Okinawa 沖縄 #2 Day 154 (14/12/21) 旧知念村 (3) China Hamlet 知名集落

旧知念村 知名集落 (ちな、チナ)

板馬屋取部落 (いたんま、イチャンマ)

  • くらじ広場
  • 車海老養殖場
  • 海の神
  • 照喜名家の神屋
  • チチ石 (差し石)
  • 拝所

知名集落 (ちな、チナ)

  • 知名グスク
  • 知名之比屋 (チナヌヒャー) 墓
  • 知名埼灯台
  • テダウカー (太陽御川)
  • 浜の神 (ハナヌカミ)
  • 産井泉 (ウブガー)
  • 知名公民館
  • 村屋跡 (ムラヤー)
  • 知名ヌ比屋 (チナヌヒャー)
  • 与那嶺殿 (ユナンミドゥン)
  • 仲村渠之殿 (ナカンダカリヌドゥン)
  • ノロ殿内 (ドゥンチ)
  • 知名嶽 (チナダキ)
  • ハンタ殿 (ドゥン、知名殿)
  • 知名御川 (チナウカー)
  • 知名御川 (チナウカー)
  • 内間殿 (ウチマドゥン)
  • 久高島への遥拝所 (ウトゥーシ)
  • 知名農村公園
  • 英魂之塔
  • 内間井泉 (ウチマガー)
  • 稲嶺嶽 (イナンミタキ) 、稲嶺ヌ殿 (イナンミヌトゥン)
  • ジャトゥ井泉 (ガー)
  • 守礼カントリークラブ
  • 須久名嶽 (スクナタキ)
  • ウードー (未訪問)

旧知念村 知名集落 (ちな、チナ)

知名の地名は開墾地を意味するキナがチナに変わったという説や、知名集落が最初に集落を造った識名村 (シチナ) からチナとなったとも言われている。
須久名原はいにしえの識名村の跡で、蘇姑、底仁屋ともに識名のことと言われている。この識名の名称も聖地を意味する磯城に由来すると考えられる。シキナは「聖なる地」を意味し、ナは土地の義であり、シチニヤ (シキナ) は聖地地名である。須久名原にはアジナー(領主の地) という土地名があり、その付近に古の識名村があったと思われる。 須久名森を腰当森として発生した識名 (村) は「しちにや」→「ちにゃ」 →「ちな」と変化した。 「おもろさうし」では「ちにや」と謡われ、17世紀前半に は「知名」と漢字表記されている。

研究者によると、知名村は少なくとも1392年以前には存在しており、須久名森 (スクナムイ) を腰当森 (クサティムイ、村の聖域) とした氏子集団 (先住門中) が識名村を造り、またタガナヤナと呼ばれる山を腰当森とする氏子集団 (後住門中) が別の集落を造り、それが、後に一つになって知名村が成立したと考えられる。 

知名の人口は、現在では旧知念村の中では二番目に多いのだが、上に掲載した旧知念間切、知念村の変遷図でもわかる通り、かつては安座真、具志堅、海野、久原も知名の一部で会って、その地域の人口が増えるにつれて分離している。琉球王統から明治時代にかけては最も人口の多い地域だった。

知名から安座真、具志堅、海野、久原が分離した後も1980年代までは人口が増えて、知念と人口は拮抗していた。その後、人口は減少傾向に変わり、現在でもわずかながらではあるが減少傾向が続いている。

集落の民家の密集度の変遷を見ても、明治時代と現在では集落の地域はそれ程変わっていない。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: ソコニヤ嶽 (神名: コパツカサノイベ)、稲嶺ノ嶽 (神名: カナハヤマツラゴノ御イベ)
  • 殿: 根所火神 (与那嶺殿)稲嶺之殿内間之殿、シマチャ殿 (所在地不明)、名幸之殿 (所在地不明)、真謝之殿 (所在地不明)、仲村渠之殿

上記の他に以下の祭祀モ行われている。

  • 海神祭 (旧5月4日、 ユッカヌヒー): 照喜名朝盛宅の神屋、貯水タンク、貯水タンク上の拝所、 板馬ヒー ジャー、 チチ石海の神
  • 戦没者慰霊祭(5月最後の日曜日): 英魂之塔


知名公民館の前にガイドマップが置かれていた。これと事前に資料で調べた文化財を巡る。


知名集落訪問ログ



板馬屋取部落 (いたんま、イチャンマ)

