Okinawa 沖縄 #2 Day 95 (22/03/21) 旧大里村 (9) Haebaru Hamlet 南風原集落
旧大里村 南風原集落 (はえばる、フェーバル)
- 南風原公民館
- ティラ井泉 (ガ-)
- 南風原石獅子
- 龕屋
- 棚原の神屋
- サァス大川 (ウッカー、卞ヌ井泉 シチャヌカ―)
- ウージャラ井泉
- 食栄森御嶽 (イームイウタキ)
- 食栄森御嶽 (遙拝所)
- 宝珠 (ボントウー) 墓
- ナチジナー
- 名称不明拝所
- 美人堂 (ビジンドウ)
- 名称不明拝所
- 大瀬山
- 天川
- 東之御嶽 (アガリヌウタキ)
- ウチチウティラヌカー
- 慰霊碑
- ナナスクの大川 (ウッカー)
- マーチュー (松、アシビナー)
- 中道 (ナカミチ)
- 前道 (メーミチ)
- 津波古 (チファヌク) の神屋
- 上之井泉 (イーヌカー)
- 上南風原 (イーフェーバル) の神屋
- ミカヅキ井泉
- 直水槽跡
- イービの御嶽
- ウガンの井泉
- マンカーシー
- 松尾御嶽 (マチューウタキ)
- 与那原大親の屋跡
- ダキヤマ御嶽 (未訪問)
- ナーカの御嶽
- クダカ井泉
- イージョータッチュー (未訪問)
- アカリマー線
- 大工 (セーク) 井泉
- 合同墓 (新垣子、幸地子、外間子、ノロ、仲村渠)
- 合同墓 (與那嶺氏、平良氏、照屋氏)
- ワリシー
- 旧日本軍砲座壕 (3月25日 訪問)
- 内原 (ウチバル) 井泉 (3月25日 訪問)
- シガイ墓群
- ギリムイグスク
- ゲノ森 (ムイ)
- 玉村按可の墓
- 玉村按可の墓 (サチヌユヌヌシの墓)
- 御先世 (ウサチユ) ヌ墓 (名称不明1)
- 大里鬼 (ウフザトウナー) への遙拝所
- 大里鬼 (ウフザトウナー)
- 名称不明古墓2 (名称不明2)
- イーヌタッチュウサチグスク (名称不明3)
- ミンタマヤー
- ギリムイ井泉 (カー)
- コウシヌミー墓
- 下之樋井泉 (シチャヌヒージャーガ-)
- 中之樋井泉 (ナカヌヒージャーガ-)
- 上之樋井泉 (ウィーヌヒージャーガ-)
旧大里村 南風原集落 (はえばる、フェーバル)
南風原は首里城から見て南に位置していたことより、「南側」フェーバルと呼ばれたという。
琉球村々世立始古人伝記によれば、世立初は今帰仁按司で在所は南風原、地組始は玉城村より来る大里主で在所は大屋。西原、南風原、平良を統合し、大字大里に編成替えをし、戦前は村行政の中心地で役場、農業会、駐在所があり、部落の東南の坂道に古番所跡があった。大昔はこの地に番所 (役所) があったが、不便の為めに1763年 (尚敬24年) に与那原に移された。
明治時代は大里村役場はこの南風原にあった。その当時の人口は500人を超えて、旧大里村では4番目に多い集落であり、にぎやかな村であった。沖縄戦後、村役場は古堅に移り、人口は減少しはじめ、それ以降、人口はもとに戻ることなく、近年は小康状態だ。昭和の時代はこの集落は交通の不便な場所で、バスは通っておらず、仲程まで20分かけて歩いてバスを利用していたそうだ。平成の時代は集落住民の要望でバスルートが通ったのだが、便数は少なく2時間に一便で、バス開通が、人口増加の要因にはなっていない。
集落地域が明治時代から縮小していることがわかる。
大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: ゲノ森 (ギリムイグスク)、松尾之嶽、大里之嶽 (食栄森御嶽)、神山之嶽 (イービの御嶽、ダキヤマ御嶽?)
