Okinawa 沖縄の旅 Day 27 (28/08/19) Shuri Castle Ruins (1) 首里城 その1
Shuri Castle Ruins 首里城
- Suimu Kan Information Center 首里杜館
- Gosaikusho Site 御細工所跡
- Shunrei-Mon Gate 守礼門
- Stone Gate of Sonohiyan Utaki Shrine 園比屋武御嶽石門
- Kankaimon Gate 歓会門
- Kyukei Mon Gate 久慶門
- Sunga Hija 寒水川樋川
- 32nd Army Headquarter Shelter 第32軍司令部壕/第32軍合同無線通信所跡
- Zuisen Mon Gate 瑞泉門/Ryuhi 龍樋/冊封七碑
- Roukoku Mon Gate 漏刻門
- Nichieidai Sundial & Tomoya 日影台/供屋 (万国津梁の鐘)
- Koufuku Mon Gate 広福門
- Shichanuna 下之御庭
- Houjin Mon Gate 奉神門
- Keizuza & Yomotsuza 系図座・用物座
- Suimu Utaki 首里森御嶽
- Koyo No Uchi 京の内
- Madamamuiu Utaki 真玉森御嶽
- Iri No Azana 西のアザナ
- Kobiki Mon Gate 木曳門
- Ueki Mon Gate 右掖門
- Zenikura 銭蔵
- Shukujun Mon Gate 淑順門
- Yoseuchi Utaki 寄内御嶽
- Bifuku Mon Gate 美福門
- Akata Ujo No Utaki 赤田御門之御嶽
- Keisei Mon Gate 継世門
Shuri Castle Ruins 首里城
那覇市の史跡巡りもいよいよ首里城と識名園を残すのみとなった。今日は、首里城の無料見学地域中心にまわってみる。
今まで訪れた日本の城とは異なり、首里城は中国の城の影響を大きく受けている。門や各種の建築物は漆で朱塗りされており、屋根瓦には初期は高麗瓦、後に琉球瓦 (赤瓦) が使われ、各部の装飾には国王の象徴である龍が多用された。戦乱のない琉球王朝時代に再建されており、軍事目的よりも政治の役割を中心にして設計されている。城郭は他のグスク同様、琉球石灰岩で積み上げられている。
これから見学する首里城は沖縄県内最大規模の城で、第一尚氏王朝時代の15世紀前半ごろ造られた内郭と第二尚氏王朝時代の15世紀後半から16世紀前半にかけて建設された外郭の二重の城壁に囲まれている。今日は外郭にある復元されている建物を中心にまわる。
Suimu Kan Information Center 首里杜館
守礼門の手前に首里杜館という公園のインフォメーションセンターがある。首里の丘は聖地と考えられていた。別名”すいむい”とも呼ばれたので首里杜館と命名したそうだ。かつては、首里森御嶽 (すいむいうたき) があり、真玉森御嶽と共に首里城の守り神だった。ここで首里城案内のビデオを見てから城見学とする。
ここに来てびっくりしたのは中国人観光客の多さだ。多分観光客の8割がたが中国人でなかろうか。それも団体さんがほとんどで、兎に角、騒々しい。何故、中国人は話す時に叫ぶのだろうか? 普通の音量で話してもいいのにと思うが、叫んでいる。まるで日本ではない様な雰囲気。それとは反対に西欧人観光客があまりいない。この現象は街中でも同じだ。沖縄までは足を伸ばすのが少し難しいかもしれない。
Gosaikusho Site 御細工所跡
御細工所は首里城の西側の守礼門の手前に位置し、18世紀から首里王府直轄の製作所もしくは工房があったと考えている。後に王府の薬草園、明治以降は沖縄県の授産施設や首里尋常小学校にりようされた。発掘調査で石組みの排水構や、石垣、道路といった施設が複数回造りかえられる形で見つかっている。
Shunrei-Mon Gate 守礼門
