Okinawa 沖縄の旅 Day 57 (27/09/19) Tama Gusuku Castle Ruins 玉城グスク跡

尚巴志所縁の地
  • Tama Gusuku Castle Ruins 玉城グスク跡
  • Kakihana Gusuku Castle Ruins 垣花城跡
  • Kakihana Jija 垣花樋川
  • ミントングスク跡
  • Nakandakari Hija 仲村渠樋川
  • Ufu Gusuku Castle Ruins 大グスク城跡
第一尚氏王統所縁の地
  • Takamiyagi nu Tuon Castle Ruins 高宮城の殿 (ノロ殿内)
  • Nakaema Gusuku Castle Ruins 仲栄真グスク
  • Grave of Momotofumiagari 百十踏揚の墓
  • Ukka Gusuku Castle Ruins 大川グスク
  • Ashitomi Gusuku Castle Ruins 安次富グスク
  • Grave of Sho Taikyu 尚泰久の墓
  • Akanminutun Sacred Place 赤嶺之殿
  • Yandaga Spring 屋武多井
  • Udoushiugan Worship Place 宇堂志御願
  • Seisen Ga 玉泉井
昨日は沖縄戦に関わる史跡を訪れたので、今日は雰囲気を変えて、尚巴志所縁のグスクと巴志が建国した第一尚氏王統所縁のグスクを周る。順不同で先ずは尚巴志所縁のグスクから書く。
玉城グスクに行く事にした。この地域には多くのグスクが丘陵にあり、この丘陵の尾根を通るグスクロードという道路があり、自転車用の専用線もある。自転車道のり案内図があった。それによれば那覇からかなりの距離で走っているようだ。沖縄ならではで標高0mから160-170mの間でアップダウンがある。滞在中には走破して見たい。

Tama Gusuku Castle Ruins 玉城グスク跡 (タマグスクグスク、アマツヅグスク)

玉城村のグスクロード沿いの標高150-190mの丘陵にあるグスクで。 沖縄開闢の神アマミキヨ (阿麻美久) が築いたと伝わる。アマミキヨ以後は、その子孫である「天孫氏」が歴代の城主となり、後には英祖王統の第4代 玉城王 (1313~1336年) もここを居城にしたと伝えられている。琉球国王が聖地を巡礼した「東御廻り (アガリウマーイ)」の最後の拝所でもある。
一ノ郭・ニノ郭・三の郭からなる連郭式で、百名集落の背後の丘陵地帯の標高約180mの位置に築かれた古城跡。グスクの南側は断崖、西側から北側にかけて急斜面で、天然地形を巧みに利用したの要害の地で難攻不落の城と言われたのも頷ける。(自転車でここまでは結構きつかった) 尚巴志が佐敷按司の頃は、佐敷と同盟関係にあった。三山時代初期には島添大里とも同盟関係にあり、この地域では最も有力な按司であった。一時期は島添大里に息子を婿に入れて島添大里按司に据え、広範囲にわたり勢力を誇っていたが、島添大里城と大城城が八重瀬按司 (汪英紫) に攻め落とされると、急速に力を失っていった。城跡は一ノ郭は高い石垣の城壁が残って聳え立っているが、ニノ郭・三の郭の構造は現在では分からなくなっている。(ニノ郭・三の郭の石垣は沖縄戦後、米軍に建築用資材に利用され消滅してしまった)
一ノ郭への入り口は自然石をくり 抜いて作った城門があり、ここが一番有名な場所だ。一ノ郭はそれ程広くなく、城兵全てが立て籠るには狭すぎる。
一ノ郭には天つぎあまつぎの御嶽の拝所があるので、ここは通常は拝所の機能として使われたのではなかったかと思われる。
伝承では王位を英祖に譲った舜天王統の最後の第3代義本 (ぎほん) 王の火あぶりの刑 (退位後、自分の不徳を天に詫びるためここで焼身自殺を図ったが大雨で未遂に終わったと言う伝説だが、当時の歴史文献では退位後は消息不明となっている) 他に白米伝説と言うものもある。承察度に攻められた時、白米を馬の背に流して水浴びに見せかけたが、見抜かれてしまいグスクは陥落などの伝説が多いグスクでもある。
標高180mの一ノ郭からの風景
丘陵地帯のゴルフ場
奥武島
久高島方面 (あいにく久高島は見えなかった)
ここで初めて見る蟋蟀を発見。マダラコオロギという名前。トカラ列島以南の琉球列島に分布している。通りで本州では見かけない。沖縄では普通に見られるコオロギだそうだ。

Kakihana Gusuku Castle Ruins 垣花城跡

標高120mに位置し、玉城城の東の守り城として造られた。城跡は、サンゴ石灰岩を積み上げた野面積みで、一の郭と二の郭があり、築城年代は明確な記録がなく、石垣の積み方、規模等から約600年以上前の14世紀頃にミントン按司の次男によって作られたという言い伝えがある。一の郭の奥にある小さな御獄があった。尚巴志が佐敷按司の時には、垣花按司がこの地を治めており、佐敷、玉城、糸数、大城、島添大里の諸按司と同盟関係にあった。

