Okinawa 沖縄 #2 Day 99 (25/04/21) 旧大里村 (13) Oshiro Hamlet 大城集落

旧大里村 大城集落 (おおしろ、ウフグシク)

  • 龕屋跡
  • 大城公民館 (村屋跡)
  • 床 (トゥク)
  • 御風水 (ミフンシ)
  • 新井泉 (ミ-ガ-)
  • 上江洲井泉 (イージーガ-)
  • 名称不明の拝所
  • ムーチェー (モチヤイノ嶽)
  • 仲村渠 (ナカンダカリ)
  • グシチ井泉 (ガ-)
  • 下の南風殿内 (シチャヌヘーリンツ)
  • 上の井泉 (イーヌカー)
  • ノロ殿内 (ドゥルチ)
  • ヌル井泉 (ガ-)
  • 上里 (イーザトゥ)
  • 上の南風殿内 (イーヌへ―リンツ)
  • 按司井泉 (アジガ-) [未訪問]
  • 大城 (ウフグスク) グスク
  • 世直し (ユヌーシ、大城之嶽)
  • 三様 (ミサマ)
  • イジャムトウ
  • 大威部 (ウフィーイべ)
  • 下の原 (シチャヌバラ)
  • 御火の神 (ミヒヌカン)
  • アカバンターへの遙拝 [未訪問]
  • ウツーヌ按司墓群、ウナザラの墓 [4月20日訪問]
  • テラ井泉 (ガ-) [未訪問]
  • タマガハルガー [未訪問]
  • 旧イーバルが-、新イーバルガ- [未訪問]


前回、4月20日に稲福集落を訪問した後数日間は台風2号の影響で連日雨と強風で、今日やっと晴れ間が見えた。ようやく集落訪問を再開。今日は稲福の長堂原之戦いで戦死した大城按司の居城がある大城集落に向かう。これで旧大里村にある18の集落の最後となる。

戦後強制移住させられた下稲福集落経由で大城集落に向かう。下稲福集落については4月20日の稲福集落訪問記に追加している。



旧大里村 大城集落 (おおしろ、ウフグシク)

大城集落は旧玉城村の仲村渠などから移り住んだ三様 (ミサマ) の仲村渠家、下江洲家、上里家によって興されたといわれ、この古い時代をサチガユー (先の世) と呼ばれる。琉球村々世立古人伝記によれば村立初は、玉城村よりの大域大主で在所は島中、地組始は、大里西原村よりの大城按司で在所は大屋。後の按司時代には、玉城城主の次男 (長男とも) が大城グスクを改修し、三代大城按司として君臨したといわれ、この時代をナカノユー (中の世) という。この大城按司の子孫が大城門中だとされ、野呂元 (ヌルムトゥ) の嶺井 (ン三) 腹系統と按司元 (アジムトゥ) の島仲腹系統がある。琉球王国時代には王府から大城ノロが任命され、大城と稲福の祭祀行事を司っていた。南島風土記には大城、稲福、目取間は玉城間切の一部だったのを、元文二年に大里間切に変更された。


旧大里村の人口の推移を見ると、明治時代から2006年頃までは、大規模集合住宅地地を除けば最も人口の多い地区だった。その後も人口は増加しているが、その伸び率は稲嶺、島袋、仲程程ではなく、集合住宅地区を除けば4位、含めれば2位といった状況だ。

集合住宅地区を除いた大城地区の人口の推移

民家の範囲も2000年を過ぎて広がりつつある。集落の北西には大規模集合住宅地区が1980年以降に建設されており、旧大里村の中では比較的生活には便利な地域になっている。


大里村史 通史に記載された拝所 (太字は訪問した拝所)

  • 御嶽: 城内ノヤラザ嶽 (神名: 火鉢ノ師セジ、所在不明)、大城之嶽 (神名: コバヅカサノ御イベ、所在不明)、大城之嶽 (神名: ヨシフシノ御イベ、世直し)、大森 (神名: 大森之御イベ、所在不明)、モチヤイノ嶽 (神名: コバヅカサノ御イベ、ムーチェー)
  • 殿: 大城之殿 (所在不明)