創建は第二尚氏第4代 尚清王 (1527~55年) の時代。第6代 尚永王代 (1573~88年) に守禮之邦 (しゅれいのくに) の四字額が冊封使渡来の時のみ掲げることが慣例であったが、第10代 尚質王代 (1648~68年) 後期には常時掲げるようになっていた。日本・中国・沖縄の建造技術が合わさり独創的な組み合わせで造られている。
守礼門をくぐると、次の門の歓会門が見える。
Stone Gate of Sonohiyan Utaki Shrine 園比屋武御嶽石門
守礼門から歓会門に至る途中の石門とその周辺のハンタン山を「園比屋武御嶽」と呼ぶ。国王が外出する際に道中の安全祈願を行った礼拝所。門ではあるが人が通る門ではなく、神への礼拝の門である。門の上部の扁額から1519年 (第二尚氏第3代 尚真王) に建てられたことがわかる。
Kankaimon Gate 歓会門
首里城郭内に入る外郭の最初の第一の正門。冊封使などを歓迎するという意味でこの名前が付けられている。別名をあまえ御門 (うじょう) と言う。”あまえ”は琉球の古語で”喜んで迎える”という意味。豪華絢爛な守礼門とは異なり、頑丈な石造りのアーチ型の門。上には木製の櫓が乗せられ、両側に魔除けのシーサーが置かれている。1477年~1500年頃 (第二尚氏第3代 尚真) に建立され、沖縄戦で焼失。
振り返ると守礼門が見える
この歓会門を入ると正殿方面へ登る階段とそのまま真っ直ぐに行く道がある。まずは真っ直ぐの道の方に行く。直ぐに久慶門にあたる。この門を出て階段を降る。
Kyukei Mon Gate 久慶門
外郭の通用門で別名を”ほこり御門”と言う。久慶門は通用門として主に女性が使用していた。何故女性だけなのだろう? 国王が寺院を参詣したり、浦添から以北の地方へ外出する際にも使用された。石造アーチ門で、その上に木造の櫓がのっている。創建は、第二尚氏第3代 尚真王時代で、沖縄戦で焼失。現在の物は他の建物と同様に復元されたもの。
Sunga Hija 寒水川樋川
この久慶門の階段下の脇には樋川がある。城内に降った雨が地下に浸透し、再び湧水としてでてくる場所。城壁に沿って幅広の排水溝もある。
32nd Army Headquarter Shelter 第32軍司令部壕/第32軍合同無線通信所跡
1879年 (明治12年) の琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は日本陸軍の第6師団 (熊本) の軍営となった。沖縄戦では日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いた。1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失。この激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。この久慶門から下った所に当時の壕が残っている。
久慶門の階段を登って先程の分岐道の歓会門まで戻り、今度は正殿に行く階段を登ると瑞泉門になる。
Zuisen Mon Gate 瑞泉門/Ryuhi 龍樋/冊封七碑
ここは第二の門で、別名をひかわ御門 (うじょう) ともいう。瑞泉とは”立派な泉”とか”めでたい泉”という意味。ここから内郭になる。内郭には瑞泉門、漏刻門など九つの門がある。創建は1470年頃というと第二尚氏初代 尚円王の時だ。
門の両脇には魔除けの一対の石獅子が並んでいる。沖縄戦で焼失したが、1992年 (平成4) に復元された。門の手前右側には湧水があり龍樋 (りゅうひ) と呼ばれている。龍の頭の形をした銅製の樋から水が溢れ出している。18世紀前半から19世紀後半にかけて来琉した冊封使が、この湧水を漢詩や題字を残し、それらを石碑にしたものが、冊封七碑と呼ばれ、ここに建っている。この龍樋の水は、国王やその家族の飲料水にも使われるほど質が良く、冊封使の琉球滞在中には、宿泊先の那覇港の天使館まで、毎日水を届けたそうだ。沖縄戦で冊封七碑も破壊されたが、拓本等を参考に復元されている。
