Okinawa 沖縄 #2 Day 142 (05/11/21) 旧佐敷村 (2) Okoku Hamlet 小谷集落

旧佐敷村 小谷集落 (おこく、ウクク)

  • 米須井 (クミシガー)
  • 馬場跡 (ウマイー、小谷農村広場)
  • 慰霊碑
  • 土帝君 (トゥーティークン)
  • 上之引 (ウィーヌヒチ) 門中墓
  • 龕屋跡、古墓
  • 島尻方東海道 (南風原宿) の石畳道跡
  • 小谷公民館
  • 旧村屋跡
  • アシビナー
  • 神座敷 (カンザシチ)
  • 上の井泉 (ウィーヌカー)
  • 中の井泉 (ナカヌカー)
  • 下茂の井泉 (シムヌカー)
  • トンネルガジュマル
  • 拝所 (シクラサラサー)
  • タカンリ
  • ジャンクビリ山道
  • 美ら石 (ちゅらいし、ツライシ)
  • サーターヤー跡
  • 穂取田 (ミフーダ)
今日は旧佐敷村の二番目の小谷 (おこく、ウクク) 集落を訪ねる。この集落に来るのは二度目になる。一度目は、まったく何の知識もなく佐敷を訪れた後、何気なく山道を走った時に出くわした集落だった。その割には幾つかの文化財もしっかりと保存されており、印象に残っていた集落だ。今回は十分に下調べをした。前回見学していないところも含めて、一日かけてじっくりと回る予定。今日は午後から雨予報。沖縄の天気予報は的中率は半分以下なので、雨が降り出せば、どこかで雨宿りすればよいと思い出発。集落は丘陵の中腹にある。まずは尾島添大里グスクのある西原集落に向かい、そこから丘陵を下って集落に向かう。



旧佐敷村 小谷集落 (おこく、ウクク)


小谷集落は津波古と新里の間の集落で、民家は何故か丘陵の中腹にある。時期は不明なのだが17世紀中頃ではないかと推測されている。元々の集落は平地側に造られたという。いつの時代かに、山間部に移動している。小さな集落だが、以前は竹細工の工芸のまちとして栄えていた。

集落内には幾つかの昔の儘の文化財や戦後復興時に建てられた沖縄独特の平屋の民家が多くあり、集落を歩いていると沖縄の雰囲気が楽しめる。

小谷集落は昔から小さな集落で、山間部の集落ということで人口は下位に位置していた。

2010年から2011年に人口は94人(72戸) 減少している。この背景は記載されていないのだが、ほとんどが単身者と考えられので、よく合うケースは自衛隊の単身寮が移転。工事で長期常駐していた社員が仕事が終わり故郷に帰ったなどがある。昔から住んでいた住民が転出したわけではないだろう。そうするとこの期間の増加し減少した分は考慮しなくてもよいだろう。傾向は世帯数はコンスタントに増えているが、人口は横ばい状態にある。


世帯数の増加は平地部分に他地域からの転入者がほとんどで、元の山間部の集落では人口減少が続いている。


琉球国由来記に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 存在せず
  • 殿: 神屋敷之殿 (神座敷)

現在でも行われている祭祀はかなり少なめになっている。表で見るように、集落の祈りの中心は土帝君であることが判る。中の井戸は明治以降に造られたので御願ン対象にはなっていないようだ。

公民館側にガイドマップが建てられていた。手持ちの資料とこのガイドマップを参考にしながら巡る。


小谷集落訪問ログ


集落を歩いていると、おじいを見つけた。事前に調べていた時に色々と疑問点などがあったので、おじいなら答えてくれるかもしれないと思い、声をかけた。昭和25年生まれと言っていたので、72歳。それでも戦後生まれだ。嫌がらず、長時間付き合ってくれて、数々の話をしてくれた。その内容などは、以下の訪問録に入れている。お礼を言って別の場所を見学をしていると、軽トラックで畑に向かう途中で、もう一度その場所の説明をしていただいた。



米須井 (クミシガー)

