Okinawa 沖縄 #2 Day 98 (20/04/21) 旧大里村 (12) Inafuku Hamlet 稲福集落
旧大里村 稲福集落 (いなふく)
- 長堂馬場跡 (真境名)
- 欹髻 (力タカシラ)
- 西 (イリ) の墓
- クラシミ井泉
- 勝連小 (カチングヮー)
- 稲福之殿 (イナフクヌトゥン)
- 西 (イリ)
- 西門 (イリジョー)
- 西門井泉 (イリジョーガ-)
- 名称不明 2 (拝所)
- 上御願 (イーウグヮン、上之嶽)
- 山城之嶽 (山グスク)
- ウチバル井泉
- 中の井泉 (ナカヌカー)
- 仲村御嶽 (名称不明 3)
- 中森御嶽 (ナカムイウタキ)
- 大城按司 (ウフグスクアジ) の墓
- 小城井泉 (クーグシクガ-)
- ウツーヌ按司墓群
- ウナザラの墓
- テラグヮー
- 慰霊之塔
- ミ-ガ-
- 稲福寺
- 東の樋川井泉 (アガリヌヒージャガー) [未訪問]
- 西の樋川井泉 (イリヌヒージャガー) [未訪問]
- 稲福公民館 (4月25日 訪問)
旧大里村 稲福集落 (いなふく)
旧稲福集落は知念半島から延びる丘陵上に位置し、南側を除く三方を崖で囲まれている。稲福は歴史も古く12世紀頃に集落ができ始めたと考えられる。かつては名前のとおり稲作が盛んな場所であった。稲福村は丘陵上に立地し、北側の高い場所に12~14世紀に起こったと推測される上御願、東側には14世紀頃に形成された仲村御嶽と中森の三つの御嶽が存在していた。上御願の手前には14世紀頃、上御願地区と仲村御願地区の住民が移動し、稲福殿とそれを囲む旧家群一帯に集落を形成した。稲福殿遺跡 (14~16世紀) として発掘調査がされている。この集落は戦前までの集落で現在は上稲福と呼んでいる。琉球村々世立始古人伝記によれば世立初めは、佐敷同村より来る稲福大主で在所は新地。地組始めは、大里南風原より来る稲福子で在所は升取。
沖縄戦直後、近くに沖縄民政府が設立されたため、旧稲福集落も米軍に接収されてしまい、住民は移転を余儀なくされ、かつて田畑が広がっていたエリアに集団で移住している。
戦後集落が移動しているのがわかる。
大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)
- 御嶽: 山城之嶽 (神名: イノメツカサノ御イベ)、上之嶽 (神名: アカフヅカサノ御イベ)、中森 (神名: 若ツカサノ御イベ)、ハケ森 (神名: ミヤナゴ若ツカサノ御イベ 所在地不明)
- 殿: 稲福之殿
稲福集落で行われている年中祭祀は下記の通り。これを見ると稲福之殿と村の始祖であるイリが重要な拝所となっていることがわかる。集落は丘陵の高台に位置し、常に水には悩まされていたせいかアミン (雨乞い) の御願では多くの拝所が拝まれている。
稲福集落訪問ログ
長堂馬場跡 (真境名)
前回 (4月15日) 訪問した真境名集落にある馬場跡。今日はまずは島添大里グスクのある西原集落まで丘陵を登り、真境名集落の東の丘陵の尾根沿いに稲福集落を目指して走る。真境名集落の区域に長堂馬場跡がある。長い直線コースで馬場跡地は道路になっている。長さ327m、幅23mで沖縄本島南部最大の規模だったそうだ。以前この道は通ったことがあったが、馬場跡とは知らなかった。この馬場では大里、佐敷、知念、玉城の四間切による対抗競馬がおこなわれていたそうだ。馬勝負の際には高宮城ノロによって祭祀があったというので、琉球王朝時代から行われていたことがわかる。
かつての長堂馬場跡の南の端は現在は養鶏場となっており、かつては馬の運動場や水飲み場があった場所。
