。西郷山公園は1981年 (昭和56年) に開園、菅刈公園は平成9年に目黒区所有となり、平成13年に開園した。埋められていた庭園は発掘調査の後、復元されている。この二つの公園をゆっくりと散策する。真冬でなくもっと季節の良い時期に来れば花が咲いている公園が見れるのだろう。


西郷公園

菅刈公園


福岡藩黒田家渋谷下屋敷

福岡藩の江戸屋敷は上屋敷が外桜田の霞ヶ関に、中屋敷が赤坂溜池に、下屋敷が白金と渋谷、蔵屋敷が深川にあった。ここは下屋敷の一つになる。現在は住宅や事務所ビルが立ち並び、当時を偲ぶものは一切残っていない。

[福岡藩黒田家江戸屋敷: 外桜田上屋敷、赤坂溜池前屋敷、渋谷下屋敷、深川清澄町下屋敷]

渋谷氷川神社

記録によれば、景行天皇の皇子の日本武尊ガ東征をした時に、この地に素盞嗚尊を勧請したのが始まりという。境内には秋葉神社 (火産霊神)、八幡神社 (品陀和気命)、厳島神社 (市杵島姫命)、稲荷神社 (宇迦御魂命外四柱) の境内社がある。神社の階段の下には古い時代から続いていた相撲場があった。

常陸宮邸 (常盤松御用邸)

氷川神社から國學院を越えたところに常陸宮邸がある。現在も住居になっているので、門の所には守衛がおり、中には入れない。外側から写真を撮る。
常陸宮邸の裏側にまわった所に幾つもの文化財が集まっている。ここには常盤松と呼ばれる松があったそうだ。源義朝の側室で源義経の母親の常盤御前が植えたとされる伝説が残っている。世田谷城主の吉良頼康の側室である常盤が植えたものとの古文書もある。この後に訪れる近くの金王神社の金王丸と常盤御前と結び付けて常盤御前所縁の松となったのだろうと思われる。石碑の横にまだ小さいのだが松が植えられている。(写真左上) 常盤の松の向かいには珍しい白松が植っている。確かに幹は白色だった。(写真右下) ここは世田谷郷土博物館ということもあり、庚申塔、阿弥陀板碑、地蔵、五輪塔、傘屋の碑、力石などが入り口付近に集められていた。


金王八幡宮 / 渋谷城跡

1092年 (寛治6年) に、現在の渋谷に渋谷城を築き渋谷氏の祖となった河崎基家 (渋谷重家) によって創建されたとされる。社の名前の金王は12世紀中の渋谷平三重家の子の渋谷金王丸常光から来ている。金王丸は源義朝に従って保元の乱 (1156年) で大功を立てたが、平治の乱 (1159年) で義朝が敗れ家臣の謀反により最期を遂げた際に剃髪し土佐坊昌俊と称して義朝の御霊を弔った。この時に義朝の側室の常盤御前にその死を報告に行ったと伝わっている。金王丸は、義朝の子の頼朝との交わりも深く、頼朝の命で義経の追討の為、京の義経の館に討ち入ったが、捕らえられて最期を遂げた。春日の局が寄進した社殿の前には頼朝が金王丸を偲び植えさせたといわれる金王桜があるのだが、今は冬なので桜の花は見れない。

丹波篠山藩青山忠裕が寄進したと伝えられている山門 (赤門)

金王丸御影堂には金王丸が保元の乱出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められている。

渋谷城時代の遺構が一つあった。砦の石垣の石だそうだ。

宮益御嶽神社

大通りから急な階段を登った所、狭い境内は四方を囲まれたビルの谷間にある。この神社の狛犬は普通の狛犬でなく日本狼の狛犬だそうだ。江戸時代に造られたのだが損傷が激しく、取り外して殿内に保管され、今はブロンズ製の狛犬はならぬ狛狼が鎮座している。


西条藩松平家上屋敷 (青山学院大学)

青山学院大学の敷地は、江戸時代には、元々は徳川三代の家臣であった青山忠成の屋敷であったが、改易により、松平頼純  (紀州徳川の祖 徳川頼宣の3男)が忠成の屋敷を接収し、伊予国西条藩松平家の上屋敷となった。西条藩松平家は、紀州徳川家からでた親藩連枝で、徳川吉宗が将軍になったあとの紀州藩に藩主を送り込むなど、宗藩との関係が非常に深い家柄だった。

明治維新後の1871年 (明治4年)、この上屋敷は北海道開拓使の第一官園となり、農業試験場として野菜、果樹類を育てていた。開拓使官園が北海道に移転した後、1882年 (明治15年) にキリスト教系学校の美會神学校と東京英学校が合併して、この土地を購入し、青山学院大学の原形を建設した。