瑞泉門をくぐるともう一つの門が現れる。
Roukoku Mon Gate 漏刻門
ここは第三の門で、別名 ”かご居せ御門 (うじょう)” ともいう。当時、身分の高い役人は駕籠にのって首里城へ登城したが、この場所で駕籠から下りたという事からそう呼ばれている。創建は15世紀頃。漏刻とは中国語で水時計を意味する。門の上の櫓に水槽を設置して水が漏れる量で時間を計っていた。係の役人がここで時太鼓を叩き、それを聞いた別の役人が東 (あがり) のアザナと西 (いり) のアザナおよび右掖門 (うえきもん) で同時に大鐘を打ち鳴らして城内および城外に時刻を知らせたという。
門を抜けると広場に出る。この広場には日影台と供屋がある。供屋が何に使われたのかは不明。
Nichieidai Sundial & Tomoya 日影台/供屋 (万国津梁の鐘)
漏刻門 (ろうこくもん) の正面に置かれているのが日影台 (にちえいだい) という日時計。往時もこの場所におかれ、水時計の補助的な道具として使われた。1739年、従来の漏刻は不完全であるとして、はじめて日影器を製作し設置したと伝えられる。以後、この時間制度は1879年 (明治12) 廃藩置県まで続いた。
万国津梁の鐘 (ばんこくしんりょうのかね) は1458年 (第一尚氏 第6代 尚泰久) に首里城正殿に掛けられていたが、確かな事は不明なので、この供屋にレプリカを設置しているらしい。鐘には「琉球国は南海の美しい国であり、朝鮮、中国、日本との間にあって、船を万国の架け橋とし、貿易によって栄える国である。」という主旨の銘文が刻まれており、往時の琉球国の立場とそれに対する誇りの様なものを感じる。この時代に貿易立国を宣言している国はそう多くないのではと思う。
Koufuku Mon Gate 広福門
第四の門で広福門と名付けられている。福を行き渡らせるという意味。別名 “長御門 (ながうじょう) “ といい、建物そのものが門の機能をもっており、この形式も首里城の城門の特徴。王府時代には神社仏閣を管理する寺社座と、士族の財産をめぐる争いを調停する大与座 (おおくみざ) という役所が置かれていた。創建年は不明。明治末期頃に撤去され、1992年 (平成4) に復元。現在は、券売所等になっている。
Shichanuna 下之御庭
ここは正殿がある御庭 (うなー) に入る前の控えの場で、正殿前の御庭で行われる様々な儀式の控え場として使われていた。下之御庭 (しちゃぬうなー) とは、沖縄の表現で「下の庭」を表す。正殿の建築工事の際には資材置場等として使用された。現在は城内でのイベント等の際に利用されている。
Houjin Mon Gate 奉神門
奉神門とは「神をうやまう門」という意味で、首里城正殿のある御庭 (うなー) へ入る最後の門。別名君誇御門 (きみほこりうじょう) ともいう。ここには行政施設も入っていた。1562年には石造欄干が完成したという記録があるので創建はそれ以前。その後1754年に中国の制に倣い改修した。建物は明治末期頃に撤去されたが、1992年 (平成4) に外観が復元。向かって左側 (北側) は納殿 (なでん) で薬類・茶・煙草等の出納を取り扱う部屋、右側 (南側) は君誇 (きみほこり)で城内の儀式のとき等に使われた。3つの門のうち中央は国王や中国からの冊封使等限られた身分の高い人だけが通れる門で、それ以外の役人は両側の門から入城した。現在は公園管理施設となっている。
Keizuza & Yomotsuza 系図座・用物座
下之御庭 (しちゃぬうなー) の西側にある建物で、系図座 (けいずざ) と用物座 (ようもつざ) という役所があった。系図座は士族の家系図を管理していた役所で、用物座は場内で使用する物品、資材等の管理を行った役所だった。2000年に復元され、現在は休憩所と案内所として使用されている。
Suimu Utaki 首里森御嶽