先日訪れた海野集落から知名崎に向かうと、途中にかつての首里の旧士族が帰農して住み始めた知名村内の屋取集落のひとつであった板馬屋取集落 (イチャンマヤードイ) がある。先日訪れた海野漁港の東半分は字知名にまたがっている。漁師さんと立ち話をする。海野と板馬の人達は漁師さんが多いそうで、この海野漁港を拠点にしている。港にはもう軽石は漂っていないのだが、沖にはまだ流れており、船のスクリューにフィルターをつけて、漁に出る人もいるが、ほとんどの漁師さんは、リスクがあるので、休業中だそうだ。いつになれば、元の漁に戻れるのか不安だという。
漁港の前は住宅地が開発されている。南城市はほとんどの場所を走ったが、この様に住宅地開発地は初めて見た。ただ、整地は終わって、区画も完了しているのだが、敷地には草が生え出しており、まだ一軒も家は建っていない。何か問題があるのだろうか?一区間は70坪で、十分な広さで、環境は良いのだが、与那原の東浜の住宅街に比べると、交通の便、学校、病院、ショッピングで不利だろう。それが理由で人気がないのだろうか?

くらじ広場

住宅地の隣はだだっ広い公園がある。くらじ広場というのだが、「くらじ」とは何を意味するのだろう? 沖縄方言ではクラゲの事だが、だだっ広いのでそう呼んでいるのだろうか?自宅から、20kmを一気に走って来たので、ここで休憩。

車海老養殖場

くらじ公園の近くに派手なデザインの自動販売機があった。何を売っているのかと見ると、車海老、いまいゆ、ちんすこうアイス、紅芋タルトアイスだ。ここは海老の養殖場があり、ここはその販売場。地元のひとが経営しているそうだ。コロナ禍で非対面での販売をという事で、ここの社員が考えて、今年7月から自動販売機を設置したそうだ。結構人気があり、見ていると、何人かが車海老を買っていた。沖縄は車海老生産では日本一だそうだ。一番人気は「いまいゆ」で自販機では完売だった。「いまいゆ」という魚は聞いた事が無いので、調べると魚の種類では無く、「いま」は「今」、「いゆ」は「魚」という意味で、つまり鮮魚の事だった。ここでは、釣り人が釣った魚を購入して、その日のうちに切り身にして販売している。何の魚にあたるかは日によって違う。
店の側には広大な生簀があり、そこで車海老を養殖している。その生簀の中に奇妙な形の岩が二つある。調べると、「くじら岩」と呼ばれているそうだ。親クジラと子クジラ、夫婦クジラ?

海の神

車海老販売所の側の国道331号沿いに海の神の拝所がある。ここで地元のおじいから声をかけられた。「何処からきたのか?暑いですか?」と。今日の気候は夏に戻った様で、半袖Tシャツ、ショートパンツと真夏の格好で、巡っている。汗もいっぱいかいている。暑く見えるだろう。おじいは寒いという。夏の格好を見て、本土からと思ったそうだ。おじいは何枚か重ね着をしている。沖縄の人は20度でも寒いと感じるようだ。暫く話しをする。おじいはここを「いたんま」と言っていた。先程の漁師さんは「イチャンマ」と呼んでいた。人によって、いろいろと呼び方が変わる。これは他の集落でも同じ。元々は「イチャンマ」それが本土読みに近づき「いたんま」、更に現代風に「いたま」ともいう。以前はこの海の神の祭りがあった。旧5月4日のユッカヌヒーの海神祭では拝所を巡った後、海神祭の海上パレードを行い、村の人たちが船を出し海野漁港から知名岬まで往復していたそうだが、今はもうやっていないと寂しそうに話していた。海の神の拝所には酸素ボンベの鐘がつるされていた。鋳た集落では自治会館の様なものは見当たらない、ほとんどのケース酸素ボンベの鐘は公民館とかその集落の集会所にあるが、ここにはそのようなものがないのでここに置かれているのだろう。


照喜名家の神屋

国道331号を渡り丘陵斜面に板馬の集落がある。その中に、明治時代になり、廃藩置県で職を失った首里の士族であった照喜名家 (蕭氏) が、この地に最初に住み始めた。これが板馬屋取集落のはじまり。照喜名家は、形の崩れないハチマチ (鉢巻、八巻) を広めたといわれている仲地筑登之名札 (唐名:蕭元端) と伝わっている。この照喜名家 (蕭氏) は、板馬だけでなく、底川、浜屋にも、屋取集落を造っていた。現在でも子孫が住んでおり、屋敷には神屋が置かれている。(現在も人が住んでいるので、敷地内には入らず) 板馬屋取集落では旧5月4日のユッカヌヒーに海神祭を行っており、ここの照喜名朝盛宅の神屋を拝んだ後、 敷地内にある貯水タンク、貯水タンク上の拝所 (最初の水タンク)、板馬ヒージャー、 チチ石、 海の神を順番に御願しているそうだ。車海老の経営者も照喜名さんだが、板馬には照喜名さんが多く住んでいるので、この家の人かはわからないが、立派な邸宅だった。(この後、知名で出会ったおじいも照喜名家出身の人だった)