大城集落で行われている年中祭祀は下記の通り。大城集落で現在まで行われている祭祀はそれほど多くない。その中でも多くの祭祀には大城グスクや大城按司に係わる拝所が御願されている。意外だったのが、井泉への御願が一祭祀、一か所のみとなっている点だ。他の集落では井泉への御願が多いのだが、大城集落では異なっている。


大城集落訪問ログ


南風原町山川と南城市知念吉富とを結ぶ県道86号南風原知念線沿いの大里集落の入り口に歓迎のシ―サーガ置かれている。愛らしいしシーサーだ。この坂を登ると大城集落に入る。


龕屋跡

集落西端にある龕屋で、県道86号南風原知念線沿いに建てられていた。1975年頃に、この道路拡張工事の際に解体されお坊さんに祈願をさせ、焼却し、現在は建物もなくなり、小さな花壇となっている。このころには風葬もなくなり、火葬にかわっている。龕屋に納められていた死者を運ぶ龕も不要になっていたのだろう。集落によっては、現在でも龕屋や龕を保存したり、撤去はしたが香炉を置いて、村で御願の対象にしているが、ここ大城集落でもこの龕屋跡は龕祝 (ガンエー) の際に御願されている。ここは大城集落の西の端に当たる。


大城公民館 (村屋跡)

今日は大城グスクへの山道になるので、公民館に自転車を停め、集落内の文化財も含めて巡ることにする。先ほどの集落入り口で、犬の散歩をしていた年配の女性に挨拶をしたのだが、またこの公民館で出くわした。今度は女性の方から声をかけてくれ、大城集落についていろいろと教えてくれた。公民館の前は広場になっており、年に二回綱引きが開催される。一回目は旧暦6月26日のアミシノ御願の際に綱引が行われ、雨乞の神に奉納される。二回目は旧暦7月17日のエイサーの際に行う。この日は沖縄のお盆の最終日のウークイにあたる。お盆は本土と同じく3日間行う、初日をウンケーで先祖の霊を迎える。2日目はナカビ (ナカヌヒー) で先祖と一緒に過ごす日、3日目がウークイで先祖の霊を送り返す。大城集落ではお盆3日目のウークイをエイサーと呼んでいる。エイサーは沖縄の踊りだが、各地でウークイの日に踊られている。それで、この地ではウークイの日をエイサーと呼んでいるようだ。女性の話では、2つの綱引きのうち一つは純粋に御願の為で、もう一つが村でみんなが楽しむためのものだと教えてくれたが、どちらがどっちなのかは聞き逃してしまった。女性はこの集落をウフグシクと呼んでいた。グスクをグシクと発音している集落も多いようだ。公民館の前の広場には倉庫があってそこには綱引きの模様が描かれている。きっと祭の際の旗頭などの道具類が保管されているのだろう。公民館の前は観覧席になっている。ここで綱引きを見るのだ。

村では西と東に分かれ、東西合わせて約500名が引綱引きを行う。4本の旗頭が見える。旗頭の頭にあるトゥールは東が孔雀と水菖蒲、西が軍配と菊が置かれ、見事だ。昨年は新型コロナで区民による綱引きは中止となったが、祭自体は役員の実の参加で行われたそうだ。今年も開催は無理そうだと言っていた。

公民館の観覧席を登ると、恒例の酸素ボンベの鐘が吊るされている。今でも機会あるごとに鳴らされているそうだ。もう一つ目に付いたのが釣り鐘。大里村大城青年團の鐘と呼ばれ、沖縄戦で米軍が戦利品としてカリフォルニアの博物館に展示されていたものが、平成4年に返還されたものだそうだ。その隣には戦没者碑の絆之碑がある。慰霊碑の奥には戦没者の氏名が屋号単位でが刻まれている。一家8名が一度に亡くなった屋号が3軒もあり、合計で280人が犠牲になっている。沖縄戦直前の大城集落の人口のデータは見つからなかったが、1880年 (明治13年) で約700人なので800-850人程はいたと思われる。そうすると集落人口の30%から35%が戦争の犠牲になった勘定になる。かなり高い比率だ。先に訪れた稲福集落も高い比率なので、この地域が激戦地であったことが窺われる。終戦 (昭和20年) 直後、練開先から帰還者の一時的な収容所であったことから、約5千人が居住していた。


