Okinawa 沖縄 #2 Day 141 (31/10/21) 旧佐敷村 (1) Tsuhako Hamlet 津波古集落

更新: 2021年12月7/10日 再訪問 (馬天製糖工場跡、池田造船所跡、浜川井、穂取田、中竜宮)


津波古集落 (つはこ、ツファニク、チュファニク)

  • 馬天港 (バティンミナトゥ)
  • 天の浜
  • 竜宮神 (リューグーシン)、馬天児童公園
  • 馬天製糖工場跡 (2021年12月7日訪問)
  • 池田造船所跡 (2021年12月7日訪問)
  • 中竜宮 (2021年12月10日訪問)
  • 多和田殿 (タータドゥン)
  • 多和田井泉 (ターターガー)
  • ウタサーヤマ (歌うたい山)
  • 上津波古井泉 (イーツファニクガー)
  • 玉山
  • 外間殿 (ホカマトゥン)
  • 黄金森小 (クガニムイグヮー)
  • 大松堂殿 (ウフマチドードゥン)
  • 天人ヌ森 (アーマンチュヌムイ)
  • 喜屋武久殿 (チャンクドゥン)、喜屋武久井泉 (チャンクガー)
  • 安次富殿 (アシトゥドゥン)
  • 泉口 (イジュングチ)
  • 加那堂井泉 (カナドーガー)
  • 浜川井 (ハマガーガー) 
  • 樋川 (ヒージャー、大正樋川)
  • 津波古殿内 (ツファニクドゥンチ)
  • 津波古井泉 (ツファニクガー) 
  • 大石 (ウフイシ)
  • 土帝君 (トゥーティークン)
  • 慰霊塔
  • 多和田子 (ターターシー) 屋敷跡・神屋
  • 東御廻り (アガリウマーイ) 御仮屋 (ウカイヤ、休息所) 跡
  • 山城井泉 (ヤマグスクガー)
  • 喜屋武久子 (チャンクシー) 屋敷跡・神屋
  • 外間子 (フカマシー) 屋敷跡・神屋
  • 大松堂 (ウフマチドー) 屋敷跡・神屋 (未訪問)
  • 明治樋川 (メイジガ-)
  • 当山井泉 (トウヤマガー)
  • 津波古公民館
  • 新井泉 (ミーガー) 
  • 昭和樋川 (昭和ガー) 
  • 馬場跡 (ウマーイ) 
  • 前の井泉 (メーヌカー)
  • ナーチャミーモー
  • 龕屋跡
  • 浜川井 (ハマガーガー)  (2021年12月7日訪問)
  • 穂取田 (フートゥイダー、三穂田 ミフーダ) (2021年12月7日訪問)

今日から現在の南城市にある旧佐敷村の各集落訪問を始める。最初の訪問集落はここから一番近い津波古から巡る。



津波古集落 (つはこ、ツファニク、チュファニク)

津波古集落は、15世紀中頃に多和田子、松堂之子、外間子、喜屋武久子が津波古原見謝原に居を構え、村立てがされたと考えられている。 集落の最初は現在の馬天小学校の南側 (上津波古原付近) にあったが、次第に東側に広がっていった。 字津波古は、ツファニクまたはチュファニと称され、古い文献では「つはのこ村」と表記されている。名称の由来については、確かな事は不明だが、尚巴志に亡ぼされた北山国の攀安知 (ハンアンチ) の四男で、大里按司に助けられた喜屋武久子 (チャンクシー) の「チャンク」か ら「ツハンク」に変化したとの説もある。
琉球王国時代は、島添大里の配下で、島添大里間切に属していた。その後、大里間切は、城(西原)南風原・下里・ 小谷津波古・上津波古・南津波古・与那原などの 25村だったが、1649年~1713年の間に、下里 (後の新里)・小谷・津波 古・上津波古・南津波古の5村は佐敷間切へ編入され、上津波古・南津波古は廃村となっている。
明治時代には、 この頃からこの集落への移住者が増え、海岸近くにハマヤーと呼ばれる小集落が形成されていた。 沖縄戦後は米軍施設に接収され、住民は久志村 (現名護市) や金武村 (現金武町) などの収容所に分散移住していた。 その後、旧佐敷村の屋比久や佐敷などに仮収容され、1948年に国道331号より東側への帰還が許可、1951年にようやく戦前の集落が解放された。 その後、海洋からのスクラップ集めのため移住者が増え、港近くには旅館、商店、歓楽街ができ現在の街の基盤がつくられた。

津波古地区は旧佐敷村の中で、戦後人口の増加が著しく、2020年では最も人口の多い字となり、旧佐敷村総人口の38%を占めている。南城市の中でも最も人口の多い字でもある。那覇市中心までも15kmでと交通の便も良く、中城湾に面し、隣の与那原町と同じく埋め立てで住宅地が建設されたことも大きな要因の一つだろう。

