Ride in Kyushu Day 30 (14/1/19) Kumamoto Castle Ruins 熊本城

Kumamoto Castle Ruins 熊本城
今日は熊本城に行く。熊本城は三大名城のひとつ。築城の名人、加藤清正の偉業。多分、日本で最も人気のある武将の一人だ。熊本城を見るのも今回の目的、特に震災被害を受けて現在は修復中で、完全形ではないにしろ、天災に負けず耐えている熊本城は今しか見れない。もう一つの目的は、西南戦勝で薩軍が最初の通過地点とした熊本城で攻防戦が繰り広げられたその所縁の地を巡る事。

西南戦争 熊本城攻防戦

鹿児島を出発した薩軍は人吉、八代、川尻を通り、熊本に近づく、熊本鎮台にこの度の東京への進軍の趣旨を伝え、通過も許可を求める。熊本鎮台司令長官の谷干城は東京本営からは徹底抗戦の命令を受けていた為、薩軍の通行を拒否。そこで薩軍は熊本城の南に位置する二本木に本営を構える。
ここで薩軍は次の作戦会議がなされ、「熊本を素通りして進軍する」、「熊本城を攻撃占領」の二つの案が議論された。結果は熊本城攻略に決まった。ここで気づくのは、熊本鎮台に拒否されてからこの議論がなされた事だ、通常戦争では、様々な想定をし、この場合にはこうすると言った事前の方針が決まっているはずだが、薩軍に限っては、この後もそうなのだが、その場で判断をしている。理由として考えられるのは、西郷隆盛は元陸軍大将であるから熊本鎮台の軍人は元部下である。桐野も以前はこの熊本鎮台司令長官を務めていた。鎮台の中には、薩軍に共感を持っているものもいたと思う。薩軍は熊本鎮台が西郷へはいまだ忠誠心はあるから、難なく熊本を通過できると思っていたのかもしれない。もし、谷干城に交戦命令が出ていなかったとしたら、谷はどの様な対応をしたであろうか。通過させる事は無かったとしても、西郷とは面談をし、その趣旨を東京に伝えお伺いを立てたと思う。
熊本城に向かう道に熊本駅がある。まだ震災の修理の最中であった。
薩軍は熊本城の本格攻撃の為、2月23日に本営を北岡神社に移す 。熊本城はすぐ近くだ。戦闘が始まってから、官軍の砲撃がこの本営付近に迫って来たので、3月半ばには本営を二本木に戻す。薩軍が熊本城に到着した23日には、熊本城の天守閣は2月19日の火災で焼滅していた。同時に城下の民家千棟も火災にあっている。官軍が薩軍の攻撃標的になるのを恐れ事前に焼き払ったと言われている。
この近くに花岡山があり、薩軍の砲台が置かれた。ここからは熊本城が眼下に見える。ただ薩軍の砲弾は熊本城までは届かなかった。これは失策か? この花岡山に自転車で登った際、何人かのサイクリストが登っていた。かなりの旧坂なので、地元サイクリストのチャレンジコースになっているようだった。
向こうに熊本城が臨める。
この花岡山にはいくつか旧跡がある。頂上には仏舎利塔。その境内には加藤清正所縁の腰掛岩と兜岩(この手の旧跡は多くあるが信憑性は甚だ薄いと思う。昔からの伝えに便乗した観光政策だろう)、英語教師のジェーンズの影響を受けたプロテスタントが熊本で始まった熊本バンド捧教碑。(新島襄と時期が同じで、お互いに交流があった)。そして、カトリック信者の小笠原玄也一家15名が斬首された殉教の碑がある。小笠原玄也は細川忠興の重臣。細川忠興といえば、妻の玉はキリシタンでガラシアという洗礼名で有名だが、関ヶ原の戦いの際に、石田三成の人質になる事を避け、この小笠原玄也に介錯させた。小笠原玄也の妻みやの父親も細川忠興に仕えキリシタンであった。細川が小倉に移封されていた時に殉教。小倉は福岡や長崎に近くキリシタンが少なからずいた。細川が熊本に移封してからはこの小笠原玄也一家の殉教の後は、キリシタン関連の話はない。加藤清正は大のキリシタン嫌いで、細川氏もキリシタンを厳重に取り締まった。この熊本は福岡や長崎と異なり、異国文化に対してはかなり保守的であった。
