Okinawa 沖縄 #2 Day 151 (07/12/21) 旧佐敷村 (12) Yabiku Hamlet 屋比久集落
旧佐敷村 屋比久集落 (やびく、ヤビル)
- ヤシ並木ロード (国道331号)
- 港橋 (ンナントバシ)
- 穂取田 (フートゥーイダー)
- 外間古島 (フカマフルジマ)
- 下ヌ外間井泉 (シチャヌフカマガー)
- 上ヌ外間井泉 (ウィーヌフカマガー)
- 屋比久グスク
- 神座良山 (カンジャラヤマ)、上ヌ毛 (ウィーヌモー)
- 西の石獅子跡 (消滅)
- 神座良嶽 (カンジャラタキ)
- 屋比久公民館 (村屋 ムラヤー)
- 慰霊塔
- 殿の屋 (トゥンヌヤー)、大 (ウフ) ナカノ殿 (トゥン)
- 渡嘉敷殿 (トゥカシチドゥン)
- 新垣 (アラカチ) の神屋
- ヤマヌメ (未訪問)
- 土帝君 (トゥーティークン)
- キヤ城 (グシク) の嶽 (タキ)
- マチ井泉 (ガ-)、グスク殿 (トゥン)
- 昔墓 (ンカシハカ)
- 下の殿 (シチャヌトゥン)
- 小谷 (ウクク) の神屋
- 東の石獅子跡 (消滅)
- サーターヤー跡
- ハチャガー
- 深山ヌ井泉 (フカーヤマヌカー)
- 今帰仁子 (ナチジンシー) 墓
- 新井泉 (ミーガー)
- 穴井泉 (アナガー)
- シードー井泉 (ガー)
- 古島 (フルジマ)
- 今帰仁墓 (ナチジンバカ)
- 須久名 (スクナ) 森 (ムイ)、須久名嶽 (ソコニヤ)
今日は旧佐敷村の最後の訪問地になる屋比久集落を訪れる。
旧佐敷村 屋比久集落 (やびく、ヤビル)
屋比久はやまびこ (山傍処) のことで、須久名 (スクナ、ソコニヤ) 山の傍らの処を表している。村立ての頃の屋比久村は須久名山の傍らにあった。ヤマビコ→ヤマビク→ヤビクと転訛し、 屋比久と表記されるようになったと考えられている。
琉球王府時代から明治41年までは屋比久村で、明治41年に知念村久手堅のイーフントウ屋取を編入して佐敷村の字の一つとなる。戦前は養蚕が盛んで,昭和初年に養蚕組合を結成し,50坪の養蚕室も設け、種繭を生産して普及を図ったが昭和15年頃閉鎖された。ここは土帝君信仰が厚く、その広場で毎年お盆のあとに行われる屋比久綱引きは勇壮な民俗行事として内外から大勢の人が集まった。その他、旧暦7月17日のヌーバレーでは、雄獅子が歌に合わせて舞う獅子舞が行われ、古くはエイサーや臼太鼓 (ウスデーク) も行われていた。集落内には幅員約18m、長さ約300mの屋比久ガニク (馬場) が1700年代につくられ、競馬 (ジーバイ) が1932年 (昭和7年) 頃まで行われていた。また、屋比久ガニクには聞得大君加那志の御新下りの時に仮屋が設けられていた。
屋比久の現在の人口は321人と以前に比べ、かなり減少し、旧佐敷村の中では少ないグループに入る。屋比久全域は農地区分になっているので、新しく住宅を建設することは、法的に困難なので、人口の増加は期待できないと思う。
明治時代の集落の範囲と現在の民家の分布地域はほとんど変わっていない。
明治13年の人口775人 (戸数137) で佐敷間切では第二位の人口だった。明治36年に外間村を編入し、一部が仲伊保村、冨祖崎村に移管され人口 962人 (戸数198) に増加している。昭和23年に外間が分離し独立行政区となったが,地籍は未分離のままで外間住所は屋比久と表示されている。下の人口推移グラフでは、外間が屋比久の一部だった期間は外間人口を差し引いて表示している。全盛期には約780の人口だったが、現在は321人と半分以下になっており、ここ10年で見ると、徐々に人口が減少している。
琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: キヤ城ノ嶽 (神名 クニナカツカサノ御イベ) 、ウトゥシノ嶽 (琉球国由来記には記載なし)、カミヂヤナノ嶽 (神座良嶽 外間村 神名 ナカモリツカサノ御イベ) 、 ソコニヤ嶽 (神名: キミガタケツカサノ御イベ、所在地不明 )
- 殿: 渡嘉敷之殿、屋比久巫火神 (屋比久殿、殿の屋)、屋比久里主所火神 (所在地不明)、殿 (グスク殿)、下ヌ殿
屋比久集落訪問ログ
ヤシ並木ロード (国道331号)
港橋 (ンナントバシ)
この川に架かっている港橋 (ンナントバシ) を渡って屋比久集落に入る。この橋の脇に拝所が置かれていた。この拝所が何を祀っているのかは、調べられなかったが、この港橋に関わるものでは無いだろうか?