南風原集落で行われている年中祭祀は下記の通り。祭祀の数は他の集落に比べ、多く祭祀が維持されている。ウマチーも本来の年4回行われている。しかし、各祭祀で御願する拝所の数は以前に比べ少なくなっているように思える。食栄森御嶽がほとんどの祭祀で拝まれているので、この拝所が最も重要なことがわかる。
南風原集落訪問ログ
南風原公民館
南風原集落の西の端に公民館がある。この場所がかつては元々はノロの土地で、その後、集落に6基あったサーター車を統合して、昭和12年に、この場所に発動機の製糖工場 (サーターヤー) として使われていた。村屋は別の場所にあった。この公民館に自転車を停めて集落内を散策する。公民館の前庭には酸素ボンベの鐘が吊るされていた。
ティラ井泉 (ガ-)
公民館の裏には水源を高嶺山とする井泉がある。ティラ井泉と呼ばれ、南風原集落の井泉のなかで唯一その正面が東 (太陽が昇る方角) を向いていることが、名前の由来のティラ (太陽) といわれている。ティラ井泉はこの集落を厄から守る風水でいう午ノ方 (ウマノファ) とされ南からの災難を守っている。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に南風原集落以外に平良集落や嶺井集落、当間集落、稲嶺集落、門中等にも拝まれている。
南風原石獅子
公民館の北側に石獅子が残っている。かなり古いそうだが、いつ頃造られたかは不明。高嶺毛 (タカンミモ―) に向け火返し (ヒケーシ) として置かれている。8月15日に龕屋祝いの祭祀に龕屋と共に拝まれている。
南風原バス停留所にはバス路線の廃止のお知らせが張ってあった。すべての路線が廃止になっている訳ではなく南城市が運用しているNbus2路線がまだ運営されている。(午後は1路線のみ) ただ地域バスの経営は大変だろう。
龕屋
集落北方の山中にある、龕を保管した建物。上水道のタンクの北東約100rnにある。戦前までは扉があったという。戦時中は弾薬庫として使用されていたそうだ。龕屋の中には崩れた木材が散らばっている。これは龕の残骸の様だ。8月15日に龕屋祝いの祭祀に龕屋と共に拝まれている。この近くの畑でおじいと話したら、十五夜の祭りではこの龕屋の前の広場には村民が集まり宴会を開いていたと言っていた。
棚原の神屋
公民館の東に棚原神屋。かつて、棚原家は庭に米を敷きならして王を歓待したが、王は米を組未にしていると怒り、家の中には入らなかった。これが原因で棚原家は没落したという。同様の話が大根川家にも伝わっており、なんらかの混同があるのだろう。南風原町の本部集落を訪ねた際に、これと同じ話が第二尚氏の第17代尚灝王 (しょうこうおう) の時代 (1804-1834) に本部赤嶺家で起こっていると伝わっていたことを思い出した。本部赤嶺家の当主は打ち首になって家は断絶したとあった。この拝所は6月26日の雨乞御願、 大綱引、ウフッチュジナで拝まれている。
サァス大川 (ウッカー、卞ヌ井泉 シチャヌカ―)
棚原の神屋と食栄森御嶽 (イームイウタキ) の間、集落が広がる傾斜面の下方にサァス大川 (ウッカー) の井戸がある。別称、卞ヌ井泉 (シチャヌカ―) とも呼ばれている。「サァス」は、鍵のことで、他集落の人に水を汲まれないように、囲いをして鍵をかけたのが、名称の由来と伝わる。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に南風原集落以外にも平良集落や嶺井集落、門中等にも拝まれている。
ウージャラ井泉
集落から外れた南の畑の中にはウージャラ井泉がある。ウトゥヌフア (酉之方) とも呼ばれている。風水で西の方角を意味しており、西からくる厄を防ぐといわれる。元々はこの場所より40mぐらい奥にあったのを移設している。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に拝まれている。
食栄森御嶽 (イームイウタキ)
食栄森 (イームイ) は、旧公民館敷地の背後の森にある御嶽で、旧公民館内にあった神棚と御嶽入口にあるアーチ門が遙拝所となっている。御嶽本体は円筒形の墓で、墓の屋根に宝珠 (ボーントゥー) がのっている。かつては食榮森 (イーモリ) と書かれ、貧しい自給自足の時代の人々が「食が豊かで栄えるようにという願い」をこめて、この字を当てたという言い伝えがある。また、食栄森御嶽の由来について「大昔、疫病がはやって多くの人が死んだ。その時代は門中墓もなく、遣体をあっちこっちのシー (岩) のところで風葬にした。その遺骨を一カ所に集めて葬った墓が食榮森だとも伝わっている。1985年 (嘉慶20年) に災厄が発生し、その原因が食栄に散らばっていた始祖の遣骨の祟りとされ、納骨施設をつくって崇拝するようになったともある。ボントウー墓にはこの旨を刻んだ石碑がある。1月3日 (新) の三日ヌスクーと5月15日の五月ウマチー以外のほとんどの集落の行事で拝まれている。更にさかのぼった時期には、上森 (ウィムイ、ウィヌムイ) と呼ばれていた。食栄森御嶽は琉球由来記の大里ノ嶽 (神名: ナカツモリノ御イベ) か、神山ノ御嶽 (神名: マヲトクノ御セジ) のいずれかだと考えられているが、明確ではない。別の資料ではこの御嶽は天孫氏二十五世王の大里世之主の墓ともある。天孫氏二十五世王は思金松兼王で、この研究者によれば思金松兼王が大里世之主ということになる。別の説はここは舜天の墓という。この他にも、この丘には数多くの拝所が見受けられ、この丘全体が食栄森御嶽 (イームイウタキ) とされている。
