Okinawa 沖縄 #2 Day 156 (20/12/21) 旧知念村 (5) Kudeken Hamlet 久手堅集落 (1) 斎場御嶽

旧知念村 久手堅 (くでけん、クディキン)

  • 斎場御嶽
    • 里道
    • ウローカー 
    • 砲台跡
    • 参道
    • 緑の館 (入場口)
    • 御門口 (ウジョーグチ)
    • 大庫理 (ウフグーイ)
    • 艦砲穴
    • 寄満 (ユインチ)
    • シキョ垂 (ダ) ユル天 (アマ) ガ美御水 (ミウビ)
    • 天垂 (アマダ) ユルアシガ美御水 (ミウビ) 
    • 貴婦人お休み処
    • 三庫理 (サングーイ)、気ヌ端 (チョウヌハナ)

今日は沖縄で最も観光客が訪れる場所の一つである斎場御嶽 (セーファーウタキ) がある久手堅集落を巡る。斎場御嶽はじっくりと見て回り、久手堅のその他の文化財すべてをこの日に見終わることができなかったので、2日間かけてとなった。ここでは斎場御嶽の訪問のみを載せ、その他久手堅集落については、12月24日の訪問記にまとめて書くことにした。



旧知念村 久手堅 (くでけん、クディキン)

久手堅は方言ではクディキンで、琉球国高究帳 (1635~1646年) には 「くでけん村」、琉球国由来記には「久手堅村」と表記され、その時代には村があった。 クディは一族を代表する神官を意味し、キンはもともとは「堅」ではなくチンやチミと同じで、首里や地方の王家筋の宗教をつかさどるキミ (君、神女) を表し、キミがキンに変化しクディキンとなったと考えられる。この様に、久手堅という村名は斎場御嶽をめぐる信仰上枢要なノ口 ( 神女) の神職に基づいた役目に由来していると思われる。別の説では、久手堅は沼や沢のような水草の生えた低い湿地である湫 (くて) の義とも言われ、クディキンのキンは石灰岩台地上の「ギザギザした野」とする考えもある。

クディキンは神話の多い神の里と言われた。斎場御嶽 (セーファウタキ) は久手堅ノロの崇べ所であり、久手堅ノロはセーファノロとも言われている。 久手堅ノロは王府祭祀の時には、斎場御嶽と當間之ヒヤ火神 (當間殿) で祈願している。このように、久手堅ノロはクディとキンの両方の役目を果たしている。 歴代の聞得大君の神名は、御新下りの時に斎場御嶽で、久手堅ノロによって献られ、この神名は本人と久手堅ノロ以外に知る者はいなかったと言われている。この久手堅ノロの聖職は古い前型で、場天ノロによって行われていたが、宮廷と関係の深い久手堅ノロの手に移ったとされている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: なし
  • 殿: 當間殿

斎場御嶽が久手堅集落の拝所には含まれていない。これは斎場御嶽は琉球王府の霊場でい庶民は中に入ることが許されていなかった。現在では、唯一、安座真集落が御門口で遙拝している。


久手堅集落訪問ログ


斎場御嶽 (セーファクタキ)

斎場御嶽 (セーファクタキ、サイハノ嶽) は安座真集落から国道331号を登った久手堅の小字サヤハ原の山手側の山中にある。斎場御嶽は琉球開闢伝説にもあらわれる琉球王国最高の聖地で、全体が広大な森で、御嶽の中には六つのイビ (神域) がある大庫裡 (ウフグーイ)、三庫裡 (サングーイ )、 寄満 (ユインチ) の三つの聖域があり、これらの聖域の名称は首里城内の建物の名と重なっている。いずれの聖域とも巨大な琉球石灰岩の崖を背にしている。琉球国由来記のサイハノ嶽 (神名: 君が嶽主ガ嶽御イベ) に相当し、「六御前 一御前 大コウリ 一御前 ヨリミチ 一御前 サノコウリ 三御前 キヨウノハナ 北斎場嶽、阿摩美久 作給フト也。 詳二中山世鑑二見ヘタリ。右、 知念久手堅巫両人崇所」とある。琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の行事の「東御廻り」の参拝地であり、琉球国最高神女である聞得大君の就任儀礼である「御新下り」が行われた。セーファウタキ (斎場御嶽) は琉球最高の聖地と言われ、2000年 (平成12年) に琉球王国のグスク及び関連遺産群の一つとして世界遺産に登録されている。
国指定史跡斎場御嶽保存活用計画にはこの斎場御嶽の歴史が掲載されていた。かなり昔から存在していたと紹介されている。