もう一つのは薩軍砲弾跡と同じ所に官軍墓地がある。これは西南戦争での戦死者の墓ではなく、西南戦争勃発の前年の明治9年に起こった神風連の乱で戦死した官軍の墓だ。敬神党170名がまずは熊本鎮台司令官種田政明、熊本県令安岡良亮も殺害し、熊本鎮台に乱入し斬り合いとなった事件。この時の官軍の戦死者の墓である。神風連の乱を佐賀の乱や西南戦争と同列に不平士族の反乱と捉えられているが、自分は少し違う意見を持っている。神風連は確かに不平士族が起こしたものだが、神道の宗教がかったもので神国日本に西洋文明や廃刀令など古来の武士の魂を捨て去ることへの狂信的思想に感化された一団が起こしている。多くは神官であったらしい。時代の変化で起こった摩擦である事は同じだが、その大義に違いがある。よって自分はここのところは区別したい。ここにも熊本の保守的な性格が出ているように思う。今で言えば、右翼的考えが強かったかも知れない。江戸時代末期には肥前では藩校での朱子学教育を中心とする学校党、横井小楠らが提唱した教育と政治の結びつきを重視する実学党、国学・神道を基本とした教育を重視する勤皇党の3つあり、勤皇党のうち、神道の信仰心が非常に強く、明治政府への強い不満を抱く構成員により、敬神党が結成されていた。三島由紀夫などはこの敬神党に共鳴していたという。先進的な横井小楠がこの肥前では冷遇され福井藩で活躍した事などを考えると、当時の熊本は変革に対しては比較的保守の立場だったろう。現在の熊本県人の性格にどれ程影響があるのかはわからないのだが.....
話を西南戦争に戻す。22日に薩軍は熊本城の攻撃を開始した。この時はまだ薩軍の大砲は到着していなかった。到着を待つべきであっただろうが、薩軍は官軍を少々なめていた。昨年に起こった神風連の乱では熊本城はいとも簡単に入城を許していた事も知っていただろうからか。池上四郎隊 2000は熊本城の北から熊本城への入り口の各橋を攻撃したが、官軍の砲撃を浴び、突破は失敗。桐野隊 800は熊本城南の県庁を攻める。ここでも官軍の砲撃を受けたが、県庁の一部は突破。熊本城の南と東は坪井川が城の堀の役割を果たし、堅牢な石垣で攻めるには最も困難な場所だ。敢えて城の弱点は西側で、あまり城郭がない。特に激戦地となった段山付近は、丘から場内が見渡せる地形だった。この丘と城の間が激戦地で、薩軍も最も兵力を充てた。篠原・別府・村田ら3隊合わせて約3000名が花岡山から熊本城に侵攻した。昼前の薩軍の大砲も到着したが、官軍大砲に比べ、数質ともに劣っており、官軍の防衛線をとっぱまでにはいかなかった。
段山劇戦地の近くの藤崎台というところに、官軍将校の与倉総隊長の戦死の記念碑があるというので行った。養護施設の中にあるらしい。養護学校の生徒に聞いたが知らないという。諦めかけたのだが、生徒が一生懸命手振りで待って待ってと言っている。そして先生を呼んでいる。先生が気づかず、また諦めて帰ろうといたら、また身振りで待てという。やっと先生が気が付き、来てくれる。記念碑の場所を尋ねると、地震で移動させたと言って、そこまで連れて行ってくれた。元の場所は、養護学校が立つ崖の先端で、ここで銃撃に倒れたと説明してくれた。生徒さんの優しさに触れた。障害に負けずに頑張って欲しい。