人口統計が始まった1880年 (明治13年) の津波古人口は887人で、明治時代末には1000人を超えていた。沖縄戦前には1500人を超えていた。沖縄戦で人口は激減し、1000人程になったが、その後、5年程で元の人口まで戻り、1954年にこの地区に置かれたスクラップ回収会社での職を求めて多くの人が移り住み、2000人を超えている。その後も人口は堅調に増え、特にここ10年の年平均人口増加率は2.5%と非常に高い。南城市は独自の都市計画地区を定めて、糸満市などの市街化調整区域がなく、土地の開発や分譲が行いやすい環境にあり、今後の発展が見込まれることより民間デベロッパーによる事業が見込めることも要因と思う。

下の図は民家の分布の変遷を表した図だが、大正時代から戦前までは昔から集落があった場所に民家が集中しているが、戦後、その範囲が拡張している。現在、まだ南側は広大な農地となっている。近年第一産業従事者が年々減少の傾向にあり、この農地が将来は住宅地に変わっていくのかもしれない。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 外間之嶽 (神名: ナデルワノ御イベ、所在地不明)、屋我ノ森 (神名: イシラゴノ御イベ大森、所在地不明)、多和田之嶽 (神名: イシラゴノイベ、所在地不明)
  • 殿: 外間之殿中津波古之殿 (大松當之殿?)多和田之殿、喜屋武久之殿、稲福之殿 (所在地不明)、安次富之殿

以前、津波古集落で行われていた祭祀はかなり多くあり、その中には連日に及ぶものもある。合計56もの祭祀があり、ほとんど一年中この準備に追われていただろう。

現在行われている祭祀は16でかなり減っている。集落内の人口も減り、高齢化が進むのに加え若者の祭祀への関心は薄れている事、ノロが存在せず、専任で祭祀を行う人がいない。祭祀に架かる経費が負担になっていたことがある。


公民館の前に案内板が置かれていた。事前に調べた資料とこのガイドマップに沿って巡る。

また、インタネットでは戦後の津波古の様子を紹介したものを作成して公開している。(https://www.tsuhakojichikai.org/nostalgia)


津波古集落訪問ログ



馬天港 (バティンミナトゥ)

与那原を越えると海岸には場天港がある。三山時代尚巴志王の頃から、開けていた港で中国や日本と交易していた。 三山時代は佐銘川大主が漁を生業としていたという伝説もある。津波古のすぐ北の丘陵には島添大里グスクがあり、その勢力下だった。この良港の馬天港を目当てに、南山国の汪英紫が島添大里グスクを攻略した後は、大城按司、次いで佐敷按司の勢力下にあり、汪英紫とは緊張関係だった。尚巴志はこの港で鉄貿易を行い勢力を伸ばしていった。

当時は馬天港では、スンチャーという地曳網漁や太刀魚の投縄漁などが盛んに行われ、明治時代には、海軍の貯炭場や給水タンクが置かれ、馬天港は国頭からの山原船による木材、薪炭などの移入港として栄えていた。

この馬天港では馬天ハーリーが行われている。戦前から行われていたが、戦後は終戦10年後の1955年に再開している。1986年から2005年まで、佐敷中城漁業協同組合主催で佐敷ハーリーが行われ、2006年からは津波古区が「馬天ハーリー」として継続している。インターネットでその模様が掲載されていた。


天の浜

馬天港の北側に砂浜のビーチがあった。天の浜と呼ばれている。元から砂浜だったのか人工的に造られたのかは分からないが、ビーチを囲っている防波堤はかなり古いものの様なので、昔は何らかの形で漁師たちが利用していたのではないだろうか?10月31日だが、まだ沖縄では夏の気候で、ビーチでバーベキューを楽しんでいる家族を見かけた。


竜宮神 (リューグーシン)、馬天児童公園

天の浜の西側には馬天児童公園があり、その広場の一画に祠が建てられ竜宮神 (リューグーシン) を祀っている。この竜宮神は戦前にはなく、戦後に造られたもの。戦前には、米軍に接収された港にあった。地元の漁師たちが海神祭の際に拝んでいる。


戦後、馬天港には沈没船のスクラップ集めの為、英国籍のサルベージ会社があり、その仕事を求めて移住者が増え、ここから国道331号への道の両側には旅館、商店、銭湯、歓楽街が広がっていた。現在はその面影はなく静かな住宅街となっている。公園には子供たちの遊具があり、大きなクジラの遊び台があった。この馬天港では鯨を曳航し陸揚げの港でもあり、スクラップ集積場跡にはグジラ解体工場もあった。


馬天製糖工場跡 (2021年12月7日訪問)

12月7日に屋比久集落に向かう際に馬天港沿いを通っていったのだが、その馬天港でたまたm文化財標識を見つけた。訪問地に向かう際には、できるだけまだ通っていない道を選ぶ。この様に新しい発見が何度となくあった。ここには、1948年に旧来の黒糖圧搾機を用いた製糖所 (サーターヤー) が設立され、1957年には近代的動力圧搾とボイラー式の製糖工場 (馬天製糖) が設立され、1975年まで操業していた。現在は船の保管場所になっている。


池田造船所跡 (2021年12月7日訪問)

馬天製糖工場跡の前には造船所跡がある。昔から残っているのかは分からないが、石造りの船台があるように思える。昔のまま使っているのだろうか?


