Ride in Kyushu Day 29 (13/1/19) Battle at Tabaruzaka 田原坂の戦い Part 2

Seinan Civil War Museum 西南戦争資料館
田原坂を登りきった所に田原坂公園があり、そこには西南戦争資料館、田原坂崇烈碑、大楠と美少年像、慰霊塔、弾痕の家などがあり、観光地としては充実している。多くの観光客が来ていた。外国人も多く見かけた。
西南戦争資料館はほとんどがパネル展示だったが、田原坂の戦いの進展をわかりやすく地図上で両軍の陣営の変化を表していた。ここ数日色々と調べたので目新しい発見は無かったのだが、いい出来の資料館と思えた。

弾痕の家は実際の民家をここに移設し、中では日本赤十字社の歴史が展示されていた。玉名から田原坂まで西南戦争の地を訪れて、戦闘や本営があった所には寺院が病院跡として残っていた。そこに日本赤十字社発祥の地と書かれてあったので、大体は分かっていた。
田原坂の戦いの期間、木葉に官軍の本営が置かれたのだが、この本営のすぐ近くの徳成寺と正念寺が官軍病院として使われた。徳成寺の境内には日赤発祥の地の石碑が建っていた。
正念寺にも同じような碑があった。
生みの親は佐野常民で田原坂の惨劇を聞き、当時のヨーロッパの赤十字のような救護組織を創ろうと、同志とともに政府に「博愛社」の設立を願い出た。明治政府の西郷従道、岩倉友視からは良い返事をもらえなかったが、山縣有朋から有栖川宮に話しを通して、明治10年5月1日に正式の許可を勝ち取り、その後、西南戦争で博愛社は活動を開始した。当時はキリスト教には禁止令が明治6年に廃止されてからも、まだまだ抵抗があったので赤十字は使用せず、別のマークとし、名前も赤十字社で無く、博愛社とした。西南戦争が集結し、解散の話しも出たが、佐野の努力で継続、明治19年に日本赤十字社となった。
この2日間は田原坂の戦いを追って来た。まだ行っていないところもあるが、ひとつ奇妙な事に気がつく。これを読んだ人の中で気がついた人もいるかもしれない。西郷隆盛の事が全く出てこない。西郷隆盛は部下たちが、死をかけて戦っている時にどこにいたのか?田原坂にはいない。村田新八や篠原国幹と吉次峠にもいない。桐野利秋が戦っていた山鹿にもいない。熊本の外れの農家にいたという。西郷はこの西南戦争では完璧なフィギュアヘッドに徹している。西郷のこの時の想いがどうだったのか興味がある。元々、明治政府に武力で対抗する気はなかった。反対に鹿児島士族を抑える努力をしていた。桐野、村田、篠原も同じだった。明治政府は鹿児島士族の暴発で西郷が反旗を挙げるにを恐れていた。地理的に遠く、真偽はともかく不審な情報も入って来る。疑心暗鬼になっていただろう。手を打たねばと考えやったことが鹿児島士族を挑発し、ついに暴発。まだこの時点では、西郷は戦争になるとは思っていなかったのでは無いか。東京に事を正しに行く護衛が主目的であっただろう。これは江戸時代では普通だった。主君の島津斉彬や久光の京都や江戸に向かう時は武装している。ただ、万が一戦争になったら、天皇には弓は引けない、明治政府は西郷が同志と作り上げたものだ、自分を信じ慕ってくれる鹿児島士族を見捨てる事は出来ない。色々な異なる期待を持った人たちの中心におり、中心ゆえに究極の板挟みだったであろう。どちらかに傾き、決めることも出来なかった。だから現場には出なかった。部下が何をしようと、どの方向に行っても否定はしない心境だったのでは無いか? つまり、もう自分では決められない状況になっている。運命を天に任せたのだろう。この西郷の対応に、桐野達は不満を出さない。どんな状況でも西郷を信じている。西郷も失策を責めたりしていない。鹿児島に敗走し、城山で最後を迎えるまで、西郷を信じ最後まで戦ったのが300人もいた。誰もが挽回は無く死が待っていることを敗走を始めた頃から感じていただろう。逃亡する者も多くいたと思うが300人もが西郷と最期を共にすると意を決していた。戦国時代でもこんな事は無かった。逃亡した者でさえ、西郷を恨んで見限ったわけでは無いと思う。悩み理由があり逃走したのだろう。西郷隆盛とは凄い人物だ。150年経った現在でも英雄で存在する。西郷の西南戦争に対しての態度は一見中途半端に思え、何故と考えるかもしれないが、自分は彼の西南戦争での対応は彼にとって出来る全てだった様な気がする。仮に、明治政府側に代わり士族を抑えたり、先頭に立って真っ向から明治政府に戦いに挑んで勝利を収めていたら、今の英雄としての西郷は無かった。本気になっていたら、全国の士族を求め本当に明治政府に勝利したかもしれない。勝てずとも、戦争は広範囲に広がり、もっと長期化しただろう。西郷はそこまで見えていたと思う。
田原坂というきっかけで色々な事を見て、聞いて、調べて、益々西郷の魅力のだろう虜になりそうだ。
まだ九州の旅は鹿児島、宮崎、大分、沖縄が残っているが各地で、西郷隆盛が現れるのだろう。


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