余談だが、琉球官人の冠のハチマキ(鉢巻、八巻)について記事が載っていた。


チチ石 (差し石)

この屋敷をに向かう途中にチチ石が道端に置かれている。チチ石は本土でいう力石で、若者が力持ちを競った石だが、この集落では拝所となっている。二つのチチ石の間に香炉が置かれ、海神祭で拝まれている。チチ石 (差し石) は多くの集落に残っていたが、拝所となっているのは、ここが初めてで、非常に珍しい風習だ。

拝所

照喜名家の前の道の突き当たりに拝所があった。手持ち資料やインターネットでは情報は見当たらないが、香炉が置かれているので、板馬の祭祀では拝まれているのだろう。一つは洗い場の様にもなっており井戸が形式保存されている。(写真左下)こちらは井戸の拝所だろう。もう一つは小さな祠が設けられている。(写真右上) 写真右下は拝所では無さそうだが、井戸の様でパイプが通っていた。知名で出会ったおじいにこの拝所の事を聞いてみたが、何を祀っているのかは分からないという。多くの拝所は名もなく、何を祀っているのかは分からないが、特に気にはしていないそうだ。最近は、御願の習慣も薄れてきているので、ますます忘れ去られるのだろうと言っていた。

その他の拝所

板馬の海神祭では、照喜名朝盛宅の神屋を拝んだ後、 敷地内にある貯水タンク、貯水タンク上の拝所 (最初の水タンク)、板馬ヒージャー、チチ石、海の神を順番に御願しているのだが、貯水槽は照喜名家の屋敷敷地内にあるので見なかった。板馬ヒージャーは丘陵の林の中にあるのだが、探すも見つからず。資料に掲載されていた写真は以下。(右上から左下へ、照喜名朝盛宅の神屋、 敷地内にある貯水タンク、貯水タンク上の拝所 (最初の水タンク)、板馬ヒージャー)

知名グスク

板馬の海岸から、次の訪問地の知名グスクがあった山が見ている。国道331号線を通り向かう。今は国道331号線が佐敷と知念を結ぶ広い道路が通っているが、この国道は昭和4年まではワイトイ-ワンジン道という県道で、細い道だった。昭和4年から3年かけて昭和8年に丘陵に切通し (ワイトゥイ) を通し、国道が完成した。その後、戦後に米軍によって広い道路に造られた。戦前は、佐敷からは畑の中に旧道があり、海野付近から現在の国道331号線に重なる。久原で出会った人は、親からは、旧道時代は道幅も狭く、日が暮れた後にこの道を通り丘を越えて知名集落に向かうのは怖かったと聞いたと話していた。
知名グスクは知念半島の東端部に突出した知名埼の東西方向に延びる尾根に二つ連なった高地がある。戦後、トラバーチンの採掘場となり、砕石によってかなり景観が変化しているそうだが、西側の高地一帯に知名グスクがあった。第二尚氏王統時代、16世紀初頭頃、知名グスクは知念城主の養子となったと伝えられる知名地頭である内間大親の居城だったという伝承がある。内間大親は後に知念按司になった後も、ここを居城とし、知念グスクを増築したとも云われている。内間大親没後、尚豊王 (第二尚氏八代王 1621年 - 1640年) の治世には、後を継いだ内間大親の住居は知念グスク内に移築され、グスクが用いられたのは先代の内間大親存命の間だけだったと考えられている。また、東御廻りの拝所の一つのティダウッカー (太陽御川) の御願の際に、国王一行の休憩所としても利用されていた。
知名グスク城主の内間大親の逸話がある。(前述の説明とは食い違いはある)
「昔、知名に古根 (こね) という大掟 (ウフウッチ) がいたが、子供ができず、妻の一族から養子を得る事になった。その養子が内間大親。成人して地頭を引き継いだ内間大親は知名グスクに居を構え、国王の巡拝の時には自宅を休憩所に提供したりしました。ところがある日、内間大親は盗賊によって殺害されてしまった。その後、邸宅は100年余りそこにあったが、尚豊王の代になって知念グスク内に移築された。」