中竜宮 (2021年12月10日訪問)

馬天製糖工場跡のすぐ近く、馬天港への入り口に中竜宮の拝所があった。この拝所の情報は見つからなかったのだが、先に訪れた馬天児童公園の竜宮神 (リューグーシン) は馬天港が米軍に接収され、かつての竜宮神の御願ができなくなって造られたとあったので、ここにある中竜宮が戦前からあった竜宮神だろう。


文化財を巡った順番は違うのだが、津波古集落の村立ての始祖と伝えられているている四元 (ユムートゥ) の拝所を見ていく。



多和田殿 (タータドゥン)

現在の集落がある西側の丘陵の中腹、上津波古原 (イーツファコバル) には、津波古の創立者の四元の一人である多和田子 (タータシー) の住居跡といわれている場所がある。この地にやってきたのは、察度王代 (1350 ~ 1405年) で、島添大里の港 (現在の与那原町当添) の中国貿易の監督官として派遣され、ここに屋敷を構えたという。1402年、尚巴志が島添大里グスクを攻め落すまで、監督官として務め、その後も津波古に住み続けた。 四元の中でも最も早く、この地に来たのが、この多和田子だ。琉球国由来記の多和田之殿に相当するとみられる。 多和田之殿では、津波古ノロにより麦 初種子・ミヤタネ」、「稲穂祭」が行われていた。 資料には殿は無く雑木林の写真が載っており、多和田子神屋から遥拝されていたとあるが、今日、訪れると新しいコンクリート製の建物が造られていた。

多和田按司墓 (タータアジバカ) は、隣の村の当添 (とうそえ、トウシ) にある。去年 2020年5月20日に訪れていた。


多和田井泉 (ターターガー)

多和田殿 (タータドゥン) から下に降りていく道がある。下腹川 (シチャーラガーラ) の近くに多和田井 (ターターガー) と呼ばれた石積みの井戸がある。多和田殿のグサイガ-で、神井 (かみがー) として集落で拝まれている。

この井戸に係わる逸話が琉球国由来記「外間之殿」遺老説伝に記されている。 

  • 多和田家の多和田ハンチャナシーという老女が、 多和田井泉で水を使っていると 旅人が「水を飲ませて下さい」 と言ってきた。 老女は、茶碗の片方を欠き、欠いた所から水を薦めたので、 旅人がその訳を問うと、「茶碗を欠くのは、その部分を清めるためなのですよ」 と答えたので、 旅人は老女の心遣いに感激し、「このムラに、困った事はないか」 と尋ねた。 老女が 「2つあります。 1つは、ウマチーが2回もある いうこと、 あと1つは、五穀の種を乾かしている時、 突然雨が降ることです」と答えると、旅人は「今後、この村には、5月と 6月は雨は降らない。 また、 ウマチーを2 回しなくてよい」と言い残して立ち去ったという。 この旅人は神様で、 老女の願いは叶えられたという。以来、津波古ではウマ チーを1回で済ますようになったという。

これが津波古で稲大祭 (現在の 六月ウマチー) が行われなくなった由来という。 


ウタサーヤマ (歌うたい山)

多和田殿 (タータドゥン) から元の自動車道路に戻る。少し上った所が平場になっている。馬の背と呼ばれている場所だ。

そこから西に見える山はウタサーヤマ (歌うたい山) と呼ばれている。山に斜面には大岩があるそうで、そこから「述懐 (シュックェー)、仲風 (ナカフー)、散山節 (サンヤマーブシ) などを歌う女の声が聞え、近づくと歌が止んだという。住民は恐がって近寄らなかったという。この石は女郎の墓であったといわれている。


上津波古井泉 (イーツファニクガー)

多和田井泉 (ターターガー) から多和田殿 (タータドゥン) に戻り、自動車道路に出て、坂道を下ると、道路脇に上津波古井泉 (イーツファニクガー) の拝所がある。ヰーツハニク井泉、スクヌ井泉とも呼ばれている。 実際の井泉はこれから、林の中を下った所にあったようだ。

