Okinawa 沖縄 #2 Day 122 (09/08/21) 旧玉城村 (13) Hyakuna Hamlet 百名集落
旧玉城村 百名集落 (ひゃくな)
- イリーハンタガマ、アマミツの墓 (8/4 訪問)
- ハンタの井泉 (8/4 訪問)
- アマミキヨの道 (8/4 訪問)
- 受水走水 (8/4 訪問)
- ミフーダー (8/4 訪問)
- 親田祝毛 (8/4 訪問)
- ヤハラヅカサ
- 浜川御嶽 (8/4 訪問)
- 潮花司 (8/4 訪問)
- 石獅子
- 加茶原御嶽 (カチャバルウタキ)
- 加茶原井泉 (カチャバルガー)
- 松井泉 (マチガー)
- チンサーの御嶽
- 久高井泉 (クダカガー)
- 泉井泉 (イージンガ-)
- 伊波井泉 (イハガー)
- 百名井泉 (ヒャクナガー)
- 工ーバンタ小嶽 (クータキ)
- 工ーバンタ御嶽 (ウタキ)
- 本部 (ムトゥブ) の神屋
- 安里之殿 (アシトゥヌトゥン、安次富之殿)
- チチ石庭
- 大前之殿 (ウフメーヌトゥン、根所前之殿 ニードゥクルメーヌトゥン)
- 百名公民館
- 大城井泉 (ウフグスクガ-)
- チンタカーの御嶽
- 焚字炉 (ふんじろ、フンジルー)
- 石獅子
- ジャジュン之殿 (トゥン)
- 大城 (ウフグスク) グスク
- 美生之御嶽 (ミホヌウタキ)
- カーミンヤーのアサギのアジシー [未訪問]
- カーミンヤーのアサギのトーシー [未訪問]
- 藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ)、サシキバンタ
- クルク山のミントンのトウーシー [未訪問]
- 天孫洞窟 (西ハンタ) (8/4 訪問)
- 米地井泉 (メージガー、天孫御泉水) (8/4 訪問)
- 米地 (メージ) カラオカラ (8/4 訪問)
前回訪問した新原集落の本村である百名集落を訪れる。8月4日に訪れた翌日から台風の影響で天気は荒れ、ようやく収まった。今日は朝から快晴。
旧玉城村 百名集落 (ひゃくな)
百名は天孫氏時代に始まった古いる部落とされている。最も、天孫氏時代がいつなのかはよく分からず、天孫氏が実際に存在していたのかもよくわからない。ただ、かなり古くからあったことは確かで、沖縄開闢に係わる村とされている。
昔は仲村渠も百名村に含まれていたと考えられ、玉城間切ができたときには15ヵ村 (目取真、大城、稲福、舟越、糸数、当山、玉城、和名 [後に垣花]、百名、奥武、志堅原・中やま[仲栄真]、あたん口、嶺、下百名) あり、隣村の仲村渠村は百名村に属していた。百名村はの伝説等によれば、昔は百名ミントンと呼ばれていた。琉球国由来記によれば、第二尚氏の琉球王統時代には、王府から島袋慶重が地頭に任じられ、神谷里主所の殿を設け、村は神谷村と記されていた。約三百年前までは神谷村となっていた。この神谷里主の殿は現在仲村渠屋号神谷の屋内にあり、この殿へのお供え物として百名住民から米を集めて奉納していたという。
百名集落は沖縄の稲作発祥地ともされている。戦前までは稲作もおこなわれ、百名の水田は皇室に献上する米の献穀田が百名小学校裏辺りにあったそうだ。
百名は沖縄戦では比較的被害が少なく、米軍が捕虜収容所や孤児院をこの百名に開設していた。この他にも知念半島には多くの収容所が造られていた。
前回訪れた新原集落は1922年 (大正11年) に百名から分離独立して百名二区になったが、字としては独立分離は出来ず、相変わらず字百名の一地域のままで現在に至っている。
手に入った人口データでは1880年 (明治18年) では428人とある。資料では1945年の沖縄戦前は400人位とあるので、明治、大正、昭和戦前までは人口はほとんど増えていなかったことがわかる。終戦直後は、収容所が置かれ、元の村に帰郷できない人が多く住んでおり、集落の人口は6千人まで (仲村渠も含め) 膨れ上がったという。そのこともよるのだろうが、当時は百名には野戦病院が知念中央病院に代り、養老院、養護院、警察署、刑務所があり、知念高等学校が建てられていた。後に、米軍から帰郷許可が下り、次第に住民は次々と移動してしまい、各施設も都市地区へ移され、元の住民と永住を望む者だけとなった。その時の人口のデータはないのだが、1960年には659人となっている。この人口が元の住民と帰郷せず百名に永住の人たちだろう。この人口は沖縄本土復帰まではほとんど増えなかったが、本土復帰後少しづつ増加に転じ、2005年には906人となった。この年が人口のピークとなり、それ以降は少しづつ人口は減少している。