首里城の十嶽 (とたけ) と呼ばれる10ある礼拝所である御嶽のひとつ。琉球開闢 (かいびゃく) 神話によれば、神が造られた聖地であるとされている。琉球最古の歌謡集 “おもろさうし” にも首里森御嶽に関する詩歌が多数登場する。1997年 (平成9) に復元された。
ここにある奉神門を通ると正殿に行くのだが、ここからは有料地区になる。正殿はじっくりと見たいので、明日、戻ってくる事にして、残っている無料地区を巡る。この広場を守礼門方面に進む。広場を出た直ぐ左側に京の内がある。
Koyo No Uchi 京の内
下之御庭の南側の石垣の向こう側は京の内 (きょうのうち、けおのうち) という城内最大の信仰儀式の場がある。首里城は政治/軍事の拠点であったが、琉球有数の聖域でもあった。当時は城内には10ヶ所の御嶽があり、首里城内郭の南側の大きな範囲を京の内が占めていた。京の内は鬱蒼とした大木の森や岩がある場所の中に、十か所の御嶽のうちの数か所 (見学したところ、3ヶ所あった) あり、この森こそが首里城発祥の地であり、首里城が国家の聖地であった重要な場所。聞得大君 (きこえおおきみ) や大アムシラレなど神女たちが京の内で王家繁栄、航海安全、五穀豊穣の祭祀を行っていた。(祭祀の内容や京の内内部の様子はいまだによくわかっていない) 敷地内の御嶽等は遺跡というよりは、信仰の対象でり、首里城内に琉球大学があった頃は、自由に入れて、その構内のあちこちの拝所には常に線香やウチカビ (紙銭) が供えられ、拝む姿がよく見られたもそうだ。今は首里城復元で立ち入りが禁止となり、拝所としては破壊されたとの声もある。
Madamamuiu Utaki 真玉森御嶽
京の内にある御嶽で十嶽 (とたけ) の一つ。王妃と王子の聖骨があるといわれか、雨乞いの儀式がおこなわれていた。首里城内で一番のパワースポットらしい。
首里森御嶽 (すいむいうたき) もここにあったと考えられているが、その表示は見当たらず、3ヶ所の御嶽があった。
Iri No Azana 西のアザナ
京の内を抜けて城郭沿に進むと、標高約130mの城郭の西側に築かれた物見台に出る。ここからは那覇の町や那覇港の様子、そして遠く水平線上に慶良間諸島などが展望できる。別名 島添 (しまそえ) アザナともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じた。
Kobiki Mon Gate 木曳門
この門は、首里城の修復工事のときにのみ、資材の搬入口として使用された門。普段は石積によって封鎖され、数年に1度といった頻度で行われる工事のときだけそれを撤去して使用した。首里城では城の増改築の際にここから木材を引き入れ、その度に木曳式を行なっていた。現在は首里城見学の出口になっている。
Ueki Mon Gate 右掖門
右掖門 (うえきもん) は眼下に見える歓会門、久慶門から淑順門へ直接通じている門で、往時は淑順門から御内原 (おうちばら = 琉球王朝の大奥に相当) へ入った。この門は歓会門から東にあり、ほぼ直線で約160メートルの石畳道が続いている。別名 寄内御門 (よすふぃちうじょう) ともいい、創建は15世紀頃。沖縄戦で焼失。1992年 (平成4)、2000年 (平成12) の2回に分けてに復元された。
Zenikura 銭蔵
焼酎 (泡盛) や油類、諸座への日用銭等を管理する高床敷風の施設だった。2016年に復元し公開。観光客用の休憩施設になっている。
Shukujun Mon Gate 淑順門
琉球王朝の大奥に相当する御内原 (おうちばら) へ通じる門。国王やその家族に仕える女官らが御内原へ入るときにくぐった門で、別名を”みもの御門 (うじょう)” 又は、”なか御門 (うじょう) と呼ばれた。建物の創建年は不明。2010年(平成22年)に復元された。門の造りは櫓門形式で入母屋造の本瓦葺となっている。御内原の見学は明日を予定。
Yoseuchi Utaki 寄内御嶽
この淑順門は内郭城壁にあり、中に入ると正殿や御内原でそこへは明日見学をする。門の階段を下ると外郭城壁と内郭城壁に囲まれた広場がある。ここは寄内 (よせうち) と呼ばれた御嶽の場所だったと推測されている。