戦後、この辺りはバックナービルと呼ばれる米軍上級将校の住宅地となり、立ち入りが禁止されていた。

戦後、津波古全域が米軍に接収されており、場天港は軍港と使用され、集落があった場所は米軍基地に含まれ、集落住民は帰還がかなわなかった。集落西側の丘陵中腹には米軍将校の住宅地となっていた。この場所は古くから津波古集落の拝所があった場所。基地や軍関係住宅施設建設の為、集落全体が整地され、跡形もなくなっていた。米軍から土地が返還された後、地番確認が行われて、かつての集落の形が呼びが得ってきているのはちょっとした驚きだ。


玉山

道を少し下った所に玉山と呼ばれる丘があり、そこに古墓があった。詳細は記載なく不明。


外間殿 (ホカマトゥン)

上津波古井泉 (イーツファニクガー) の道を渡ると、外間殿 (ホカマトゥン) への案内板がある。案内板に従い、細い坂道を登ると、四元の一人である外間子 (フカマシー、應興珥、爲藩 [イーハン]) の屋敷跡がある。外間子は尚巴志が北山を滅ぼした際、攀安知 (ハンアンチ) の三男の当時7歳の外間子 (フカマシー) を捕らえた。外間子は大里按司 (尚巴志の家臣) に保護され。五姓御師賓 (食栄森之大主) の教育を受けて育つ。後に唐の国に留学、武勇および漁猟用具の細工、食塩造り、藍 (イェー) 作の法を学び、琉球に帰りこの業を広めた。中山王尚巴志より、この功績に対して七石の御扶持 (俸禄) を給わったという。
建物手前にはコンクリート製の香炉が、建物奥には石が3つ置かれた火ヌ神とそのすぐ手前に陶器製香炉が置かれている。

資料では、この外間殿に関わる言い伝えがあると書かれており、それは、先ほどの多和田井泉 (ターターガー) の話だった。この話は琉球国由来記の 「外間之殿」に記されているので、そのようになったのだろう。外間殿でも多和田殿は隣り合っているような位置関係だから、どちらでも良いだろう。でもの逸話 でその由来が記されている。琉球国由来記の 「外間之殿」には「麦初種子・ミヤタネ之時、花米九合・ 五水四合 (百姓)。 稲穂祭之時、 シロマシ・ 神酒二 (百姓) 供之。 バテン巫祭祀也。 祭前日之晩ヨリ祭之日朝迄、 居神九人へ一 汁一菜ニテ自百姓賄仕也。」 とある。 百姓から供物が供出され、場天ノロの管轄であったことが分かる。 現在、御願解きの際に集落で参拝している。 戦後、この外間殿 (ホカマトゥン) と大松堂殿 (ウフマチドードゥン) の場所は、米軍のPX (売店) となり、殿は撤去されていたが、米軍撤退後に再建された。


黄金森小 (クガニムイグヮー)

外間殿 (ホカマトゥン) の裏は広場になっており、そこに二つ井戸跡があり、拝所になっている。どちらかが黄金森小 (クガニムイグヮー) だろう。(多分、写真左と思う)


大松堂殿 (ウフマチドードゥン)

外間殿の裏の広場の奥にコンクリート製の祠がある。 これは大松堂殿 (ウフマチドードゥン)で、コンクリート製の香炉が設置されている。大松堂 (大松當) も、津波古の四元の一人の松堂之子 (マチドーヌシ―) の屋敷跡とされている。伝承では松堂之子 (マチドーヌシ―) は島添大里按司の子、寒川親方の三男と伝わる。(長男は大城家、次男は津波古家) でその子孫は字南風原に住んでいるという。松堂之子は、始めの頃は西原小か南風原小に住んでいたが、後に上津波古原に移り住んだ。12月24日の御願解きや8月彼岸入り日の土帝君ウマチーの時に集落で拝んでいる。


天人ヌ森 (アーマンチュヌムイ)

外間殿の北東側の畑の隅には、琉球の始祖の天人が降り立った伝えられている場所があり、天人ヌ森 (アーマンチュヌムイ) と呼ばれている。戦後まで大きな石があり、後方の石には天人の足跡があったといわれている。四元の多和田では 「トーンチュームイ (唐人森)」 と呼ばれ、上津波古村の東方にあるので太陽神を拝する場とも考えられている。

津波古にはこの地に因んだ「天人」という民族芸能が伝わり、土帝君ウマチー、龕ヌ御願、八月十五夜で演じられていた。 天人ヌ森は、その上演前後に拝まれていた。近年でも年1回ほど演じられており、その稽古始めと本番後には区長などがここを拝み、無事故の祈願と御礼をしている。天から降りてきた巨人の天人は、長者に五穀の種子を授け、播きつけやとり入れの方法等を教え、長者の大主の位を授けるというストーリー。


喜屋武久殿 (チャンクドゥン)、喜屋武久井泉 (チャンクガー)

