Ride in Kyushu Day 29 (13/1/19) Battle at Tabaruzaka 田原坂の戦い Part 1

Battle at Tabaru-zaka 田原坂の戦い
昨日に続き、今日も田原坂の戦いの所縁の地を訪れる。宿からは1時間ぐらいで行ける。ただ熊本は起伏が比較的多く感じるし、田原坂付近の地形は山や丘が多いので、楽ではないだろう。
高瀬大会戦で勝利した官軍は、薩軍追撃の為、本営を木葉に移し、本営のすぐそこの木葉城があった高台から戦況を眺め作戦を練った。この高台には有栖川宮督戦の地という記念碑がたっており、そこから田原坂方面や戦闘の地になる吉次峠も広範囲に臨め、おそらく薩軍の動きはある程度把握できたと思う。
官軍本営 高田屋敷 (3月6日-3月20日)
有栖川宮督戦の地
熊本城に籠城する熊本鎮台の支援には田原坂を通らなければならない。当時はこれ一本しか道がなかった。加藤清正が熊本城の守りを固める為に意図的にこのようにした。田原坂の道の両側は土塁を積み上げ、上から敵を攻める事が出来るようになっている。薩軍もこの事は知っており、この田原坂を押さえて官軍を迎え撃つ準備は出来ていた。官軍は乃木希典の失態でこの地を薩軍に押さえられた。おそらく乃木は自責していたであろう。
官軍は前線を田原坂の入り口の近辺まで上げた。その前線基地の記念碑がある。この記念碑がある家の爺さんと話しをした。田原坂まで広い自動車道路が走っているのだが爺さんの話では、ここ数十年前までは、道は川沿いの細い舗装されていない道しかなかったと言う。官軍はこの前線基地から川沿いの小道を通ったはずだと教えてくれた。ならばとその道を行く事にした。先日の雨でぬかるんでいたが、自転車を押して無事通過。薩軍にも官軍がここを通って近づいて来ているのはわかっただろう。視界を遮るものは何もない。
田原坂の入り口に行くにはこの川を渡らなければならない。今はめがね橋と呼ばれる橋があり、ここで3月4日に攻防戦が始まった。官軍は薩軍を突破し、いよいよ田原坂を駆け上がる。

田原坂 一の坂 (3月4日)

官軍は総勢1500の兵を3方面に分け、田原坂・一の坂、その東側の豊岡、西側の船底から攻めた。薩軍は土塁の上から雨のような銃撃を与え、官軍は一の坂の保塁にとりつくこともできないいまま、終わっている。一の坂は田原坂の入り口から距離もそれ程で無い。官軍としては、少々焦りが出た事だろう。
官軍の成果は田原坂の西側の二俣を押さえた事だ。この二俣はこの後の展開に大きな役割を果たす。

吉次峠の戦い (3月4日)

田原坂で戦闘が始まったのと時を同じくして、吉次峠でも戦闘が開始された。田原坂を二日目に訪れた後、この吉次峠にも行ってみたかったが、まずは横平山に行き夕方に近くなったため、吉次峠は断念した。かなり険しい道のりのようで、行くかどうか迷う。吉次峠への分かれ道をバイクで向かう人たちを見かけた。少々羨ましい。
薩軍は 薩軍は一番大隊隊長・篠原国幹と二番大隊隊長・村田新八が官軍の攻撃に応じた。ドラマや映画では必ず篠原国幹の勇壮な赤マント姿が出てくる。この日は薩軍の優勢で官軍は大きなダメージを受け終了。しかし篠原国幹は赤マントが官軍狙撃隊の格好の的となり戦死した。篠原国幹はここを死場所と決めていたのだろう。篠原国幹自身は戦争を望んでいた訳ではなく、鹿児島士族の暴発を抑え様と最後まで奮闘したが、決起止む無しとし、薩軍で行動をした。篠原国幹は西郷隆盛が西南戦争では指揮をとらず桐野達に任せていた事や、官軍の想像より迅速な動き、兵力、この挙兵の大義の微妙な変化に、思い描いた結果は到底得られないと思ったのでは無いだろうか。多分、篠原国幹は武士であると同時に思想家としての側面もあったのでは無いかと思う。熊本城が思いのほか落ちない事で、この戦局の早い時期に死場所を探したのかもしれない。局所戦では勝利する事はあるだろうが、東京に事を正しに行くという大義は失われた。単なる逆賊となると考えたと思う。だからこそ赤マントという派手な衣装で壮絶な死を選んだ。今でも彼の死に際は語り継がれ、彼の思いを推し量ろうとする人は多い。これも男子の生き方と思う。この西南戦争は教科書で教えられる時代遅れの侍達の不平で暴発したと言う単純なもので無く、国としての矛盾や、理想に燃えた武士、やり場がない焦燥感など、複雑なものがごちゃごちゃに入っている。その人たちの思いを探るのがこの戦争の意味と思う。
吉次峠に行くかどうか分からないが、行ければその時に吉次峠の印象を含め書こうと思う。