食栄森御嶽 (遙拝所)
食栄森御嶽の裏には、御嶽内のボントウー墓への遥拝所がある。琉球石灰岩で造られたアーチ門があり、その両協には灯籠、門の中央には香炉が置かれている。この香炉と旧公民館内にあった神棚が御嶽への遙拝所になっている。アーチ門とその後方にある御嶽という配置は、首里地域や首里王家関係の拝所に見られるもので、身分の高い、王族二相当する人物を祀っていると推測される。かつては、祭紀関係者 (ノロ等) 以外の人は、この場から奥の区域へ入ることは許されなかった。南風原集落、平良集落、当間集落の他、門中等にも拝まれている。
宝珠 (ボントウー) 墓
食栄森御嶽 (遙拝所) から小山の上に上る急勾配の階段を上がると、食栄森御嶽の中央部に宝珠 (ボントウー) 墓がある。食栄森御嶽の御神体となっているそうだ。墓の右には灯籠が置かれている。左には石碑があり、「比に骨あり世に遠くして其人知らず、然れども崇ありて嘉慶二十年 (1818年 文化12年) 八月其散骸を此葬」と刻まれている。この墓に係わる伝承では琉球に逃れた源為朝と大里按司の妹の子の舜天王の墓ともある。また別の説はギリムイグスクを築城した天孫氏国王中郡金王 (天孫氏二十五世王は思金松兼王) の墓としている。この墓は終戦直後に修理の為に中が開けられことがあり、そこには人骨、水晶の勾玉、藤原道長と刻まれた銅鏡が見つかっている。身分が高く大和と関係があった人物と推測される。
御嶽の屋根の頂上部に宝珠 (ボントウー) をのせるのは、南風原集落の拝所の多くに確認されており、南風原の拝所の特徴となっている。この宝珠 (ボントウー) や石灯籠は沖縄県内の文化的特微ではなく、大和の仏教文化の影響と考えられ、南風原と大和との関係があった事の表れと思われる
南風原集落では、下の遙拝所から遙拝している。稲嶺集落と真境名集落もここに来て拝んでいる。
ナチジナー
食栄森御嶽内のボントウー墓から小山の端への道があり、その奥の広場の一角にナチジナーという拝所がある。今帰仁への遙拝所という。8月10日のシマクサラシで拝まれている。シマクサラシは悪風や悪霊を払う祭祀で、牛や豚などの動物の生き血を枝に付け、家の四隅に差す儀式だそうだ。
名称不明拝所
旧公民館跡の下側には食栄森御嶽への入り口がある。通常はここから御嶽へ向かっていた。入り口に入った所の右側に名称不明の拝所がある。
美人堂 (ビジンドウ)
元の道に戻り進むと、もうひとつ右に入る道がある。奥には美人堂と呼ばれている拝所がある。昔、女の子が産まれた際に、最初に拝むところだった。美人に育つ様にと祈願したと言われる。美人堂 (ビジンドウ) の手前には名称不明の拝所 (写真右上) がある。
名称不明拝所
美人堂 (ビジンドウ) から元の道にもどり、その先には食栄森御嶽へ向かう階段がある。その階段の下に、別の拝所があるが、名称は不明。階段を上ると上に食栄森御嶽が見えている。
大瀬山
石の階段を半ばまで登ったところに、遙拝所が二つあり、その背後の二つの大きな岩へ遙拝している。この岩には大瀬山と呼ばれ、遙拝の対象となっている拝所と墓があるそうだ。石碑には太陽岩と書かれている。一説には尚巴志により滅ぼされた今帰仁の若按司の墓といわれている。
天川
大瀰山の南側の岩の下に、「天川」と書かれた香炉がある。由来は不明。
東之御嶽 (アガリヌウタキ
更に道を進み、食栄森の南側に東之御嶽 (アガリヌウタキ) がある。太陽が昇る東に向いて拝まれている。先ほどの太陽の岩と関係があるのだろうか?
ウチチウティラヌカー
東之御嶽 (アガリヌウタキ) からは、急な階段が上と下に伸びている。下にはサァス大川 (ウッカー、卞ヌ井泉 シチャヌカ―) がある。その間は岩場になっており、三つの拝所があった。そのうち二つは名称不明。
一つは「月が映らぬ井戸」という意味のウチチウティラヌカーとよばれている。卞ヌ井泉ができる以前の古い井泉の跡と考えられている。
慰霊碑
食栄森御嶽のある農村公園内に慰霊碑がある。1947年に南風原住民の戦没者の霊を慰めるために造られている。以前は6月23日を慰霊の日として黙祷行っていたそうだ。慰霊碑の側には洞窟があり、拝所になっている。
ナナスクの大川 (ウッカー)
食栄森御嶽入口近くにある井泉。上ヌ井泉等の水が流れ込む。昔は、食栄森御嶽を参拝する人が、このカーで手足を清めたという。南風原集落では祭紀は行われないが、嶺井集落により拝まれている。
マーチュー (松、アシビナー)
ナナスクの大川 (ウッカー) のすぐ上に広場がある。ここはマーチューと呼ばれ、下 (シチャ) ヌマーチューと上 (ウィー) ヌマーチューの二つあった。下ヌマーチューが広場として残っている。上ヌマーチューは民家になっていた。このマーチューはアシビナー (遊び場) でかつてはここで村芝居などが行われていた。