四元の内三つの屋敷は上津波古原にあったが、残りの一つの喜屋武子 (チャンクシード) の屋敷は、上津波古原の南側の見謝原 (ミンジャバル) の丘に昔ながらの造りの殿があった。今まで見てきた祠はコンクート造りのものばかりだったので、これが昔の形かと思った。喜屋武久殿 (チャンクドゥン) は伊禮殿、福増殿、津波古殿とも呼ばれていた。 琉球国由来記の喜屋武久ノ殿で、「稲穂祭之時、シロマシ 神酒二 (百姓) 供之。 同巫祭祀也 居神七人賄、 外間之殿同前也。」 とあり、場天ノロの管轄地だった。津波古の四元の一つ (福増ビチ) で、ムラの始祖の一人の喜屋武久子 (チャンクシー、應興昌、爲寶) の住居の跡とされている。

瓦屋根作りで柱は石で、正面は竹を並べた壁になっている。津波古の殿の中でここだけが唯一戦災を免れ残っている。

殿の周りには拝所が置かれている。また屋根を葺き替えられた際の古い赤瓦が積まれていた。この奥の雑木林の中にに喜屋武久井泉 (チャンクガー) があるそうなのだが、入口もなく、木々が鬱蒼と茂っているので、探すのは断念した。地元の人も丘の下の道端から遥拝しているそうだ。 この井泉は喜屋武久殿のグサイガーで神井泉とされている。

1416年 (一説には1422年)、尚巴志に亡ぼされた北山王の攀安知 (ハンアンチ) の三男の外間子 (フカマシー) は七歳、四男の喜屋武久子は五歳で捕えられ、島添大里按司 (との説もある) に保護され、食栄森之大主に教育を受けてい。二人は成人すると上津波古原 (ウィーツファニクバル) に屋敷を与えられて独立した。上津波古原にはその前に、中山から唐船の監督官として派遣された多和田子が移住したといわれる。 上津波古原に住居を構えたのが外間子、多和田子 (ターターシー)、松堂之子 (マチドーヌシー) の三家となる。


安次富殿 (アシトゥドゥン)

集落南西にある喜屋武久殿の下方約10mにある殿。 安次富子 (アシトゥシー) は外間子の長男で喜屋武久子の義父 (喜屋武久子の2度目の妻の父) にあたる。この殿で、安次富子 (アシトゥシー) が祀られているという。 琉球国由来記 の 「安次富之殿」に相当する。先に登場したの外間子 (フカマシー) 、喜屋武久子 (チャンクシー) の弟で攀安知 (ハンアンチ) の五男の虎壽金 (とらじゅがに) はこの屋敷で生まれて後に新里に定住したとの言い伝えもあるそうだ。(別の説は母親真加戸金が新里 [並里村] のヌン殿内で生み、そこで成人し巫女殿内の祖となったとある。)  虎壽金は、成人して尚巴志によってクィームク (乞い婿) となり、北山の子孫なので謀反を起こさないようにと、首里に移住させ王府勤めをさせたという伝承がある。別の伝承では、捕虜となった虎寿金は攀安知の二男の志慶真王子が南山城下に逃亡していたので、これを牽制するため美里按司の娘婿となり、南風原間切兼城村に内嶺城を築いて兼城按司と称したとある。


泉口 (イジュングチ)

次は琉球王国時代の井泉を訪れる。多田殿から更に丘陵を登り標高90mの崖の麓に泉口 (イジュングチ) がある。以前、この井泉を探しにこの道を通ったのだが、見つけられず、今回は自転車を押しながら、周囲を見渡しながら進む。入口を示す標識を見つけた。自転車で走りながら探すと見落としてしまう。この泉口 (イジュングチ) がいつ頃からあったのかははっきりしないのだが、1863年にここから集落への樋を修理した記録があるので、これ以前からあった。樋で丘陵の下にある樋川まで松や竹で 作った樋を使って給水していたそうだ。戦前には、明治樋川、昭和樋川に給水し、飲料水として使用されていた。を取るための井戸として使われていたという。 まだ水が沸いている様で、奥から水の滴る音が聞こえている。

泉口 (イジュングチ) の崖の上には古墓がある。

泉口 (イジュングチ)の左手方向へ登る道があり、巨石の間をすり抜けると、もう一つ古墓があった。詳細は見つからなかった。


加那堂井泉 (カナドーガー)

ウタサーヤマから、東に降りる道があり、進んだ所は加那堂原 (カナドーバル) という地区。下り坂の途中に、昔屋敷があり、そこで使われた井戸跡が拝所になり、加那堂井泉 (カナドーガー) と呼ばれている。(佐敷町史2では浜川井となっており、ガイドマップで浜川井となっているところが加那堂井泉と逆になっていた)

ここから馬天南や津波古集落が見渡せる。更に奥には知念半島も見える。


浜川井 (ハマガーガー) ?