この内間大親の説明や逸話には少しおかしな点がある。大親 (ウフヤ) は上級士族に属し、首里から派遣され、知念間切の総地頭か、知名村の脇地頭という職が妥当だが、通常これは与えられた領地の所有者で、その領地に赴くことはなく首里に住み、領地からの税収を得ていた。総地頭か、知名村の脇地頭この逸話では大掟 (ウフウッチ) となっている。知念間切の現地で指名され、行政を仕切ったのが地頭代 (身分は百姓) で、その配下に各村に間切の指示を伝え、実行させる大掟 (うっち) が組織されていた。内間大親はその地域の頭ということで大親と呼ばれていたのだろう。正式の士族としての大親ではないだろう。地頭であれば、間切のある知念に住むはずだが、知名にいたというのはおかしい。知名にいたならば、大掟 (うっち) だろう。しっくりいく説明としては、多分、内間"大親"は知名の大掟 (ウフウッチ) であった古根 (こね) の養子となり、大掟職を継ぎ、知名グスクに住んでいた。その息子も内間"大親"として大掟 (うっち) を継いでいたが、息子か孫の代に実力を認められ、知念間切の地頭に抜擢され、知念グスクに移住していった。というのではないだろうか?あくまでも個人的推測だが...

もう一つ気になるのが、この知名グスクはいつ頃からあったのだろうかという事だ。第二尚氏の時代に、新たにグスクを築くとしたら大事で、何らかの防衛上の理由があるはずだが、その時代にはこの知名グスクは内間大親が住居として使っていたといわれている。内間大親が大掟 (ウフウッチ) であったならば、グスクを築くことはないので、昔からあったグスク跡に住居を構えたというのが自然だ。そうであれば、この知名グスクは、内間大親以前の三山時代の知念按司の知念グスクの出城として築かれていたのではないかと思う。佐敷と知念を結ぶ海岸線の道は、この知名グスクのある丘陵の山道だけで、その監視や海の船の行き来を監視するために築かれたとも考えられる。



知名之比屋 (チナヌヒャー) 墓

知名グスクはほとんど遺構などは残っていない。グスクがあった西側の山の頂上付近には知名之比屋の墓がある。安座真集落の有力門中の一つの門川 (ゾンカー、ジョーガ-) 門中の墓の隣に墓碑が置かれている。知名之比屋 (チナヌヒャー) については、情報が見当たらなかったが、この墓がこの場所にあるので、知名之比屋と門川門中もこの知名グスクに関りがあるのかもしれない。
山の丘陵には多くの墓が置かれていた。
墓の中には慰霊碑が二つあった。村の慰霊碑では無く、その門中一族の犠牲者の慰霊碑では無いかと思う。
山の頂部から岬の先端に遊歩道がある。東側からグスク内へ入る出入口と考えられている。遊歩道は草は生茂り、本来なら、海が一望できるのだが、草で覆われトンネル状態で、折角の遊歩道がが残念な事になっていた。

知名埼灯台

遊歩道の脇に知名埼灯台がある。

初代灯台は昭和29年に米軍によって建てられたピラミッド型だったが、平成8年に海上保安庁が改築し、沖縄ならではの赤瓦のデザインでその上にはシーサーが鎮座している。


テダウカー (太陽御川)

知名埼灯台から海岸に降りる。知念半島の北端の海岸になる。

海岸線には巨岩が続き、海岸沿いの道の奥にテダウカー (太陽御川) の拝所がある。この井泉は、国王の久高島行幸の折り、飲料水を汲んだ泉といわれ、乗船が知名を通過するときに航海の安全を祈願した所といわれている。また、東御廻りの巡拝地の一つでもある。1933年頃までは湧水もあったが、後方の山が採石場となり、水が枯れてしまった。現在は、1月3日の初ウビーの祭祀が行われている。


浜の神 (ハナヌカミ)

海岸沿いに浜の神 (ハナヌカミ) が置かれている。現在、知名には、港はなく、海野漁港か安座真港が近い港だが、かつては、この拝所近くには船溜があったそうなので、かつては漁業も盛んだったのだろう。そのための浜の神で御願がされていたと思われる。


産井泉 (ウブガー)

海岸から、畑を通り、国道331号線沿いの丘陵側の斜面に広がっている知名集落を目指す。もうすぐ、国道331号の所に、産井泉 (ウブガー) があった。産井泉と呼ばれていたので、かつての村井 (ムラガー) で、初水や産水が汲まれていたのだろう。この井戸のある家のおばあかによれば、昔は飲料水としても使っていたという。現在は正月のハチウビー (初拝み) で拝まれている。おじいが水を汲みに来た。柵をあけて、バケツで水を汲んで、この近くのバナナの木に水をやっている。時々、水やりにここに来るそうだ。今年で80才のおじいで、沖縄戦当時はまだ小さい子供だったが、戦争の事はこどもながら覚えていると言って色々と戦争の事や知名の事を語ってくれた。先に訪れた板馬の照喜真家系の人で、以前はこの知名に住んでいたが、今は与那原に家を移したそうだ。おじいの話では、ここには知名にあった5つのサーターヤの一つがあったそうだ。おじいとの話は、この後、それぞれの訪問スポットに含めている。