中道 (ナカミチ)
食栄森御嶽 (イームイウタキ) とマーチューとの間の道が中道で集落のメインストリート。他の呂jに比べてやや広い道。この道を境として右と左で綱引きの組が決められていた。多くん集落はこれと同じように組分けヲしている。集落によっては門中で組分けをしているところもある。
前道 (メーミチ)
中道 (ナカミチ) を紹介したので、もう一つのメインストリートの前道も。前道は文字通り集落の前にあることが多い。集落は傾斜地に南側を向いて造られていることが多く、集落を下に下った境界線を走る道路となっている。多くは戦後道路整備の際に幹線道路に変わり、広い道幅に造り変えられている。前道は集落民家がある境界線なので、外側は農地となっている。この南風原集落も例にもれず、前道の前はほとんどが農地のままだった。
津波古 (チファヌク) の神屋
南風原集落の根屋である津波古の敷地内にある神屋。津波古門中は大里按司系の子孫と伝わり、ギリムイグスクの管理を行っている。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に平良集落や西原集落、仲程集落、門中等にも拝まれている。
上之井泉 (イーヌカー)
集落の東部、津波古屋敷の近くに上之井泉 (イーヌカー) があり、寒川井泉 (スンガガ-) とも呼ばれている。元々この井泉は、西原ノロ系統の寒川家という武士の屋敷の敷地内にあった。寒川家は西原二転居したため、今は屋敷はなく神屋だけが置かれている。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に南風原集落以外にも平良集落や当間集落、門中等に拝まれている。(かつては嶺井集落も拝んでいた。)
上南風原 (イーフェーバル) の神屋
元屋 上南風原の敷地内の神屋。集落の北東、傾料面の上方にある。玉城問切仲村渠からの分家という伝承がある。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に南風原集落以外に、仲程集落、嶺井集落や門中等にも拝まれている。
ミカヅキ井泉
上南風原 (イーフェーバル) の屋敷の前にミカヅキ井泉があり、クチナ井泉とも呼ばれている。兎ヌ方 (東の方角) の風水 (フーシン) に当たる。1月3日の三日ヌスクーで南風原集落以外に、嶺井集落や門中等にも拝まれている。
直水槽跡
各集落を訪れると多くん井戸跡が拝所となっている。沖縄の人とにとって水は生活に最も重要なもので、時代と共に井戸は水道設備で置き換わるのだが、井戸が拝所として残っている。ほとんどの集落では昭和30年代に簡易水道が設置されるのだが、この集落では昭和11年というかなり早い時期に完備されている。県の補助で、内原ガーから水を引き、大タンクの直水槽を経由し、栄泉 (さかえいずみ)、更生泉 (こうせいいずみ)、金剛泉 (こんごういずみ) と名付けられた三つの小タンクに水を引き、村民はこの小タンクから水を各家庭をまで運んだ。更にこの小タンクから各家庭まで水を引く設備まで完成させている。戦前のこの時代にここまで水道設備が各家庭まで普及したのは那覇以外ではこの南風原だけだった。この簡易水道は沖縄戦で破壊され、戦後、住民により苦労の末、一部復旧された。1963年 (昭和38年) には、アメリカ軍高等弁務官資金によって、簡易水道の大規模な改修工事が行われた。1974年に南部水道が引かれ、暫くしてそれまでの簡易水道は役目を終え、三の小タンクは撤去された。ここにある直水槽は歴史遺産として保存されている。
イービの御嶽
集落の北東から西原区へ続く通学路の歩道沿いにある御嶽。海の神が紀られていると伝わる。琉球国由来記の神山之嶽と考えられている。3月3日の竜宮の神への郡上げ (平良集落では浜下り (ハマウイ) と呼ばれている祭祀) で拝まれており、かつては女性がウスデーク (臼太鼓) をしていた。本来、浜下り (ハマウイ) は女性が海岸に行き厄を流し落とすのだが、この集落ではその代わりにここで遙拝をして、同じ効果を祈願している。 (浜下りについては高良集落訪問記で書いた。)
ウガンの井泉
集落の北東、イービヌ御嶽の後方約20mにある井泉。現在、水はない。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に拝まれている。
マンカーシー
マンカーシーは集落からみて北東の場所、イービの御嶽から、西原集落に上るイーヤマミチ (上山道?) にある古墓で、岩の中腹にある。マンカーヤマヌウタキとかマンカーデークとも呼ばれている。マンカーヤマは昔は聖地とされ、この山の木を切ることは禁じられたそうだ。稲嶺集落では大里グスクを造った大工棟梁の墓と伝えられている。南風原集落による祭紀は行われていないが、稲嶺集落によって拝まれている。この墓を探すべく、林の中に入って岩を目印に、その岩にある墓らしきものを探した。どうやらこれがそうではないかと思われる。
イーヤマミチ (上山道?)