吉次峠でも、その後も、戦闘は続いたが、官軍の苦戦は続き、吉次峠の兵を田原坂に移動させ田原坂攻略に集中することに作戦変更を行った。話を田原坂に戻す。
3月6日 補強された官軍は三方向から田原坂を攻めた。
田原坂では、依然として、戦局は薩軍有利であった。相変わらず土塁の上から銃撃をし、その合間に抜刀白兵戦が行われていた。田原坂の道以外は鬱蒼とした林で示現流の薩軍兵士に分があった。官軍は刀など抜いたことの無い集団で、劣勢は否めない。ここで官軍は剣術に優れた元士族で抜刀隊を編成することになる。
3月7日 官軍は田原坂の正面突破は困難と判断して、二俣から田原坂西斜面から攻める作戦に変更した。官軍は編成した抜刀隊のお陰もあり、田原坂に近づく事は出来た。 しかし、横平山の薩軍から二俣の官軍は攻められ、相変わらず官軍の苦戦が続く。田原坂二の坂は一の坂から急斜面になっている。自転車での走行はここが一番きつかった。二俣からの西斜面攻撃は更にきつい斜面を登らなければならない。田原坂から見た二俣は下の写真で見るとわかるがかなりの高度差がある。
3月9日 官軍は二俣から田原坂への攻撃の障害になっている横平山の薩軍を攻める。官軍と薩軍が奪取を繰り返し、官軍が完全に横平山を制圧出来たのは3月15日だった。自転車でこの横平山に行ったが、舗装道路は一本のみ、あとは山道が数本あるがトレッキング用の遊歩道といったもの。どの道も険しかった。登ってみて、確かにここは官軍にとって押さえ無ければならない所と思った。山頂からは二俣も田原坂もよく見える。麓からでは陣営などは見えないが、ここからはよく見えたのでは無いだろうか。官軍は二俣に砲台を据えていたので、砲撃の方向などが的確に操作が出来る事になったと思う。
横平山の頂上には展望櫓と官軍と薩軍兵士の慰霊碑がある。頂上から下ったところに湧き水の溜まり場跡がある。何日にもわたる攻防で兵は水に困った。ここでは湧き水が唯一の飲料水で、この湧き水の周りには多くの兵の亡骸が横たわっていたという。
官軍は二俣に続き、横平山を抑え、薩軍のいる田原坂の外堀を埋めた形となった。
3月11日には明治政府の西南戦争の最高責任者である山縣有朋が政府軍征討軍本営を南関から高瀬に移す。作戦が再考され、官軍の主力部隊を田原坂に集中させ、別動隊を山鹿の薩軍桐野隊の牽制をさせる事とした。南関の政府軍征討軍に警視100人と、東京の警部、巡査900名を抜刀隊として田原坂に送り込んだ。到着したのは3月13日。
翌日の3月14日から田原坂と横平山への総攻撃が始まったが、薩軍の優勢が続いていた。これには驚くばかりだ。兵力で圧倒的に劣勢、援軍は期待できない。兵站も乏しい。この中で官軍に対して優勢を続けているのは、本当に薩摩武士はとんでもなく強かったのだなと感じる。
田原坂は相変わらず薩軍の優勢であったが、官軍は横平山を3月15日に掌握し、大砲を備え付けた。
3月20日に官軍は最後の総攻撃を行う。先ずは完全に制圧した二俣と横平山から砲撃を田原坂に行う。砲撃の後は七本(田原坂を越えて熊本方面、田原坂から数キロ)に攻撃を集中させた。砲撃と手薄の七本を攻められた薩軍田原坂部隊は混乱、そして田原坂にも攻撃が始まり、官軍の二面攻撃となった。ついに、薩軍は耐えきれず、植木に敗走し、17日にわたった田原坂の戦いは官軍勝利となった。
高瀬から田原坂、植木など西南戦争所縁の地を巡って、至る所に官軍墓地がある。この戦いの壮絶さを感じる。熊本出身の土肥さんからはこの辺は神霊スポットがあるから気をつけてと脅かされたが、これだけの人数がここで亡くなっている事から想像するに、神霊スポットになるのもよく分かる。
西南戦争での戦死者は官軍と薩軍合わせて14000人で、官軍と薩軍がほぼ半々、官軍兵力が薩軍の2.5倍の7万人だったことから見ると薩軍は本当に強い。戦死者の1/4が田原坂での戦いというから、凄まじい戦争だった。
墓地は戦闘があった所の近くにある。資料などで5つある事が分かりその内4ヶ所に行ってみた。
先ずは木葉に二つ、宇蘇浦官軍墓地と高月官軍墓地。
次に田原坂に近い七本には、七本官軍墓地と薩軍七本柿木台場墓地
まだ行っていないが植木の明徳官軍墓地。(1月16日に訪問した写真をのせておく)
この日では無いのだが、1月16日に山鹿を訪問した際に、もう一つ官軍墓地があった。参勤交代のルートだった豊前街道の藩主の細川家の休憩所であった光行寺内にあった。ここは山鹿口の戦いで戦死した官軍兵士の墓で下岩官軍墓地。
薩軍は戦死者一人一人の墓でなくまとめて集合墓になっている。敗者の悲哀を感じる。薩軍は終戦後も逆賊扱いをされた為、地元住民も家族も墓を建てる事ははばかられたろう。1月16日に山鹿に行った際、永ノ原台地に薩軍の集合墓地があった。柵がしてあり中には入れなかった。山鹿口の戦いの戦死者を葬ってある。
[Continuing to Part 2]


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