まずは標高130mにある西原の島添大里まで行き、そこから小谷集落への坂道を下る。道の途中で、細い側道で字小谷の北側境界線あたりの東斜面 (慶多下原) にある米須井 (クミシガー) に向かう。インターネットでは、この井泉の情報は皆無だったのでまだ存在しているのか不安もある。側道を下ると谷間一帯にサトウキビ畑が広がっていた。山の中にサトウキビ畑があるのは珍しい。
林の中に入っていくと細い水路がありそれを伝い先に進むと井泉があった。今でも水が湧いている。給水パイプが置かれている。これが米須井 (クミシガー) だ。今でも農業用に使っているようだ。昔は泉の上の長堂部落の住民が使用し、石樋川 (イシヒージャー) とも呼んでいた。この井泉は小谷の屋号 前玉城の所有であったものを津波古が、大正時代に土地も含め買いとり、飲料水として使用していた。この泉から津波古の大石の後に二つの水タンクを造り、米軍にタク井から場天港のタングラへの給水パイプを払下げてもらい、これを再利用して給水管を敷設して水を送っていた。戦後約18年間はこの簡易水道を用いたが、1970年に上水道が開通し、その役目を終えた。

馬場跡 (ウマイー、小谷農村広場)

米須井 (クミシガー) への道は直接は小谷集落に通じておらず、元の道まで戻り、集落を目指す。起伏の多い道で、最後の急坂を上がると、小谷集落の西の端、一番高い場所に出た。そこに小谷農村広場がある。この公園はかつては馬場跡だった。

慰霊碑

農村公園の一画に第二次世界大戦での166柱の戦没者の慰霊碑が建っている。当時の小谷集落の人口は538人、そのうち疎開、兵役、出稼ぎを除き集落に残っていたのは395人で、45%にあたる。そのうち159人が犠牲になっている。南方戦地で戦死した兵士は20人だった。沖縄戦後、集落の周囲は兵士の住宅 (400台) など米軍施設になっていたので、住民は大里村大城に仮住まいで生活をして、1946年から、集落への帰還が始まった。

土帝君 (トゥーティークン)

馬場跡の農村公園の東側は見晴らしの良い小谷原の高台で、そこに土帝君 (トゥーティーン) が祀られている立地する。 土帝君 (トゥーティーン) では、七宮 (沖縄八社のうち金武宮を除く、波上宮、沖宮、識名宮、普天満宮、末吉宮、安里八幡 宮、天久宮) の祭神も合祀されている。 祠の中には、以前は12体あったというが、 現在9体の神像が安置されているそうだ。その下の香炉にはまだ新しい平御香 (ヒラウコウ) が置かれている。 元々の祠は石造りだったのだが、1936年にコンクリート製に改築されている。小谷集落の中心となる拝所で、御嶽のない小谷では御嶽の様な役割となっている。2月2日の土帝君拝み、3月の清明、4月のアプシバレー、 5月4日のユッカヌヒー、6月25日のカシチー 8月の白露ヌ御願の際に拝まれている。

上之引 (ウィーヌヒチ) 門中墓

農村公園から東は丘陵斜面で上に向かって坂道が続いている。ウザファビラと呼ばれる坂道。これを登ると立派な連立型の亀甲墓がある。この墓は小谷集落の最大門中の上之引 (ウィーヌヒチ) 門中の墓だ。上之引 (ウィーヌヒチ) 門中の元屋は大里村にある。 小谷集落の6割はこの門中系にあたるそうだ。旧佐敷村では門中の事やその分家を引 (ヒチ、ビチ) と呼んでいる。今まで回った集落では腹 (ハラ、バラ) と呼ばれていたものと同義語だ。

龕屋跡、古墓

上之引門中墓の周りには幾つかの古墓があった。昔はこのあたりには龕屋が建てられていた。
農村公園に戻ると、子猫の鳴き声が聞こえる。物陰からこちらをうかがっている。声をかけると物陰に隠れるのだが、また顔を出し鳴いている。慣れてきたのか、寄ってきた。かまってやると、すり寄って来て随分人懐っこい。飼い猫かと思ったが耳の端に切り込みがある。野良猫だ。地域で避妊手術をした印で、この印のある猫は集落で野良猫を続けられるのだ。この人懐っこい三毛猫以外にも集落を歩いていると多くの野良猫を見かけた。食べ物は地域の人が与えているようで、皆んな元気そうだ。

島尻方東海道 (南風原宿) の石畳道跡

農村公園の西側に昔から残っている石畳がある。距離は50m程しか残っていないのだが、昔の姿が垣間見れる。幅215cm~330cmの琉球石灰岩の石畳道で、昔の宿道はこれぐらいの幅だったようだ。先程の猫も一緒について来た。写真を撮っていると、猫は先に進みこちらを振り返り、早く来いという様な素振り。なんとも愛らしい猫だっだ。
この石畳道は琉球王国時代の宿道 (じゅくみち) の一部だそうだ。三山統一後、尚巴志により首里王府と各地の間切を結ぶ道路が造られ、首里と各地の連絡はこの道を通してその間に設けられた宿場を経由したなされていた。この制度は宿次 (しゅくつぎ) とよばれ、南北ともに西 (イリ) 回りと東 (アガリ) 回りのルートがあった。宿場には馬が置かれ、文書などを送る「駅」の制度の始まりだった。ここは島尻方南風原宿 (東海道) の大里宿と佐敷宿の間にあたる。

