Okinawa 沖縄 #2 Day 122 (09/08/21) 旧玉城村 (13) Hyakuna Hamlet 百名集落

旧玉城村 百名集落 (ひゃくな)

  • イリーハンタガマ、アマミツの墓 (8/4 訪問)
  • ハンタの井泉 (8/4 訪問)
  • アマミキヨの道 (8/4 訪問)
  • 受水走水 (8/4 訪問)
  • ミフーダー (8/4 訪問)
  • 親田祝毛 (8/4 訪問)
  • ヤハラヅカサ
  • 浜川御嶽 (8/4 訪問)
  • 潮花司 (8/4 訪問)
  • 石獅子
  • 加茶原御嶽 (カチャバルウタキ)
  • 加茶原井泉 (カチャバルガー)
  • 松井泉 (マチガー)
  • チンサーの御嶽
  • 久高井泉 (クダカガー)
  • 泉井泉 (イージンガ-)
  • 伊波井泉 (イハガー)
  • 百名井泉 (ヒャクナガー)
  • 工ーバンタ小嶽 (クータキ)
  • 工ーバンタ御嶽 (ウタキ)
  • 本部 (ムトゥブ) の神屋
  • 安里之殿 (アシトゥヌトゥン、安次富之殿)
  • チチ石庭
  • 大前之殿 (ウフメーヌトゥン、根所前之殿 ニードゥクルメーヌトゥン)
  • 百名公民館
  • 大城井泉 (ウフグスクガ-)
  • チンタカーの御嶽
  • 焚字炉 (ふんじろ、フンジルー)
  • 石獅子
  • ジャジュン之殿 (トゥン)
  • 大城 (ウフグスク) グスク
  • 美生之御嶽 (ミホヌウタキ)
  • カーミンヤーのアサギのアジシー [未訪問]
  • カーミンヤーのアサギのトーシー [未訪問]
  • 藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ)、サシキバンタ
  • クルク山のミントンのトウーシー [未訪問]
  • 天孫洞窟 (西ハンタ)  (8/4 訪問)
  • 米地井泉 (メージガー、天孫御泉水)  (8/4 訪問)
  • 米地 (メージ) カラオカラ  (8/4 訪問)

前回訪問した新原集落の本村である百名集落を訪れる。8月4日に訪れた翌日から台風の影響で天気は荒れ、ようやく収まった。今日は朝から快晴。



旧玉城村 百名集落 (ひゃくな)

百名は天孫氏時代に始まった古いる部落とされている。最も、天孫氏時代がいつなのかはよく分からず、天孫氏が実際に存在していたのかもよくわからない。ただ、かなり古くからあったことは確かで、沖縄開闢に係わる村とされている。

昔は仲村渠も百名村に含まれていたと考えられ、玉城間切ができたときには15ヵ村 (目取真、大城、稲福、舟越、糸数、当山、玉城、和名 [後に垣花]、百名、奥武、志堅原・中やま[仲栄真]、あたん口、嶺、下百名) あり、隣村の仲村渠村は百名村に属していた。百名村はの伝説等によれば、昔は百名ミントンと呼ばれていた。琉球国由来記によれば、第二尚氏の琉球王統時代には、王府から島袋慶重が地頭に任じられ、神谷里主所の殿を設け、村は神谷村と記されていた。約三百年前までは神谷村となっていた。この神谷里主の殿は現在仲村渠屋号神谷の屋内にあり、この殿へのお供え物として百名住民から米を集めて奉納していたという。

百名集落は沖縄の稲作発祥地ともされている。戦前までは稲作もおこなわれ、百名の水田は皇室に献上する米の献穀田が百名小学校裏辺りにあったそうだ。

百名は沖縄戦では比較的被害が少なく、米軍が捕虜収容所や孤児院をこの百名に開設していた。この他にも知念半島には多くの収容所が造られていた。

前回訪れた新原集落は1922年 (大正11年) に百名から分離独立して百名二区になったが、字としては独立分離は出来ず、相変わらず字百名の一地域のままで現在に至っている。

手に入った人口データでは1880年 (明治18年) では428人とある。資料では1945年の沖縄戦前は400人位とあるので、明治、大正、昭和戦前までは人口はほとんど増えていなかったことがわかる。終戦直後は、収容所が置かれ、元の村に帰郷できない人が多く住んでおり、集落の人口は6千人まで (仲村渠も含め) 膨れ上がったという。そのこともよるのだろうが、当時は百名には野戦病院が知念中央病院に代り、養老院、養護院、警察署、刑務所があり、知念高等学校が建てられていた。後に、米軍から帰郷許可が下り、次第に住民は次々と移動してしまい、各施設も都市地区へ移され、元の住民と永住を望む者だけとなった。その時の人口のデータはないのだが、1960年には659人となっている。この人口が元の住民と帰郷せず百名に永住の人たちだろう。この人口は沖縄本土復帰まではほとんど増えなかったが、本土復帰後少しづつ増加に転じ、2005年には906人となった。この年が人口のピークとなり、それ以降は少しづつ人口は減少している。

民家の分布の変遷については1919年から現在までは、元々の集落が少し拡張したぐらいで、大きく変わっていない。集落を巡っってみると、国道331号 (百名バイパス) の南側が海に向けて傾斜地で住宅地や農耕地には向いていない。唯一民家が拡張できる場所は加茶原 (カチャバル) の平坦地だがここは昔から屋取集落の農地となっており、現在でも畑が広がっている。

百名集落は昔からの御願の習慣を継承している集落で、多くの拝所を御願している。そのために3班に分けて御願を分担している。


百名公民館前にあったガイドマップ

百名集落訪問ログ



8月4日に新原集落を訪れて際に時間がまだあったので百名集落の文化財も巡った。先ずはその時の訪問レポートから…


イリーハンタガマ、アマミツの墓

ミーフガーから山道を登った所にイリーハンタガマ、アマミツの墓がある。この墓は新原と百名の間の丘陵斜面にあり百名集落の拝所に分類されていたが、新原に近いので、新原集落を訪れた8月4日に訪れた。丘陵上の百名集落で出会った男性が案内をしてくれて、資料に載っていた事とほぼ同じ内容の説明をしてくれた。ここはイリーハンタガマ、又は、イリーハンタ上の墓と呼ばれている。百名集落ではアマミキヨ族の墓、または、住居跡といわれ、仲村渠集落ではミントン門中の祖先の古墓といわれている。戦前までは洞穴 (ガマ) があったが戦時中、米軍の艦砲で岩が崩れて塞がれてしまった。ほぼ同じ場所に地元の偉人と伝わるアマミツの墓もあるのだが、資料の写真が不鮮明でどれかは確信がない。アマスのミツーの墓といわれる。この墓は仲村渠集落によってクルク山のミントンのトウーシー、カーミンヤーのアサギのアジシーの拝所と共に神御清明 (カミウシ―ミ―) に拝まれている。