穂取田 (フートゥーイダー)
外間古島 (フカマフルジマ)
下ヌ外間井泉 (シチャヌフカマガー)
上ヌ外間井泉 (ウィーヌフカマガー)
屋比久グスク
旧佐敷村にはグスクは二つ確認されている。一つは訪問した佐敷上グスクで、もう一つがここにあった屋比久グスクだ。少し意外な感じがする。尚巴志親子の本拠地だった地域で、その兄弟、家臣がその領内を分割して治めていたので、もっと多くあると思っていた。佐敷の地形が理由なのかもしれない。丘陵地は大里、玉城、知念で多くのグスクが存在していたが、佐敷はそこから見下ろされる平地にある。城塞としてのグスクに適した場所は多くないだろう。それよりは、貿易で国力を付けたほうが良かったのかもしれない。この地にある屋比久グスクは城塞として使用されたことを証明する発掘物はなく、通説では聖地としてのグスクと考えられている。グスクと比定されている場所も、明確にはなっていないのか、資料によって異なっていた。これから訪問する上ヌ毛 (ウィーヌモー) を屋比久グスクとしている資料、土帝君がある丘をグスクとしている資料。この二つの丘全体がグスクだとする資料。素人にはそれ程重要なことではないのだが、この地には屋比久大比屋 (ヤビクウヒヤー) と呼ばれた、尚思紹/尚巴志の重臣の一人がおり、屋比久を治めていたという。想像では、馬蹄形を成している二つの丘の上に住居を置くことは統治するにも、敵からの守りにも適している。地形的に大掛かりなグスクは築けないのだが、それでもあえて館を選ぶとしたらこの地になるだろう。
佐敷にある前集落をいろいろと調べながら巡って、尚巴志が佐敷按司になって島添大里グスクを落とし、島添大里按司になる以前に (1392年-1402年) 、領内に配置していた家臣は以下のような感じだったのではないかと思う。佐敷は強力な汪英紫率いる島添大里、英祖王統系の名門の玉城、知念に囲まれた、まだまだ弱小地方豪族だった。
神座良山 (カンジャラヤマ)、上ヌ毛 (ウィーヌモー)
西の石獅子跡 (消滅)
神座良嶽 (カンジャラタキ)
屋比久公民館 (村屋 ムラヤー)
慰霊塔
この屋比久村における戦没者も多く出ている。資料では121名の犠牲が出ており、当時の集落人口の34%にあたる。沖縄戦では昭和20年6月に、南部戦線の避難民がここ屋比久、新里、伊原に、当時、金網収容所といわれた収容所に移動させられていた。後に、収容住民は,国頭郡久志村の瀬嵩に収容され,昭和21年1月知念村、玉城村、大里村に移動させられ、4月には屋比久での農耕は許可されていた。
殿の屋 (トゥンヌヤー)、大 (ウフ) ナカノ殿 (トゥン)
渡嘉敷殿 (トゥカシチドゥン)
新垣 (アラカチ) の神屋
ヤマヌメ (未訪問)
屋比久殿の北西すぐの所に、ヤマヌメ (上ヌ屋比久小、中元 [ナカムトゥー]) と呼ばれる新垣門中支流の平田門中の神屋があると資料には載っていたので探すのだが、それらしきものが見当たらない。平田門中)の始祖は第二尚氏初代王の尚円の子孫といわれている。
屋比久集落内には主要な神屋 (神アシャギ) が五つあり (新垣、ヤマヌメ (平田)、小谷、玉城、知念)、その一つにあたる。この拝所を探している最中に、集落の人に「何か探しているのか」と声をかけられ、この拝所について尋ねたがわからないという。村の人たちは文化財として表示板が設置されているものはわかるのだが、各門中の神屋となると知らないケースがほとんどだ。調べた範囲で屋比久の事を話し、質問などをしていると、こちらが屋比久に興味を持っていることに喜んでくれた。帰りには「今日は暑いから」と言って、冷えた缶入りのお茶を持たせてくれた。この集落では、すれ違う村民は皆んなが笑顔で挨拶をしてくれる。気持ちの良い一日になった。
土帝君 (トゥーティークン)
ここに祀られていた土帝君は旧知念村の安座真 (アザマ) の役人が唐へ行った際にソロバンを手にした土帝君像一体を持ち帰って屋比久に寄贈したという。戦後その像は紛失し、現在は別の土帝君像が安置されているのだが、当時、屋比久と安座真は古くから交流があり、屋比久は安座真が台風や干ばつにあった時は芋のツル等を分け与えていた。その縁で、安座真の役人が恩返しとして土帝君を送ったというわけだ。現在、2月2日の土帝君ヌ御願、8月15日の十五夜に集落住民が拝んでいる。
キヤ城 (グシク) の嶽 (タキ)