知名公民館

国道331号沿いに知名公民館がある。国道331号は知名集落の大道 (ウフミチ) だった。公民館とその前の広場は、溜池 (クムイ) があった場所で、海岸側の畑で農作業を終えた人たちが、ここにあったクムイで農機具や馬を洗い、家に帰ったそうだ。 (おじいの話)  現在の公民館は2017年にここに新しく建てられている。

公民館の裏庭には拝所があり、その横に記念碑が立っている。内容は「昭和54年の農業構造改良事業で、ここにあった池を埋めて、農村広場を建設した」とある。拝所はおそらくクムイの水の神を祀ったものと思われる。また、ここは農村広場になって、その後、公民館となったようだ。


村屋跡 (ムラヤー)

かつての村屋 (ムラヤー) は、ほぼ集落の中心地にあった。現在は広場なのか、駐車場か、そんな感じの場所になっている。2017年に国道331号線のかつての農村広場に移設されて新しく建設されている。


知名ヌ比屋 (チナヌヒャー)

旧知名公民館 (村屋跡) の敷地内に拝所がある。知名ヌ比屋 (安座真の門井 [ジョーカー] 門中) と内間ヌ比屋 (安座真の屋比久門中) がここで祀られている。安座真は琉球王統の知名間切時代には知名に属していた。1973年頃に、旧公民館の建替え工事の再に、この拝所が建てられている。 屋内に入ると正面扉のすぐ前の床に、楕円形状の砂岩があり、その上には2個の小石が置か れている。ちょっと変わった造りだ。現在は1月3日の初ウビー、2月15日の二月ウマチー、2月の彼岸、3月の清明、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、7月13 日のウンケー、7月15日のウークイ、7月16日のヌーバレー、8月の彼岸、10月1日のカママーイ、12月24日の解き御願が行われている。


与那嶺殿 (ユナンミドゥン)

知名ヌ比屋 (チナヌヒャー) の南側には、知名村落の創建者の宗家である根所 (ニードゥクル) の与那嶺家 (鄭氏) の屋敷跡に与那嶺殿 (ユナンミドゥン) がある。 琉球国由来記には、根所火神 「根所火神 知名村 麦穂祭 稲二祭 三日崇之時 麦神酒一完 (同村百姓中) 供之。同巫祭祀也。麦稲穂祭之時 五水八合完 (地頭) 神酒一完。 (百姓) 稲大祭之日 神酒一 (百姓中) 供之。 同巫祭祀也」とある。訳すと「根所火神に麦穂祭 (二月ウマチー) 、稲二祭 (稲の初穂祭 [五月ウマチー]と稲大祭 [六月ウマチー])、三月崇 (祭の前々日から3日間神女たちが御嶽にこもり各種儀礼を行うこと) の時、麦の神酒を一つずつ (知名村 百姓中で) これを供える。知名ノロの祭祀である。麦稲穂祭 (ウマチー) の時、五水 (神前に供える泡盛) 八合ずつ (地頭より) 神酒1ずつ。 (百姓は) 稲大祭の日 神酒1つ (百姓中で) これを供える。 知名ノロの祭祀である。」与那嶺殿では知名ノロが絶えた頃から現在に至るまで、村落祭祀は行われていない。根所の殿は村の火の神を祀ったところで、村落の元火として崇拝の対象となっていた。 殿の中は見れなかったのだが、資料には七つの香炉 (ウコール) が神棚に置かれているそうで、琉球国由来記にある知名村の七つの殿を祀っているのではといわれている。