Kakihana Jija 垣花樋川

標高120mの垣花から丘陵を下る。岩場を切り開いた石畳の急な坂道だ。100m以上の長い坂道。今ではこの石畳道に沿って鉄パイプが給水用として敷設されているが、今でも使われているのだろうか? このパイプが設置される前は、村民 多分 女性と子供たちだったと思うが、毎朝、水を汲んで上の村まで運んでいたのだろう。かなりの重労働だ。木々に覆われ石畳の終点は視界がぱっとひらけ、樋川が現れる。ちょっとした泉という気持ちが晴れる様なのどかな風景だ。今まで見てきた樋川とは趣が随分と違う。水が滝のように勢いよく流れ落ちている。子供達はここで水遊びを楽しんだに違いない。女性たちはここで毎日井戸端会議をしていたのだろう。
ここから見える景色もこの村の宝物だろう。青い空と青い海が眩しい。ここならば何時間いても飽きない。
ここで大蝙蝠に遭遇した。自然のままの大蝙蝠を見るのは初めてだ。スマートフォンでの撮影なので、写真ははっきりとは分からないが、何かを食べているようだ。
後で調べたら多分「クビワオオコウモリ」の様だ。ちょっと可愛い。

Minton Gusuku Castle Ruins ミントングスク

垣花城からそれ程離れていない玉城村の仲村渠 (ナカンダカリ) 集落のミントンと言う旧家内の丘陵に位置している。民家の敷地内にあるので、城跡内に入るのは遠慮し、城の周りだけを見た。藪薩の浦原 (ヤハラツカサ、浜川の御嶽、受水走水、ミントングスクを含む一帯) と呼ばれる中の一つで、国王の「東御廻り」の巡礼地の一つだった。ここも、沖縄開闢の租のアマミキヨ族が築いたと言われる。

Nakandakari Hija 仲村渠樋川

ここにも立派な水場がある。この村の共同水場で炊事場まで作られている。数十年前までは、ここに村民が集まり、水浴び、洗濯、炊事などをしていたのだろう。村の交流の中心地であった事が想像できる。
仲村渠 (ナカンダカリ) 集落から那覇方面への帰路の途中に百名 (ひゃくな) と言う集落がある。ここにもいくつか史跡があった。

Ufu Gusuku Castle Ruins 大グスク城跡

先日別の大グスク城跡を訪れたので、この地区には大グスクは二つある。こちらは城と言うよりは屋敷か拝所に使われていた様な規模のグスク跡。標高約62mほどの小高い岩山にあり、岩山は「アガリメーヌ・メーヌヤマグヮー」と呼ばれる拝所。一説では貿易船や行き来する人たちを監視する物見台ではなかったとも言われている。
この百名集落にも水場と拝所が史跡として残っている。

Ufu Gusuku Ga 大城ガー/焚字炉/御嶽

正面に大城ガー、右手に焚字炉、左手にちんたかー之御嶽、それぞれの祠がある。その右奥には石獅子が東を向いて鎮座。

Zazunnuduen ザズンの殿

火之神が祀られている。

Ufume nu Duen 大前之殿

正式には天神社五穀之宮大前之殿と言う。部落時代に、大前 (うふめー) 家 (根処前之殿) と安里 (あしとぅ) 家 (安次富之殿: 尚泰久王の長男の安次富金橋の後裔なのか?) が領主となり発展。その後、この近く大城グスクが築城され、大前家と安里家が併合し、ジャジュン之殿 (火神之殿) ができた。第二尚氏 の尚真王の頃に中央集権下で地方の城主が首里に住まわせられるようになると、首里王府から神谷村 (百名村) 地頭職を賜った周氏島袋親雲上 (ぺーちん 後の神谷里主) が力を持つようになったという事で、根処前之殿、安次富之、火神之殿、神屋里主所之殿の四つの殿 (旧家) が存在した。
尚巴志が建国した第一尚氏王統所縁のグスクも周った。

Takamiyagi nu Tuon Castle Ruins 高宮城の殿 (ノロ殿内)