ハンタの井泉

イリーハンタガマ、アマミツの墓から山道を降りて来て自動車道路を少し下ったところに井泉がある。天孫ウッカー(カラウカハ)と書かれている。この井泉は資料により、又地域により様々な呼び方をしている。百名集落ではハンタの井泉や米地井泉 (メージガー) と呼んでいる。字新原では天孫子井泉 (テンソンシガ-) と呼んでいる。伝承では、アマミキヨの一族が使用した井泉とも、天孫氏 (アマミキヨの子孫) の井泉ともいわれる。仲村渠集落ではここが米地 (稲作発祥の地) だと伝わっている。新原集落ではこの井泉の下方にある産井泉が稲作発祥地としている。今となってはどこが稲作発祥の地などはわかるはずもない。知念のウファカル百名の受水・走水と新原の産井泉、天孫子井泉などが稲作発祥の地とされている所があるのだが、この地域に稲作が広く行われていたという事が重要だ。各地の共通の伝承は約700年程前、中国から稲穂を嗤えて飛んできた一羽の鶴が暴風にあってこの地に落ち、その稲穂がここで芽を出しました。 早苗は先程墓があったアマミツが受水・走水の水田 (御穂田) に移植し稲作が始まったという。 新原集落でも初ウビー (若水取りの 儀式) などの行事に拝まれている。


アマミキヨの道

新原集落の東の端の平間グスクから受水走水、ヤハラヅカサ、浜川御嶽 など沖縄開闢の神であるアマミキヨの拝所群に向かう道があり、アマミキヨの道と名前が付けられている。


受水走水 (ウキンジュハインジュ)

海岸沿いのアマミキヨの道を進むと受水走水 (ウキンジュハインジュ) の入口の表示があった。丘陵の麓にある受水走水への道は石畳になっている。受水走水 (ウキンジュハインジュ) は、沖縄の稲作発生の地との伝承があり、近年は訪れる観光客も増えているそうだ。伝承では、昔、仲村渠のアマスの先祖であるアマミツが使者として中国に度り、その地で稲を見て持ち婦ろうとしたが許されず、次の使者の伊波按司に託した。伊波按司も許可されなかったが、中国の役人から、帰国後に一羽の鶴を中国に飛ばせば、稲穂をくわえさせて琉球に帰そうと言われた。その通りに鳩を放ち、その後、伊波按司が鶴を探すと、鶴は強風に遭って新原の米地 (メージ、カラウカハ) で死んでいた。その鶴がくわえていた稲穂から、受水走水の三穂田で、アマミツおよび百名の安里と大前の祖先が稲穂を育て、各地に稲作が広まったという。この受水走水 (ウキンジュハインジュ) は琉球国由来記にある「浜川ウケミゾハリ水 (神名: ホリスマスミカキ君ガ御水御イベ)」と考えられている。別の伝承では、ニライカナイから稲の種子を持って来たアマミク神から百名村の人が育て方を習い、浜川ウラ原の親田、高マシノマシカマ田に苗を植えたとされている。毎年正月とに月の祈願、隔年4月の稲のミシキョマ (初穂祭)、9月の麦初種子には王府から役人が来て祭祀がなされ、旱魃には国王による雨乞い儀礼も行われたとあり、同拝所は王府祭祀が行われた重要な拝所であった。受水走水は、百名集落の1月2日の初ウビー、字新原の1月2日の初ウビー、4月の清明の入り日の字清明、 8月10日の生リヌ御願、仲村渠集落の2月初午の日の親田御願の村落祭祀で拝まれている。この受水走水は、東御廻りの巡拝地のーつ。
受水走水は湧泉で、泉口が2つある。西側を受水 (ウキンジュ)、東側を走水 (ハインジュ) と呼んでいる。受水の泉ロは、香炉後方の岩の奥にあり、そこの水が三穂田 (ミフーダ) に注いでいる。
受水 (ウキンジュ) から走水 (ハインジュ) への道がある。走水 (ハインジュ) では香炉後方の左側と上部かう水が湧き出て、それが親田 (エーダ) に注ぎ込んでいる。
受水から丘陵に登る石畳の階段がある。そこを進むと幾つかの脇道があり、古墓に通じていた。
丘陵の上からは百名ビーチの砂浜が少しだけ見える。アマミキヨ道沿いにある駐車場にはサーファー達が車を停めていた。


三穂田 (ミフーダ)、親田 (ウェーダ)

受水走水の受水の前には稲作発祥伝説の水田と言われる三穂田 (ミフーダ) があった。伝承では鶴がくわえてきた稲穂を植えた水田といわれる。稲を植えたのは、アマスのミツー (新原に墓があった)、ヒラ、大前の3人といわれている。この稲作発祥の伝承はいくつもあり、少しずつ異なってはいる。琉球国由来記 (1713年) にも、阿摩美久 (アマミキヨ) がミライカナイから稲の種子を持ってきて玉城親田、高マシノシカマノ田に植えはじめたとある。伝説によると昔、稲穂をくわえた鶴が暴風雨にあって新原村のカラウカハという所に落ちて死んだ。種子は発芽してアマミツによって受水走水の水田(御稲田)に移植されたという。又別のバージョンでは中国から稲の種を持ち帰ることが認められず、かわりに鶴が持ち出すことならば許され、放った鶴が琉球まで持ち帰ってきたが落ちて死んでしまい、こぼれた種から芽が出たのを見つけて植え付けたのがこの田圃だという。