この根所 (ニードゥクル) の与那嶺家 (鄭氏) については「洪武廿五 (1392)年以前に、琉球国の才孤那 (ソコナ) ら28人は硫黄採掘に阿蘭埠へ行く際に暴風にあって、恵州海豊に漂着したところ、巡査に捕まり、言語が通じないために、倭人 (日本人) と思われ、南京に送られた。貢使 (琉球使節) が来て、その事情を説明したところ、太祖 (洪武帝) は全員を送り帰された」とある。この才孤那は「ソコナ」という地名に由来する人名と言われ、識名村の人、すなわち知名村の人だったと思われる。この識名村の村建てをしたのが、知名村の根所の与那嶺家 (鄭氏)で、中国からの渡来者だった。造船や航海技術を持ち、その技術を活かして硫黄採掘に行ったと考えられる。この与那嶺家の子孫が才孤那 (ソコナ) と考えられ、言葉が通じなかったというのはその時まで、すでに何世代かを経ていたと思われる。馬天湾に注ぐ浜崎川がありこの川を下って、港まで行きそこから硫黄採掘に出航したと考えられるこの28人の中に、須久名嶽を共同拝所としていた屋比久村の人たちも含まれていたと思われる。硫黄は重要な進貢品の一つであった。

資料には2004年に撮られた写真があった。当時はまだ民家が立っていたようだが、現在は上の写真のように建物は土台を残して朽ち果ててしまっていた。


仲村渠之殿 (ナカンダカリヌドゥン)

与那嶺殿 (ユナンミドゥン) の隣には仲村渠之殿 (ナカンダカリヌドゥン) がある。仲村渠家も知名の旧家だった。琉球国由来記には「中村渠之殿 麦稲穂祭 稲大祭之時 神酒一完 (知名村百姓中) 供之。知名巫祭祀也」と記されている。現在では、村の祭祀行事では拝まれていないが、仲村渠氏子集団の祭祀場として、関係者により祭祀が行われているそうだ。


ノロ殿内 (ドゥンチ)

与那嶺殿 (ユナンミドゥン) と仲村渠之殿 (ナカンダカリヌドゥン) の西の山手側の傾斜地にノロ殿内 (ドゥンチ) がある。村火ヌ神とも言われている。現在は2月15日の二月ウマチー、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、7月16日のヌーバレー、11月13日のアミウルシ、12月24日の解き御願が行われている。 この付近は、丘陵の斜面になり、これより西側は山の雑木林になっている。沖縄戦当時、ここには避難壕があったが、日本軍兵隊が合流し、赤ちゃんと避難していた夫人は、赤ちゃんが泣くと、米軍に見つかるという理由で、避難壕から追い出され、その後、避難壕は日本兵に占領され、住民は追い出されてしまったと、おじいは言っていた。


知名嶽 (チナダキ)

ノロ殿内のすぐ隣にある拝所が知名嶽 (チナダキ) で、ガジュマルの根元に「ハマサンゴ石でできた祠」がある。 知名嶽は琉球国由来記には記されていない。琉球国由来記では知名には二嶽六殿 (須久名嶽、稲嶺嶽、稲嶺殿、内間殿、シマチャ殿、名幸殿、眞謝殿、中村渠殿) があるとなっており、知名嶽はみあたらない。研究者によると、知名村は少なくとも1392年以前には存在しており、須久名森 (スクナムイ) を腰当森 (クサティムイ、村の聖域) とした氏子集団 (先住門中) と、タガナヤナと呼ばれる山を腰当森とする氏子集団 (後住門中) とが一つになって知名村が成立したと考えられる。 それぞれの氏子集団の祖霊神 (守護神) を祀ったのが須久名嶽と稲嶺嶽であったと考えられている。当時の先住門中の村は、丘陵の上部の須久名嶽付近に位置していたが、その後、現在地に移住した。現在地から須久名嶽やウード―の御願へは急な山道で不便であったことから、須久名嶽への遙拝所としてか、御嶽を移し、知名嶽が置かれたのではないかと推測されている。琉球国由来記 (1713年) にはまだ出ていないので、その出版後の出来事と思われる。知名嶽は二月ウマチー (旧2月15日 麦穂祭) でウンサク、酒、花米を供え、健康と豊作を祈願すしている。


ハンタ殿 (ドゥン、知名殿)

ノロ殿内 (ドゥンチ) の前の道を北側に進むと、ハンタ殿 (ドゥン) がある。知名殿、殿内小 (トゥングワー) とも呼ばれている。祭神は不明。ハンタは「崖端」または「端」を意味しているので、ノロ殿内前の道が作られる前は崖になっていた可能性があり、県道 (現 国道331号) ができる以前は、この道が知名の大道路 (ウフミチ) であったと考えられる。知名殿は、ハチウビー (初御水、旧1月3日 )、二月ウマチー (旧2月15日) 麦穂祭、五月ウマチー (旧5月15日)稲の初穂祭、六月ウマチー (旧6月15日)稲の収穫感謝祭、アミシヌ御願 (旧6月25日、年浴、稲の収穫後に農事の慰労でこの日は沐浴して休み、川で水撫でをする)、カママーイ (旧10月1日)、フトゥチ御願 (旧12月24日) で拝まれている。