民家の分布の変遷については1919年から現在までは、元々の集落が少し拡張したぐらいで、大きく変わっていない。集落を巡っってみると、国道331号 (百名バイパス) の南側が海に向けて傾斜地で住宅地や農耕地には向いていない。唯一民家が拡張できる場所は加茶原 (カチャバル) の平坦地だがここは昔から屋取集落の農地となっており、現在でも畑が広がっている。
百名集落は昔からの御願の習慣を継承している集落で、多くの拝所を御願している。そのために3班に分けて御願を分担している。
百名公民館前にあったガイドマップ
百名集落訪問ログ
8月4日に新原集落を訪れて際に時間がまだあったので百名集落の文化財も巡った。先ずはその時の訪問レポートから…
イリーハンタガマ、アマミツの墓
ミーフガーから山道を登った所にイリーハンタガマ、アマミツの墓がある。この墓は新原と百名の間の丘陵斜面にあり百名集落の拝所に分類されていたが、新原に近いので、新原集落を訪れた8月4日に訪れた。丘陵上の百名集落で出会った男性が案内をしてくれて、資料に載っていた事とほぼ同じ内容の説明をしてくれた。ここはイリーハンタガマ、又は、イリーハンタ上の墓と呼ばれている。百名集落ではアマミキヨ族の墓、または、住居跡といわれ、仲村渠集落ではミントン門中の祖先の古墓といわれている。戦前までは洞穴 (ガマ) があったが戦時中、米軍の艦砲で岩が崩れて塞がれてしまった。ほぼ同じ場所に地元の偉人と伝わるアマミツの墓もあるのだが、資料の写真が不鮮明でどれかは確信がない。アマスのミツーの墓といわれる。この墓は仲村渠集落によってクルク山のミントンのトウーシー、カーミンヤーのアサギのアジシーの拝所と共に神御清明 (カミウシ―ミ―) に拝まれている。
ハンタの井泉
イリーハンタガマ、アマミツの墓から山道を降りて来て自動車道路を少し下ったところに井泉がある。天孫ウッカー(カラウカハ)と書かれている。この井泉は資料により、又地域により様々な呼び方をしている。百名集落ではハンタの井泉や米地井泉 (メージガー) と呼んでいる。字新原では天孫子井泉 (テンソンシガ-) と呼んでいる。伝承では、アマミキヨの一族が使用した井泉とも、天孫氏 (アマミキヨの子孫) の井泉ともいわれる。仲村渠集落ではここが米地 (稲作発祥の地) だと伝わっている。新原集落ではこの井泉の下方にある産井泉が稲作発祥地としている。今となってはどこが稲作発祥の地などはわかるはずもない。知念のウファカル百名の受水・走水と新原の産井泉、天孫子井泉などが稲作発祥の地とされている所があるのだが、この地域に稲作が広く行われていたという事が重要だ。各地の共通の伝承は約700年程前、中国から稲穂を嗤えて飛んできた一羽の鶴が暴風にあってこの地に落ち、その稲穂がここで芽を出しました。 早苗は先程墓があったアマミツが受水・走水の水田 (御穂田) に移植し稲作が始まったという。 新原集落でも初ウビー (若水取りの 儀式) などの行事に拝まれている。
アマミキヨの道
新原集落の東の端の平間グスクから受水走水、ヤハラヅカサ、浜川御嶽 など沖縄開闢の神であるアマミキヨの拝所群に向かう道があり、アマミキヨの道と名前が付けられている。
受水走水 (ウキンジュハインジュ)
三穂田 (ミフーダ)、親田 (ウェーダ)
受水走水の受水の前には稲作発祥伝説の水田と言われる三穂田 (ミフーダ) があった。伝承では鶴がくわえてきた稲穂を植えた水田といわれる。稲を植えたのは、アマスのミツー (新原に墓があった)、ヒラ、大前の3人といわれている。この稲作発祥の伝承はいくつもあり、少しずつ異なってはいる。琉球国由来記 (1713年) にも、阿摩美久 (アマミキヨ) がミライカナイから稲の種子を持ってきて玉城親田、高マシノシカマノ田に植えはじめたとある。伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村のカラウカハという所に落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツによって受水走水の水田(御稲田)に移植されたという。又別のバージョンでは中国から稲の種を持ち帰ることが認められず、かわりに鶴が持ち出すことならば許され、放った鶴が琉球まで持ち帰ってきたが落ちて死んでしまい、こぼれた種から芽が出たのを見つけて植え付けたのがこの田圃だという。
親田祝毛 (エーダウュエーモー)
受水走水の南側の駐車場に親田祝毛 (エーダウュエーモー) という祭場がある。ここでは