丘陵の斜面から麓に広がる南風原集落 (標高60m-100m) と丘陵の上にある西原集落 (標高150m) を結ぶのは島添上方道路と呼ばれる自動車道路で丘陵を越えて東の佐敷の馬天港に通じている。丘陵を越える道は多くはないので、交通量は多い。島添上方道路は傾斜を抑えるため幾つかのS字カーブになっている。南風原集落東の端が100mになり、そこから島添上方道路をショートカットし、標高150mの西原集落に通じているのが、通学路専用と書かれたイーヤマミチだ。通学路とあるので、西原集落の学童は大里北小学校に通っている。距離は1.5kmとそれほどではないのだが、帰りは道のほとんどがの上り坂となっている。1919年時点の地図では島添上方道路はまだ存在しておらず、このイーヤマミチが西原集落への唯一の道だった。
イーヤマミチは琉球王朝時代は宿道の一部だった。宿道は首里城を起点として各間切番所から番所を結ぶ道で、約4km毎に一里塚が設けられていた。国頭方西海道、国頭方東海道、中頭方西海道、中頭方東海道、島尻方西海道、島尻方東海道がある。地図上の赤の点線が島尻方東海道で南風原集落の前道から中道、イーヤマミチを通り、西原集落に入り、かつて間切番所があった島添大里城内に通じていた。
松尾御嶽 (マチューウタキ)
松尾御嶽 (マチューウタキ) は集落の北端に位置する御嶽で、昔はこの高台に馬場があった。もともとは、高台の下にあったが、地滑りで、この場所に移設されている。琉球由来記の松尾ノ嶽 (神名: 松尾森御イベ) に該当すると思われる。御嶽名のマチュー (松尾) は、松の木にちなむものと思われるが、今は、特に目立つの木は見られない。沖縄戦ではこの一帯は焼き払われて、現在一面の森は植林されたものだそうだ。由来記によると、毎年3月、8月、四度御物参の祈願が松尾ノ御嶽で行なわれていたとあるので、南風原集落の中心的な御嶽であったことが窺われる。現在の石の香炉が安置されている祠を見ると、アーチ型の門状に石積がなされ、その上に宝珠がのり、祠の両側には石製の灯籠が立つ。これは、食栄森で見た遙拝所の門と同じ造りだ。この様式はこの南風原集落独特のものだそうだ。ここも遙拝所と考えられているが、どこを遙拝しているかは不明。右側の灯籠の側に火ヌ神だとされる祠がある。現在は9月9日の御嶽拝みの際に拝まれている。
ナーカの御嶽
松尾御嶽 (マチューウタキ) の祠の横から奥の山の中に通じる道がある。奥にナーカの御嶽がある。祠が2つある。3月3日の竜宮の神への郡上げで拝まれている。この3月3日の竜宮の神への郡上げではこれ以外にも主要な拝所で拝まれているので、この集落では重要な祭祀なのだろう。
ダキヤマ御嶽 (未訪問)
松尾御嶽 (マチューウタキ) の近くにあるダキヤマ御嶽があるのだが、資料にあった右の写真の祠がこの辺りにあるのだろうが、草が深く探すことは難しく断念。(資料の「食栄森」でも住民は祠は見つけにくいので、別の場所から遙拝しているとあった。) 祭神は不明だそうだ。ダキヤマという呼称からチンプクという竹が生えていた竹山だったと思われる。由来記の神山ノ嶽の神名「マヲトクノ御セジ」の「マヲトク」は竹のことであることから、神山ノ嶽の可能性がある。神山ノ嶽は西原ノロにより司祭されていた。(別の資料ではイービの御嶽が神山ノ嶽とある)
与那原大親の屋跡
松尾御嶽 (マチューウタキ) ノ前の道路を挟んだところは与那原大親 (尚巴志の弟) の屋敵があった場所といわれる。与那原大親の子孫は隣の古堅区に移り住み知念姓を名乗った。(下図参照 黄色でハイライトされているのは古堅集落の門中の始祖となった人物) この知念家が先祖を祀るために当地に石碑を建てたという。6月26日の雨乞御願、 大綱引、ウフッチュジナで拝まれている。
クダカ井泉
集落の北端にクダカ井泉があり、子ノ方 (ニーノファ、北の方角) とも呼ばれている。形式保存され、湧水はない。1月3日の三日ヌスクーに拝まれている。ここから、島添上方道路が西原集落まで登坂になる。
イージョータッチュー (未訪問)
集落北方、クダカ井泉から島添上方道路の登坂の途中、松尾御嶽との間にイージョータッチューと呼ばれている拝所がある。草やぶの中の地中に石が理まっているそうだが、資料の「食栄森」でも住民は祠は見つけにくいので、道路から遙拝しているとある。中に入る道もなく、探す事は断念。3月3日の竜宮の神への郡上げで拝まれている。
アカリマー線
イージョータッチューを過ぎ、島添上方道路の登坂を進み、松尾御嶽、イービの御嶽を越えてしばらくすると、島添上方道路から北東方面への脇道がある。アカリマー線で、イシグー道とも呼ばれていたそうで、島添大里グスクがある丘陵の麓を走っている。
丘陵の斜面はシガイと呼ばれ、いくつもの古墓がある。このアカリマー線は昔からあり、かつては石グーを載いた農道で、主に周辺のさとうきびづくりに使用されていた。現在は、大里城址整備事業の一環として舗装されている。アカリマーという名称は、昔、この道の近くに「アカリマー」という有名な石大工が住んでいたことに由来するという。
大工 (セーク) 井泉
アカリマー線の道端にセーク井泉がある。「セーク」とは大工のことで、島添大里グスクの築城工事をした大工たちが水浴びをした井戸と伝えられている。また、集落移動前の飲料水として使用されたという話もある。
合同墓 (新垣子、幸地子、外間子、ノロ、仲村渠)
アカリマー線から島添大里グスクのある丘陵斜面はシガイと呼ばれ、墓群地域となっている。セーク井泉から道を進むと、古い合同墓がある。新垣子 (アラカチシー)、幸地子 (コ―チシー)、外間子 (フカマシー)、ノロ、仲村渠 (ナカンダカリ) の祖先を合紀した合同墓といわれる。島袋集落により拝まれている。
合同墓 (與那嶺氏、平良氏、照屋氏)
島添大里グスク北東、シガイの中腹にもう一つ合同墓地にある。切り立った崖の端にあった。この場所には南風原集落の與那嶺氏、平良集落の平良氏、古堅集落の照屋氏の墓が隣り合ってあったのだが、沖縄戦で遺骨は散乱し、どれがどの門中の遺骨かがわからなくなった。そこでを1950年にこの3つの門中の祖先の遺骨を合紀したという旨が墓の石碑に刻まれている。南風原集落、平良集落、古堅集落の村立てをした先祖だ。先に訪れた合同墓 (新垣子、幸地子、外間子、ノロ、仲村渠) も同じ様な理由でまとめられたのだろう。この墓は真境名集落によって拝まれているそうだが、なぜだろう。墓は南風原集落、平良集落、古堅集落之祖先と書かれていたのだが.....