三山時代にこの場所では1380年に島添大里グスクを手中にし、島添大里按司となった汪英紫と大城グスクを居城とする大城按司真武が対立していた。そして1385年にちょうど双方の居城中間地点の長堂原で戦があった。両社の対立の背景は中城湾の馬天港の領有権がある。1380年に島添大里グスクを汪英紫が奪取する前は先代の島添大里按司 (玉村按司) と大城按司が馬天港を仕切っており、大和、朝鮮、明との貿易で潤っていた。汪英紫が島添大里グスクを攻略したのはこの貿易港である馬天港の支配であったが、大城按司によって仕切られていた。汪英紫にとっては大城按司が野心の妨げとなり、両者が戦うことになった。単なる汪英紫と大城按司真武の戦ではなく、東方 (あがりかた、知念半島の諸按司連合) と南山との勢力争いの中での戦いであった。詳しいことは文章として残ってはいないが、伝承では、序盤は大城按司が優勢だったが、居城の大城グスクが何らかの理由で炎上し、結局は大城按司真武は戦死し、汪英紫の勝利となった。この戦いについてはこの後に訪れる大城按司墓の所で触れることにする。
欹髻 (力タカシラ)
長堂馬場跡の道路を進むと、西側の丘陵地の小山に古墓がある。そこはかっては岩山でその頂部が、カタカシラ (欹髻:王国時代の成人男子の髪型で、伝承では舜天王の右鬢に瘤があり、それを隠すために右側に髷を結い、人々もそれに倣ったのがはじまりという) の形をしていたのカタカシラと呼ばれている。中城湾の馬天港に寄港する唐船の目印になっていた。岩山は1993年に削られ、現在残っている部分 (岩山の下部) が拝所となっている。現在は、真境名集落が旧暦3月の清明祭で御願を行っている。
西 (イリ) の墓
力タカシラを過ぎると、それまで西側が丘陵の山で東側が下りだったのが、逆転し西側が丘陵地の下り斜面となり、東側が山となっている。その東側の小山の中にも古墓がある。ここは旧稲福集落の西端にあたる。稲福集落の始祖の根屋である西 (イリ) の祖先の墓だ。太平洋戦争時には、旧日本軍の弾薬保管所として使われている。表示板もあり、入り口は簡単に見つかったのだが、その中の道は荒れ放題で、道を大木が塞いでいる。その間をくぐり奥に古墓があった。大きな岩の洞窟を利用した墓で入り口は小石が積まれている。
墓のある大岩の裏にも墓とがある。墓の前には壊れた骨壺の残骸が散らばっている。古墓を見終わり道で出ると、その脇に平御香 (ヒラウコウ) が置かれている。年寄は中まで入って拝むのは大変なので、入り口近くの道から遙拝しているのだ。
クラシミ井泉
旧集落の南西部にクラシミ井泉があり、前之井泉 (メーヌカー) とも呼ばれている。もともとは円形の堀抜井泉で、正月の若水 (ワカミジ) や、産水 (ウブミジ)、死水 (シニミジ) 等で使われたという。クラシミ井泉とは、暗い場所にある井泉の意味。
勝連小 (カチングヮー)
クラシミ井泉から少し東に進むと稲福殿への入口がある。そこから稲福殿に向かう。入り口を入ったすぐの右手側に広場があり、その中に石灰岩の祠がある。勝連から移住してきた人の屋敷跡にあるので勝連小 (カチングヮー) と呼ばれている。この屋敷には、木田大時 (ムクタウフトゥチ) が一時居住していたともいわれている。(この木田大時については先に訪れた西原集落の大屋神屋を参照)
稲福之殿 (イナフクヌトゥン)
道を進むと稲福之殿 (イナフクヌトゥン) がある。稲福集落にとって最も重要な拝所で、その祭祀は、大城ノロにより行われ、五月 (稲穂祭)・六月ウマチー (稲大祭) では大城集落の嶺井門中の代表者が来るのを待ってから、祭祀が行われる。かって、大城のンミ (ンミは、漢字の嶺井に当てられる例が多い) という家の長男が、ヰキー (兄弟の意) といわれる神役にあたっていた。稲福集落は、二月ウマチーの際、居神 (イーガン) および、大城から来るノロとヰキーに供するな料理を用意したという。(現在では二月ウマチーでは大城集落のノロ屋敷を訪れ御願している) 稲福之嶽の前には祭祀の際にノロが馬の乗り降りに使った踏石 (写真左下) があった。 稲福殿は、琉球由来記の稲福之殿とみられる。
