Ride in Kyushu Day 70 (23/2/19) Hiji Castle Ruins 日出城跡 Usa Shrine 宇佐神宮
Hiji Castle Ruins 日出城跡
Usa Shrine 宇佐神宮
昨日と打って変わって、今日は快晴。昨日は午後は雨で霧と雲で別府の景色は見えなかったのだが、今日は山が顔を出している。別府を後にして、中津に向かう。今日の訪問予定は宇佐神宮のみにしているが、例のごとく、途中で面白そうな所があれば寄ることにする。
Hiji Castle Ruins 日出城跡
別府を出て、10キロほど走った所に、日出城跡の看板が出ていた。存在は知っているのだが、全く無名の城なので、特に行ってみたいとは思っていなかったが、今日は時間に余裕があるのと、中津への道の国道10号線沿いにあり、回り道にもならないので、よってみることにした。期待していなかったのだが、かなり立派なお城で、遺構も多く残っていた。続100名城にもなっていないのだが、それ以上の城跡だった。
この城は1601年から1602年(慶長7年)に日出藩の初代藩主木下延俊が、関ヶ原の恩賞として豊後・速見郡3万石に姫路から加増移封となった。義兄であった細川忠興の支援を受けて築城。とインターネットでは説明されているのだが、城跡にある郷土歴史館の係員さんの話はこれとはかなり違っていた。木下延俊は豊臣秀吉の正室の寧々の兄の息子に当たる。豊臣時代は三木城や明石城の城主を経て、姫路城城主であった。関ヶ原の時は、義兄の細川忠興の忠告で東軍に参加した。論功行賞では豊臣にあまりにも近いということで、リストには載らずに、居城がない状態だった。それをみかねた細川忠興が当時の領土であった中津藩の一部を分領の様な形で、木下延俊に与えた。僅か3万石であった。その後木下家は明治の廃藩置県まで藩主をつとめることになり、日出県の県知事となる。日出県は直ぐに、大分県に組み込まれてしまうのだが、九州で加藤清正、福島政則など豊臣恩顧の大名が改易や移封される中、しぶとく生き残った。三万石にしては立派な城で、海岸の直ぐそばに築かれている。
この後日豊本線と平行に走っている国道10号線で宇佐に向けて走る。途中古い石作りのめがね橋を見つけここで昼食の弁当を食べる。今日は本当に天気がいい。ただ風が冷たく、風邪気味のような感じがする。この間買った風邪薬を今夜試してみよう。ここでも桜が咲いていた。どんどん春に近ずいている。
Usa Shrine 宇佐神宮
宇佐市に入る。看板が出ている。なるほど、英語で書くと、こうなるのか。”Welcome to USA”
国宝だそうだ。初めて知った。国宝なだけ、立派な神社で、伊勢神宮に次ぐ権威のある神社だそうだ。全国に約44,000社ある八幡宮の総本社で、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮とともに日本三大八幡宮の一つ。言い伝えでは、欽明天皇の時代(571年)に始まったと言われ、宇佐神宮の南の御許山山頂にある奥宮大元神社が起源ではないかと推定されている。鼻水とくしゃみが激しくなって来た。これは風邪ではなく、花粉症の様だ。山間部を走っている時に始まり、杉林の宇佐神宮に来て一層ひどくなったから、きっとそうだ。
神仏習合を前面に出している神社を初めてみた。これを見た西欧人には理解できない風習だろう。
その神仏習合の初期には神宮内に寺があった。弥勒寺跡。
参道
庭園はきれいに整備されている。苔が生えていい感じになっている。
上宮 大きの外人観光客で賑わっていた、特に韓国、中国からの観光客が目立っていた。
下宮
昔の参道
宇佐神宮の訪問を終え、中津の市街地に着いた時にはくしゃみは治っている。やはり花粉症だったのだ。少し様子を見ることにしよう。
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