土帝君の奥の広場にはキヤ城 (グシク) の嶽 (タキ) がある。方言ではチャーグスクヌタキという。グシク殿とも呼ばれており、ここは屋比久グスクの一部にあたる。今帰仁グスクへのお通し (ウトゥーシ) の殿といわれている。琉球国由来記のキヤ城ノ嶽 (神名 クニナカツカサノ御イベ)、殿 (有城内) に相当するとみられる。殿では屋比久ノロが稲二祭を司祭していた。この場所は村の信仰拠所とするクサティ (腰当) と考えられ、古琉球の典型的な集落を形成し,御嶽のオソイ (愛護) を受けて村人の生活が営まれていたことがわかる。御嶽の周辺は沖縄戦で破壊されたため,現在では集落後方にあるクシヌ嶽より遥拝されている。(クシヌ殿は後之殿と書くと思われるが、この殿についての所在地を含め情報は見当たらなかった)
マチ井泉 (ガ-)、グスク殿 (トゥン)
キヤ城の嶽の隣に井戸跡の拝所があり、マチ井泉 (ガ-) またはニービガーと呼ばれている。もともとは、集落北端にあった屋比久古島にあり、新垣門中の祖先が使用していたといわれているものをここに移し御願されている。井戸の近くに大きな松 (マチ) があることからその名がついたという。古島の産井 (ウブガー) として、ウンサク (神酒) の水や産水が汲まれていた。マチ井泉 (ガ-) の隣にも拝所が置かれているが、この拝所についての説明は見つからなかったのだ。このキヤグスクないにはグスク殿があるとされているのでこれがグスク殿と思われる。(写真下)
昔墓 (ンカシハカ)
土帝君がある丘の前の傾斜地に昔からの古墓がある。昔墓 (ンカシハカ) または古墓 (フル墓) と呼ばれ、昔の戦で死んだ人を葬った墓といわれる。この地で戦いがあったのかは、文献では確認できないのだが、集落間での戦は三山時代にはあったはずなので、その時代の出来事なのかもしれない。
下の殿 (シチャヌトゥン)
下の殿から土帝君から昔墓を通り、坂道を降りたところに下の殿 (シチャヌトゥン) がある。大中殿 (ウフナカヌトゥン) とも呼ばれていると資料にはあると、別の資料では古くは中之殿 (ナカヌトゥン) と呼ばれていたとある。多分、同じ殿を意味しているのだろう。ここは今帰仁子 (ナチジンシー) の住居跡と伝わっている。 木の下の香炉は火ヌ神になっている。下ヌ殿では、東門門中と平田門中が神人 (カミンチュ) を出し、屋比久祝女と祭祀を行っていた。
小谷 (ウクク) の神屋
下の殿と昔墓の間に屋比久集落のクニデー (村立ての家) といわれる小谷門中の屋敷跡があり、その敷地内に神屋が置かれている。現在、小谷門中の人はこの集落内にはおらず、村落祭の時には、字屋比久の役員等により拝まれている。資料に掲載されていた写真の神屋 (写真右下) は取り壊されて、ちょうど新しい神屋を建て始めていた。
東の石獅子跡 (消滅)
小谷 (ウクク) の神屋、下の殿 (シチャヌトゥン) がある付近は屋朴集落の東端になり、その集落への入り口には石獅子が置かれていた。かつての石獅子は消滅してしまったのだが、そこには新しく造られた石獅子が置かれている。
屋比久集落内にはもう一つ石獅子があったそうだ。沖縄戦当時の民族地図にその場所が示されていた。ちょうど西と東の石獅子がある道の中間地点になのだが、復活した石獅子は置かれていない。
集落内の文化財はこれで見終わったので、次は集落の外側を巡る。集落を外れた畑地帯之西側から見ていく。
ハチャガー
集落から外れた北西の畑の中にハチャガーがあったそうだ。写真もなくはっきりとした場所はわからないのだが、地図で示された付近に、畑の中に雑木林がポツンと残っている。この様な場違いに思える場所は大体のケース拝所であることが多い。聖域としてそのまま残しているのだろう。雑木が深く中まで見れなかったのだが、ここにハチャガーがあったのかもしれない。
深山ヌ井泉 (フカーヤマヌカー)
ハチャガーから少し東に進んで、丘陵の麓に深山ヌ井泉 (フカーヤマヌカー) の拝所が設けられている。 フカン井泉とも呼ばれている。 この奥の山が深山 (フカーヤマ) で、その麓にある井泉でそう呼ばれている。もともとは、拝所の後方にある森の中の木の根元にあったという。この井泉で屋比久ノロが体を清めた聖地だったといわれている。
今帰仁子 (ナチジンシー) 墓
今帰仁子 (ナチジンシー) 墓とされる場所がある資料では二つ示されていた。今帰仁子という名称はその人の名前では無く、身分を表しているので、今帰仁子が何人もいてもおかしくは無い。地図で示された場所に行ってみた。深山之井泉から丘陵に登る山道があり、ゴルフ場近くまで続いていた。行き止まりには亀甲墓があり、その周りには数カ所古墓が残っている。このうちのどれかが今帰仁子の墓かも知れない。(写真などは見当たらないので、違うかも知れない)