受水、三穂田 (ミフーダ) から一段下がった所にあるのが親田 (ウェーダ) で、ここには走水 (ハインジュ) から水が引かれている。親田御願 (ウェーダヌーガン) ではここで田植えの儀式を行っている。
受水 (ウキンジュ) のすぐ前にあるのが三穂田 (ミフーダ) で稲が植えられている。ここには受水から水が引かれている。王府時代には、この三穂田 (ミフーダ) で田植え神事が行われた。地頭が監督して、まずは初日 (スーイ) に稲穂を4株植え付け、次の日 (ミシチマ) に3株植え付ける。これが終わると各家で田植えが始めることができた。この三穂田 (ミフーダ) で育った稲穂は「御稲上げ」といい。国王に献上する儀式があり、大正時代まで続いていた。
受水走水 (ウキンジュ・ハインジュ) への道の脇には水田があり、学童たちへの課外授業にもよく使われている。今では沖縄南部では稲作は行われていない。サトウキビの方が利益が大きかったので、殆どの農家が稲作からサトウキビ作りに移っていった。


親田祝毛 (エーダウュエーモー)

受水走水の南側の駐車場に親田祝毛 (エーダウュエーモー) という祭場がある。ここでは

今でも旧暦1月の最初の午の日には親田御願 (エーダヌーガン) が行われる。戦争で途絶えていた時期があったが、復活して仲村渠の人々が米地 (メージ)、受水 (ウキンジュ)、走水 (ハインジュ)、に手を合わせて拝んだ後、親田の田圃に入り稲を植え付け、そしてここの祝毛 (ウュエーモー) に移動して東西南北におじぎをする33拝の四方拝を行い、田植えから稲刈りまでを表現した天親田 (アマエーダ) のクェーナを歌って豊作と無病息災を祈願する田植えの儀式を行っている。


ヤハラヅカサ

アマミキヨの道の終点が浜川原海岸になっている。今日始めに訪れた新原ビーチ、そして百名ビーチと続き、この浜川原海岸が百名ビーチの端になる。
浜川原海岸の浅い岩礁にヤハラヅカサの御嶽がある。今日は若潮の日で、干潮時でも潮位70cmで今は1mを超えているだろう。海の中にヤハラヅカサの石碑が半分ぐらいみえている。潮位を調べ、ベストの干潮時にもう一度訪れる事にしよう。
8月4日は干潮時を逃して海に半分埋没していた。今日8月9日に百名集落を巡ったので、干潮の時間を調べ、その時間に、百名公民館に自転車を停めて、徒歩にて再訪した。百名集落は標高70mの所にあり、1.1kmの距離なのだが、坂道なので公民館まで戻る帰り道は結構辛かった。前回来た時は台風の前日で人も少なかったが、今日は連休中なので、前回よりは賑わっていた。
ヤハラヅカサ石碑の根元に香炉が安置されているが、満潮時には海中に隠れる。以前はコンクリートの標住が立っていたが、 2005年に現在の石碑に替えられた。ヤハラヅカサの「ヤハラ」は「やわれ、やわる」と同義で、穏やかな、柔らかいを表して、荒ぶる波を静めるという意味を持つ。「ツカサー」は、八重山ではノロに相当する神女を司というように、神ないし神霊を意味する。つまりヤハラ・ノカサとは「波を静める神、神霊」の謂いであるという。ヤハラヅカサは、琉球の開闢のアマミキヨがニライカナイの大東島から渡来した上陸の地とも伝えられる。琉球国由来記にある「浜川 (神名: ヤハラヅカサ潮バナツカサノ御イベ)」に相当する。琉球国国王は隔年で、四月の稲穂祭に知念、玉城へ行幸し、このヤハラツカサでもお水撫での儀礼が行われた。ヤハラヅカサは百名集落では、1月2日の初ウビー、3月3日の浜下り、また新原では、1月2日 (新) の初ウビーの村祭紀で拝まれている。ヤハラヅカサは、「東御廻り」の重要な遙拝地となっており、現在でも沖縄各地の門中行事の「東御廻り」の巡拝地の一つとして参詣されている。

浜川御嶽 (ハマガ一ウタキ)

百名海岸の砂浜から浜川御嶽 (ハマガ一ウタキ) への石畳の階段がある。立派な階段だ。登って行くと、奥に石垣の上に祠が見える。あれが浜川御嶽だ。階段の上は広場になっている。
祠がある石積み囲いには石造りの樋がある。囲いの中に、コンクリート製の祠があり、香炉が安置されている。
元々は祠に向かって右側後方にある岩山の下部が祈願の場だったそうだ。そこにも香炉が安置されている。それ以外にも祠の周りには幾つかの香炉が置かれている。浜川御嶽は、琉球国由来記には、浜川 (神名: ヤハラヅカサ潮バナッカサノ御イベとある。同じ琉球国由来記で「浜川」の「ヤハラツカサ」と「潮花司」と三つ別々に記載されているが、各々が何の拝所に当たるかや、その関係は明確では無い。地元の人達はヤハラヅカサと潮花司をあわせて、浜川御嶽と呼んでいる。百名集落では1月2日の初ウビー、3月3日の浜下り、新原集落では1月2日の初ウビーの村落祭紀で拝んでいる。地元の玉城地域の門中は、正月の「浜川拝み」や8月の「東御廻り」で、ヤハラヅカサ、受水走水とともに巡拝している。本島各地の門中が東御廻りで参詣に訪れる14の拝所の一つになっている。

大東島から渡来した琉球の開闢神アマミキヨは、海岸のヤハラヅカサに上陸し、浜川付近の洞窟で仮住まいをした後に、ミントングスクに居住したと伝えられている。浜川御嶽の周辺には、その仮住まいを想像させる様な洞窟があったが、近年の開発で消失してしまったそうだ。


潮花司 (スーバナツカサ)