明治12年の廃藩置県以降に、本土の国家神道の普及が沖縄統治の一つとなっていた。明治23年に那覇の波上宮が官幣社となり、大正13年に首里城正殿が沖縄神社に、昭和5年に南山城が南山神社に、昭和15年に招魂社が護国神社に変わっていった。これは日本政府が沖縄で天皇主義教育が進まないのは、沖縄古来の土着信仰の影響と考え、各地の御嶽や殿を各村一つの神社に変えていくという「無神社解消七年計画」が昭和17年に決定された。この斎場御嶽も天照大神、国魂神、海神を祭神として斎場神社建立の計画が立てられていた。(下の図は当時の計画図) 太平洋戦争が激化する中、この計画は自然消滅し、昔ながらの斎場御嶽が現在も残った。この時代の本土政府の狂気から逃れられたわけだ。これが実行されていたら、世界遺産にはならなかっただろうし、沖縄県人の信仰に対しての侮辱だった。


東御廻り (アガリウマーイ)

斎場御嶽 (セーファクタキ) は、東御廻り (アガリウマーイ) 之巡礼地の一つでもある。東御廻りは琉球の創世神アマミキヨが渡来し、住みついたと伝えられる知念玉城の聖地を巡拝する行事で、首里城から見て、大里・佐敷・知念・玉城を東四間切 (あがりゆまぎり) または東方 (あがりかた) といったことから、知念・玉城の拝所巡礼を東御廻り (アガリウマーイ) と称した。

園比屋武御嶽 → ❷ 御殿山 → ❸ 親川 → ➍ 場天御嶽 → ❺ 佐敷グスク → ❻ テダ御川 → ❼ 斎場御嶽 → ❽ 知念城 → ❾ 知念大川 → ➓ 受水・走水 → ⓫ ヤハラズカサ → ⓬ 浜川御嶽 → ⓭ ミントングスク → ⓮ 玉城グスク



御新下り (アオラオリ)

聞得大君が最高神職に就任する儀式は国王の就任儀式に並ぶ重要な儀式で御新下り (アオラオリ) という。 第二尚氏11代尚貞王の王妃であった第六代聞得大君となる月心の就任式として、1677年に正式に御新下り (アオラオリ) が行われてから、琉球王統滅亡まで10回行われている。御新下りは新しく聞得大君になる王女の行列が首里城で儀礼を終え、いくつかの御嶽を経て、二日間かけて斎場御嶽に入り、数々の儀式を執り行った。御新下りにあたっては首里城から斎場御嶽にいたる街道が補修整備されていた。 王女は、聖水を額に付ける御水撫で (うびぃなでぃ) の儀式で神霊を授かり、神と同格となり、神の名前でもある最高神女として聞得大君になったといわれる。斎場御嶽の儀式を通して聞得大君という神が王女に降臨し、彼女と一体になる。一連の儀式を終えた聞得大君は仮設の二つの金の枕が並べられた寝所で一夜をあかし、いわゆる聖婚の儀式を済ませる。聞得大君は琉球王国を守護する生きる神となる。