淀藩稲葉家下屋敷 (国連大学)

西条藩松平家上屋敷 (現 青山学院大学) の前の青山通りを渡ると、国連大学がある。江戸時代、ここには淀藩稲葉家下屋敷があった。稲葉家は京都伏見にある淀城を居城とした淀藩を有していたが、この藩主になったのは、1723年 (享保8年) で、江戸幕府が1603年に始まってから、100年以上経った8代将軍徳川吉宗の時。明治維新後は西条藩松平家上屋敷と同じく、開拓使の用地だった。後に、市電の車庫になり、戦後に都電が廃止されるまで使われていた。


広島藩浅野家青山下屋敷 / 青山内証分家新田藩上屋敷 (表参道ヒルズ)

西条藩松平家上屋敷と淀藩稲葉家下屋敷のすぐ近くには、安芸広島藩浅野家下屋敷があった。上の江戸古地図 (中) では隣に戸田長門守下屋敷があるが、別の時代の古地図 (左) では敷地が拡大している。この場所には下屋敷と抱屋敷があったとされているので、拡張部分が抱屋敷ではないかと思う。また地図上で青線で囲んだ範囲は中の地図では広島藩の支藩の新田藩上屋敷となっている。下屋敷の範囲が拡張された左の古地図では、広島藩には10代藩主の浅野斉粛 (1817~1868)、新田藩は内証分家として5代藩主の浅野長訓 (1812~1872) の名が記載されている。この新田藩5代藩主の浅野長訓は、斉粛の子の慶熾が11代藩主になって半年で逝去してしまった為、後に広島藩12代藩主になり、茂長 (もちなが) と名乗った。この内証分家とは、特定の領地を所有せず、宗藩が収納した廩米を受け取る形の藩で、江戸に住む定府大名の事を言った。そうすると、新田藩上屋敷は安芸広島藩浅野家下屋敷の一部と考えられていたのだろう。屋敷内には大きな鎧の池があったのだが、埋め立てられて現存していない。屋敷の真ん中には表参道が作られ、屋敷跡は東西が分断されている。現在は表参道ヒルズになっている。

[広島藩浅野家江戸屋敷: 外桜田上屋敷、赤坂中屋敷、青山下屋敷、桜田拝領向屋敷、鉄砲洲築地下屋敷]

長谷寺

山口重政が天正19年 (1591年) 徳川家康に招聘され江戸に上った際、この地の渋谷ヶ原に下屋敷を拝領し、慶長3年 (1598年)、この渋谷ヶ原観音堂を基に補陀山長谷寺を創建した。この寺は格が高かったせいか、多くの著名人の墓がある。黒田清輝の墓の案内板があったので探したが見つからず。

青山の庚申塔

青山墓地の飛び地の立山地区墓地の外側の路地に庚申塔が残っている。東京は開発が進みすぎて各所にあった庚申塔は殆ど消失してしまい。東京では庚申塔は珍しい文化財となっている。日本各地を旅すると、庚申塔は数限りなく見る事が出来たので、初めはなぜ案内板まで建てているのかと思っていたが、東京では貴重な文化財なのだ。


佐倉藩堀田家下豊沢村下屋敷 (日赤医療センター、清心女子大学、広尾ガーデンヒルズ)

西条藩松平家上屋敷 (青山学院大学) の東に広大な敷地の佐倉藩堀田家下豊沢村下屋敷がある。広尾駅の西側にある日赤医療センター、清泉女子大学、広尾ガーデンヒルズをすっぽりと含んでいる。佐倉藩堀田家からは幕末に老中だった堀田正篤 (まさよし) が出ている。正篤はこの下屋敷で育ち、後に11代将軍家斎の側近として老中になる。しかし、水野忠邦が主導した天保の改革に参加はしたが、正篤はこれには批判的で忠邦とは対立し、忠邦が罷免される前に辞任。その後、当時の老中首座であった開国派の阿部正弘の推挙で再び老中となり、正弘に替わって老中主座となり、外国掛老中を兼ねる。しかし、井伊直弼が大老に就任した後は、堀田をはじめとする一橋派の排斥を始め、老中職を罷免され、家督を4男の堀田正倫に譲って隠居し、政治の表舞台から姿を消し、佐倉城三の丸の松山御殿において死去。

堀田家の屋敷に向かう道は急な坂道で堀田坂と呼ばれた。屋敷跡には遺構などはなくこの坂道の名前が唯一当時の所縁のものだ。この坂道をあがった所が広尾ガーデンヒルズで、高層マンションが建ち並んでいる。

