東京 (17/12/20) 江戸城 (12) 外曲輪12門 / 外濠 (12) 大名屋敷 白金
外曲輪12門
- 熊本藩細川家麻布白金村中屋敷 (旧高松宮邸)
- 大石良雄外十六人忠烈の跡
- 天神坂
- 覚林寺
- 聖坂
- 沼田藩土岐家下屋敷 (亀塚公園、三田台公園)
- 日吉坂
- 古地老稲荷神社
- 桑原坂
- 薩摩藩島津家下高輪村抱屋敷 (八芳園)
- 端聖寺
- 高松藩松平家白金台下屋敷 (国立科学博物館附属自然教育園、自然美術館)
熊本藩細川家麻布白金村中屋敷 (旧高松宮邸)
当初は下屋敷であったが江戸の後期には中屋敷となっている。この屋敷には赤穂事件で大石蔵之助良雄ら十七人が預けられ、屋敷内の大書院舞台側、大書院上の間の前庭で切腹となった。大石良雄外十六人忠烈の跡碑が立っている。細川家は、赤穂浪士を武士として、尊厳を持って優遇していたといわれている。他の大名屋敷に預けられた浪士は、犯罪者として冷遇されていたことを考えると、さすが大藩で幕府にへつらうことはなかったのだろう。
大石良雄外十六人忠烈の跡
天神坂
覚林寺
熊本藩細川家麻布白金村中屋敷のすぐそばに覚林寺がある。日蓮宗の寺院で、加藤清正の位牌や像が祀られていることから清正公 (せいしょうこう) と通称され、付近の住民からは「清正公さま」と呼ばれ、勝負祈願の寺として信仰を集めている。この寺がある交差点は清正公前で、東京に住んでいた時には何度も通り、この寺があることは知っていたが、一度も訪れたことはなかった。この寺を開いたのは、加藤清正が文禄・慶長の役の際に連れてこられた李氏朝鮮第14代国王宣祖の長男 臨海君の子の日延であった。1592年の文禄の役 (壬辰倭乱) で、宣祖王の王子の臨海君と順和君が反乱軍に抑留され加藤清正に引き渡されて捕虜となったが、衣服等生活に必要な物品は用意され礼を尽されていた事が記録されており、後の日本と明国間で行われた講和の条件として釈放された。この時に臨海君の二人の子は人質として日本に残された。子供の一人は女子で後に宇喜多氏の重臣に嫁ぎ、もう一人がこの日延だった。清正に大切に育てられた日延は、やがて法華経の熱心な信者であった清正の影響から出家し、修行の末、日蓮が誕生した地の小湊の誕生寺の18世貫主にまでなりまする。清正が亡くなった20数年後の1631年 (寛永8年) に、もともと熊本藩の中屋敷があったこの地に、隠居寺として覚林寺を開山した。日延の父親であった臨海君は即位した臨海君に謀殺されているので、故郷の朝鮮に戻るよりは、加藤清正の元で日本に残らざるを得なかっただろう。朝鮮に戻っていれば、おそらく父親と同様に謀殺されていただろう。もう一つ興味を引いたのは、細川藩の前藩主の加藤清正の扱いだ。熊本城を訪れた際には城内に加藤神社があり、今でも熊本県人は加藤清正に対する信仰が根強い。江戸時代はこの傾向はもっと強かっただろう。加藤清正は神様だった。それを排除するのではなく、積極的に利用した細川家も大した大名に思える。
聖坂
沼田藩土岐家下屋敷 (亀塚公園、三田台公園)
熊本藩細川家麻布白金村中屋敷から江戸方面に数分歩いたところに譜代大名であった沼田藩土岐家下屋敷がある。沼田藩というと真田家というイメージがあったが、実際は真田信之が上田藩から松代藩藩主時代は、この沼田藩は幕府非公認の分領だった。正式に沼田藩となり、暫くして、幕府から命令された工事で失敗し、改易となった。その後、本田氏、黒田氏を経て1742年に土岐氏が沼田初藩主となり、明治まで続くことになる。この屋敷は1657年 (明暦3年) 土岐氏が上山藩主の時代に、この地を下屋敷として拝領。明治維新後は皇族華頂宮家がこの屋敷を住居としていた。大正13年に華頂宮家が断絶し、一時期内大臣邸となったが、昭和8年建物は壊され、昭和20年には空襲により庭園は破壊。その後公園として整備され昭和27年亀塚公園となった。公園は武家屋敷の雰囲気を残す為に、瓦屋根の白壁で囲まれている。