インターネット上のサイトでこの聞得大君の御新下りの行程が以下の様に紹介されていた。

  1. 聞得大君御殿を大君は多数のノロや女官を従え、早朝に出発し、まずは園比屋武御嶽を参拝し、次に歓会門から御内原に入り正装に着替え、首里城正殿に行き、三庫裡で国王に神酒を進上し、国王から返盃を受ける。その後、大君は白馬に乗り赤田門から首里城を出て、ノロらは琉球古謡のクェーナを謡い与那原へ向かう。
  2. 与那原浜に到着し、与那原浜の仮屋で、大里南風原ノロや神女らの出迎えを受ける。ノロや神女たちは斎戒沐浴し、髪を後ろに垂らし白い神衣の精進姿となる。大君は御殿山の拝所で七度御水撫で (ウビーナディー) を受け、親川 (ウャガー) で手を清め口をすすぐ。仮屋の前ではノロや神女がクェーナを謡い舞う。
  3. 午後3時頃与那原浜を出発し、大里南風原ノロらの案内で斎場御嶽へ向かう。津波古御仮屋、佐敷と知念の境の屋比久兼久御仮屋で、知念玉城ノロや神女らの出迎えを受ける。途中のユックイヌヒラの急坂で、大君は馬から籠に乗り換え、午後9時頃斎場御嶽に到着。
  4. 斎場御嶽前に築かれた仮御殿で小休憩。仮御殿は国頭のサバクイにより建設された。また、久高島から白砂が運びこまれ式典会場に敷き詰められた。それら式典の準備には半年を要したという。
  5. 午後10時頃、久高島久高ノロが白馬に乗って到着し、知念玉城ノロらが出迎える。総勢70余名のノロ、神女らが揃ったところで、仮御殿を出た大君は、一行を従えて大庫裡 (ウフグーイ) に向かう。ノロらはクェーナを謡う。
  6. 一行は、大庫裡 (ウフグーイ) 、寄満 (ユインチ)、三庫裡 (サングーイ) の順に御願を行い、大庫裡に戻る。他の古文書の式次第では、大庫裡 (ウフグーイ) → 三庫裡 (サングーイ) → 寄満 (ユインチ) → チョウヌハナ →  シキョ垂 (ダ) ユル天 (アマ) ガ美御水 (ミウビ) → 天垂 (アマダ) ユルアシガ美御水 (ミウビ) の六つの威部 (イビ) を巡拝するとなっている。
  7. 大庫裡で行われる本儀式の司祭は久高島久高ノロ。進行役は知念玉城ノロ。上座に大君が座りノロらが円座を組む。久高島外間ノロが大君の頭上に王冠を載せ、神女たちが総立ちしクェーナを謡う。午前3時頃に儀式が終わり、大君は仮御殿に入る。金屏風を立て、黄金枕をおいた部屋に休み、神を迎える。
  8. 翌朝の日の出を拝し知念玉城ノロの進行で、久高島久高ノロが掌典し、クェーナを斉唱し儀式を終了する
  9. 正午ごろ玉城グスク受水・走水明東城 (ミントングスク) を廻り、夜遅くに首里の聞得大君御殿に帰着する。

最高神職の聞得大君は、代々、王女か王妃が就任している。ここにも沖縄のオナリ信仰が根強いことがあらわれている。琉球王統時代から明治12年の廃藩置県まで、知念間切はこの聞得大君が総地頭として間切全体を領有し、管理していた。知念間切の各村にはの脇地頭が総地頭として聞得大君の配下に置かれていた。


里道

安座間集落から国道331号線をのぼり、知念海洋レジャーセンターを過ぎた所の歩道の脇に、山への登り口があり、御願いの注意書きが立っていた。奥に拝所がある様なので中に入る。後で資料にはこの道は斎場御嶽への道で里道と呼ばれていた。元々は最も北側にあったとも言われている。東御廻り (アガリウマーイ) と御新下り (アオラオリ) などでは与那原から船で、先日訪れた安座真の待垣泊 (マチザチトゥマイ) に着き、そこから斎場御嶽へ続いていた道だそうだ。
戦後はこの道が斎場御嶽への入り口になっていたそうで、当時の写真があった。今よりも、もっと広い道で、入り口には「斎場御嶽入口」と看板が見える。