ここからは与那原の港 (写真左) と内原公園 (写真右) が臨める。
ワリシー
シガイの東側には島添大里グスクと丘陵下の内原を結ぶ旧道の山道がある。石畳になっている。昔は、この旧道は大里城から与解原に抜ける近道だった。今はほとんど使われていないのだろう。アカリマー線からこの旧道への登り口があり、ちょっとした広場になっており、東屋もある。広場は草が生え放題で、旧道は見つけにくい。広場の奥に旧道がある。人がほとんど来ないのだろう広場には地面にいっぱい花が咲いている。
大里城から内原に降りる旧道に割れた岩のトンネルがある。これをくぐり道を登ると、大里城址公園の展望台に出る。
残念なことに、公園への出口付近の旧道はごみが散乱している。公園に来た人がごみを捨てているのか、ゴミ捨て場状態だった。
旧日本軍砲座壕 (3月25日 訪問)
ワリカー近くには旧日本軍陣地壕があった。壕入り口はコンクリートで砲台の様なもの (写真右下) が残っている。沖縄戦では1945年 (昭和20年) 1月に船舶工兵隊23連隊が南風原集落の村屋や民家に駐屯してきた。この内原のシガイに陣地を構築。4月ごろから米軍の艦砲射撃がこの集落にも始まり、犠牲者が出ていた。4月半ばからは米軍機による焼夷弾攻撃が行われ集落の半分が焼けてしまう。日本軍はその場所に大砲2門を設置し、米軍を攻撃。このため米軍により集落への砲撃が激しくなり4月末には集落全土が破壊焼失。以後、住民は避難壕での生活となっていた。大里城にあった日本軍重砲陣地も米軍からの攻撃を受け、5月27日には米軍に占領される。住民は南へ避難していった。南部を逃げ惑っていた住民にも犠牲者は増えていき、6月には米軍捕虜となっていた。その後捕虜となった住民は収容所之生活が10月まで続き、各集落に戻る前に目取真に一時移動し、そこから南風原集落への復帰のために、毎日集落に通い、畑を耕作したり、がれきの片づけ、家屋の建設、道路整備など準備を行い、翌年5月に一年ぶりに南風原集落に帰郷となった。1945年の南風原住民は約450人でそのうち戦没者は170人となっているので、37%と南城市の中ではかなり多い方だ。
この夜にこの壕の事を調べると、入り口は反対側にあり、中にも入れるようだ。この3日後に島添大里グスクを訪問した際にもう一度来てみた。入り口はワリカーのすぐ横の岩場の裂け目だった。前回ここを通った時には気が付かなかった。
中に入ると、洞窟はかなり広い、特に天井が高く砲座壕としては適していたにだろう。小さな洞窟で密閉されていると、大砲を発射した後、煙が壕内に充満してしまう。この壕は適当な大きさで、両側が外に通じているので、排気もそこそこだったのだろう。入り口の方は石の階段で雛段のようになっている。砲座の方は石を積み上げて入り口を塞いでいる。砲座の左には狭い出口らしきものが設けられている。今は埋まってしまい外とは通じていない。この石垣は島添大里グスクの石垣を追ってきて積み上げたそうだ。
砲座の上部はコの字に窪みが造られ、石垣がコンクリートで固められている。ここに砲身を据えていたのだ。この場所からだと大砲は首里方面を向いていたことになる。首里が陥落した後、ここで防衛を試みたのだろうか?