知名御川 (チナウカー)

ハンタ殿のすぐ北に、樹木の生い茂った巨岩の下に知名御川 (チナウカー) がある。現在も水量は豊富で、水をくむためのバケツが三つ置かれている。今でも使われているのだ。井戸を覆ったドームの頂点部には釣瓶用の小さい滑車があり、これを使ってバケツで汲むようになっている。井戸の左側奥には小さな祠があり、東御廻りの巡拝地となっている。


内間殿 (ウチマドゥン)

知名嶽 (チナダキ) から集落南部へ坂道を上る途中に、車道から下りる階段があり、そこには、コンクリート製の祠の内間殿 (ウチマドゥン) がある。琉球国由来記の内間之殿に相当し、「内間殿 麦稲穂祭・稲大祭之時 神酒一完 (知名村百姓中) 供之 知名巫祭祀也」 と記されている。内間之殿では、知名ノロによっ て 麦稲穂祭、稲大祭が司祭されていた。祠は1998年に農道改修工事の際にコ ンクリート製に造り替えられたが、祠の中には、かつてのサンゴ石灰岩製祠の屋根が置かれている。 内間之比屋の血縁集団の祭祀場であったと考えられている。 現在では、集落でウンサク、酒、花米を供えて、二月ウマチー (麦穂祭、旧2月15日)、五月ウマチー (稲の初穂祭、旧5月15日)、六月ウマチー (稲の収穫感謝祭、旧6月15日) で拝まれている。この近くにはこの殿のグサイガ-として内間井泉があり、また大岩石 (ウフジシ) には内間之比屋の墓がある。


久高島への遥拝所 (ウトゥーシ)

坂道を登った所に、ちょっとした広場になっている。おじいによれば、ここはかつてのアシビナーだったそうだ。ここは久高島を拝むお通し (遥拝所、ウトゥーシ) だった。今はこの高台付近には民家が建っているが、戦後は家などはなく見通しの良いところで、若者たちが集う場所だった。


知名農村公園

久高島への遥拝所 (ウトゥーシ) の下はスタンドになっており、その下は知名農村公園になっている。かつてはここはサーターヤーだったそうだ。その後は広場となりここでは、村芝居が祭の際に行われていた。おじいも毎年、出演していたと、身振り手振りでその当時の芝居を話してくれた。


英魂之塔

知名農村公園の中に英魂之塔の慰霊碑が置かれている。戦争で犠牲になった集落の85柱が祀られている。沖縄戦当時は、村には日本兵が駐留していたそうで、まだ幼かったおじいはかわいがってもらったと言っていた。ただ、戦争が激しくなって、日本兵もパニック状態になったのか、この村でも痛ましい事件が起こっていたそうだ。村民は方言を兵隊の前では離さないようにピリピリとしていたそうだ。方言を話すと米軍のスパイと疑われるとお互いに疑心暗鬼になっていた。実際に、板馬から知名に向かう坂道では日本兵に住民が殺された事件があったそうだ。おじいたち住民が避難壕に隠れていた時に、米軍の黒人兵が投降を促し、おじいたち子どもにはキャンディーを渡し、敵意がないことを示そうとしたが、大人たちはキャンディーを取り上げ、毒が入っているから食べるなときつく言われたと思い出を話してくれた。大人たちは、日本兵も怖い、米軍も怖い、極限状態だったという。戦後知念に集められ、船で山原 (ヤンバル) の捕虜収容所に送られたことや、村に帰ってきた時には、家が無くなっていた事、米軍ジープが通ると手を振ると、兵士がキャンデーを車からばらまき、子供達で先を争って拾った。海岸には、米軍が食べ残した食料が漂っており、それを拾い集め、家に持ち帰り家族で食べていた。戦争当時は食べるものがなくひもじかったが、戦後は少なくとも食べるものが手に入り、子供ながら、ほっとしたと言っていた。 


内間井泉 (ウチマガー)

内間殿 (ウチマドゥン) の近くの畑の中に、内間殿のグサイガ-であった内間井泉 (ウチマガー) がある。土管で形式保存され、前には香炉が置かれている。


稲嶺嶽 (イナンミタキ) 、稲嶺ヌ殿 (イナンミヌトゥン)