ウローカー 

細い山道を登ると広場に出る。奥の岩場の麓に拝所が見える。ウローカーと書かれていた。ここが斎場御嶽への道だ。ウローカーは琉球王朝時代、斎場御嶽に入る際に、聞得大君はじめノロや神人が禊をした場所にあたる。井泉の前には石畳が敷かれ、井泉の奥の大岩から流れる水が水路を通り石造りの水槽に溜まっている。

砲台跡

ウローカーがある場所には沖縄線当時、1944年から45年に重砲兵第7連隊第2小隊 (通称吉岡部隊) が構築した日本軍の砲台があり、38式野砲等の火砲が設置されていたといわれている。現在でもその砲座が二つ残っている。草で覆われて、全容は見にくくなっている。資料によっては、この砲台から米軍艦船に砲撃を行っていたが、反撃により砲が破壊され使用不可能になったとあった。それにしては綺麗に砲台が残っている事とこの砲台を攻撃すれば、斎場御嶽も破壊されてしまったのではとの疑問があったので、この後、斎場御嶽のボランティアガイドさんに尋ねた。ここは沖縄で最も重要な神聖な場所なので、地元の人達が日本軍に掛け合い、この砲台からは砲撃をしない事になった。それで斎場御嶽もほとんど被害が無かったと言っていた。ガイドさんは一発も撃たなかったと言っていたが、資料とは少し食い違う。米軍にしても、ここに砲台がある事は分かっており、全く攻撃をしなかった訳では無いだろう。実際に斎場御嶽内にも砲弾が落ちている。戦闘初期の段階で、住民からの要望で、野戦砲を別の場所に移したのではないかと想像する。
北側の砲台からウローカーの前を通って南側の砲台まではコンクリートの通路があり、その一部が残っている。この通路には線路が敷かれトロッコで砲弾を砲台に運ぶ仕組みになっていた。通路の途中にはコンクリートの柱が立っており、当時の砲弾小屋の残骸だそうだ。
南側の砲台の方が幾分草で覆われている部分が少なく形が分かりやすい。砲台は円錐状で上部に砲座が造られている。砲座の左右2ヵ所に弾薬庫と思われる小室が設けられている。


参道

北側の砲台から山を登る石の階段の道がある。ここはウローカーで身を清めた神官が斎場御嶽へ向かう参道だった。参道を登ると柵で入り口が塞がれていた。柵を跨ぎ振り返ると柵には立ち入り禁止の表示がかけられていた。土砂崩れで滑りやすくなり危険という事で、整備予定で現在は立ち入り禁止になっている。知らずにこの道はを通り斎場御嶽の場所まで来てしまった。来てしまったので、斎場御嶽を巡る事にした。


緑の館 (入場口)

参道を上がると、道は御門口 (ウジョーグチ) へ続くのだが、そこに行く前に、聞得大君一行の仮屋が建てられていた広場がある。仮屋なので、常時あるわけではなくこの儀式に合わせて造られるもの。現在は広場、緑の館 (斎場御嶽への拝観入り口)、駐車場になっている。聞得大君一行も久高祝女一行の到着を仮屋で待ち、午後10時ごろから斎場御嶽に入り儀式を行った。ちょうど緑の館付近に聞得大君仮御殿が置かれ、その隣、御門口側に首里あむしらり仮屋、参道を挟んで、井戸の奥に祝女 (のろ) 仮屋、御與夫 (うちゅうふ) 仮屋、そして久手堅への坂道沿いに大台所と捌官 (さばくり) 仮屋が置かれていた。東御廻り (アガリウマーイ) の五日前には諸野菜下知方座が来て食料の調達を行い、大台所役人と庖丁 (料理人) が数日前に派遣され準備を行っていた。当日は総勢70余名の参加者がそれぞれの仮屋で翌朝の出発まで過ごすことになる。仮屋も男子禁制となっていた。


