Ride in Kyushu Day 73 (26/2/19) Chofu 長府

Chofu 長府
昨日、立ち寄った長府が趣があったのでもう一日散策をする。あてもなく町の少しだけ離れた所を走る。この中心部から少しだけ離れたところが面白いのだ。中心部はこどんどん開発されてしまって昔の雰囲気が消えてしまう。遠くなると忘れられて、これまた消えてしまっていることがある。少しだけ離れると、地域の人たちが頑張って残そうとしてくれている。そんな所をゆっくりと、空気にふれて、匂いを感じながらゆっくりと進むのが快い。長府はそんなところだ。
昨日訪れた長府毛利邸の周りには多くの武家屋敷がある。自動車のない時代に造られているので、かなり細い路が迷路のように走っている。防御の目的もあったのであろう。元武家屋敷は住居として使われているところが多い。ところどきりはげた土塀が続き、はげたのが一層古風な趣を出している。
国分寺跡があるが、単に標柱のみ。味気ない。
ここは乃木希典の出身地で乃木神社がある。
長府藩の歴代藩主の菩提寺が3ヶ所に分かれてかある。このうち2つを訪れた。覚苑寺には3代毛利綱元、6代毛利匡広、13代毛利元周の墓がある。乃木希典は帰郷の際は必ずこの寺を訪ね毛利家の墓参りをした事からここに銅像が建っていた。
この付近には長門鋳銭所があったそうで、歴史博物館にはここで使われた鋳型と鋳造された銭が展示されている。
もう一つ訪れた寺は毛利邸のすぐそこにある功山寺で鎌倉時代からの仏像が残っており国宝に指定されている。ここには初代毛利秀元、5代毛利元矩、9代毛利匡満、10代毛利匡芳、11代毛利元義、12代毛利運、14代毛利元敏の墓がある。
毛利が統治する前の支配者であった大内家の義長の墓もあり、さすがに時の流れを感じさせる墓であった。この大内義長は大友宗麟の弟で、陶晴賢が大内氏に謀反を企てた際に次期大内氏当主に望まれた。謀反成功により義長は20才で大内氏を継いだが、実際は陶晴賢の傀儡であった。毛利の台頭で厳島の戦いで敗れ、陶晴賢も戦死し、義長はこの功山寺に避難する。しかし、毛利勢に寺を取り囲まれ、遂には自刃に追い込まれた。26才の生涯であった。ここに大内氏は滅亡し、周防は毛利の統治が始まることになる。
1864年に高杉晋作がこの功山寺で決起し、
伊藤俊輔(博文)率いる力士隊20名と浪士の遊撃隊60名、合わせて80名で挙兵し藩論を武備恭順・尊皇倒幕にまとめた。明治維新の発祥の地とも言われている。この理由でここに高杉晋作の銅像があった。
午後はこの功山寺の前にある歴史博物館に行った。下関、毛利長州の歴史がさらっと展示されていた。展示スペースも広くはなく、少し物足りない感じだった。館員さんは団体様の対応で追われ忙しそうで、質問をする機会が取れなかった。次回の旅でもう一度来るので、その時にまた訪れて質問をしたいと思っている。団体さんへの説明をそばで聞いた限りでは、ここには坂本龍馬所縁の品が充実しているらしい。実際に使われた茶碗や書簡が展示されていた。
長府の後、宇部に向かう。宇部セメントの巨大な工場が国道沿いにあり、ここを通過し、今日の宿に向かう。これで今回の旅も終了で、明日は朝一番で飛行場に向かい、全て終了となる。

0コメント

  • 1000 / 1000