三田台公園
下屋敷跡の南側は三田台公園になっている。亀塚公園と同じように入り口は瓦屋根の白壁の塀がある。この公園には屋敷跡の遺構はないのだが、江戸時代よりはるか以前の縄文時代の伊皿子貝塚遺跡が発掘され、貝塚と住居跡が復元されている。公園には埴輪や縄文時代の雰囲気を出した砂場などはあった。
日吉坂
桑原坂
薩摩藩島津家下高輪村抱屋敷 (八芳園)
現在の八芳園の一部は江戸時代初期には譜代の江戸幕府旗本のあの有名なご意見番の大久保忠教 (彦左衛門) の屋敷であったが、その後、現在の八芳園の周囲まで含んだ薩摩藩の抱屋敷、島津氏下屋敷となった。上の江戸古地図は江戸時代末期の1857年 (安政4年) のもので、1838年 (天保9年) の古地図では、北側は奥田主馬抱屋敷、南側は嶋津式部抱屋敷となっており、この二人の旗本の屋敷だった。大久保忠教 (彦左衛門) の屋敷は奥田主馬抱屋敷のあった場所だったと考えられている。後に、薩摩藩がこの二つの屋敷を購入して抱屋敷とし、それを下屋敷として使用していたのだろう。明治以降は民間人の手に移り、1950年 (昭和25年) に八芳園が創業となった。
[薩摩藩島津家江戸屋敷: 幸橋御門内上屋敷、芝新馬場中屋敷、下高輪下屋敷、中渋谷下屋敷、芝新堀下屋敷、裏町町並蔵屋敷、下高輪村抱屋敷]
端聖寺
薩摩藩島津家下高輪村抱屋敷の隣にある瑞聖寺は寛文10年(1670年)に創建された黄檗宗系禅宗の寺院。明から来日した日本黄檗宗2代の木庵性瑫により開山、黄檗宗に深く帰依した摂津麻田藩の2代藩主の青木重兼。文政年間 (1804~30) に大規模な罹災にあい、高輪下馬将軍として名高い薩摩藩主 島津重豪により扁額を与えられ大雄宝殿は再建され現存している。
高松藩松平家白金台下屋敷 (国立科学博物館附属自然教育園、自然美術館)
この広大な下屋敷跡は自然教育園になっている。明治以降は陸・海軍の火薬庫、大正時代には白金御料地となり、一般の人々が立ち入ることができなかったため、豊かな自然が残されている。1949年 (昭和24年) から、天然記念物および史跡に指定され、一般に公開されている。今日はここが最後の訪問地になるので、残りの時間はゆっくりとこの自然教育園内を散策することにする。東京にはこのような広大な敷地の公園が数多くあるのだが、そのほとんどはもとは大名屋敷だったところ。当時の遺構はない場所が多いのだが、かつての大名屋敷がこのような形で都民に憩いの場所となっていることが遺構なのだろう。中には大名屋敷の庭園が残っているところもあり、江戸時代に触れることもできる。今まで東京はコスモポリタンとなり、かつての日本が失われていると思っていたが、そうでもなく形を変えながらも残っている。今まではそれに気づかなかっただけなのだろう。
屋敷跡にはもう一つの施設がある。東京都庭園美術館でアールデコの作品の展示をしている。ここ下屋敷の後は、朝香宮の邸宅だった。後に1947年から1950年には吉田茂の外務大臣公邸として、1950年には西武鉄道が購入し、1白金プリンス迎賓館、プリンスホテルの本社として使用された後、1981年東京都に売却され、1983年 (昭和58年) に都立美術館の一つとして一般公開。旧朝香宮邸は1933年 (昭和8年) に建設されているが、そんな時代に造られたとは思えないぐらいで当時は斬新な建物と映っただろう。
[高松藩松平家江戸屋敷: 小川町上屋敷、小川町中屋敷、白金台下屋敷、小石川竜慶橋下屋敷、小石川水道橋外下屋敷、平井新田町並屋敷]
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