小谷公民館

小谷集落のほぼ中心に公民館がある。元々の村屋は公民館の前の道を隔てた所にあったが、新しくここに建てられている。公民館の前の庭には差石 (力石) や石臼、サトウキビの圧搾の為のサーターグルマが置かれていた。

旧村屋跡

公民館の前の道を向かいには、昔の村屋があった場所で、今は神屋とその前には石の祠が置かれている。

アシビナー

公民館の北側は広場になっており、かつてのアシビナーだった場所。
村屋跡を少し下った所に、集落恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされている。その前には地元の工芸家作のシーサーが村を守っている。


神座敷 (カンザシチ)

集落の西側、津波古への下り坂が始まる所には神座敷 (カンザシチ) と呼ばれる神屋がある。 先程墓を見た上之引 (ウィーヌヒチ) 門中の神屋だ。現在の建物は2008年に建てられたコンクリー ト平屋造り。 その前は1957年に建てられた瓦屋根の家だった。 神屋はすりガラスで中を見ることは出来なかったが、資料によると、中には祭壇があり正面右側から生仏壇 (ナマブチダン、神座敷、増築時に追加、城間門門中の現在の仏壇と思われる)、神仏壇、神の花、床の神と4つに仕切られている。祭壇からみて左側の奥には火ヌ神を祀る香炉も設置されている。琉球由来記では「神屋敷之殿」 とあり「麦初種子・ミヤタネノ時、花米九合・五水四合 (百姓)、供之。 根人ニテ祭祀也。 稲二祭之時 五水六合宛・神酒壱宛 (地頭)、シロマシ神酒四宛 (百姓) 同巫祭祀也。 且、自二百姓居神七人へ祭之朝、一汁一 菜ニテ賄仕也。」と記されている。上之引門中の神屋が殿とされているので、この上之引門中はこの小谷集落の国元 (クニムトゥ) だろう。現在は、初御願 (ハチウグヮン) や10月のカママーイの際に字で拝んでいる。清明では、各地から上之引門中の人が集まって祖先を拝んでいるのだが、その人数は、小谷集落の人数より多いそうだ。小谷集落では土帝君に次ぐ拝所だ。

上の井泉 (ウィーヌカー)

集落内の南西部の端に上の井泉 (ウィーヌカー) がある。名の如く、集落の上の方にある。1830年頃に、現在の形に造られたと伝わっている。 小谷子ヌ井泉 (ウククシーヌカー) とも呼ばれている。集落の飲料水として使われ、若水や産水にもなっていた。小谷集落には三つの井戸があるのだが、上の方は飲料水、下は雑用水として使われていた。上で使った水が下の井戸に流れ込むので、このように使い分けをしていた。12月27日のウヮークルシー (豚殺し、豚の解体) の時、チーイリチー (豚や牛の血を使った煮物料理) を供える。チーイリチーを供えないと、井戸の水が真っ赤になったという。


中の井泉 (ナカヌカー)

上の井泉 (ウィーヌカー) のすぐ北側には中の井泉 (ナカヌカー) がある。小谷にある3つの井泉のうち、最も新しい井戸で、明治後期に造られた。かつては人々が水を汲み、自家の水がめ等に溜めて飲用水として利用していたという。 同井泉の広場は水汲み場と洗い場の2つに分かれている。


下茂の井泉 (シムヌカー)

小谷集落の三番目の井泉が神座敷から東に道を下った所にある。ここは集落の東の端、一番低い場所になる。三つの井戸の中で一番古くからある井戸で、下茂の井泉 (シムヌカー) という。また、夫婦井泉 (ミートゥガー) とも呼ばれている。知念若按司により造られたと伝わっている。(知念若按司はこの村の女性と恋に落ち、子供までなしたと伝わっている。) かつては産井泉 (ウブガー) として使用された。おじいの話では、戦後は飲料水としては使用されず、洗濯や水浴びに使っていたそうだ。これで三つの井泉跡を全部見たのだが、昔そのままの形を残している。他の集落でも多くの井泉跡を見て来たが、多くの井戸はコンクリートで固められたり、金網で囲まれたりしている。ここの様にそのままの形に触れられるのは貴重だ。昔の様子が浮かんでくる。