養護学校の裏手の藤崎台は西南戦争当時は神社があり、樹齢1000年以上の楠林が境内にあった。神社が戦火で焼けてしまい移設されているが、この楠林は保護地域になっている。7本の非常に大きなそして立派な楠が悠然と生えている。この楠が唯一歴史の証人なのだろう。良く戦火の中焼け残ったものだ。
ここからは先に訪れた花岡山が臨める。花岡山の薩軍からは、場内の官軍の布陣が見えた事だろう。大砲の弾は熊本城には届かなかったが、戦況を見るには良い場所だっただろう。
薩軍のそれぞれの布陣したところ行き、熊本城との距離感やどのような情景だったか、実施の地で確かめたかった。良く言われるのは、何も残っていないところに行って何が面白いのかと。これは行かないと感じられないことがある。いつも行って、来て良かったと思う。行くとそこに当時の情景が現れるような感じになる。あたかも当時自分がそこにいて、行動をしていたかの気分になる。これが良いのだ。
まずは別府晋助が南から古城の前に布陣したところ。古城とは加藤清正が熊本城の築城前に居城としていたところ。古城の築城年代は定かではないが、大永・享録年間(1521年~1531年)に鹿子木親員によって築かれたと云われる。その後は豊臣秀吉の九州征伐の後は佐々成政が肥後一国の領主として入城。佐々成政は国衆一揆の責任を問われ切腹改易。佐々成政にかわって加藤清正が北肥後に入部すると、千葉城(熊本城の東の部分に相当)と熊本古城を含む広大な敷地に熊本城を築いた。明治には熊本洋学校が建てられ、現在は熊本第一高等学校となっている。校門は石垣で囲まれて歴史を感じる。別府晋助が布陣したところからは熊本城がはっきりと見えるが天守閣のある熊本鎮台本営にはまだ距離がある。目の前には古城があり、石垣の上のは官軍砲台で攻撃を受けた。
ここには城下町の面影が少し残っている。
次に行ったのは激戦地の段山。ここは村田新八や篠塚国幹が、薩軍として指揮を取っていた。この激戦地には少し触れたが、段山から下ると官軍が守る熊本城西側となる三の丸、ここが激戦地で現在は段山公園となっている。熊本城西側の土塁があり、この上には砲台が置かれていた。薩軍の段山に砲撃を行い、この土塁をよじ登る薩軍に官軍は一斉射撃で防戦したのだ。
熊本城の北には、池上四郎率いる薩軍が布陣。京橋がその陣の一つだが段山からそこに向かうところにも官軍砲台があっただろう場所がある。丁度三の丸の旧細川刑部邸があった所のあたり。ここからも耐えまず砲撃が行われていた。旧細川刑部邸は地震で大きな被害を受け現在修復中で見学ができない。
京橋は熊本城の北の石垣を隔てて高台にある。新堀橋がかかり、城に入ると加藤神社がある。西南戦争時には既にこの加藤神社は存在していた。細川藩時代にニ代しか熊本藩を治めていない加藤清正を場内に祀るのは、細川氏の心境はどうであったろう。常に加藤清正と比較され続けた細川氏。太っ腹だったのか? ここも一度下り石垣と門を攻めることになる。池上四郎部隊は熊本城の北と東にある門を攻めた。京橋 (新堀橋、埋門)、内坪井(坪井橋、不開門)、上林 (千葉城橋)、薮内 (うまや橋) からそれぞれが攻撃。ここを突破すれば天守閣のある熊本鎮台は直ぐそこにある。ここも官軍の砲撃を受け突破までは行かなかった。
京橋から城を見たところ
内坪井から
上林から
薮内から うまや橋にある平御櫓は傾いてしまって、現在修復中。
桐野部隊 (桐野利秋自身はこの包囲戦には参加せず、山鹿に向かっている)は行幸橋を目指し行軍。ここは熊本城の玄関的な所。現在も熊本の中心の花畑で銀座通りのアーケードの商店街で賑やかだ。ここには加藤清正像がありその後ろには馬具櫓がある。震災で石垣が崩れ中の玉石が溢れてきているが、櫓自体はしっかりと立っている。