かってこの山上の平野部に殿 (トゥン) を囲むように集落が広がっていた。上御嶽の場所に無線中継局が改修されることになり、1982年 (昭和57年) に 大阪航空局と協議し、その依頼により、その改修前に稲福殿周辺の発掘調査が行われ、古集落の柱の遺構や土器、陶器、玉、古銭などが多数確認されている。「グスクから御嶽へ 考古学からみた沖縄の聖域 (安里進)」にわかりやすい稲福村の形成についての図が出ていた。これを見ると古琉球の典型的な聖域/集落であることがわかる。
西 (イリ)
上の「稲福村の形成の図」の②と③の旧家と示された場所に、西 (イリ) の拝所がある。稲福集落の村立てを行なった人たちが住んでいた屋敷跡で根屋といわれている。かつては村の祭祀を司る家でノロを出した家の屋数跡ともいわれている。稲福には神役として、ノロ、ヰキーがおり、ノロとヰキーは大城集落から来たという。二月ウマチーでは、カミの香炉はノロが拝み、ウヤファーフジの香炉はイキーが拝むとされ、前者を「ウマチー」、後者を「シチマ」と呼んで区別していた。一般的には五月ウマチーをシチマとするところが多いので、稲福独特の習慣だそうだ。今は子孫がいないため区役員で祭祀を行っている。
西門 (イリジョー)
稲福殿の南約20mの草むらの中にある拝所で西 (イリ) の屋敷跡にある。ここは元屋 (ムートゥヤ―) の一つで、ノロに関係する拝所という。西門の香炉の前で大城ノロや門中の神人がムシロを敷いて座り、御願を行っていた。
西門井泉 (イリジョーガ-)
西門 (イリジョー) の奥は林になっている。その中を入ると屋敷だったころの屏風 (ひんぷん)、礎石、石柱などが残っていた。
その中に井泉の跡がある。西門 (イリジョー) が使用していた井戸跡の西門井泉 (イリジョーガ-) だそうだ。その脇には小さな祠がある。
名称不明 2 (拝所)
稲福之殿 (イナフクヌトゥン) から上御嶽への道を進んだ右手の林の中に拝所があった。詳細は資料には書かれていなかった。
上御願 (イーウグヮン、上之嶽)
道を進むと金網で囲われた那覇航空交通管制部無線中継所入口に上御願 (イーウグヮン) の表示柱がある。琉球由来記の上之嶽 (神名: アカフヅカサノ御イベ) に相当するとみられる。上之嶽は、大城ノロによって司祭された。
上御願の側にもう一つ拝所がある。カジュマルの大木の根元にあるのだが、根が伸びて石の祠を包み込むようになっている。かなり古くからある拝所の様だ。この拝所の詳細は不明だそうだ。
山城之嶽 (山グスク)
上御願の奥が山グスクと伝わっている場所で覇航空交通管制部の敷地なのだが、金網の横から入ることができた。 ここは山の頂部で標高約180mの場所。林の中に拝所がある。戦前はこの拝所を殿小 (トゥングヮ) や御嶽と呼んでいた。琉球国由来記の山城之嶽 (神名: イノメツカサノ御イベ) に相当するとみられる。山城之嶽は、大城ノロによって司祭されていた。拝所付近は、山グスクというグスクだったとも伝わっている。h発掘調査の出土品から12世紀~ 14世紀頃に形成されたと推測されている。山グスクについてまだ調べている最中で、幾つか山グスクに関するものを見つけたのだが、ここ以外にも「山グスク」と呼ばれる場所が具志頭にあり、どちらの事かがまだわからない。分かった時点でここに追加記載することにする。
この場所から東南の玉城方面が臨める。
山グスクと大城グスクの位置関係だが、下の写真の右にある山が大城グスクで標高143m、左側の山が標高180mの山グスクだ。
資料では確認できなかったのだが、山グスクのある稲福は大城ノロの管轄地域だったので、三山時代には大城按司の領土の一部だったと想像している。長堂原の戦いでは、
- ❶ 大城按司が兵を率いて、まずは山グスクに布陣したと思われる。山グスクからは島添大里城が展望でき、島添大里按司の汪英紫軍の動きも手に取るように把握できたはずだ。
- ❷ 汪英紫軍が島添大里グスクから長堂原方面に出陣