トンネルガジュマル

下茂の井泉 (シムヌカー) の側にトンネルガジュマルの案内板があった。以前はガジュマルがトンネル状に茂っていたのだが枯れてしまい。もう一度トンネルになるようにガジュマルを育てているそうだ。
インターネットで以前のトンネルガジュマルの写真があった。左は昔からあったもので枯れてしまった。右はそれ以降に育てたガジュマルだが、これも枯れてしまった。現在は第三世代を育てている。いつ頃、トンネルになるのだろう。
下茂の井泉 (シムヌカー) から、集落へは綺麗な石畳の道が設置されていた。その道沿いには、石積みの水路が通っている。昔からのものかはわからないが、風情のある場所になっている。

拝所 (シクラサラサー)

神座敷 (カンザシチ) の前の道を隔てた林に中に拝所があった。小屋になっている祠、石を積んだ祠、そして井戸跡と思えるものがある。
資料にはこの拝所の説明はなかったのだが、戦前の民俗地図では、シマクサラサーの場所となっている。シマクサラサーは沖縄では広い地域で行われていた悪疫払いの儀式の事で、南城市の集落では今でも行なっている地域があるそうだ。災いや厄が集落に入ってこないよう、集落の入り口に骨付き肉を藁の縄で結び、お供えをし祈祷を行う。この場所は集落入り口でその儀式が行われていたのかも知れない。


タカンリ

中の井泉 (ナカヌカー) / 下茂の井泉 (シムヌカー) から東への道はチンシワイドゥクル (膝が割れる所) と呼ばれる急坂になっている。それを登り切った所がタカンリと呼ばれている。タカンリは高台を意味しており、集落で一番眺めの良い場所で、ここからは集落全体が見渡せる。ここは今は綺麗に芝生が刈り込まれている広場で、若者が集う毛あしびの場所でもあった。
崖の上には遠見岩と呼ばれる岩がある。柵で登れないようになっているが、名前からすると、ここに登って中城湾を行き交う船を見ていたかも知れない。

ジャンクビリ山道

タカンリの南側に丘陵を突っ切り稲福に向かう古道がある。近年、南城市商工会や地元の人達で整備して復活させた道だ。階段を登り山道に入ると、コンクリートで固められた道で歩きやすい。と思っていると、砂利道に変わり、後半は獣道になっている。途中倒木で道を塞いでいるところもあり、終点の稲福の歩道橋 (おこく橋) 付近は鬱蒼として出口が見当たらなかった。

後日、おこく橋を通った。ちょうどここがジャンクビリ山道を上がった所の終点だ。標高130mぐらいの所。ここから津波古が見える。丘陵の木々でお国集落は見えないが、その向こうの斜面に小谷集落がある。

ジャンクビリ山道の途中に側道があり墓への道だった。
昔はこのジャンクビリ山道を通って丘陵の上に出て、糸満にバーキ (竹細工) の行商に行ったそうだ。小谷集落はこのバーキ (竹細工) の特産地だった。1900年代初めまでは竹傘 (ダキガサ) が主な製品だったが、大里村大城のミンタリーガサが出廻ると下火になり、以降ザル作りが盛んになった。竹細工は色々な新しい編み方が考案され、小谷のバーキは県下では知らないものはいなかったほどだ。昔は需要が多く、このバーキ (竹細工) 商売で小谷はかなり潤っていたそうだ。しかし、今は需要もなく、部落でも作れる人は1-2名で、消滅の危機にある。土産物や文化財として作成の依頼はあるが、それだけでは食べていけない。おじいの考えでは、このバーキ (竹細工) で潤っていたため、集落の人々は、他の佐敷、新里、津波古の人のように積極的に仕事を見つけて働きにいかなかった。ハングリーでなかった。それが、バーキ (竹細工) が衰退した際、結果的に裏目に出てしまい、他の集落に比べ発展しなかったと言っていた。


美ら石 (ちゅらいし、ツライシ)

集落内の殆どの文化財は見終わり、麓に降りる事にする。ここから麓に降りるルートは二つあった。一つは大きく迂回する自動車道で、かつては道幅も狭い馬車道だった。もう一つが直線距離でのこの道。今はコンクリートで固められている。