更に坂を下りていくと、浜川井 (ハマガーガー) があるとなっていた場所に来た。この奥にあるはずなのだが、草が背丈よりも高く茂っている。これをかき分けて探すのは、ほとんど無理だろうということで、中に入るのは断念。(この浜川井については、三つの資料が、それぞれ別の場所を示しており、どれが正しいのだろう?) このあと、正しい浜川井 (ハマガーガー) が見つかった。ここには何か別の拝所があったのかもしれない。



次に現在の集落の場所に移る。上津波古にあった集落が現在地に移って来たのは1737年以降と考えられている。それは津波古集落が碁盤型に区画整理がされていることからだ。今まで100以上の集落を巡って、碁盤型区画集落と非区画整理集落があった。碁盤型は琉球王府の農業政策である地割制度が寛文年間 (1661 - 1672) の政策でなされたが、それは耕作適合地にある集落を耕作不適合に移し、より広い農地を生み出す政策だった。この時代に山の中腹から平坦地への移動が王府の命令でされたとは考えにくい。1731年には集落任意の移動が登録許可制となっている。1731年以降に移動したならば公文書に残っている筈だが、資料ではそれは書かれておらず、1737年以降とされている。その根拠は研究者の調査で「ゴバン型形態をなしている集落は、1737年以前のものは玉城間切の前川集落の外は無い」という記述からだそうだ。ちょっとしっくりいかない。集落は東西7本、南北10本の路地で碁盤状になっている。集落は東西の北側から時代と共に南側に拡張して行っている。北から二番目がを元道 (ムトゥミチ )、四番目が中道 (ナカミチ)、 七番目が前道 (メーミチ) になる。
集落は四つの組 (クナ、班) で構成されていた。西から西小ヌ組 (シーグヮーヌクナ) 、中ヌ組 (ナカヌクナ)、内地瀬 (ウチジシ)、新組 (ミーグナ)」に分かれていた。

集落が現在地に移動してきてから、その変遷期に沿って見ていく。まずは移動してきた時期は1700年代半ばから後半と考えられているが、明確な時期は判らない。元道 (ムトゥミチ) の北側の山手地区にあたる。



樋川 (ヒージャー、大正樋川) 

琉球王国時代に泉口 (イジュングチ) から水が引かれ、飲料水として使っていたのが樋川 (ヒージャー) で、後に大正樋川と呼ばれた。ここは現在の集落に移る前から使われていた。大正樋川と呼ばれるのは大正時代に改築された事から。 

当時のイメージはこんな様だった。

元々は、西宅地原 (西原) の西端のこのすぐ近くの馬天小学校の道路沿い (写真下) にあったが、沖縄戦で消失し、戦後、現在の場所に拝所として移されている。津波古には3つの樋井があり、西から樋川 (大正樋川)、明治樋井、昭和樋井である。 産井 (ウブガー) は津波古にあった四つの班に各一個づつの四箇所あった。この後、それらを見ていく。


津波古殿内 (ツファニクドゥンチ) 

津波古殿内 (ツファニクドゥンチ) を探すのだが見つからなかった。その近くの家の前でキャッチボールをしている少年に聞くと、ちょうど住居の裏に何かあり、時々人が拝んでいると言って、そこまで連れて行ってくれた。首里王府の役人 (脇地頭) の住居が津波古殿内で、その家屋は1879年 (明治12年) の琉球処分後に津波古集落に寄付され、ムラヤーを建てるのに使われた。以前は石造の拝所があったが消失しており、上部には古墓らしきものが残っている。


津波古井泉 (ツファニクガー) 

津波古殿内屋敷内には井戸があり、石で囲まれた形が残っており、集落で拝まれている。津波古井泉 (ツファニクガー) 、津波古殿内又井泉、内井泉とかと呼ばれている。


大石 (ウフイシ) 

集落の一番北の道の北側の山手の林の中に大きな岩がある。ガジュマルの根が絡み付いた神秘的な光景だ。ここは集落の拝所となっており、大石は字の高い所にあるので、御嶽の役目を果たしているそうだ。琉球国由来記の津波古村の御嶽として記載されている 「外間ノ嶽 (神名:ナデルワ ノ御イベ)」、「屋我ノ森 (神名: イシラゴノイベ)」、「多和田ノ嶽 (神名:イシラゴノ御イベ)」のいずれかに相当すると考えられている。


土帝君 (トゥーティークン) 

集落北方の山手にある津波古児童公園の高台に木造赤瓦屋根のお堂があり、土地農耕の神とされる土帝君 (トゥーティークン) が祀られている。地元では「おみやさん」と呼ばれている。 通常は施錠されているので、中を見る事は出来なかったが、インターネットに土帝君ウマチーの際の開帳されている写真があった。中には老人、女性、子供の三体の神像が安置されている。元々は大石の東の場所に石の祠が建っていたが、大正時代中頃に木造赤瓦屋根に改修された。沖縄戦の戦災で焼失し米軍宅地になっていたため、1950年に、この場所に移し再建されている。
お堂の下にはアシビナーの広場があり、村芝居や闘牛などが行われていた。 現在は初詣やヌーバレーが行われている。