- ❷ 大城按司の家臣の佐敷按司 (後の尚思紹) と大城按司の義父の垣花按司が後退する汪英紫軍を挟み撃ちにする計画で待機していた。これは小説 尚巴志伝 (酔雲) で想定されているストーリーだが、よく考えられていると思う。
- ➌ 汪英紫軍が出陣したのを見て、大城按司軍も一気に山を下りて長堂原で衝突したのではないだろうか? 実際に現地の地形を見るとそれが最も起こりえるものと思われる。
ウチバル井泉
稲福殿に戻り、次は東側の仲村御嶽方面へ向かう。「稲福村の形成の図」の旧家①に当たる場所にウチバル井泉がある。
中の井泉 (ナカヌカー)
ウチバル井泉の南側、旧集落の中央部にもう一つ中の井泉 (ナカヌカー) の井戸跡がある。家の形をした屋根が設けられているのでウチガーとも呼ばれている。産水、若水、死水として、また生活用水としても使用されていた。
仲村御嶽
中の井泉 (ナカヌカー) とウチバル井泉の東 (旧集落の東端) の崖の上に拝所がある。「南城市の御嶽」 (2018 南城市教育委員会) では名称不明 3 とし、火ヌ神、また、久高島への遥拝所とも考えられているとある。近くの佐敷の小谷集落は、当所を雨乞い御嶽とし、アミシの時に拝んでいるそうだ。別の資料ではここが仲村御嶽となっている。このあたりは仲村御嶽遺跡が発掘され、14世紀ごろのものが発掘されている。また集落はこの辺りまで18世紀から19世紀にかけて拡大されている。
仲村御嶽の前の道を奥に進むとコンクリート造りの拝所がある。詳細は不明。その側の草むらの中には井泉跡 (名称不明4) があるそうで、村の人は近くの道から遥拝している。
中森御嶽 (ナカムイウタキ)
仲村御嶽から南側にある自動車道路を渡った所の丘に中森御嶽 (ナカムイウタキ) がある。大城グスクへの遙拝所といわれている。琉球国由来記にある中森 (神名: 若ツカサノイベ) と思われる。中森は大城ノロにより可祭されていた。
中森御嶽 (ナカムイウタキ) から大城按司の墓に向かう途中にビューポイントがあった。中城湾が一望でき、与那原から西原さらに向こうには中城まで見渡せる。 (写真上) また、反対側には知念半島の先端が見えその手前には佐敷の村が広がっている。(写真下)
大城按司 (ウフグスクアジ) の墓
集落から離れ南側には長堂原の戦いで戦死した大城四代城主 大城按司真武が葬られていると伝わる墓がある。旧大里村の南風原、西原に多くあったボーントウー墓形式で造られている。丸い石積みが坊主頭に似ていることから坊頭墓と書かれることもある。この墓は元々は大城按司真武が自刃した場所と伝えられている稲福集落の西側に葬られ、小石を丸く積み上げて塚になっていたそうだ。その後、いくたびか改築され、1892年 (明治25) に現在地に移築された。墓の入り口には「琉球政府文化財保護委員会、重要文化財」と刻まれた石柱が建っている。米軍統治時代のものだ。 (写真左中) 墓の横には漢文で説明を刻んだ石碑が建てられていた。漢文なので所々しかわからない。
長堂原の戦いと大城按司真武の最期について伝承があり、これが一般的に語られている。
- 大城按司真武は長堂原の戦いでは、戦に勝ったものの、帰路、自軍の旗持ちが過って旗を倒してしまった。戦に出る前に城中の家臣に、旗が倒れたら、敗戦とみなし城を燃やせと命じていたので、旗が倒れたのを見た城中の家臣は城に火を放った。大城按司は城に火がついたのを見て茫然としたが、その大城按司に対して、敵の伏兵が斬りかかり、大城按司は応戦の末カ尽きて自刃した。
これには色々な疑問点がある。
- 戦に勝ったとあるが、島添大里グスクまで攻めているような伝承などはない。長堂原の戦いでは優勢に戦いを進めたということだろう。まだまだ戦いは続くと考えていた筈。
- 旗が倒れたら、敗戦とみなし城を燃やせと命令していたとあるが、城主がこのような命令を下していたとは考えにくい。
- 実際に大城グスクに登り、長堂原方面を見るが、戦があっただろう場所は見通せるような地形ではない。