浜川御嶽に向かい合う形で潮花司 (スーバナツカサ) の拝所がある。百名海岸に面した大岩にある。大岩には多数の樹根が張り付いているが、木の根元には古い香炉が安置されていると書かれていたが、周りを探すと大岩の脇に香炉があった。潮花司の名は、波が岩礁に当たって潮が高く飛び散る様を神とみて、海水の霊力を敬って、この名が付いたという。潮花司は、かつては波打ち際にあったが、満潮時は危険ゆえに、吉田下知役 (間切再建の為、王府が派遣した役人) の指導で浜川御嶽が創られ、その前に移された。浜川御嶽と潮花司は、向かい合って所在してはいるが、別々の拝所となっており、両者の関係は不明。潮花司は、百名集落では1月2日の初ウビー、3月3日の浜下り、新原集落では1月2日の初ウビーの村落祭祀で祈願している。潮花司も琉球国由来記の浜川 (神名: ヤハラヅカサ潮バナツカサノ御イべ) と考えられる。

ここまでが8月4日日に訪れた百名集落文化財だ。明日から台風で大雨、強風となるので、百名集落へは一週間後となるだろう。
台風の影響で雨が続き、外出は今日、8月10日となった。天気予報は曇り後雨だが、土砂降りにならなければ良いと思い出発。いつものルートで糸数まで行き富里、中山、玉城を通り百名集落の入口に到着。

石獅子

百名区では昭和30年代まで5体の石獅子があったが、ここ公民館の1体と百名と玉城の境あたりにもう1体の合わせて2体だけが現存している。百名と玉城の境、百名への入口にある石獅子は百名3班によって、元々は公民館から南西方向約100mの場所に設置されていた (以前はこの辺りが集落の西端だったのだろう。現在石獅子のあるカチャバルはこの外側) のだが、昭和50年代の道路拡張により別の場所に仮置きされ、その後、区民の発案により、百名区を火災や疫病から守るために (魔除けとして) 区の出入り口である加茶原 (カチャバル) 割取 (ワイトゥイ) のこの場所に設置されている。沖縄でのシーサーに対する信仰は特別だ。殆どの家には魔除けのシーサーが置かれている。村の入口に新たにシーサーを設置している地域も多い。

加茶原御嶽 (カチャバルウタキ)

集落西方の加茶原 (カチャバル) と呼ばれる屋取集落の拝所で風水として拝まれてきた。「カチャバル」とは、「ひっかく」という意味。種等が服にひっかかって付着するサラカチャー (和名:サルカケミカン) やアザミ等の植物が一帯に生えていたことが、名称の由来だそうだ。屋取集落で御嶽があるのは珍しい。この加茶原 (カチャバル) に首里、那覇久米村から移り住んで来た旧士族は結束が強かったと思われる。旧暦1月2日の初ウビー、 旧暦8月10日の生りぬ御願で拝まれている。
御嶽の近辺に民家がまとまって建っている。これも民家間の距離が離れている通常の屋取集落とは異なっている。民家の北側に広い耕作地があり、その北側にある丘陵地から湧き水が何箇所も流れ落ち、農地の中にはいくつもの溜池がある。耕作地には適した土地だったと思われる。

加茶原井泉 (カチャバルガ-)

加茶原 (カチャバル) の畑地の北の端丘陵の麓には幾つかの井泉がある。農地の西の端には加茶原井泉 (カチャバルガ-) があり、首里、那覇久米村から移住して来た加茶原屋取集落 (四班) の人々の飲料水、若水、農業用水として使用されていた。旧暦1月2日の初ウビー、 旧暦8月10日の生りぬ御願で拝まれている。
この他にもクワー (写真上)、山田 (写真下)、フィカー、フルイチと呼ばれる井泉があったそうだ。このうち二つの井泉は見つけることが出来た。
丘陵の傾斜地にはいくつもの門中墓があった。宜保門中、座波小門中の墓と書かれている。双方とも百名集落の門中だ。

松井泉 (マチガ-)

加茶原井泉 (カチャバルガ-) の農地の東の端には松井泉 (マチガ-) がある。産井 (ウブガー) として使用されていた。井泉のすぐ隣に大きな松の木が生えていたことからマチ井泉といわれているとの説がある。これとは異なり、地元では「マチ」は古代集落を意味する「マキョ」から転じたものいわれている。井泉の脇には石の香炉が置かれている。井泉にはまだ湧水があり、水質が良いのだろう何匹も魚が泳いでいる。かつては集落の三班住民が生活用水、若水、農業用水として使っていた。現在でも旧暦1月2日の初ウビー、 旧暦8月10日の生りぬ御願で拝まれている。

チンサーの御嶽

松井泉 (マチガ-) のすぐ東側、百名小学校の北側にある小山の中にチンサーの御嶽がある。ここは百名集落の北の外れにあたる。この拝所では、男神を祀っているといわれ、田畑を耕す午馬の霊を鎮めるための祈願をした拝所という。チンは角の意味で、牛の事を指し、農耕に重宝していた牛や馬を神聖化していた。集落には今でも何軒かが馬を飼っていた。

久高井泉 (クダカガー)

チンサーの御嶽の更に北側、仲村渠集落との境にも井泉跡がある。久高島の人たちが百名路を通り、ミントンを参拝する前に手足を清めた場所という。ここは百名集落では拝まれておらず、仲村渠集落で拝まれている。

泉井泉 (イージンガ-)

久高井泉 (クダカガー) から南側の百名集落方面に坂道を下った所に泉井泉 (イージンガ-) と呼ばれる井泉があるのだが、どうもその場所は工事中ではっきりと井泉跡とはわからないのだが、資料に載っていた写真の背景から判断するとここだと思われる。近隣住民の飲料水、農業用水として利用されていた。百名集落では1月2日の初ウビー、8月10日の生りヌ御願の祭祀で拝んでいる。
以前の井戸の写真が資料に載っていたが、この辺りを探すも同じものは見当たらなかった。


伊波井泉 (イハガー)