第一尚氏最後の第7代国王尚徳の四男である黄金子 (クガニシ) が金丸のクーデターから逃げて隠れていたグスクと言われている。第7代国王尚徳の死の経緯は諸説ある。尚徳は病死し、その後継者の尚徳の長男 佐敷王子 (8才) の任命式で、家臣や民衆が金丸の即位を主張したというものと、尚徳がお気に入りの女に会うために久高島に行っており、その帰路の船の中で、金丸が即位し、海に身を投げ自殺したと言う説がある。長男 佐敷王子 (8才) は殺された可能性は非常に高く、その他の王子は殺されたのか、逃げたのかは小説ある。この四男の黄金子も存在したのかもはっきりしないが、「おもろさうし」で黄金子の拠点が「みやぐすく」と記載されている事からここはグスクであったと考えられる。グスク跡のようなものは残っていないが、拝所があった。インターネットにこの第一尚氏王統の最後の王の尚徳の子供のその後についての諸説が載っていた。萬金子と書かれているのは黄金子と考えられるが、久高島の女の子となっている。尚徳が久高島に通っていたのは事実かもしれない。以前に第一尚氏王統についてまとめたものを9/2に書いたのだが、尚徳と金丸がうまくいっていなかったのは事実のようだし、家臣も尚徳からは心が離れていたように思える。
尚泰久の家族の所縁の地である富里 當山地区を訪れる。

Nakaema Gusuku Castle Ruins 仲栄真グスク

第一尚氏王統 尚泰久王の四男の八幡加那志の居城と伝わっている。このグスクを築いたのは 叔父の豊見城按司 (尚巴志の五男?) と言われ、田舎下りした八幡加那志が未完成のグスクを増築し居城としたと伝わっている。ほとんど遺構は残っていないが、石垣が僅かに見えるだけだった。尚泰久の妃は護佐丸の娘であったが、尚泰久が護佐丸を攻め滅ぼした後は、護佐丸の娘である母親の子供達 (長男の安次富金橋、次男の三津葉多武喜、四男の八幡加那志、長女の百十踏揚) は尚泰久とは関係が悪化し、側室の子の尚徳が即位した後は、首里からこの地に移って来た。

Grave of Momotofumiagari 百十踏揚の墓

仲栄真グスクのすぐ近くに尚泰久の長女の百十踏揚 (ももとふみあがり) と兄である次男の三津葉多武喜 (みつばたぶき) の墓があった。悲劇の人 百十踏揚については勝連城 (阿麻和利の居城だった) を訪れた9/12に簡単に書いている。政略結婚で阿麻和利の妻となり、父親の尚泰久により阿麻和利が滅ぼされ、その功績のあった鬼大城と再婚、鬼大城が金丸のクーデターで攻められ戦死。その後、兄の三津葉多武喜 を頼ってここに移って来て過ごしたと言われている。

Ukka Gusuku Castle Ruins 大川グスク (ウッカグスク、オオカワグスク)

第一尚氏王統 第6代 尚泰久王の後継者は三男の尚徳であった。長男の安次富金橋、次男の三津葉多武喜は謀反の疑いで滅ぼされた護佐丸の娘の子供ということで、尚泰久とは折り合いが悪かったとも伝えられている。後継者レースから外され、二人ともに、この玉城の富里 當山に田舎下りをした (尚徳から逃れたともある)。三津葉多武喜は長男の安次富金橋の居城であった安次富グスクのすぐ近くの大川グスクに居住していた。この大川グスク は城壁もないことから、一時の居住地だったと推測されている。

Ashitomi Gusuku Castle Ruins 安次富グスク

第一尚氏王統 第6代 尚泰久王の長男 安次富金橋 は王位につけず、兄弟共に玉城の冨里・當山に 田舎下りをし、その時の築城したのがこの安次富グスクだと言われている。この冨里・當山の地は尚泰久王の一族ゆかりの地となっている。尚泰久王、安次富金橋、三津葉多武喜、長女百度踏揚、そして尚泰久王の兄尚布里が眠っている。

Grave of Sho Taikyu 尚泰久の墓

安次富グスクと大川グスクを数十メートル坂を下ったところに尚泰久の墓がある。尚泰久の墓の隣には彼の長男の安次富金橋の墓もある。安次富金橋の後裔が屋良腹家の様で、尚泰久の墓の上のは屋良腹門中の墓が隣接していた。今でも屋良腹家によって墓は守られているそうだ。何故、ここに尚泰久の墓があるのか疑問に思った。長男の安次富金橋の墓の隣。安次富金橋とは祖父の護佐丸を打った父の尚泰久とは関係が良くなかった。後で調べると、尚泰久の墓は元々は第一尚氏の墓であった天山陵から金丸のクーデターで読谷に移り、石川伊波に移動り、そしてこの地に明治時代に移された。これでスッキリした。
尚布里墓
尚金福王の跡目を息子の志魯と弟の布里が争い、志魯が首里グスクに火をつけ正殿を焼失したと云われている。志魯・布里の乱と呼ばれ、双方ともこの戦いで亡くなっている。そして、本来なら王には即位していなかったであろう尚泰久が第6代王として即位することになる。
この富里地区には多くの史跡が残っており、その数ヶ所も寄って見た。他の地区と同様に水場屋拝殿が残っている。

Akanminutun Sacred Place 赤嶺之殿

Yandaga Spring 屋武多井

Udoushiugan Worship Place 宇堂志御願

Seisen Ga 玉泉井
この場所に玉泉井がある。
今日も日が落ちてからの帰宅となった。


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