この下り坂が始まる所、適切な言い方では、坂道を上り切った所に、美ら石 (ちゅらいし) がある。坂道を登って来た人が途中に疲れを癒す休憩場として使った腰掛け石だ。また、言い伝えでは、ここで村の美人の女性が恋人を待っていた場所という。それで美ら石 (ちゅらいし、ツライシ) と呼ばれているのだろうか? ここからは見晴らしも良いので、観光スポットになっており、坂道の両脇には桜の木が植っていおり、開花の時期には観光客で賑わうそうだ。
坂道を下った所にも同じような腰掛け石が置かれている。こちらの方は案内板にも資料にも説明はなく、昔からあったのか、新しく造ったのかは分からない。ここはタルグミヤー小 (グヮー) という場所。想像では、昔からあったと思う。畑仕事を終え、家路に向かう坂道を登る前に呼吸を整えたのだろう。そして坂道を登り、美ら石でもう一服、やっと家に帰る。
この坂道は12月にはクリスマスイルミネーションが飾られる。村おこしの一つだ。近年では先程訪れたタカンリにもイルミネーションが追加されている。後一ヶ月でこれが始まるのだが、今年はやるのだろうか?新型コロナがおさまっていれば可能性は高いだろう。この一ヶ月は旧佐敷の集落巡りになるので、機会を見て訪れてみたい。

サーターヤー跡

石畳の道を降りた所には小谷集落のサーターヤーが集まっていた場所になる。ここから海岸線までがサトウキビ畑で、収穫したキビをここに運び圧縮作業の後に、この石畳の坂道を登り家に帰って行った。

西井 (イリーカー)、東井 (アガリカー)

昔はサーターヤーの前には西井 (イリーカー)、137号 佐敷玉城線の道路沿いに東井 (アガリカー) があった。この二つの井戸は小谷集落が現在の丘陵中腹に移動する前に集落を構えていた所で、ちょうどこの二つの井戸の間にあたる。何故、わざわざ不便な高台に移って行ったにだろうか? 17世紀後半の地割制度の施行で強制的に移住させられたなら集落は碁盤目状になっている筈なのだが、集落の区画は不整形なので、それが理由ではなさそうだ。おじいに聞いてみたが、集落が麓から移って来た事は聞かなかったと言っていた。

穂取田 (ミフーダ)

サーターヤー跡のすぐ東側のサトウキビ畑の一角には、昔、穂取田があった。稲作をしていた時代の事で、田植えを始める前にこの水田で苗を植え、その年の豊作を祈り、その後、各自に水田に赴き田植えをしていた。今はその面影はなく、住宅街になっている。
この稲作は1962年のキューバ危機で急速に廃れて行った。このキューバ危機で砂糖の値段が急騰した為、殆ど全ての農家が稲作から収益の良いサトウキビ栽培に転換して行った。おじいの話では、稲作をやめたときから綱引きが無くなってしまった。綱を作る藁の材料の稲の茎が取れなくなったからだと言っていた。当時はサトウキビ1トンでサラリーマンの一ヶ月の給料に匹敵する収入があったそうで、農家は我先に砂糖きび栽培に変わっていった。ただ、このキューバ危機によるブームは長く続かなかったのだが、その後、本土復帰 (1972年) 後~1980年代前半は日本政府により、糖業・サトウキビ作の振興を沖縄農業政策の柱の1つに掲げ、生産者価格の大幅な引き上げを行い、これに誘発されサトウキビ産業は拡大して行った。下のグラフでは実質価格と名目価格が大きく異なっており、政府が高値で購入し、それをかなり下回る価格で販売していたことがわかる。現在は、政府の補助金も少なくなり、サトウキビ栽培だけで生計が成り立つ農家はほとんどなく、花弁栽培や野菜栽培も行なっている。サトウキビ生産をやめる農家もいるのだが、平地にある農地は南城市の土地計画で優良農地の保全地区に指定されており、農地としてしか売買が認められておらず、坪単価2-5千円にしかならない。行政と住民の考えにギャップが生じている。

これで小谷集落訪問は終了。今日は、おじいから色々と昔話が聞けて、より深く小谷集落の事が分かった様な気がする。天気予報はもう雨が降り出している頃なので、ここから寄り道なしで家に向かう。

今日目に止まった花を写真に収めてもの。時々見かけるパキスタシア (左上)、目新しくないが、ポツンと咲いていた日々草 (右上)、これはよくある木百香の様だが、よく目にしていたものより上品 な感じがする (左下)、名前は分からなかった花、初めて見る花だ (右下)

参考文献

  • 佐敷村史 (1964 佐敷村)
  • 佐敷町史 2 民俗 (1984 佐敷町役場所)
  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)

0コメント

  • 1000 / 1000