集落の北東部、泉井泉 (イージンガ-) の東側はに伊波井泉 (イハガー) があるが、直接東に抜ける道が無いので、一度南の百名集落に入り、県道137号線 (佐敷玉城線) 沿いを北に行った所にある。井泉は民家奥の森にあるようなのだが、入り口が分からず、地元の人に尋ねてようやく辿り着いた。井泉は石垣で囲まれており、緩やかなアーチ状の屋根が設けられている趣のある井泉だ。今でも樋から水が出ている。戦前は、字百名の貴重な飲料水用の井泉だったが、現在は農業用水に利用されている。伊波井泉は、1月2日の初ウビー、8月10日の生まりヌ御願で拝まれている。伝承では伊波井泉は、百名の稲作発祥伝説で稲作を広めた伊波按司と関わりがあり、伊波按司が中国に渡った際に、中国官僚の目を盗み、稲穂をツルに加えさせ放った。帰国後、村人と一緒に鶴を探すため百名に仮住まいした場所の近くにあった井泉が伊波井泉であるいう。受水走水の三穂田を訪れた際に資料では、アマミツおよび百名の安里と大前の祖先が稲穂を育て、各地に稲作が広めたとあったが、この伊波按司もそのように稲作を広めた一人なのだろう。かつて、伊波井泉 (イハガー) の前には、百名ガジマン小というアシビナーがあり毛アシビ―ガ行われていたが、大正時代に台風で倒壊してしまった。

百名井泉 (ヒャクナガ-)

伊波井泉 (イハガー) の奥にもう一つ井泉跡がある。百名井泉 (ヒャクナガ-) で東井泉 (アガリガ-) とも呼ばれている。現在は水はないが、石で囲われた小さな井泉であった跡が残っている。百名集落が村立てをした頃に使用していたのではないかといわれている。百名集落では1月2日の初ウビー、8月10日の生りヌ御願の祭祀で拝んでいる。

エーバンタ小嶽 (クータキ)

百名井泉 (ヒャクナガ-) の崖の上に祠がある。エーバンタ小嶽 (クータキ) または、エーバンタ西之御嶽という拝所で、百名井泉の守り神で、雨乞いの時に拝まれた。琉球国由来記の「アイハンタ小嶽御イべ」に相当するとみられる。「浜川」「浜川ウケミゾハリ水」「エーバンタ御嶽 (アイハンタ嶽)」と共に玉城ノロにより司祭された。このエーバンタ小嶽かエーバンタ御嶽のどちらかが久高島への遙拝所だった。かつての東御廻りのルートにあたり、斎場御嶽、知念森御嶽を経て、エーバンタ小嶽、エーバンタ御嶽を拝んで、ヤブサツ之御嶽にむかったという。現在、百名集落では1月2日の初ウビー、8月10日の生りヌ御願の祭祀で拝んでいる。
エーバンタ小嶽 (クータキ) の後方は大岩の崖が聳え立っており、その亀裂の洞窟の奥から水が流れ出ている。水は造られた細い水路を通して伊波井泉 (イハガー) 方面に流れて行っている。伊波井泉 (イハガー) の水源だろうか?ある資料ではエーバンタ小嶽はイビガマト呼ばれていたとある。「南城市の御嶽」ではエーバンタ小嶽からイビガマへの旧道があったと書かれており別々の拝所の様に書かれていた。この洞窟がイビガマなのだろうか?イビガマの情報はどこにも見当たらず、わからずじまい。
伊波井泉 (イハガー) からもここに来た道に沿って水路が設けられており、その途中には水路を跨ぐ様に石橋が造られている。コンクリートではなく、石造りなので、古い時代のもののように思える。昔はこのような形で農地に水が運ばれていたのだろう。エーバンタ小嶽 (クータキ) からエーバンタ御嶽 (ウタキ) への石畳道があったそうだが、この道がそうなのだろうか?

エーバンタ御嶽 (アイハンタ嶽)

エーバンタ小嶽 (クータキ) の東側、県道137号線 (佐敷玉城線) を渡った所の丘の上にエーバンタ御嶽 (エーバンタ東之御嶽) がある。拝所後方は尾根で、かつてはそこから藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ)、美生之御嶽 (ミホヌウタキ)、浜川御嶽 (ハマガ一ウタキ) へと続く石畳道があったそうだが、それらしき石畳道は見当たらなかった。石造りの祠の屋根の頂部には宝珠 (ボントウー) を置かれている。久しぶりにこの宝珠 (ボントウー) 様式の拝所を見た。このように祠や墓の屋根の頂上部に宝珠 (ボントウー) をのせるのは、先に訪れた南風原集落の拝所の多くに確認されており、旧大里村の南風原集落の拝所の特徴となっている。祠の中には矩形の石香炉が4つ安置されている。このエーバンタ御嶽は、同じ丘のなかで幾度か移されている。大正の頃に行われた道路の切り通し工事のために移設があり、その後2回の移設を経て、2016年にそれまであった所から現在地に移された。現在、百名集落では1月2日の初ウビー、8月10日の生りヌ御願、字仲村渠では1月2日の初ウビー、6月25日のアミシヌ御願の祭祀で拝んでいる。エーバンタ御嶽は琉球国山来記のアイハンタ嶽 (神名: タイシヨンマイケガ御イベ) とされ、一年おきに国王の使者が出されて祈願があった。また、早魃の時は国王自らが出かけて祭礼を行ったとある。国王の雨乞いの行幸先は、雨粒天次、玉城巫火神、エーバンタ御嶽となっていた。エーバンタ御嶽は王府にとっても重要な聖地であった。

本部 (ムトゥブ) の神屋

百名集落の中、北東部に本部 (ムトゥブ) の神屋がある。この地域には本部の神屋だけでなく、集落有力門中の神屋、殿が集まっている。本部の神屋はコンクリート製の建物になっている。施錠されていて内部を見る事は出来なかったが、資料には、位牌4基と香炉4つが安置され、「お神之版 帰眞 霊位」、「按司代之版 帰眞 霊位」、「本部当司之版 帰眞 霊位」、「各門中祖先之版 婦眞 霊位」となっている。本部の神屋は、1月2日の初ウビー、6月15日の六月ウマチー、8月10日の生まりヌ御願 (ンマリヌウガン) の村落祭紀で拝まれている。「遺老説伝」によれば、ここ百名生まれの白樽 (シラダル) とミントンの娘の妣嘉那志 (ファーガナシ) が夫婦となり (兄と妹との伝承もある) 、久高島に渡り、伊敷浜で拾った白壺に入った麦3種・粟3種・豆1種を古間口の畑に植えると、五穀豊穣となり子孫も繁昌し、この地域の外間村の根人となったと伝わっている。この白樽 (シラダル) は久高島の祖とされている人物。戦前までは久高島からミントン家や本部家へ魚を贈り、その返礼が久高へ米、豆腐、酒や田イモが贈られ、昔からの儀式が続いていた。久高島のイザイホーの三日目に行われる神遊びでのティルルで妣嘉那志が謡われている。
現在の神屋は建て替えられたものだが、以前の神屋の写真が資料に掲載されていた。(左: 昭和55年、右: 昭和37年)