内原 (ウチバル) 井泉 (3月25日 訪問)
大里グスクの崖下 (北西) のワリカー近くに内原 (ウチバル) 井があるのだが、見つけられなかった。この場所は饒波川の源流だそうだ。饒波川は漫湖に流れ込んでいる。この川沿いには多くの集落が造られていた。岩盤の下には、1936年に造られたコンクリート製の貯水槽があるそうだ。かっては大里グスクの女官の水浴び場で、男子禁制だったといわれる。首里城には御内原 (オウチバラ) という国王やその親族、そこに仕える女官が暮らす男子禁制の「大奥」があったが、この場所も同じ様な性格をもった場所だったのだろうか? 南風原集落では1月3日の三日ヌスクーに拝んでいる。西原集落は、大里グスク内のスクナシ井泉近くからこの井戸を遙拝している。
3日後の3月25日にもう一度この井戸跡探しに挑戦した。島添大里グスクへの旧道の脇に人が通った様な獣道があった。そこを進むと不気味な程で、岩場にガジュマルの根が絡みつき、その岩場の裂け目をくぐる。向こう側が開けて何か人工物がみえる。果たしてここだった。貯水槽跡がある。部落民が造った貯水槽を沖縄戦でこのシガイに駐屯していた日本軍が拡張したものだそうで、かなり大きい。今でも水が流れ込んで溜まっている。
この貯水槽の向かい側に古い井戸跡がある。石積みで周りは囲まれている。こちらが元々の内原 (ウチバル) 井泉なのだろう。
シガイ墓群
シガイには数々の門中墓や古墓がある。
島添之塔跡
島添大里グスクへの旧道の登り口の近くに島添之塔が建っていた場所がある。この慰霊塔は沖縄戦の後に、村内に散乱していた戦死者の遺骨を集め、アカリマー線を入ってすぐの所にあったヒラシーの壕に安置していた。昭和31年にこの場所に納骨をし、慰霊塔をたてたそうだ。現在は納骨堂と塔は撤去されている。摩文仁に納骨堂が設けられて、そこに移したことによるのだが、跡地にはいまだに慰霊塔、慰霊碑の書かれた石碑が残っている。更に、説明板も無造作に転がっていた。跡地は草が生え放題で、今はここを訪れる人もいないのだろう。写真右下がかつて建っていた島添之塔之写真。
大里内原公園内慰霊顕彰碑
島添之塔跡の北側に大里内原公園がある。
そこにも慰霊顕彰碑がある。この慰霊碑は旧大里村の2900人の戦没者を刻銘した碑だったが、現在は戦没者名は消えている。多分、平和記念公園ができて、そちらに戦没者名が新たに刻まれたので、消されたのだと思う。慰霊顕彰碑は撤去していないのは村民の想いがまだここに残っているからだろう。
ギリムイグスク
ギリムイグスクはギリムイともいい、琉球国由来記のゲノ森 (神名: ソラブサイノ御イベ) に該当する。「ゲノムイ」が「ギリムイ」と変化して呼ばれている。このグスクは玉村グスクとも称され、玉村按司が島添大里グスク移る以前の居城といわれる。島添大里グスクに移った後は、出城として使われていたと考えられる。島添大里グスクを攻めるには、このギリムイグスクから見下ろされる道を通らなくてはならず、島添大里グスクの防衛の機能を果たしていたのだろう。それにこのギリムイグスクからは西側の様子が手に取るようにわかり、敵が西側から攻めてくれ際には、その侵攻状況が把握でき、物見台としても絶好な場所にある。出城として使われていたことは確かだろう。グスク敷地内には、由来が不明の拝所や古墓が存在している。このギリムイグスクがいつ頃、誰によって築城されたのかは不明だが、ギリムイグスクはアマミキョの後裔とされる天孫氏の館跡との説を唱える研究者もいる。
ゲノ森 (ムイ)
ギリムイグスクへの階段を登ってすぐに広場がある。南風原集落の人たちが棒術の練習場所でもあったそうだ。この広場は戦後に整備されたのだが、正面には天孫氏王統の時代の御先世 (ウサチユ) ヌ墓へのお通し (ウトゥーシ 遥拝所) がある。
向かって左には、火之神 (ヒヌカン)、右には舜天王統時代の先世 (サチユ) ヌ墓へのお通し (ウトゥーシ 遥拝所) がある。 舜天王を祀った御嶽という異説もある。 このギリムイの管理は南風原集落のギリムイグスクの城主の子孫にあたる家系だと伝えられる津波古家が行っている。
玉村按可の墓 (サチヌユヌヌシの墓)
ゲノ森 (ムイ) から階段を上ると、大きなガジュマルの根元に香炉が二つある。「南城市の御嶽」では、ここは玉村按可の墓とされている。文献で「大里世ノ主ノ墓ハ大里村字大原ギリ森ノ御嶽ノ下ニアリ。大里村ヲ始メシ人ノ墓ナリト参詣画人多シ」とあり、「大里世ノ主」が「玉村按司」のことと推測されている。他の資料では先ほどの広場から遙拝されていた先之世之主 (サチヌユヌヌシ) の墓となっている。これが同じ人を指しているなら、「先之世之主 (サチヌユヌヌシ) = 大里世ノ主 = 玉村按司となるが、どうなのだろう?この墓は当間集落や真境名集落の他、墓に関わりのある門中に拝まれているそうだ。墓はガジュマルの根が絡みついてその年代を感じる。
玉村按可の墓から先に進むと階段がありその傍らに洞窟がある。
御先世 (ウサチユ) ヌ墓 (資料では名称不明1と記載されている)
玉村按可の墓から道を進むと広場があり、そこには、先ほどのゲノ森に遙拝所があった御先世 (ウサチユ) ヌ墓とも言われる古墓がある。「南城市之御嶽」では名称不明とされてはいる。嶺井区や真境名区の他、門中等にも拝まれている。村の人たちはギリムイグスクの拝所の中ではここが一番重要と考えているそうだ。