堀田家下屋敷跡の一部は日本赤十字の医療センターにもなっている。

世田谷の豪徳寺には堀田家の江戸屋敷 (どの江戸屋敷かはわからなかった) の書院が移設されている。浮世絵は清泉女子大学があった場所を描いている浮世絵。


東北寺 (日向国佐土藩島津家墓地)

江戸時代前期に美濃国不破郡関ヶ原宿出身の僧至道無難が麻布桜田町に営んだ東北庵を起源とする。東北庵の起立年代は定かではないが、明暦の大火前後と考えられる。

明治以降に日向国佐土藩島津家の菩提寺になり、最後の藩主島津忠寛一族の墓がある。

光林寺

1678年 (延宝6年) 盤珪永琢によって麻布市兵衛町に創建、1694年 (元禄7年) に現在地に移って来た。丸亀藩京極家、多度津藩京極家の菩提寺で京極家の墓がある。

曹渓寺 (寺坂吉右衛門墓)

臨済宗妙心寺派の寺院。ここは赤穂浪士の一人でテレビドラマや映画にもなった寺坂吉右衛門の墓がある。寺坂吉右衛門は討ち入り前に逃走したとされていたので、泉岳寺では無くこの寺に墓がある。その後、事実は討ち入りを関係者に伝える為に討ち入り参加の後、一人離れて播州に戻っていたと言う事が判明した。討ち入り後、この寺で寺男を20年務めたそうだ。


郡上藩青山家下屋敷 (青山霊園、梅窓院)

郡上藩は関ケ原で手柄を挙げた遠藤慶隆が初代藩主として始まった。その後、井上家、金森家を経て、1758年 (宝暦8年) に、青山家がここに移封となり、明治維新まで続く。この屋敷は、1590年 (天正18年) に家康が関東に移封されたときに、青山忠成は江戸町奉行に任命され、その後、この広大な屋敷を賜ったという。5,000石(文禄元年(1593年)には2,000石加増)の領地を与えられた。また、原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広い屋敷地を賜っており、この青山家が青山の地名の由来となった。高遠藩下屋敷 (新宿御苑) を訪れた際に、内藤清成の駿馬伝説を知ったが、青山忠成にも全く同じ駿馬伝説がある。彼が徳川家康の鷹狩りに随行していたところ、家康が赤坂の麓から西の方向を見渡して、「馬で一息に回れるだけの土地を与える」と語ったというのです。原宿を中心に、赤坂の一部から渋谷に至るまでの広範囲を駆けたのだと。内藤清成の駿馬伝説の時は、作り話と思ったのだが、またこれが出てきた。今回は、ひょっとして、これは実際にあったのかもしれないと感じた。江戸を開いたばかりの時代、江戸を首都として確立し、開拓していかなければならなかっただろう。家臣のやる気が最も大切だ。家臣を鼓舞するために、これはと思った家臣にはこの手を使ったことはあり得る。広大とは言え、土地は余るほどあるし、そこは荒れ地だ。与える広さは関係なかっただろう。このやり方だと、他の家臣も納得せざるを得なかっただろう。真実であれば、やはり家康はすごい男と思う。

屋敷跡はすっぽり青山霊園になっている。郡上青山家初代当主の青山幸成が死去した後、下屋敷敷地内で火葬され、そこに長青山宝樹寺梅窓院を建立し青山家の菩提寺となった。

明治維新後、屋敷跡は公共墓地となり、現在でも東京都が管理している。墓地には多くの著名人が葬られている。

大久保利通の墓。鹿児島には墓を建てられなかったから東京にあるのだろうか?
その他のも著名人の墓が多数ある。気になる幕末、明治維新で活躍した人の墓を探した。墓地はかなり広く、地図でも無い限り見つけるのは大変だ。見つけたのは乃木希典 (上)、小村寿太郎 (中左)、川路利良 (中右)、海江田信義 (下左)、有村次左衛門・有村雄助 (下右)
秋山好古、北里柴三郎、黒田清隆、後藤象二郎、西郷糸子、周布政之助、澤太郎左衛門、副島種臣、山本権兵衛も探したのだが見つからなかった。
忠犬ハチ公の墓も飼い主の上野博士の墓と一緒にあった。
外人墓地も一区画にある。あまり知っている人の墓はなく。画家のキヨソネの墓があった。


長府藩毛利家上屋敷 (六本木ヒルズ、毛利庭園)