安里之殿 (アシトゥヌトゥン、安次富之殿)

本部 (ムトゥブ) の神屋の南側1ブロック下った所、集落の北東部、安里門原 (アシトゥジョーバル) 地区に安里之殿 (アシトゥヌトゥン) がある。安里 (アシトゥ) とも呼ばれている。立派な民家内の庭に神屋が設けられている。敷地内にあるので、近くには行かなかったが、資料では、神屋内祭壇には、6つの香炉が安置され、祭壇の床面には火ヌ神が祀られているそうだ。安里之殿は、1月2日の初ウビー、1月の初午の植田祭、6月15日の六月ウマチー、8月10日の生まりヌ御願の村落祭祀で拝まれている。この安里之殿は琉球国由来記の「安次富之殿」に比定されている。大前 (この後、訪問) と安里は百名集落の前身になる村をそれぞれ村立てを行った人物で、後に大城グスクが築城され、その城主に仕えるようになったと伝わっている。その後も、大前と安里は別々に殿を維持して拝んでいた。安里の庭に百名小学校発祥の碑があった。百名小学校は沖縄戦直後の1945年に設立され、当時人口が6000人まで膨れ上がった、近隣の収容所にいた子どもたちが通っていた。現在の百名小学校はここから北西に移っている。

チチ石庭

安里之殿の近く、道路から住宅街へ入る所、道端に空き地がある。どこにでもある空き地にしか見えないのだが、ここはチチ石庭と呼ばれる所。 旧3月3日の浜下りの行事が終り、浜から上がると、 村人はこのチチ石庭に集つまり、 神聖な場所に生えているといわれている大き なクバの木の下で、若者達が島石で作られた大中小の丸いチチ石を、暗くな るまで差し上げては力自慢をしたり、百名棒の演武をしていという。チチ石は差し石とも呼ばれ、本土でいう力石。そのチチ石かもしれない石が庭 (空き地) に転がっている。昔は 大石 110斤 (66Kg)、 中石 93斤 (56Kg)、 小石 60斤 (36Kg) があったそうだ。これは小石か中石だろう。


大前之殿 (ウフメーヌトゥン、根所前之殿 ニードゥクルメーヌトゥン)

安里之殿のすぐ南の広場の中に大前之殿 (ウフメーヌトゥン) がある。この大前は安里と並んで、それぞれの集落の村立てに関わる旧家で百名に大城グスクが築城されるまでは領主であった。(百名集落は4つの村が合併して出来たそうだ) 殿の敷地は、戦後の一時期、警察署として利用されたこともあった。殿に向う入口には烏居が立っている。戦後木製で造られた鳥居は2001年にコンクリート製に造り替えられた。奥にある殿の祭壇には3つの香炉が安置され、向かって右から「大穂米之屯人」、「五穀神」、「上十二代百名米主」となっている。また、祭壇左側の床面には火ヌ神が祀られている。現在、1月2日の初ウビー、1月初午の日の植田祭、 6月15日の六月ウマチー、6月24日のヤマアカー (綱引)、8月10日の生まりヌ御願で拝まれている。琉球国由来記にある「根所前之殿」に比定されている。
この近くにも、どこの門中かは不明だが神屋があった。


百名公民館

百名集落の中心地にジャジュンと呼ばれる高台があり、そこに公民館が置かれて、この高台にいくつもの拝所がある。ここが昔から村屋 (ムラヤー) だったのかは資料にはのっていなかった。ここに着いた時点で、今日の干潮時間になっているので、ここに自転車を停めて、標高差70mの下にある浜川原海岸まで降りてヤハラヅカサを見に行く事にする。(ヤハラヅカサについては前述。)

大城井泉 (ウフグスクガ-)

ヤハラヅカサを見学して、公民館まで戻り、ジャジュンにある拝所を見学する。公民館の広場には大城井泉 (ウフグスクガ-) という井泉跡がある。この辺りはグスク時代に築かれた大城グスクの敷地の一部であったといわれ、グスクで使用されていた井泉ではないかと考えられている。1月2日の初ウビー、8月10日の生りヌ御願の祭祀で拝んでいる。

チンタカーの御嶽

大城井泉 (ウフグスクガ-) の脇には二つ祠がり、その一つがチンタカーの御嶽。女神を祀っているといわれる。チンは角の意味で、特に牛の角を指すといわれる。ここで牛自慢をしたとも、耕作に従事した牛の鎮魂の拝みをしたともいわれている。かつては、植田祭で、各家の牛や馬を飾り立ててチンタカーの広場に集め、アマエーダ (田植え歌) を歌いながらミフーダを目指し行列を作り行進したという。先に訪れたチンサ―の御嶽は男神で、やはり午馬の霊を鎮めるというので、この二つの御嶽は関係があると考えられている。この拝所の近くには馬場があったそうだ。

焚字炉 (ふんじろ、フンジルー)

大城井泉 (ウフグスクガ-) の脇にもう一つ拝所がある。中国明代に始まり、惜字炉と呼ばれ、1838年沖縄に来島した冊封使林鴻年が、文字を敬重し、字紙を敬うことを説き、焚字炉を設置させたのに始まると伝わる。焚字炉 (フンジルー) で、文字を書いた後、不要になった紙を焼くために使われた炉で、19世紀の後半には、学校などの公的機関に置かれていたそうだ。集落巡りではこの焚字炉は何度か見かける事があった。本土でも長崎や大阪に残っているそうだ。

石獅子

公民館の前の広場には現存している二つの石獅子のもう一つが置かれている。かつて、昭和30年代までは五体の石獅子があった。

ジャジュン之殿 (トゥン)

