Okinawa 沖縄 #2 Day 153 (10/12/21) 旧知念村 (1) Kuhara Hamlet 久原集落
旧知念村 久原集落 (くはら、クシバル)
久場真佐 (クバマサ) 地区
- 久原公民館/久原農村広場
- ヘーチガマ
- 久原の海岸線
- 下久場真佐 (シチャクバマサ) ヌ井泉 (カー)
- 酒屋の奥間ヌ井泉 (サカヤヌオクマヌカー)
- 井泉の傍の伊集の井泉 (カーヌハタヌイジュヌカー)
- 久場真佐 (クバマサ) の名称不明井泉
- 古島 (フルジマ)
- 照屋墓地内の井泉 (カー)
後原 (クシバル) 地区
- 御願小 (ウカミグヮー)
- 奥間ヌ井泉 (ウクマヌカー)
- 名称不明井泉 (未訪問)
- 久原闘牛場
- 忠魂之塔
今日から南城市の旧知念村巡りを始める。旧知念村は戦後11村となって以降、行政区域は変わらず字として続いている。この11の集落を訪問することになる。今日はそのうちの久原 (くはら) 集落と海野 (うみの) 集落を訪問する。今日も夏の終わりの様な気候で、半そでTシャツ一枚で歩いている人がを多く見かけた。
与那原からは、海岸線の堤防沿いの遊歩道を走る。自動車道路ではないので安全で気楽に走れ、海風が気持ち良い。今日予定している集落のある知念半島の北端が見えてきた。
ここではの久原集落訪問だけ記載して、海野集落は別に書くことにした。
旧知念村 久原集落 (くはら、クシバル)
1723年、尚敬王のころから明治初期の廃藩置県にかけて、首里・那覇の士族が地方に移り帰農士族として住みはじめ、 屋取集落が各地に誕生した。知念村内の屋取 (ヤードゥイ) だった久場真佐 (クバマサ)、後原 (クシバル)、海野 (ヌックワサ) も、明治初期までに集落を形成したものと思われる。久場真佐 (クバマサ) と後原 (クシバル) は海野 (ヌックワサ) とともに1909年 (明治42年) に独立した知名二区と呼ばれていたが、久場真佐 (クバマサ) と後原 (クシバル) は1937年 (昭和12年) に知名二区から分離して知名三区となり、1947年 (昭和22年) には久場真佐の「久」 と後原の「原」を取って久原と改称された。クバ (ビロウ) は古語でアヂマサ (味勝) とも言われ、心芽が美味なことに由来する。 クバマサはビロウを意味するアヂマサのことと考えられ、クバマサにはかつてクバが生えていたそうだ。クシバルは知名本字からみてクシ (後側) の平らな場所という意味。
知名三区として合併した久場真佐 (クバマサ) は1班~5班、後原 (クシバル) 6班~7斑で構成され、この旧屋取集落の両地域は各々、係を決めてそれぞれの地域の御願場所で別々に祭祀行事を行っている。後原ではかつて製塩も行われていたが、大正初期には廃止されている。
集落の民家が集まっていた地域の変遷を見ると、明治時代は久場真佐 (クバマサ)、後原 (クシバル) ともに小さい。戦後、米軍が現在の国道331号線を建設して以降、久場真佐 (クバマサ) は海岸線沿いに、後原 (クシバル) は国道沿いに集落が拡張している。
久原の人口は旧知念村の中では、ほぼ真ん中で現在は520名。
旧知念村は南城市の中では最も小さな地域で、明治時代と比較しても、現在の人口は、ほぼ同じレベルにある。その中で人口増加が目立っているのは知名で、人口が増えたことにより、知名二区と知名三区を分離している。ここ久原は知名二区を経て三区となり、独立行政区となっている。1980年代までは人口は順調に伸びていたが、それ以降は増加傾向は止まっている。
現在行われている御願行事は下記の通りで、久場真佐 (クバマサ、1班~5班)、後原 (クシバル、6班~7斑) ごとに行われている。二つの屋取集落に共通の拝所はない。二つの主要な屋取集落の習慣がそのまま維持されている。
久原集落訪問ログ
久場真佐 (クバマサ) 地区
久場真佐 (クバマサ) は字久原の東側の地域の屋取集落で、この地に移り住んだのは、大城家 (麻氏)。 伊集家 (賀氏)、儀武家 (江氏)、 屋比久家(吉氏)、古謝家 (和氏)、 国頭家 (馬氏) が主要な六門中。
久原公民館/久原農村広場