真実は異なっているだろう。今まで読んだ三山時代の歴史小説の中で尚巴志伝 (酔雲) がいろいろ調べ、仮説を立て物語を進行させている。なるほどと思えるストーリーだ。
- この戦いは、勢力拡大で馬天港を狙う汪英紫率いる南山国と英祖王統の三代玉城王に連なっている東方同盟との争いと見ている。1380年に汪英紫が家督相続の争いの渦中の島添大里グスクは玉城按司の弟が先代島添大里按司であったので、玉城按司は汪英紫に対しての反発は大きかったであろう。大城按司真武の父親の先代大城按司は玉城王の息子で当時の玉城按司は大城按司真武の兄弟ともいわれている。その他の東方の有力按司とも血縁関係にあった。このような背景で、長堂原の戦いは大きな対立の中での出来事として捉えている。
- 汪英紫が1380年に島添大里グスクを奪取する以前、東方の有力按司は島添大里按司、玉城按司、大城按司、糸数按司の4つと思われる。それぞれが血縁関係でつながっている。まず玉城王の息子の西威が1349年に察度に倒され、玉城按司の勢いは失われていた。更に、島添大里をとられ (1380年)、大城按司も倒され (1385年) この後は東方は大した抵抗もできず、汪英紫とは憑かず離れずの関係となる。東方の按司たちの同盟関係もリーダーがいなくなってしまったことにより以前のような固いものではなくなっていく。その中で大城按司の家臣であった尚思紹、尚巴志親子がリーダーとなり、琉球を統一することになる。大城按司が消えたことで尚思紹、尚巴志親子の出世が開けたともいえる。そのまま大城按司の家臣であったなら、第一尚氏琉球王朝は生まれなかったかもしれない。
この様な背景で、酔雲さんは次のように長堂原の戦いを描いている。そのストーリーに納得できない部分は自分なりに考えたストーリーと差し替えている。
- 長堂原の戦いの前の両軍の状況は東方同盟軍は知念按司、玉城按司、糸数按司は島添大里グスク、八重瀬グスク、玻名グスク、具志頭グスクからが終結していた新城南山軍の北上を阻止するために新城を包囲していた。大城グスク軍は山グスクに移動し布陣。東方同盟軍の佐敷グスクと垣花グスク軍は長堂原の北側に尾根を挟むように伏兵を置き、島添大里軍を挟み撃ちにする計画だった。
- 南山軍の大将であった汪英紫は一枚上を行き。両軍がにらみ合っている間に新城の汪応祖を別動隊として大城グスクに向かわせていた。汪英紫は機を見て島添大里グスクから打って出て長堂原に大城グスク軍を誘い出す。できるだけ大城グスク軍を大城グスクから離す為、負け戦を装う。
- ➍ 汪応祖が手薄となった大城グスクを攻め城を焼き払う。(酔雲さんは調略で大城グスク内部の人間に火を付けさせたと描いている)
- ❺ 大城グスク軍はグスクが炎上したのを見て、急遽、グスクに向う。
- ❻ 動揺した大城グスク軍を島添大里軍が追跡。大城グスク軍は既に大城グスクは汪応祖の新城軍が制圧し、こちらに向かっているのを見て、前も後ろも敵に囲まれている状況を知るに至る。もはやこれまでと自刃とあいなった。同時に伏兵を島添大里グスク近くに潜ませていた佐敷・垣花軍へも襲い掛かる。
- ❼ 当初の作戦が崩れ去ったと知った佐敷グスク軍と垣花軍は勝機無しと判断して島添大里グスクトから逃れ、それぞれの居城に引き返す。
小城井泉 (クーグシクガ-)
大城按司 (ウフグスクアジ) の墓の前の道路を渡って小城山の崖を下ると井戸跡がある。小城井泉 (クーグシクガ-) と呼ばれている。詳細については書かれていない。
ウツーヌ按司墓群
小城山には大城按司に関係する別の墓がいくつかある。二か所あり、ウツーヌ按司墓群と呼ばれている。小城山の谷に下ると墓群への入り口に「按司のお墓」「ヌルのお墓」の石碑があり、もう一度、崖の石段を登って行く。