行幸橋を城に渡ると、桜の馬場にちょっとお洒落な飲食商店街が昔風に作られている。
桜の馬場の奥に未申(ひつじさる)櫓が見える。
まだ地震からの修復が続いており、自由に歩き回ることはできず、決められたコースを柵で仕切られて、そこしか進めない。桜の馬場からはこの未申櫓を通り二の丸広場に行くことができる。二の丸は広い広場になっている。崩れた石垣の保管場所としても使われている。それぞれの石垣には番号が振られている。熊本城石垣は重要文化財なので、崩れた石垣は元あった場所に正確に復元する必要がある。それで石垣一個ずつコンピュータに情報を入れ込みコンピュータは震災前の画像と照らし合わせ元の場所を探し出すという手法を取っている。最近犯罪者の識別で、登録された顔写真を群衆の中から識別する技術の応用だ。技術の進歩は凄い。
二の丸の空堀を隔てて戌亥砦が震災で石垣が崩れたままで立っている。痛々しいが逞しい。昭和に復元された天守閣と小天守は無残に壊れているが、加藤清正が建てた櫓は健在だ。昔の築城技術は凄い。耐震対策がとられている。ここだけでなく、色々な遺跡に行くと驚きだが、1300年も前の建物が、論理的に耐震が考えられていたという。近年の耐震基準前の現代建築は耐震性で昔の建築物より耐震性が劣っているとは少し情けない感じもする。
二の丸の中に西南戦争で籠城した官軍将校の家族が避難していた場所の記念碑がある。西南戦争で谷干城以下官軍がここに籠城していたのは52日に及んだ。田原坂が集結してもなお薩軍の熊本城包囲は継続されており、薩軍は川を塞き止め水攻めまで行った。この籠城戦は並大抵ではなかった。籠城していた人数は家族も含め5000人。食料は50日持つかどうかだった。籠城40日を過ぎる頃から、馬や牛、猫やネズミ、池の鯉やフナまで食べたという。加藤清正が籠城戦のために城の壁に塗り込んだヒジキも食べたという。最後は、城下の民家から食料を無理やり押収してしのいだ。口減らしのために、薩軍の包囲網突破の作戦まで行った。決して綺麗事だけではない大変な籠城戦であった。薩軍が後、1〜2週間包囲網を維持できていれば、形勢は薩軍に傾いたかもしれない。

植木/木留の戦い

この熊本城包囲戦が継続している間も、他の所では戦闘が続いていた。
3月20日に田原坂を突破した官軍は、次に植木で、後退し、戦線を再構築した薩軍と衝突することになる。薩軍は吉次峠から植木まで戦線を維持していた。3月21日から戦闘が行われたが、薩軍は思いのほか強く、官軍はなすすべが無く、膠着状態が3月いっぱいまで続いた。
官軍はこれを打開すべく戦闘の矛先を吉次峠、半高山に集中した。これが功を奏し、薩軍は後退、官軍は半高山、吉次峠を奪取し、山を一気に駆け下り、木留を攻めて4月2日に攻略。薩軍は防衛線をジリジリ後退させた。4月9日には隈府(菊池)から竹迫まで後退。ただ、まだしたのずの水色の防衛線は維持していたから、薩軍の強さ、粘り強さには感服する。
官軍の熊本城への侵攻は徐々に進んではいたものの、籠城は限界に来ていたことは確かだ。官軍は4月14日に一斉攻撃の力攻めを決め、その日早朝から砲撃を開始進軍した。しかしその時点で、薩軍はこれ以上の包囲継続は危険と判断して、既に熊本城と植木の防衛線から撤退をした後だった。これにより、52日の熊本城籠城が集結した。ただこれが西南戦争の終わりではなく、今度は阿蘇南西の山麓に退いた薩軍追撃が始まるのだ。


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