今でも旧暦1月の最初の午の日には親田御願 (エーダヌーガン) が行われる。戦争で途絶えていた時期があったが、復活して仲村渠の人々が米地 (メージ)、受水 (ウキンジュ)、走水 (ハインジュ)、に手を合わせて拝んだ後、親田の田圃に入り稲を植え付け、そしてここの祝毛 (ウュエーモー) に移動して東西南北におじぎをする33拝の四方拝を行い、田植えから稲刈りまでを表現した天親田 (アマエーダ) のクェーナを歌って豊作と無病息災を祈願する田植えの儀式を行っている。
ヤハラヅカサ
浜川御嶽 (ハマガ一ウタキ)
大東島から渡来した琉球の開闢神アマミキヨは、海岸のヤハラヅカサに上陸し、浜川付近の洞窟で仮住まいをした後に、ミントングスクに居住したと伝えられている。浜川御嶽の周辺には、その仮住まいを想像させる様な洞窟があったが、近年の開発で消失してしまったそうだ。
潮花司 (スーバナツカサ)
浜川御嶽に向かい合う形で潮花司 (スーバナツカサ) の拝所がある。百名海岸に面した大岩にある。大岩には多数の樹根が張り付いているが、木の根元には古い香炉が安置されていると書かれていたが、周りを探すと大岩の脇に香炉があった。潮花司の名は、波が岩礁に当たって潮が高く飛び散る様を神とみて、海水の霊力を敬って、この名が付いたという。潮花司は、かつては波打ち際にあったが、満潮時は危険ゆえに、吉田下知役 (間切再建の為、王府が派遣した役人) の指導で浜川御嶽が創られ、その前に移された。浜川御嶽と潮花司は、向かい合って所在してはいるが、別々の拝所となっており、両者の関係は不明。潮花司は、百名集落では1月2日の初ウビー、3月3日の浜下り、新原集落では1月2日の初ウビーの村落祭祀で祈願している。潮花司も琉球国由来記の浜川 (神名: ヤハラヅカサ潮バナツカサノ御イべ) と考えられる。
石獅子
加茶原御嶽 (カチャバルウタキ)
加茶原井泉 (カチャバルガ-)
松井泉 (マチガ-)
チンサーの御嶽
久高井泉 (クダカガー)
泉井泉 (イージンガ-)
伊波井泉 (イハガー)
百名井泉 (ヒャクナガ-)
エーバンタ小嶽 (クータキ)
エーバンタ御嶽 (アイハンタ嶽)
本部 (ムトゥブ) の神屋
安里之殿 (アシトゥヌトゥン、安次富之殿)
チチ石庭
安里之殿の近く、道路から住宅街へ入る所、道端に空き地がある。どこにでもある空き地にしか見えないのだが、ここはチチ石庭と呼ばれる所。 旧3月3日の浜下りの行事が終り、浜から上がると、 村人はこのチチ石庭に集つまり、 神聖な場所に生えているといわれている大き なクバの木の下で、若者達が島石で作られた大中小の丸いチチ石を、暗くな るまで差し上げては力自慢をしたり、百名棒の演武をしていという。チチ石は差し石とも呼ばれ、本土でいう力石。そのチチ石かもしれない石が庭 (空き地) に転がっている。昔は 大石 110斤 (66Kg)、 中石 93斤 (56Kg)、 小石 60斤 (36Kg) があったそうだ。これは小石か中石だろう。
大前之殿 (ウフメーヌトゥン、根所前之殿 ニードゥクルメーヌトゥン)
百名公民館
大城井泉 (ウフグスクガ-)
チンタカーの御嶽
焚字炉 (ふんじろ、フンジルー)
石獅子
ジャジュン之殿 (トゥン)
大城 (ウフグスク) グスク
美生之御嶽 (ミホヌウタキ)
百名集落の外れ南側、海岸に落ち込む崖の上に国道331号 (百名バイパス) が走っている。この国道331号の東側は藪薩 (ヤブサツ) の浦原の林が広がり、その中に美生之御嶽 (ミホヌウタキ) がある。浜川海岸にある浜川御嶽からミントングスクへ続く石畳の旧道の坂の途中にあった。坂はかなり急になっており、樹々が生い茂り、途中でその先に進むのは断念。
藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ)、サシキバンタ
琉球開闢の時、アマミキヨが作ったと言われる琉球七大御嶽の一つで藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ) と呼ばれている。国道331号を北に進み、市営団地後方の林の中にある。藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ) への入口にある広場の片隅には拝所があった。この拝所については情報は見つからなかったが、どこかへのお通し (遥拝所) ではないかと思われる。この広場はサシキバンタと呼ばれていた。サシは傾斜地を、ハンタは崖を意味している。かつての百名集落は半農半漁の生活を送っており、旧3月3日の浜下りの際には、ここから鐘を鳴らして、漁師達に漁の引き時を知らせたという。