ここにある按司墓は長堂原の戦いで敗れ自刃した大城按司真武の父親で先代の大城按司 (三代目) のカヌシーの墓と考えられている。カヌシーは英祖王統四代王の玉城王 (前玉城按司) の次男 (長男としている資料もある) といわれている。1904年 (明治37年) に麻氏先祖之墓の石碑が建てられている。大城按司真武がこの麻氏の先祖にあたる。この墓は御寵之墓 (ウチューヌハカ) とも呼ばれ、大城按司カヌシーが愛用していた寵 (ウチュー、かご) が納められていたという。何故ウツーヌ按司墓とよばれているのかと思っていたのだが、この寵 (ウチュー) から来ているのだと納得。
按司墓の奥にも墓があるようで石の階段がある。そこにも香炉が設けられている。
階段を上った所にヌル墓がある。当時はヌルは按司の血縁者から選ばれていたので、妹や娘、叔母のどれかの墓なのだろう。代々のヌルを葬っているのかもしれないが、大城按司真武時代以前のヌル、多分、先代の大城按司三代目のカヌシーの時代のヌルだろう。
ヌル墓の更に奥にも二つの古墓があった。この墓も大城按司に係わる人の墓だろう。大城集落の村立てに関係している三様 (ミサマ) の仲村渠 (ナカンダカリ) 門中と上江洲 (イージ) 門中の古墓といわれている。
ウナザラの墓
ウツーヌ按司墓群からもう一度元の場所に戻り100m程西に行ったところにウナザラの墓がある。大城按司の妻の墓だ。ウナザラとは妃を意味しており、人の名前ではない。いつの時代の按司の妻の墓なのかは資料でははっきりとは書かれていないのだが、大城按司真武の妻のようなニュアンスが出ていた。伝承では大城按司真武が戦いに負けたと思い込み、妃は悲嘆にくれ子供を崖下に落としたとある。
テラグヮー
もう一度旧稲福集落に戻る。集落の南側の文化財を巡る。まずはテラグヮーと呼ばれる拝所に来た。この拝所ではビジュル (霊石) を拝んでおり、豊作や子宝を祈願の際に拝まれ、子供が生まれた時にも拝まれている。テラグヮーとは寺小と書くのだろうか?
稲福慰霊塔建立記念。1972年12月28日。右上のハート型の石碑が慰霊塔。旧稲福は野戦病院があり、人員として徴用されたことから避難が遅れ、たくさんの犠牲者が出てしまった。
慰霊之塔
テラグヮーの前に沖縄戦で犠牲になった村の住民の慰霊碑が建っている。稲福出身の戦没者180余名の冥福を祈っている。沖縄戦当時の稲福の人口がどれぐらいだったのかは見つけられなかったが、1880年では329人、1960年では238人とある。想像するに400-450人程ではなかったかと思う。そうすると180人の犠牲者は非常に多い比率と思われる。旧大里村では最も犠牲者が多かった集落ではなかろうか?慰霊碑の前には戦没者の名が刻まれている。家族単位で書かれているのだが、多くの家族は複数の犠牲者をだしている。慰霊塔の前で黙祷。何故これほど多くの犠牲者を出したのだろうか?沖縄戦当時この集落には陸軍病院壕が置かれ、集落住民も奉仕に駆り出されていた。おそらく強制的にやらされていたのだろう。その結果、兵隊が撤収するまでは疎開ができず、戦火に多くの人が巻き込まれたのではないかと思う。この集落は戦後もつらい時期を迎えることになる。米軍の捕虜収容所生活の後、大里村住民にも村への帰還が許され、その準備として大城集落にカリ収容所が造られそこに移ったのだが、稲福集落には旧佐敷村の新里に沖縄民政府が置かれ、そのスタッフが旧稲福にテントを建てそこから沖縄民政府に通っていた。事実上接収されていた。そこで稲福集落の人々は帰る村が無くなってしまった。大城集落への合併も勧められたが、住民は村の再興を希望し、旧稲福集落がある丘陵の麓の畑を整地し、家を建て村を造ったという。村は移ったが、慰霊碑はもとの村に建てる事を切望したのだろう。今まで訪問した集落で戦後強制移転を余儀なくされた集落が一つあった。旧高嶺村与座集落だが、その集落は元々集落の隣にあった製糖工場跡地への移住だった。
ミーガー
テラグヮーと慰霊之塔之前の道を下ると畑になっている。そこに井泉がある。新井泉 (ミ-ガ-) と呼ばれているので比較的他の井泉に比べて新しいものだろう。井泉は石垣で囲まれている。ポンプが設置されてはいるが、井泉は涸れてしまっている。