大里鬼 (ウフザトウナー) への遙拝所
御先世 (ウサチユ) ヌ墓の前方に拝所がある。この崖の下にある洞窟への遙拝所だそうだ。
大里鬼 (ウフザトウナー)
大里鬼 (ウフザトウナー) への遙拝所の場所から崖下に降りる道が二つあった。降りるには設置されたロープでなければ無理なほど急な道。一つは垂直にロープだけで降りなければならない。ロープを伝って降りると下に洞窟がある。ギリムイグスクには幾つかのガマがあるのだが、そのうちの一つ。ここには、大里鬼 (ウフザトウナー) の住み処であった洞窟が敷地内にあるという伝承がある。場所は特定されていないそうだが、資料 「食栄森」ではここがその大里鬼の洞窟としている。大里鬼に関して琉球国由来記では、大里間切の「旧跡」として、「南風原村ゲノ森ト云嶽ノ辺ニ、往古、大里鬼栖家ト云洞有リ。比鬼、内金城村ニテ相果タル由、申伝也。」という記述がある。
- 昔、首里の金城村に兄株がおり、兄は鬼となってギリムイの洞窟に住みつき、夜な夜な集落を襲い、鶏や山羊、牛を盗んで食べたり、ときには人間まで食べたりしていた。大里鬼 (ウフザトウナー) と呼ばれ恐れられた。村で鬼退治の部落会議がもたれ、そこに首里から妹が駆けつけてきた。自分の兄が迷惑をかけていることを詫び、自分で退治すると申し出た。そこで、兄の好物の餅に鉄片を入れ用意し、崖の上に誘い、鬼に食べさせると、硬くて歯が立たない鉄入りのもちと格闘している。鬼は妹がもちを問題なくおいしそうに食べているのを不思議そうに見ていると、妹は膝を立てて座っていたので、妹の腹の下部分にホーミー (女性の陰部) が見え、「お前の下の、血を吐いているロはなんだ?」と尋ねた。妹は着物をまくりあげ、ホーミーを見せ、驚く兄に向かって、「上の口はもちを食べる口。下の口は鬼を噛み殺す口」と兄に迫った。びっくりした兄は、不意をつかれた思いで飛び上がるや、足を踏み外して崖から落ちて死んでしまった。
この鬼餅伝説は形を変えて沖縄各地に残っている。
名称不明古墓 (資料では名称不明2と記載されている)
更に道を進むと別の古墓がある。真境名集落の他、門中等にも拝まれているそうだが、誰の墓なのかは不明。複数の資料からはこのギリムイグスク内には舜天の墓、舜天王の母の墓、天孫子墓があるともいわれているが、まったくもって定かではない。
この墓の奥にはもう一つ洞窟がある。
イーヌタッチュウサチグスク (資料では名称不明3と記載されている)
道を進むと頂上に着き、ここに拝所がある。イーヌタッチュウサチグスクと呼ばれ、壺が二つ並べられ、その奥一段高くなった場所に香炉が置かれている。拝所横にも香炉が置かれている。
ギリムイグスクから南風原集落が眼下に望める。ここが標高150m程なので、標高差100mにもなる。
ミンタマヤー
イーヌタッチュウサチグスクから南側は下っており、そこに三月毛と呼ばれる広場がある。ここにミンタマヤーの拝所がある。ここから海が見えるので、三月遊び (浜下り) が行われていた。南風原集落や平良集落等により拝まれている。
イーヌタッチュウサチグスクから南側に下る道の脇にある洞窟
ミンタマヤーの背後にある洞窟
ギリムイ井泉 (カー)
ギリムイグスクの丘陵の東側を通る島添上方道路沿いにギリムイ井泉 (カー) がある。車道整備の時に理められ、道のそばに移設され新たに拝所が造られている。1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に平良集落や西原集落、門中等により拝まれている。
コウシヌミー墓
ギリムイ井泉 (カー) の奥にコウシヌミー墓があり、その側に洞窟がある。
下之樋井泉 (シチャヌヒージャーガ-)
ギリムイグスクの丘陵北の傾面下方に下之樋井泉 (シチャヌヒージャーガ-) があり、かつては男性の水浴び場だったという。簡易水道の水源にもなっていた。以前は平良集落と嶺井集落、西原集落等が拝んでいた。現在は、1月3日の三日ヌスクー、5月15日の五月ウマチー (グングァチマチー、稲の初穂祭) に南風原集落のみが拝んでいる。
中之樋井泉 (ナカヌヒージャーガ-)
下之樋井泉 (シチャヌヒージャーガ-) のすぐ前に中之樋井泉 (ナカヌヒージャーガ-) がある。こちらはかつては女性の水浴び場だったという。
上之樋井泉 (ウィーヌヒージャーガ-)
島添上方道路の反対側に上之樋井泉 (ウィーヌヒージャーガ-) もあったのだが、土砂崩れで井戸は埋まってしまい、現在は見ることができない。島添上方道路は当時は残材しておらず、中之樋井泉と下之樋井泉への道とこの上之樋井泉への道は繋がっていたように思える。
この南風原集落見学は夕方5時過ぎまでかかった。集落内に多くの文化財があり、集落を囲んでいる丘陵に文化財が散在しているので、自転車を停めて歩いた距離も10㎞になっていた。来た道と同じ道で帰るのはつまらないので、ギリムイグスクから佐敷方面に下り与那原経由で自宅に向かう。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
- 食栄森 南風原地区集落整備統合補助事業完了記念誌 (2010 南城市南風原区自治会)
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