この辺りは藪薩の浦原といわれる。字仲村渠のミント冫家の古墓といわれる。林の中に入ると、整備された遊歩道がある。ちょっとした散歩コースだ。所々石畳が残っている。
琉球国由来記によれば、浜川御嶽→ミホヌ御以→ヤブサチヌ御嶽→工ーバンタ御嶽→工ーバンタ小嶽→イビガマ (? 情報なし) →仲村渠→玉城と石畳みの参拝路があったとされているが、大正年間の群道開通の切り通し工事や沖縄戦、戦後の開発等によって、現在ではわずかに残るだけになっている。
天孫洞窟 (西ハンタ) (8/4 訪問)
ここには8月4日に新原集落を訪問した際に訪れた。ここは西 (イリー) ハンタガマ、又は、西 (イリー) ハンタ上の墓と呼ばれている。百名集落ではアマミキヨ族の墓、または、住居跡といわれ、仲村渠集落ではミントン門中の祖先の古墓といわれている。戦前までは洞穴 (ガマ) があったが戦時中、米軍の艦砲で岩が崩れて塞がれてしまった。ほぼ同じ場所に地元の偉人と伝わるアマミツの墓もあるのだが、資料の写真が不鮮明でどれかは確信がない。アマスのミツーの墓といわれる。この墓は百名集落では初ウビーで、仲村渠集落ではに神御清明 (カミウシ―三―) の際に拝まれている。
米地井泉 (メージガー、天孫御泉水 テンソンウッカー) (8/4 訪問)
天孫洞窟から山道を降りて来て自動車道路を少し下ったところに井泉がある。ここは新原集落地域になる。天孫ウッカー(カラウカハ)と書かれている。この井泉は資料により、又地域により様々な呼び方をしている。百名集落ではハンタの井泉や米地井泉 (メージガー) と呼んでいる。字新原では天孫子井泉 (テンソンシガ-) と呼んでいる。伝承では、アマミキヨの一族が使用した井泉とも、天孫氏 (アマミキヨの子孫) の井泉ともいわれる。仲村渠集落ではここが米地 (稲作発祥の地) だと伝わっている。新原集落ではこの井泉の下方にある産井泉が稲作発祥地としている。今となってはどこが稲作発祥の地などはわかるはずもない。知念のウファカル百名の受水・走水と新原の産井泉、天孫子井泉などが稲作発祥の地とされている所があるのだが、この地域に稲作が広く行われていたという事が重要だ。各地の共通の伝承は約700年程前、中国から稲穂を嗤えて飛んできた一羽の鶴が暴風にあってこの地に落ち、その稲穂がここで芽を出した。 早苗は先程墓があったアマミツが受水・走水の水田 (御穂田) に移植し稲作が始まったという。 百名集落と新原集落で初ウビー (若水取りの儀式) などの行事に拝まれている。
米地 (メージ) カラオカラ (8/4 訪問)
新原集落の竜宮の神のすぐ前の大きな岩場の麓に産井泉 (ウブガー) 跡が拝所としてある。新原集落でも拝んでいるが、百名集落の拝所でもあり、百名集落では米地 (メージ) とかカラオカラと呼んでいる。この井泉の前にある池は、稲穂をくわえた鶴が降りたいう稲作発祥伝説に出てくる米作地といわれている。(この鶴と稲穂の伝承は今まで2-3の集落にもあった。沖縄ではポピュラーな物語) 井泉の前にはその稲作発祥の地の碑が二つも立っていた。終戦直後まで井泉の前方に水田があったそうだ。正月の若水や産水として利用されていた。「南城市の御嶽」ではこの井泉はカラウカハとも呼ばれていると書かれているが、カラウカハ (ハンタの井泉) は先ほどの米地井泉 (メージガー、天孫御泉水 テンソンウッカー) と現地の案内番にはあった。この井泉の上にある丘陵の麓にあった。資料などのほとんどの情報は文献からではなく地元の人からの聞き取りで、このような混同がある。百名集落では初ウビー、植田祭で拝んでいる。
これで百名の集落巡りは終了し、帰途に着く。文化財が多かったせいか、家に着いたのは夕方7時前で、今日は約10時間程、外にいたことになる。沖縄は南に位置しているのだが気温は30度ぐらいで、本土に比べて低い。島なので風があり、じりじりとした蒸し暑い感じではない。誰かが冗談混じりに「いつか沖縄は本土からの避暑地になるかもしれない」と言っていたが、まんざらでもないと思えた。ただ、紫外線はきついのだろう、このように一日中外にいると、日焼けで真っ黒になっている。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 玉城村誌 (1977 玉城村役場)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)
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