公民館の前にジャジュン之殿 (トゥン) がある。ザズンヌトウン、茶屯之殿ともいう。「ジャジュン」とは急勾配や高台を意味している。この地が高台だった事から、そう呼ばれた。ジャジュンヌ殿は古い時代、ムラの火種を保つ場所で、村人が火種をここに取りに来たと伝わっている。大城グスクが築城された際に、大前家の支配する村と安里家 (安次富 アシトゥ) が支配する村を併合しジャジュン之殿を大城グスク敷地内に造ったと伝わる。百名集落の実権が大前家と安里家から大城グスク城主に移った事を表している。その後、第二尚氏三代尚真王時代には、村は国王の支配下に置かれ、村を支配した代官の殿である神谷里主所之殿が設けられ、集落の支配の実権が移り、その象徴であった火ヌ神も移った。百名は当時は神谷村と呼ばれていた。この神谷里主所之殿は現在仲村渠にある屋号 神谷の屋内にある。このように百名の殿は、この地を統治した権力者の交代と関連している。このジャジュンヌ殿は1月2日の初ウビー、6月15日の六月ウマチー、8月10日の生まりヌ御願の村落祭祀で拝まれている。琉球国由来記には、「ヂャチュンノ殿」とあり、玉城ノロにより、麦穂祭・稲二祭が行われ、昔から今まで「安次富子 (アシトゥシ)」の子孫が管理していた。

大城 (ウフグスク) グスク

公民館の南、海岸方面への下り道の脇の小山に大城 (ウフグスク) グスク の一部が残っている。この小高い岩山は、屋号 アガリミーヤの前にあるので、「アガリミーヤヌメーヌヤマグワー (東新屋之前之山小)」と呼ばれている。道路拡張工事で岩山の一部が削り取られてしまった。このグスクには伝承なども残っておらず、誰がが何のために築いたのか不明だが、地元では岩山自体を聖域と考えている様だ。このグスクがこの地に造られた時、大前家と安里家の二つの村落が城下部落として合併されたとの説もある。大前家か安里家が力を得て集落を統一してグスクを築いたのでは無いので、この近くの豪族が勢力を拡大して、家臣を派遣してグスクを築かせたのでは無いだろうか?この近くの有力豪族は玉城按司 (玉城グスク) と垣花按司 (垣花グスク) だ。そのいずれかのグスクの出城か、海を航行する船舶を監視する物見台とも考えられるのでは無いだろうか。
南に太平洋を望み、西北西の方角には丘陵台地に占地する玉城城跡、北の方角にミントングスクと垣花城跡などを一望することができる。


美生之御嶽 (ミホヌウタキ)

百名集落の外れ南側、海岸に落ち込む崖の上に国道331号 (百名バイパス) が走っている。この国道331号の東側は藪薩 (ヤブサツ) の浦原の林が広がり、その中に美生之御嶽 (ミホヌウタキ) がある。浜川海岸にある浜川御嶽からミントングスクへ続く石畳の旧道の坂の途中にあった。坂はかなり急になっており、樹々が生い茂り、途中でその先に進むのは断念。

ミホヌ御嶽はミフスノ御嶽、ミクシヌ御嶽ともいわれ、左右石積みの塀がある階段を上ると、三方が石灰岩で囲まれた御願場になっている。その中央に岩があり、その右奥に香炉が安置されていた。ミホヌ御嶽については、アマミキヨがヤハラツカサから上陸し、このあたりで子どもが生まれ、臍つぎをしたとの伝承があり、「ミフスノ御嶽」とも称される。(ミフスとは、へそのこと) 別の伝承ではヤハラヅカサに上陸し、浜川御嶽で仮住まいしていたアマミキヨが、定住地のミントゥンに向かう途中、身重だった連れの女性が一休みした場所と伝わっている。戦前は子どもが生まれると、この御嶽に子供の臍の緒を供えて、子どもの健やかな成長を祈願したという。百名集落では、初ウビーと生りヌ御願で拝んでいる。
美生之御嶽 (ミホヌウタキ) への道かには何本か側道が伸びて先には古墓が造られている。
「南城市の御嶽」資料ではカーミンヤーのアサギのアジシー (写真左) とカーミンヤーのアサギのトーシー (写真右) という仲村渠のアサギ門中の古墓があると紹介されていたので、写真を手がかりに地図に示されたあたり一帯の林の中を探すが見つからなかった。

藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ)、サシキバンタ

美生之御嶽 (ミホヌウタキ) の北東、藪薩 (ヤブサツ) の浦原の林にはもう一つ御嶽がある。(写真は垣花樋川付近から撮影したもので、丘陵一帯が藪薩の浦原だ)

琉球開闢の時、アマミキヨが作ったと言われる琉球七大御嶽の一つで藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ) と呼ばれている。国道331号を北に進み、市営団地後方の林の中にある。藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ) への入口にある広場の片隅には拝所があった。この拝所については情報は見つからなかったが、どこかへのお通し (遥拝所) ではないかと思われる。この広場はサシキバンタと呼ばれていた。サシは傾斜地を、ハンタは崖を意味している。かつての百名集落は半農半漁の生活を送っており、旧3月3日の浜下りの際には、ここから鐘を鳴らして、漁師達に漁の引き時を知らせたという。

この入り口付近には、クルク山と呼ばれる山があり、その崖下にクルク山のミントンのトウーシーと呼ばれる古墓があるとなっていたが見つからなかった。(資料にあった写真)

この辺りは藪薩の浦原といわれる。字仲村渠のミント冫家の古墓といわれる。林の中に入ると、整備された遊歩道がある。ちょっとした散歩コースだ。所々石畳が残っている。

琉球国由来記によれば、浜川御嶽→ミホヌ御以→ヤブサチヌ御嶽→工ーバンタ御嶽→工ーバンタ小嶽→イビガマ (? 情報なし) →仲村渠→玉城と石畳みの参拝路があったとされているが、大正年間の群道開通の切り通し工事や沖縄戦、戦後の開発等によって、現在ではわずかに残るだけになっている。