慰霊塔

土帝君の祠の隣に慰霊塔が建っている。沖縄戦で犠牲になった住民の慰霊塔だ。津波古集落の犠牲者は293名で、当時の津波古二住んでいた住民数はが1,001人で、約29%の住民が犠牲になった勘定だ。

沖縄戦では上陸した米軍が知念半島を目指して進軍をし、緊張が高まり1945年5月30日に住民に知念、玉城への避難指示が出ている。6月1日には既に米軍はこの地を通過し、丘陵の上にある大里の日本軍基地を制圧している。この際に、津波古集落は全壊となっていた。


多和田子 (ターターシー) 屋敷跡・神屋

公民館西方の屋号 多和田にある、津波古の創立者四元の一家で最も古くからある多和田門中の元屋。 多和田尚中の祖という多和田子 (ターターシー) は、察度に仕えていた頃、首里王府から唐船在番として島添大里城に派遣されたという伝承がある。この場所にあるので、屋号 多和田は初期の時期に移動してきたのだろう。


東御廻り (アガリウマーイ) 御仮屋 (ウカイヤ、休息所) 跡

津波古集落は琉球国王の久高行幸や聞得大君の御新下りの際の道筋にあたっていた。ちょうど多和田子 (ターターシー) 屋敷の前の道が元道でここを通っていた。この道に桃原家がありそこは行幸の際の御仮屋 (ウカイヤ、休息所) があったそうだ。多和田子は津波古集落有力門中の四元の一つで、琉球国王や聞得大君一行の接待と行っていたのではないだろうか?


山城井泉 (ヤマグスクガー)

集落の中程にある中又井泉 (ナーカー) 跡があり、中ヌ組 (ナカヌクナ) の産井 (ウブガー) だった。ここには屋号 山城 (ヤマグシク) の家があったので山城井泉 (ヤマグスクガー) と呼ばれていた。



次は集落第二期で元道から中道にかけて拡張したと考えられている地区を巡る。


喜屋武久子 (チャンクシー) 屋敷跡・神屋

集落内西部にある馬天小学校の東方約150m にある、 津波古の創立者四元の一家の喜屋武久子 (チャンクシー) の神屋。 喜屋武久子は、 北山王の攀安知の子で、 外間子 (ホカマシーン) は兄にあたる。 当拝所は、喜屋武久子の子孫である福増ビチが管理している。


外間子 (フカマシー) 屋敷跡・神屋

喜屋武久子 (チャンクシー) 屋敷跡・神屋の西隣が津波古の創立者四元の一家の安次富ビチの神屋になっている。この場所に四元の血縁関係のある三家が集まっている。 北山王の攀安知とその子外間子が祀られている。現在もその子孫が暮らしている。先祖を祀った神屋は資料に載っていたもの。


大松堂 (ウフマチドー) 屋敷跡・神屋 (未訪問)

喜屋武久子 (チャンクシー) 屋敷跡・神屋の向かいが津波古の創立者四元の一家の大松堂 (ウフマチドー) の神屋。 戦後、村ヌ神と獅子ヌ神が祀られた。 十五夜で使う獅子頭は、戦前、 四元により輪番で管理されていた (後に、大松堂だけとなる) が、獅子頭と両祭神は2013年に公民館へ移されている。写真は資料にあった神棚。


明治樋川 (メイジガー) 

大正元年に造られた樋川で、喜屋武久子神屋、外間子神屋、大松堂神屋が集まっている路地四角に置かれ、泉口から樋で水が引かれていた。明治の聖代を記念して造られたので、この名がついている。井戸の内面には赤土とトゥムル (タブノキ) の油を混合した土 (サントー) を塗ってあったので 「サントーガー」ともいわれた。個別の井戸を持っていた家もあったのだが、それは雑水としてで、飲料水は常に樋川の水を使っていたそうだ。(この井戸は集落之第二期に拡張された地域にあるが、造られたのはそれ以降)


村屋跡 (ムラヤー) 

明治樋川 (メイジガー) がある場所には津波古集落の村屋があった場所でもある。喜屋武久子、外間子、大松堂の国元 (クニムトゥ) の有力門中の屋敷もこの一角にあるので、集落の中心地だったのだろう。

沖縄戦の爆撃、艦砲射撃で木造茅葺きの村屋も含め津波古の全戸250戸が焼失。1966年に別の場所に現公民館がある場所に移されて新たに建設された。


当山井泉 (トウヤマガー) 