久場真佐 (クバマサ) 地区の海岸の近くに公民館がある。公民館前が久原農村広場になっている。ここがかつての村屋だったのか、サーターヤー跡かは資料には見つからなかった。
ヘーチガマ
公民館から海岸に向かうとヘーチガマという拝所で、案内板では「石灰を取るため海石を焼いたヤチガマ跡で、現在は豊漁と海の安全を祈る拝所」と記されており、そこから、灰ヤチガマともいわれている。瓦を焼いたこともあったそうだ。 1957年に造られている。初拝み (1月1日)、フトチ御願 (12月24日)で酒、線香、花米、モチ (コ ンペン) を供えて、村で拝まれている。
久原の海岸線
ヘーチガマからは防波堤の遊歩道があり、西は仲伊保まで、東は海野漁港まで続いている。何人かの釣り人を見かけた。
遊歩道を走っていると、石積みが残っている場所があった。ここは河口だったようだ。海岸側は暗渠になっているが、川が海に流れ込んでいる。今は口はコンクリートで固められているが、かつての石積は残されていた。
下久場真佐 (シチャクバマサ) ヌ井泉 (カー)
防波堤の遊歩道を海野漁港方面に進み、ほぼ村の境の畑の中に、下 (シチャ) クバマサの井泉 (カー) があり、知念井泉 (チニンカー) とも呼ばれ、久場真佐 (クバマサ) 屋取集落住民の飲料水として使われていた。久場真佐地区では、初拝み (1月1日)、フトチ御願 (12月24日) で酒、線香、花米、モチ (コ ンペン) を供えて拝んでいる。
酒屋の奥間ヌ井泉 (サカヤヌオクマヌカー)
井泉の傍の伊集の井泉 (カーヌハタヌイジュヌカー)
久場真佐 (クバマサ) の名称不明井泉
古島 (フルジマ)
久場真佐 (クバマサ) 地区には丘陵が国道331号のすぐ南側まで迫っている。平地がかなり狭い地区になっている。かつてはこの丘陵の斜面には、現在の集落も前に定住していた古島があった。戦後いつの頃か、山崩れがあって住民は山手の方から海岸近くの広場に移動したといわれている。資料には、東側 (海野側) にクバマサ集落住民、 西側 (佐敷側) にクシバル集落住民が新たに村を造ったように書かれているのだが、この二つの集落が同じ古島に住んでいたとは思えないので、この古島はどちらかのものだろう。
照屋墓地内の井泉 (カー)
後原 (クシバル) 地区
御願小 (ウカミグヮー)
奥間ヌ井泉 (ウクマヌカー)
名称不明井泉 (未訪問)
久原闘牛場
御願小 (ウカミグヮー) から丘陵に上る道があり、そこのは久原闘牛場がある。南城市や糸満市の牛主が稽古のために現在も使用しているそうだで、草は生えているが、闘牛場の形がはっきりと分かる。観客席も設けられている。佐敷にも幾つかの闘牛場跡があったが、現在は公園などになっており、ここのように闘牛場の形は残っていない。
闘牛がブームだったころは島尻闘牛組合により島尻闘牛大会が開かれたという。戦前のウシナー (闘牛場)、ンマー (馬場) はあちこちの集落で知られているが、戦後はほとんど闘牛が行われていない。久原闘牛場は戦後の南部地域では唯一の闘牛場だった。 (写真は闘牛が行われていたころのもの)
忠魂之塔
久原闘牛場の観客席から上の登る階段があり、上には沖縄戦で野犠牲者を弔った慰霊碑としての忠魂之塔が置かれている。この慰霊碑は昭和27年に設置され、久原集落の犠牲者47柱を弔っている。集落では慰霊の日に慰霊の行事を行っている。
久原集落巡り、次は防波堤之遊歩道を通って海野集落に向かう。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市見聞記 (2021 仲宗根幸男)
- 知念村の御嶽と殿と御願行事 (2006 南城市知念文化協会)
- 知念村文化財ガイドブック (1994 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第一巻 (1983 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第二巻 知念の文献資料 (1989 知念村史編集委員会)
- 知念村史 第三巻 知念の文献資料 (1994 知念村史編集委員会)
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