現在の六本木ヒルズや毛利庭園がある場所には荻藩の支藩である長府藩上屋敷があった。1650年 (慶安3年) に、初代長府藩主毛利秀元が上屋敷として設けた。

以前に九州と瀬戸内を旅した時に長府藩があった山口県長府を訪れている。


綱元が長府藩主であった元禄15年 (1702年)、赤穂事件で、吉良邸に討ち入った赤穂浪士の岡嶋八十右衛門ら10人がこの屋敷にお預けになり、元禄16年 (1703年) 2月4日に同屋敷で切腹となった。赤穂浪士はこの近くの大名屋敷に分けて預け置かれていたが、水野家と細川家は赤穂浪士を厚遇したが、毛利家は赤穂浪士を罪人として冷遇したと伝わる。陸軍大将の乃木希典はこの藩邸の侍屋敷で生まれ、幼年期を過ごした。幕末には、禁門の変や長州征伐に対する幕府からの仕置きとして、長州藩、清末藩、徳山藩と共に江戸藩邸を没収され、判定は消滅。その後、明治の廃藩置県で藩も解体され、複数の所有者を経て、現在は六本木ヒルズが建っている。

六本木ヒルズは藩邸跡の一部に庭園を造り毛利庭園と名付けている。この毛利庭園は長府藩毛利家上屋敷とは関係はない。庭園と名づけられてはいるものの規模は小さく、大名屋敷庭園とは比べものにならない。残念ながら、ビルに囲まれた少しを大きな箱庭と言う印象だ。Moriビルと毛利の語呂合わせで名付けたのだが、毛利庭園と呼ばなければよかっただろうに... 長府にある本物の毛利庭園は素晴らしかったので、余計にちゃちに見える。


萩藩毛利家麻布龍土中屋敷/下屋敷 (東京ミッドタウン、檜町公園)

日比谷公園の北西にあった外桜田上屋敷は、36万石の大名としてはて手狭だった為、より広い屋敷を幕府に願い、当時所有していた愛宕下中屋敷を返上することを条件に、1636年 (寛永13年) にこの場所の麻布龍土下屋敷を与えられた。愛宕下中屋敷を返上した後は、それまでの宇田川町下屋敷が中屋敷となったが、1657年 (明暦3年) の大火後には廃止され、1699年 (元禄12年) に新橋に中敷を拝領するまで、中屋敷は存在しなかった。新橋中屋敷は1844年 (弘化元年) に廃止され、新たに木挽町築地に中屋敷を拝領したが、6年後の1850年 (嘉永3年) には麻布龍土下屋敷に隣接した場所に移され麻布龍ー川龍土邸が中屋敷と下屋敷を兼ねる形態となった。藩主はこの麻布下屋敷に居住していることが多く、この屋敷は、毛利家の当主の中心的な生活の場になっていた。この他に多数の抱屋敷を所持していたものの、外桜田上屋敷や麻布龍土下屋敷を含めて、いずれも禁門の変の直後、1864年 (元治元年) の長州征伐時にすべて没収され、7000人の町火消しが動員され徹底的に破壊された。幕府の長州に対しての怒りは凄まじかったのだろう。その後、麻布龍土邸の跡地は、火除地となり広大な空き地となった。花見の時には14軒の茶屋が出たそうだ。その後一時期、茶園として利用された。維新後1873年 (明治6年) に陸軍用地となり、近年まで防衛庁本庁舎が置かれていた。防衛庁移転後は東京ミッドタウンとして再整備されている。

敷地北東部にあった庭園「清水園」はかって檜町公園の池として名残を留めていた。東京ミッドタウン建設時に日本庭園として整備されたが、考証復元された庭でない。公園内には所々石垣が残っている。

所沢市にある不動寺の総門は、萩藩邸のいずれかの屋敷門を移築したとされる。

[萩藩毛利家江戸屋敷: 外桜田上屋敷、麻布龍土中屋敷麻布龍土下屋敷、敷砂村新田抱屋、平井新田町並屋敷、深川鶴歩町町並屋敷、若林村抱屋敷]



檜坂

江戸時代、萩藩毛利家麻布龍土中屋敷には多くの檜の木があったため檜屋敷と呼ばれていた。この坂は屋敷に向かう坂で、檜坂と呼ばれていた。

篠山藩青山家下屋敷 (青山中学校)

先に訪れた郡上青山家藩下屋敷 (青山霊園、梅窓院) で触れたが、青山家宗家の青山忠成が馬で一気にまわって得た屋敷土地はここも含まれていた。その後、その土地は兄の篠山藩青山家がこの地を、弟の郡上藩青山家が現在の青山墓地にそれぞれ分かれて屋敷を持っていた。
今日はここが最後の訪問地。この後、大学時代の同級生と会食。待ち合わせ時間まで文化財巡りに時間をフルに使ったので、訪問地が少し多くなった。訪問記の編集が大変だ。明日からは少し少なめに巡ることにする。

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