前当山小の屋敷の下角にある西小又組の産井 (ウブガー) で当山井泉 (トウヤマガー) と呼ばれている。火祭 (ヒーマチ) ヌ御願を行ったり、生誕時の産ぶ水などを汲んだ。戦争で埋められ、井戸水は今はないが拝所となっている。(この井戸は集落之第二期に拡張された地域にあるが、造られたのはそれ以降)



次に集落が拡張された地域で、中道と前道の間にあたる。



津波古公民館

1966年に集落北側にあった村屋から、この場所に移転してきている。公民館の前の道が前道 (メーミチ) で、この道で綱引きが行われている。 

新井泉 (ミーガー) 

公民館北の駐車場に津波古集落の四つの産井泉の1つである新井泉 (ミーガー) がある。戦前は内地瀬 (ウチジシ) 地区の産井泉であったが、米軍によって埋められてしまった。戦後に、現在の丸型用水タンクが置かれた。

昭和樋川 (昭和ガー) 

公民館の前に、標識だけが建っている井戸跡がある。井戸もなく標識だけだ。ここには集落に三つあった昭和樋川の跡地にあたる。名の如く、昭和2~3年に造られたが、沖縄戦で破壊されてしまい、現在では完全に埋められて駐車場になっている。集落内にあった三つの樋川では最も新しいものだった。

馬場跡 (ウマーイ) 

集落の南端を東西に走る道に、戦後使用された馬場があった。戦前の馬場は海岸沿いの方にあった。馬場では綱曳きや棒巻 (ボーマチ)、馬勝負 (ウマスープ、競馬) が行われていた。この馬場跡の南側は一班、六班、八班、北側には三班のサーターヤーが置かれていた。


前の井泉 (メーヌカー) 

前道の南、畑の中にあった井戸。現在は集落内の細い路地端にる井戸で前の井泉 (メーヌカー) という。井戸は消失し、現在はコンクリートタンクと石香炉が置かれ、集落で拝まれている。
この他にも、集落内に井戸跡があった。資料では紹介されていないのだが、駐車場の中にあり明らかに保存している。この場所の屋敷に住んでいた人の想いがあらわれているのかもしれない。


龕屋跡

集落の西の端には龕屋が置かれていた。現在は龕もなく龕屋も残っていない。



最後に集落から離れた場所にある文化財を訪れる。


ナーチャミーモー

集落から外れ、東の海岸線にナーチャミーモーがある。この地域にはナーチャミーと言って、死者を葬った次の日に行う行事がある。 火葬が普及しなかった戦前までは、死者が生き返 っていないか翌日確かめるのが常で、午前中に墓参りをし、 重箱料理を供えてお祈りをした後、墓の入口の隙間を漆喰で塗り固める。 その後、津波 古の浜にあるナーチャミーモーに行き、 使った衣類を潮水で清め、禊ぎをした。 そして、ユ レーサバチという女性が輪になって髪をとく儀式も行われていた。 ナーチャミーモーは現在は埋め立てられ、当 時の面影はない。ここに拝所があるのだが、この拝所については詳しいことは書かれていなかったが、佐敷町史によれば、ここには竜宮神を祀った拝所があったと書かれているので、これがそうかもしれない。

浜川井 (ハマガーガー)  (2021年12月7日訪問)

集落から南に外れた所は垣元原 (カテムトゥバル) という地区で、かつて当添の山手から移り住んだ大屋ビチの祖の浜川氏の屋敷に浜川井 (ハマガーガー) と呼ばれた井戸があった。この地域は津波古の南にあたるので、南地 (フェーヂー) と呼ばれ、この井戸も南地井 (フェーヂーガー) とも呼ばれていた。

穂取田 (フートゥイダー、三穂田 ミフーダ) (2021年12月7日訪問)

集落から外れた南は、一面サトウキビ畑になっている。昔は、サトウキビではなく稲作の水田が広がっていた。その一角に穂取田 (フートゥイダー) がある。穂取田 (フートゥイダー) とは、沖縄に稲作の起源と伝えられている、鶴が3本の稲穂を加えて、それが地面に落ち稲が育ったということから来ている。田植えをする際には、稲穂祭 (シチマ,三穂祭) で、穂取田 (フートゥイダー) で田植えをしてから、それぞれの田んぼに行き田植えをした。この側には穂取田井もあるそうだ。



今日は出発が遅くなり、自宅を11時に出発。津波古は文化財保存に関しては、他の集落に比べてしっかりしているようで、多くの文化財が紹介されていた。一つ一つ探しながら巡ったので、自宅に帰ってきたのは午後6時で、もう薄暗くなっていた。今日もまだ夏が続いているようで暑く、汗びっしょり。


参考文献

  • 佐敷村史  (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民族 (1984 佐敷町役場所)
  • 津波古字誌 (2012 字津波古自治会)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)

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