新井泉 (ミーガー)
深山ヌ井泉近く、南の畑の中に井戸がある。民族地図では新井泉 (ミーガー) となっている。新井泉と呼ばれているので、比較的新しい井戸と思われる。
穴井泉 (アナガー)
新井泉 (ミーガー) 之すぐ近くのビニールハウスの一画に穴井泉 (アナガー) がある。ここにはかつては小川が流れていたのだが、小川は枯れてしまったが、湧水が出る穴だけが残っていたそうだ。それを囲って井戸としたことから穴井泉といわれる。近所の人 (70歳よりうえと思う) と話したが、子供の頃には水は既にでなくなっていたが、今でも、集落の外からもこの井戸を拝みに来る人がいる。昔はこの井戸の水に助けられたのだろうと言っていた。
シードー井泉 (ガー)
集落から外れた伊原集落との境付近、東の畑の中に、小さな森が残っている。ここも集落にとってはありがたい場所で、畑にはせずにそのまま残っている。ここにはシードー井泉 (ガー) または、シーロー井泉、 タンバラ井泉と呼ばれている井戸がある。草が生い茂っているので、持参している鎌で周りの草を刈って、ようやく井戸が見えてきた。円形で石積みがされている井戸で今でも水が沸いているようだ。
古島 (フルジマ)
シードー井泉 (ガー) から北側に見える丘陵の麓から斜面には、屋比久集落が村立てされた最初の場所になる。伊佐良原というところだ。
屋比久古島と考えられている場所は二ヶ所ある。 まずはここに集落を造った。いつの時代かは不明だが、現在の屋比久集落がある場所に移り、更に現在の外間集落の北側にあった古島原に移動したとされている。この古島原が第二の古島にあたる。「球陽」によれば、尚穆王29年 (1780年) に「屋比久村を川麻志原 (現在の屋比久原で集落がある場所) に遷すことをゆるす」とある。「屋比久村はしばしば不幸の思いに遭う。人口が減少して甚だ哀微に及ぶ。 今、村地は肥えて、畑地は痩せているので収穫が少ない。ただ川麻志原だけは土地が痩せて堅く農業には良くない。もしその地に移したならば即ち、風水 (フンシー) は吉で水を汲み野に行くのに都合がよい。言うまでもなくまた雨が降る時、村中の泥水が流れて田んぼに入り多くはためになる。各役及び村民皆その地に移すことを請う。故にその請いを許す」当時は農業政策である地割制度 (寛文年間 1661 - 1672) が施行されており、村の移動は1731年以降は許可制となっていた。この地割制度では肥沃な土地にある村を強制的に幸地に適していない場所に移動され、それ以降の村の移動を禁じていた。呼びく集落からの請願は地割制度の趣旨に沿っていたので許可が下りている。
今帰仁墓 (ナチジンバカ)
須久名 (スクナ) 森 (ムイ)、須久名嶽 (ソコニヤタキ)
今帰仁墓 (ナチジンバカ) の北東丘陵は須久名 (スクナ) 森 (ムイ) と呼ばれ、その上には屋比久集落住民が御願していた須久名嶽 (ソコニヤタキ) が存在していた。琉球国由来記のソコニヤ嶽 (神名: キミガタケツカサノ御イベ ) にあたり、「此嶽、西方八屋比久村ノ拝所、東方八知念 間切知名村ノ拝所也」 と記されている。 現在、御嶽があった場所一帯は守礼ゴルフ場になっており、その所在はわからなくなっている。ソコニヤ嶽はかつては屋比久ノロにより年浴、麦初種子ミヤタネが司祭されていた。所在が不明となった今では、屋比久集落内のお通し (ウトウシ) から遙拝されている。また、この御嶽は知念間切知名村の拝所でもあった。
これで、旧佐敷村のすべての集落巡りは終了。次回からは南城市にある4番目の間切だった旧知念村巡りに移る。
参考文献
- 佐敷村史 (1964 佐敷村)
- 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場)
- 佐敷町史 4 戦争 (1999 佐敷町役場)
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- 尚巴志伝 (酔雲)
- 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
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