Okinawa 沖縄の旅 Day 26 (27/08/19) Movie “Bone Washing” 映画 「洗骨」

Movie “Bone Washing” 映画 「洗骨」

Movie “Bone Washing” 映画 「洗骨」

8月23日に玉陵を訪れたレポートの洗骨の事を書いた。その際に、映画 「洗骨」がまだ那覇で上映されていることがわかり、今日、見にいくことにした。東京でも観れるかと調べてみると、全国で沖縄那覇のパレットしか上映をしていない。それも8月月いっぱいまで。今年の2月の封切なので、いまだに上映している方が珍しい。沖縄出身のゴリの作品だからなのだろう。DVDもまだ発売されていない。チャンスと思い、今日は映画で過ごす。
一日、一回のみの上映なので、遅れないように早めに映画館にいく。一番乗り。とは言っても、結局観客はたった三人だった。封切されて時間が経ち過ぎているから仕方ないだろう。
映画の舞台は沖縄の離島の粟国島。8月初めに那覇に来た時に、土肥さんがこの島の知り合いに会いに行き、この島の事は彼から少し聞いていた。フェリーで泊港から2時間。島尻郡の一部で、人口は現在では700人ほど。明治36年には760戸で5000人も居た時から、かなりの過疎化だ。少子化の問題もある。2010から10年かけての島の活性化計画書なるものインターネットで出ていた。今年は最終年だが、成果はどうだったのだろう。聞くところによると、何人も地域おこし隊が来ているようだが、決して上手くは行っているようではない。
http://www.vill.aguni.okinawa.jp/modules/mydownloads/visit.php?cid=19&lid=29
粟国島の歴史は尚寧王の時代に番所が置かれたとある。この時代以降、琉球本土との交流が盛んになっている。明治時代は島尻郡の一部となり、島尻郡の町村構成はかなりかわってきているが、粟国は今でも島尻郡に属する。沖縄戦では米軍の艦砲攻撃を受け上陸占領されている。
上の粟国島の写真で、集落は島の東南に集中している。東は神聖な場所として、人は居住してはいけない。映画では「あの世」と表現されていて、墓がある。洗骨のため、「あの世」へ入る際には、祈りを捧げて、許可(?) を得て入るのが習慣だそうだ。
先日、玉陵に行った時に、離島では最近までまだ洗骨を行っていたと聞いたが、粟国島もそうだったのだ。映画で都会からこの島に来た青年が何故、洗骨をするのかとの質問に、島の人は「慣習」だからと答えていた。学問的や宗教的 (骨を綺麗にしなければ、死者はあの世に行けないと考えられていた) な答えより、この「慣習」という答えが妥当だと思う。住民は特に何故と感じるよりも、昔からやっているからといった感覚の方が強いと思える。那覇でも、御嶽 (うたき) が多くあり、通りすがりに拝んで行く人を見かける。何を拝んでいるのかと聞くと、ニヤとして、神様と答えるだけだ。何が祀られているのかは特に関心はないようだ。これも慣習一つになっている感じがする。
さて、映画の大体のあらすじだが、粟国島に暮らす新城信綱は、妻の恵美子を亡くし無気力になっていた。映画はその葬式から入る。冒頭、その恵美子が棺桶に膝を丸めて入っているシーンから始まる。
この葬儀に、東京の大企業で働く息子の剛と、名古屋で美容師の娘の優子が粟国島へ帰って来る。妻を亡くした信綱は放心状態、黙って座っているだけ。息子の剛は呆れるばかり。ここから親子、兄弟の溝が深まっていく。
シーンは恵美子の葬儀から4年後、洗骨の為に、新城家の家族が再び集まる。信綱は相変わらず無気力で、断酒をしていることになっているが、酒はやめられず、寂しさを紛らわす唯一の拠り所となっていた。 優子は美容室の店長の子供を妊娠した状態で帰って来て周囲を驚かす。
剛は家族と一緒ではなく一人で帰ってきた。剛はシングルマザーとして生きる事にした優子に腹を立て喧嘩になるが、父の信綱はだらしなく座っているだけ。突然、現れた美容室の店長が結婚の申し込みをするが、うろたえるだけの信綱に、剛の怒りが爆発し罵倒、結婚にも反対。
親子三人の溝は更に深まる。洗骨の日まで、色々な出来事、お腹の大きな優子が村のゴシップになっている事、信綱の怪我、剛の離婚の告白などで少しづつ溝は埋まっていく。ここまでは、それ程、出来の良い映画とは思えず、通常の家族のギクシャクした関係をえがいているだけ。
そして洗骨の日を迎える。「あの世」へ入る為の祈りは信綱の役割。
この辺から、信綱はしっかりしてきている。美恵子に再開できるからか、死んだことを受け入れたのか? 洗骨のシーンは刺激的な映像は無いかなと思っていたが、崖を降りて海岸にある墓に行き、蓋がされた墓の入り口の石を一つづつ取り除き、墓の中に入る。
先祖の骨壷が並ぶ中、4年前の棺桶がある。それを取り出し、意を決した様に蓋をあける。映像は風化はしているが、髪や肉がまだこびりついている骨と変わった美恵子が現れる。村人はこの洗骨は辛いと言っていた。泣き出す子供や酒を飲まないと向き合えない。信綱がまずは頭蓋骨を取り出し、こびりついた髪や肉を綺麗に拭き取っていく。その後、家族がそれぞれの骨を綺麗にしていく。最後に足から順番に骨壷に納めていく。映画なので、実際よりは刺激が少ない映像にしたのだろうが、それでも洗骨をしていくには隠さずに映していた。決して、ショッキングでもなく、グロテスクでもなく、そこには4年前に死んだのだが、骨となった妻や母親への愛情が感じられるシーンだった。全ての人がそうなのかはわからないが、見るのも辛い変わり果てた骨となっても家族の繋がりが現れていた。この様な事が親はその親を洗骨し、子は親を、孫は親である子を洗骨する。ここに祖先崇拝の原点があるのかもしれない。祖先崇拝と言うと何か邪教のイメージがあるが、そうではなく家族の繋がりが、代々続いて行っているだけなのだろう。墓に入るたびに、祖先の骨壷を目の当たりにする。そに度に家族の繋がりを意識するのだろう。
最後は娘の優子がこの洗骨の場で産気付き、父親の信綱が赤ん坊を取り上げて、その子を美恵子の頭蓋骨に見せてやっているところで終わる。これは映画の途中から想像できたストーリーだが、この子も、信綱の洗骨に帰ってきて、そしていずれは優子の洗骨をすることになるのかもしれない。このように沖縄では、家族が代々繋がっていくのだろう。
インターネットではこの骨を洗うシーンは映像として掲載されていなかった。
この映画を見て、風葬、洗骨のイメージが変わった。沖縄を知るには良い映画だと思った。沖縄ではこの風葬から火葬にする事を勧めている。この映画で描かれている様に風葬を受け入れている人は少ないかもしれない。核家族化し、家族の繋がりも弱まっている中、風葬をこの映画の様に感じている人はどれほどいるのだろうか? 洗骨を辛い、やりたくないと言う人も多いと思う。この映画のが風葬、洗骨を奨励しているわけではなく、沖縄にはこの様に家族、先祖との繋がりを大切にする文化がある。決して風葬、洗骨が時代遅れ、残酷なものでない、そのショッキングな出来事には家族にとって意味があるものと訴えている様に感じる。現代人はこの映画で描いている洗骨に代わるものを持つべきなのだろう。
映画の主題曲は沖縄の歌手の古謝美佐子が童神を歌っている。出演もしていた。この童神は心を打つ曲。

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