緑の館から御門口へ向かう途中には井戸跡がある。この井戸は明治時代以降に造られたと思われる。

池に沿って御門口にむかう。御新下り (アオラオリ) の際には、御嶽への道には聖なる白砂を 「神の島」といわれる久高島から特別に運び入れ、それを御嶽に敷きつめたそうだ。


御門口 (ウジョーグチ)

参道から石灰岩の石畳の階段を登ると斎場御嶽の聖城の入り口である御門口 (ウジョーグチ) がある。かつてはここから中に入れるのは王府関係者のみで、更に王も含め男性はここで着物を左褄を上に改めて、中に入ることになっていたという。御門口は御嶽内へ入る参道の入口になり、右側には六つの香炉が据え置かれており、 これは御嶽内にある拝所の分身とされている。琉球王府時代、一般庶民は斎場御嶽に入ることを禁じられており、一般の人々はここで御嶽に向かって拝んだ。ここからは東側の洋上に久高島が見え、ここから遥拝したと言われている。発掘調査で、斜面部に堆積した崩落土砂の中から、切石や灯籠部分出てきた。古絵図で確認では上部にあったと様だ。石畳道の脇に置かれている灯籠がそれなのだろうか? 

大庫理 (ウフグーイ)

そこから石畳の上り道を100m程行くと左手に最初の拝所の大庫理 (ウフグーイ) がある。大庫理 (ウフグーイ) は大広間や一番座という意味で、首里城正殿二階の祭祀的な機能を持つ格式の高い部屋に由来する。琉球石灰岩の巨岩が覆い被さるようになった空間に石畳を敷いた平地があり、その奥に切石香炉を数個並べた基壇の祈りの場の御庭 (ウナー) がある。
聞得大君の就任儀式だった御新下り (アオラオリ) ではここで聞得大君の聞得大君の神名を付ける「お名付け」 が行われた。沖縄戦の爆撃で拝所上部の岩が崩落し、遺構全体を覆い、その上に土砂が堆積したり、その後、宗教団体により新たな拝所が作られるなど、以前の姿は失われていた。発掘調査時にそれらを撤去し、御庭 (ウナー)、基壇が確認でき、整備して現在の様な姿になっている。右側には明治末から大正初期に建てられ、沖縄戦により破壊された赤瓦葺の建物があり、赤瓦片が検出されているが、斎場御嶽とは関係のない建物という。

艦砲穴 (カンポウアナ)

更に参道を進む。この参道は元々のものでなく復元工事の際に造られたもの。昭和20年3月24日、斎場御嶽がある知念地区一帯は、アメリカ軍の激しい艦砲射撃を受け、斎場御巌にも砲弾が落ちている。ガイドさんによると山道の両側は岩壁が迫っていたそうだが、砲撃で片側の岩は破壊されたそうだ。寄満へ向かう参道の途中に砲弾が落ちた跡を保存しており、艦砲穴、砲弾池と呼ばれている。当初は深さ3メートルもあったが、今は落ち葉や流れてきた土砂にうもれ、深さ60センチまで浅くなっている。

寄満 (ユインチ)

石畳道を進むと分岐点に出る。参拝順路に従って、道をまっすぐに進むと左手に開けた空間に出る。そこの巨岩の崖下に寄満 (ユインチ) という拝所ある。寄満の名称は、首里城内にある国王のために食事をつくる厨房に由来し、王府用語で「台所」を意味する。ここで調理をしたわけではなく、貿易の盛んであった当時の琉球では、 世界中から交易品の集まる「豊穣の満ち満ちた所」と解釈されている。基壇の石積みは、艦砲射撃の被害は少なく、ほぼ現況のとおりに残存していた。半ドーム状に覆い被さった岩壁の下奥に切石香炉が4個置かれている。
寄満から、森の中へはナーワンダーグスクへ続く道があるのだが、立ち入り禁止となっている。ガイドさんにナーワンダーグスクへは行けるのかと聞くと、ナーワンダーグスクは私有地にあり、南城市の管理下に無いので、そこへの道は案内していないと、少し歯切れの悪い答えだった。ハブの危険もあり、南城市としては、通って行ってくださいとは言えないのだろう。ナーワンダーグスクは久手堅集落で拝まれており、そこへの道が別にあるそうなので、そちらを通って行く事にする。この寄満の背後の山にあるナーワンダーグスクは、古代の葬所とみられ、聖所でもあった。女陰を象徴しているといわれるイナグ (女) ナワンダーと男根を象徴しているといわれるイキガ (男) ナワンダーの二つの大岩が存在する。寄満は本来そこへの拝所として信仰され、豊饒を祈願する場だったと考えられている。