遊歩道の向こうに石が積まれ香炉が置かれている。あれが藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ) だ。地元ではこの辺りを「ヤファシ」と呼び、この御嶽をヤファサチヌウタキとも称している。藪薩御嶽 (ヤブサチヌウタキ) は、「中山世鑑」には「藪薩の浦原」、「琉球国由来記」には「ヤブサツノ御嶽」及び「藪薩」、更には「ヤブサツノ御嶽」とあり、琉球開闢の時、アマミキヨが作った御嶽の一つと記され、正月、一年おきの4月の稲のミシキョマ (初祭)、9月の麦初種子、12月の祈願に王府から役人が来て祭祀が行われた。さらに旱魃時の乞い祈願には国王が行幸したとあり、ヤブサツノ御嶽は、王府祭紀の行われる重要な所であった。。ここにある拝所が琉球国由来記にある「ヤブプサツノ嶽 二御前 (神名: タマガイコマガイノ御イベ、 ムメギョラタチナリノ御イベ)」に相当すると考えられている。藪薩御嶽にはイベ (威部、霊石) が二つあり、こちらはムメギョラタチナリノ御イベになる。ムメギヨラタチナリは、海上から眺めた御嶽の尾根の美しさをたたえたものだという。現在では、この御嶽は百名集落では祭祀は行っておらず、垣花集落の人々が6月25日のアミシヌ御願で、仲村渠集落の人々が、1月2日の初ウビー、6月25日のアミシヌ御願の際に拝み、ニライカナイと久高島へ向けて遙拝をしている。
さらに遊歩道を奥に進むとふたつ目の拝所「タマガイクマガイの御イベ」があるとある。それらしきものを探す。資料にはの拝所の先は切り立った崖があり、サンゴの海砂利 (ウル) が敷かれた石囲いがあり、その手前に香炉が安置されているとある。これにピッタリと合うものは見つからなかったが、これがそうかもしれない。また資料には先程のムメギョラタチナリノ御イベの香炉がある場所の別の石畳中央の香炉がタマガイクマガイの御イベともある。少し混乱させる内容だ。
遊歩道には崖沿いに二つ展望台がある。樹々で、囲われているので、360度臨む事はできないのだが、それでも眼下の海岸が良く見える。東側海の向こうにハ久高島がうっすらと見えている。更に東には理想郷のニライカナイがあると信じられ、ここから遥拝していた。
奥の展望台がある場所の下は仲村渠クルクと呼ばれる風葬の地であったそうだが、そこに行く道は無かった。東には知念半島が見える。


天孫洞窟 (西ハンタ) (8/4 訪問)

ここには8月4日に新原集落を訪問した際に訪れた。ここは西 (イリー) ハンタガマ、又は、西 (イリー) ハンタ上の墓と呼ばれている。百名集落ではアマミキヨ族の墓、または、住居跡といわれ、仲村渠集落ではミントン門中の祖先の古墓といわれている。戦前までは洞穴 (ガマ) があったが戦時中、米軍の艦砲で岩が崩れて塞がれてしまった。ほぼ同じ場所に地元の偉人と伝わるアマミツの墓もあるのだが、資料の写真が不鮮明でどれかは確信がない。アマスのミツーの墓といわれる。この墓は百名集落では初ウビーで、仲村渠集落ではに神御清明 (カミウシ―三―) の際に拝まれている。


米地井泉 (メージガー、天孫御泉水 テンソンウッカー) (8/4 訪問)

天孫洞窟から山道を降りて来て自動車道路を少し下ったところに井泉がある。ここは新原集落地域になる。天孫ウッカー(カラウカハ)と書かれている。この井泉は資料により、又地域により様々な呼び方をしている。百名集落ではハンタの井泉や米地井泉 (メージガー) と呼んでいる。字新原では天孫子井泉 (テンソンシガ-) と呼んでいる。伝承では、アマミキヨの一族が使用した井泉とも、天孫氏 (アマミキヨの子孫) の井泉ともいわれる。仲村渠集落ではここが米地 (稲作発祥の地) だと伝わっている。新原集落ではこの井泉の下方にある産井泉が稲作発祥地としている。今となってはどこが稲作発祥の地などはわかるはずもない。知念のウファカル百名の受水・走水と新原の産井泉、天孫子井泉などが稲作発祥の地とされている所があるのだが、この地域に稲作が広く行われていたという事が重要だ。各地の共通の伝承は約700年程前、中国から稲穂を嗤えて飛んできた一羽の鶴が暴風にあってこの地に落ち、その稲穂がここで芽を出した。 早苗は先程墓があったアマミツが受水・走水の水田 (御穂田) に移植し稲作が始まったという。 百名集落と新原集落で初ウビー (若水取りの儀式) などの行事に拝まれている。


米地 (メージ) カラオカラ (8/4 訪問)

新原集落の竜宮の神のすぐ前の大きな岩場の麓に産井泉 (ウブガー) 跡が拝所としてある。新原集落でも拝んでいるが、百名集落の拝所でもあり、百名集落では米地 (メージ) とかカラオカラと呼んでいる。この井泉の前にある池は、稲穂をくわえた鶴が降りたいう稲作発祥伝説に出てくる米作地といわれている。(この鶴と稲穂の伝承は今まで2-3の集落にもあった。沖縄ではポピュラーな物語) 井泉の前にはその稲作発祥の地の碑が二つも立っていた。終戦直後まで井泉の前方に水田があったそうだ。正月の若水や産水として利用されていた。「南城市の御嶽」ではこの井泉はカラウカハとも呼ばれていると書かれているが、カラウカハ (ハンタの井泉) は先ほどの米地井泉 (メージガー、天孫御泉水 テンソンウッカー) と現地の案内番にはあった。この井泉の上にある丘陵の麓にあった。資料などのほとんどの情報は文献からではなく地元の人からの聞き取りで、このような混同がある。百名集落では初ウビー、植田祭で拝んでいる。


これで百名の集落巡りは終了し、帰途に着く。文化財が多かったせいか、家に着いたのは夕方7時前で、今日は約10時間程、外にいたことになる。沖縄は南に位置しているのだが気温は30度ぐらいで、本土に比べて低い。島なので風があり、じりじりとした蒸し暑い感じではない。誰かが冗談混じりに「いつか沖縄は本土からの避暑地になるかもしれない」と言っていたが、まんざらでもないと思えた。ただ、紫外線はきついのだろう、このように一日中外にいると、日焼けで真っ黒になっている。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 玉城村誌 (1977 玉城村役場)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 王城村グスクとカー (湧水・泉) (1997 玉城村投場企画財政室)

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