稲福寺
畑の奥に稲福寺、または、熱田寺と呼ばれている拝所がある。集落の人はティラと呼んでいる。稲福寺と言っても仏教寺院ではなく、昔、人々は日頃通る道で必ずある石につまずいていたので、大城集落の熱田門中の祖先がその石を掘り起こしてみると仏像が出てきた。それで、祠を造りその仏像を安置したのがこの拝所の始まり。現在、仏像はない。大城集落や門中等が拝んでいるそうだ。
東の樋川井泉 (アガリヌヒージャガー) [未訪問]
村から外れた所に二つ井泉があると書かれている。両方とも村の中にある井泉が涸れた際に使われていたそうだ。一つは旧集落の南東部にある東の樋川井泉 (アガリヌヒージャガー) で、クラシミ井泉が涸れた時に使用したという。村からは距離もあり坂道を下った所で、水の運搬は大変だったと思う。稲福集落では現在拝まれていないせいか、地図で示された場所に行くも、資材置き場になっており、探すことができなかった。
西の樋川井泉 (イリヌヒージャガー) [未訪問]
もう一つは旧集落の西方の傾斜面下部にある西の樋川井泉 (イリヌヒージャガー) で、この井泉も、中ヌ井泉やクラシミ井泉が涸れた時に使用したという。昔は村から道があったようだが、今は雑木林に覆われて、村からこの井泉には行けなくなっている。案内板では、丘陵の麓の真境名集落から道が通っている様に書かれていたので、その道でこの井泉に向かったが、途中で道はなくなっている。この道の延長線を丘陵の中腹まで行けば見つかるかもしれないが、草が伸び放題で進むのも、見つけるのも難しそうなので断念。この井泉も稲福集落では現在拝まれていないそうだ。
今日の散策で目に留まった花。左はハヤカズラ、右はグラジオラスの一種。
これで旧稲福集落巡りは終了。現在の稲福集落には戦後造られたので文化財などはないのだが、どのような集落になっているのか興味があるので、次回大城集落を訪問する際に通ってみることにする。
稲福公民館 (4月25日 訪問)
4月25日に大城集落を訪問の際に下稲福ト呼ばれている戦後強制移住させられた集落を訪れてみた。新しい場所なので昔からの文化財などはない。公民館の前にはやはり酸素ボンベの鐘が吊るされていた。一部の住民はもとの集落があった上稲福に戻ってはいるが、大部分の住民は下稲福に残った。当時は農業が主体であったので、上稲福からのうちに通うよりは、この下稲福の方が便利だろうし、子供たちの学校や商業施設も上稲福よりもはるかに条件が良いことが理由だろう。ただ、拝所や慰霊碑などはもとの上稲福に残している。下稲福に移っては来たが、住民にとって上稲福は今でも重要な場所として残っているようだ。
参考文献
- 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
- 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
- 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
- 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
- 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
- ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
- グスクから御嶽へ 考古学からみた沖縄の聖域 (安里進)
- 稲福遺跡発掘調査報告書 上御願地区 (1983 沖縄県教育庁文化課)
- 尚巴志伝 (酔雲)
- 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2016 伊敷賢)
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