この寄内には2カ所の御嶽があったとされているが、発見されていない。
ここには洞窟が三ヶ所ある。一つがガマ遺構と呼ばれ、どうも女官たちが休憩する場所でなかったとされている。何故わざわざ洞窟で休憩とは首を傾げたくなるが...... 残りは沖縄戦の最中の壕だそうだ。
ここに首里城内の植物や果実の記載があった。
Bifuku Mon Gate 美福門
内郭に建てられた門で継世門が建てられる前までは、ここが首里城の東門であったと考えられている。当初は首里の赤田集落に面していたことから赤田御門 (あかたうじょう) とも呼ばれていた。しかし後に継世門が建てられたため、門の両側に正門の歓会門と同じく石獅子が置かれていたこともあり、その後は愛称としてシーサー御門と呼ばれたという。
Akata Ujo No Utaki 赤田御門之御嶽
ここにも御嶽跡がある。
Keisei Mon Gate 継世門
首里城の東側の外郭にある裏門。別名 ”すえつぎ御門” 。門の両側には2基の石碑が建てられていて、当時の倭寇に備え、1544年に建てられたという主旨のことが書かれている。この門は1998年 (平成10) に復元された。
これで、今日予定していた建物見学は終了。この後、城壁に沿って歩いてみる。
そろそろ日が暮れそうだ。
ライトアップされた。午後7時。
ここまでいたのだから、ライトアップされた建物も見ていくことにした。
結局、7時間から8時間、首里城にいた事になったので、少々疲れ気味。
首里城に関わる簡単な歴史があったので備忘録がてら載せておく。
西暦 主な出来事
1372年 中山王察度 初めて明に使者を送る
1406年 尚思紹 (尚巴志の父) 中山王になる
1427年 龍潭を掘り、庭園を整備
1429年 尚巴志、三山を統一 琉球王国成立
1453年 志魯・布里 の乱で首里城全焼
1458年 万国津梁の鐘を正殿に掛ける
1470年 尚円王位につく。瑞泉門を創建
1477~1526年 歓会門、久慶門を創建する
1494年 円覚寺を創建
1501年 玉陵築造
1502年 円鑑池、弁財天堂創建
1508年 正殿に青石の石/高欄/大龍柱を設置、
北殿創建
1519年 園比屋武御嶽石門を創建
1527~1555年 龍樋首里門 (守礼門) を創建
1546年 首里城東南の城壁を二重にし、継世門を築く
1609年 島津の琉球侵入
1621~1627年 南殿創建
1660年 首里城焼失
1672年 首里城再建
1682年 龍頭棟飾を正殿、屋根に置く
1709年 首里城焼失
1712年 首里城再建、1715年に完了する
1729年 正殿玉座を中央に移し唐玻豊と改名
1753年 寝廟殿、世添御殿を創建
1768年 正殿の大修理が行われる
1799年 識名園が造営される
1853年 ペリー提督来琉、首里城訪問
1872年 琉球藩設置
1879年 首里城 明渡し、琉球王国崩壊
沖縄県誕生
1925年 首里城正殿、国宝に指定される
1928年 首里城正殿の昭和の大改修始まる
1933年 歓会門/瑞泉門/白銀門/守礼門 国宝に指定
1945年 沖縄戦により首里城焼失
1957年 園比屋武御嶽石門を復元
1958年 守礼門復元
1968年 円覚寺総門/弁財天堂復元
1972年 沖縄県の日本本土復帰
1974年 歓会門 復元竣工
1977年 玉陵 復元竣工
1984年 久慶門 復元竣工
1989年 首里城正殿/南殿/番所/北殿/奉神門 等の復元工事着手
1992年 首里城公園の一部が開園
2000年 北殿にて九州・沖縄サミット社交夕食会開催。首里城跡、園比屋武御嶽石門、玉陵が世界遺産へ登録
2003年 京の内 一般公開
2007年 書院/鎖之間 一般公開
2008年 書院/鎖之間庭園 一般公開。
2009年 書院/鎖之間庭園 国の名勝に指定
2010年 淑順門 一般公開
2014年 黄金御殿/寄満/近習詰所/奥書院 一般公開
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