内間井泉 (ウチマガー) から道を西に進んだ所、知名集落の南西部の山手側に、稲嶺ヌ殿 (イナンミヌトゥン) と稲嶺嶽 (イナンミタキ) がある。この御嶽は知名の六集落の一つである後住門中が腰当森 (クサティムイ) として上原や中原に集落を造っていた場所。御嶽と殿には祠などはなく、石がいくつも置かれているだけで、どれが御嶽の威部 (イビ) なのかは分からない。琉球由来記には稲嶺ノ嶽 (神名:カナハヤマツラゴノイベ) と稲嶺ノ殿とあり、「稲嶺之殿 麦稲穂祭 稲大祭之時 神酒一完 (知名村百姓中) 供之。知名巫祭祀也」と記されている。
御嶽への入り口右手のアコーの木の根元には10個程の石がまとめて置かれている。(写真右中) また、左手の樹木の根元にもやや直方体をした石が1個置かれている。(写真左中) 奥の広場に石灰岩が8、9個まとめて置かれている。この石の側方から聖城右手方向にやや斜め下がりに石が点々と置かれている。この石のどれかは須久名森の東面にあるウードーへのお通し所ともいわれている。東御廻いの時に拝む門中もあるそうだ。 上記の形状からすると稲嶺ノ嶽に当たると思われるが不明。現在は、1月3日の初ウビージ、2月15日の二月ウマチー、5月15日の五月ウマチー、6月15日の六月ウマチー、6月25日のアミシヌ御願、12月24日の 解き御願などで、ウンサク、酒、 花米を供えて御願が行われている。


ンジャトゥ井泉 (ガー)

稲嶺嶽 (イナンミタキ) の北の山の中腹にはンジャトゥ井泉 (ガー) と呼ばれる井泉跡がある。現在は水は湧いていないが、井戸から下の集落への水路が設けられている。かつてはここから水を集落の畑にひいていたと思われる。


守礼カントリークラブ

知名集落の南の丘陵は須久名森 (スクナムイ) で知名集落が現在の地に移動する前に集落 (識名村、先住門中) があった所で、その腰当森 (クサティムイ) としての須久名嶽 (スクナタキ) があった。戦後、米軍によって山は削られて現在はゴルフ場の一部となっている。


須久名嶽 (スクナタキ)

下の写真は手登根の丘陵の上から撮った写真で、守礼CCが須久名森 (スクナムイ) に造られている。ゴルフ場建設以前に戦後米軍に山が削られてしまい、須久名嶽 (スクナタキ) がどこにあったのかははっきりとは分からなくなっている。頂上は標高148.8mで、山頂にウードーと呼ばれる拝所があり、その辺りが須久名嶽 (スクナタキ) と考えられている。

須久名森はかつては沖縄南部唯一の高い山 (標高190.1m) だった。古文書に須久名は「そこにやだけ」、「ソコニヤ嶽」、「底仁屋嶽」などと表記されいる。ソコニヤの「ソコ」 は聖地を意味する「そこ  (底)」と「しき (磯城)」に由来すると思われる。ソコニヤの「ソコ」 が方音「スク」、「ニヤ」が「ナ」に訛って、ソコニヤから 「スクナ」となり、須久名と漢字表記されたと思われる。

山頂の下方、南東方向にあるゴルフ場クラブハウスの北側駐車場の隅にコンクリート造りの祠を設け、遙拝所としている。「拝所/須久名御嶽/昭和六十二年五月建立」と記した砂岩の碑が石灰岩台座の上に立てられている。琉球国由来記には、ソコニヤ嶽 (神名: コパツカサノイベ) とあり、この御嶽の東の方は知名村の拝所で西の方は佐敷間切の屋比久村の拝所となっていた。屋比久村の神名は「キミガタケツカサノ御イベ」 となっていいるが、二つの村の共同拝所御嶽だったと思われる。 このソコニヤ嶽は聞得大君が御新下りの時に参詣しており、王権祭祀が斎場御嶽 (セーファーウタキ) へ移る前の斎場であったとも考えられている。屋比久集落では、集落内の遙拝所から祈願をおこなっている。知名集落では祭祀は行っていない。


ウードー (未訪問)

守礼ゴルフ場の北側の斜面には、スクナ嶽の本尊と考えられているウードーの拝所があるそうだ。ゴルフ場内を突っ切らねばならないので、訪問は断念。雑木林内の岩盤の下に切石が置かれているという。現在、海野集落の公民館の広場にあるウードーヌ神から遥拝している。


今日はウードー以外は予定通り終わった。ウードーの場所にも行ってみたい。集落のおじいをつかまえて、行き方が聞ければよかったのだが、機会があれば行ってみよう。今日は夏に戻った様に暑かった。12月なのだが、東京に住んでいた時とは随分と気候が違う。沖縄ではコートやセーターは不要の様だ。エアコンも暖房機能は使わない。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
  • 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
  • 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
  • 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)

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