シキョ垂 (ダ) ユル天 (アマ) ガ美御水 (ミウビ)、天垂 (アマダ) ユルアシガ美御水 (ミウビ) 

参道の分岐点まで戻り、別の道を行く。この先は御嶽の中で最も広い空間の広場になっており、その奥に斎場御嶽の中心となる三庫理 (サングーイ) の拝所がある。三庫理 (サングーイ) のすぐ前に、半ドーム状に石灰岩で覆われた崖下に石畳の平場がある。その右手側に半ドームの上から巨大な2本の鍾乳石が垂れ下がっている。それぞれの鍾乳石からしたたり落ちる水は聖水とされ、その水滴を受ける壺が置かれている。奥の方が 「シキョダユルアマガミウビ」 (シキョ垂ユル天ガ美御水)、手前の方が 「アマダユルアシカミウビ」 (天垂ユルアシガ美御水) と呼ばれる聖水となる。 これは2月の麦のミシキョマと4月の稲のミシキョマの3日前に王城に持ち込まれ、国王と聞得大君、司雲上按司がこれで 「お水撫で」をしていた。その量によって1年の豊凶、聞得大君や中城御殿 (国王の世子) の吉兆を占ったとされる。

貴婦人お休み処

石畳の左部分は聞得大君の御新下りの夜、ここに床を設けて枕を2つ置き、1つには新聞得大君が枕し、もう1つには神が枕するようにして、新聞得大君が安らかに眠れば、神の祝福のある適任者であるとの判断がなされたという。また、「女官御双紙」 の記述では、ここは高貴な方が休憩された場所とある。当時の高級神女たちがその席に着いたとき、供の者たちは前の御庭 (ウナー) で神へ奉納する歌や踊りをしたと考えられている。

三庫理 (サングーイ)、気ヌ端 (チョウヌハナ)

この奥、巨大な石灰岩で造られた三角形のトンネルを通った奥所に三庫理 (サングーイ) がある。サングーイは石畳の狭い平地で、入って右に垂直に切り立った石灰岩があり、その岩壁の下に切石香炉が10個程置かれている。現在、三庫理 (サングーイ) への入場は、新型コロナ感染防止対策として禁止になり、一般の人は入れず、柵の外側からの拝謁となっている。岩壁の頂上が 気ヌ端 (チョウヌハナ) の「三御前 キヨウノハナ」)である。左手の岩壁が切れた所は久高島の遙拝所となっている。

三庫理 (サングーイ) の中に入った写真がインターネットにあった。 ここに置かれている香炉の一つが、今年3月に盗難にあったが、その後、戻ってきている。ガイドさんの話では、別の場所に移すように神のお告げがあったという。この斎場御嶽では、この手の「拝み屋」と呼ばれる神がかりの人が訪れ、係員に無理難題を押し付けることが度々あるそうだ。沖縄では街中でも「ユタ」の拝み屋をよく見かける。

これで斎場御嶽の見学は終了し、この後、他の久手堅集落の文化財を巡った。すべては見れず、次回に残りの文化財を訪問予定。今日廻った他の文化財は次回の訪問記に含める。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)
  • 国指定史跡斎場御嶽保存活用計画 (2018 南城市教育委員会)
  • 御新下りの歴史的構造 聞得大君即位祭儀をめぐって (1988 小山和行)

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