床 (トゥク)

公民館内には二つの拝所があると資料には書かれていた。一つは公民館の中にある舞台上、の右側にある拝所で掛け軸の下に香炉が置かれている。公民館の床の神と呼ばれ、村落祭祀の時は必ず最後に拝むそうだ。


御風水 (グフンシ)

もう一つは公民館の敷地内の建物の外の奥に祠が建てられている。御風水 (グフンシ) で、ヤマプシとも呼ばれている。本土から来た山伏の遺骨を祀っているところからヤマブシと呼ばれているそうだ。小説尚巴志伝でも尚巴志を助ける本土から来た山伏が登場する。作者はここからヒントを得て、物語に登場させたのかもしれない。フンシは風水が転訛した語形で、琉球国ではお墓の異称だそうだ。ヤマプシとはお坊さんのことという。物知りで、大城の人たちから尊敬されていたという。


新井泉 (ミ-ガ-)

集落内には幾つかの井戸跡がある。新井泉 (ミ-ガ-) は集落の南西の端、県道86号南風原知念線沿いにある。この井戸の情報は見つからなかったが、新井泉 (ミ-ガ-) と呼ばれているので、集落内の井戸では比較的新しいものだろう。


上江洲井泉 (イージーガ-)

三様 (ミサマ) の一つの上江洲 (イージ) 門中の屋敷の裏にあったことから、上江洲井泉 (イージーガ-) と呼ばれている。井戸は蓋がされているが、ホースが差し込まれており、現在でも何かに使われているようだ。井戸の奥には拝所があり、向かって左から火之神 (ヒヌカン)、依神 (イガン)、根神 (ネガン)、土帝君 (トゥーティークン)


名称不明の拝所

集落内を散策していて道路脇に拝所があった。この拝所については全く情報がない。このような名もない拝所が、集落巡りで、見つかることがよくある。


ムーチェー (モチヤイノ嶽)

集落東南から畑の中にムーチェーと呼ばれる拝所がある。嶺井ヌ苗代田、ムーチェーヌ御嶽とも呼ばれている。琉球国由来記の「モチヤイノ嶽 (神名:コバヅカサノ御イベ)」に相当すると考えられている。この場所は大城ノロの所有地だったとされ、大城ノロにより司祭された。この「モチヤイ」が時代と共に、モチヤイ、ムチャイ、ムチェー、ムーチェーという変化を辿ったと見られる。祠の横に「大城集落での稲作の発祥地」と書かれた石碑が置かれている。昔、鶴が一羽飛んできて落とした稲穂から大城の稲作が始まったという伝承が残っている。

今まで沖縄南部の集落を100程訪問してきたが、稲の水田は見かけたことがない。しかし、ウマチーは麦と稲の豊穣祈願祭、収穫祭だ。御穂田 (ミフーダ) というウマチーで供える御酒 (ミキ) の原料の麦や稲の水田を拝んでいた拝所も残っている。泡盛の原料も米なのだ。現在は稲策は沖縄北部の離島で行われているぐらいで本島ではほとんど行われておらず、米は沖縄の農業産出額の1%にもならない。琉球王朝時代は稲作が中心だったそうだ。当時は貢祖として米を治めることになっていたからだ。1879年 (明治12年) の廃藩置県以後は貢祖の金納が認められたことにより、サトウキビを栽培する農家が増え、更に1888 年 (明治21年) の甘庶作付制限撤廃によって、水田をさつまいも畑に転換したことで、稲作からサトウキビとさつまいもが中心の農業に変化した。1958年 (昭和32年) に大城ダムができて水の確保により一時期は稲作が盛んになったのだが、1962年 (昭和37年) のキューバ危機発生以降の砂糖価格の上昇により、多くの稲作農家がサトウキビ栽培に変えていった。それ以降、稲作を再開することはなかった。気候が本土と比べて稲作には不利なことや、輸送コストで競争力がないことがある。麦も栽培には手間がかかり、手間がほとんどかからないサトウキビ栽培から戻ることはなかった。このような背景で、稲や麦の栽培は姿を消していった。ただ、文化としてウマチーなどが残っている。



仲村渠 (ナカンダカリ)

公民館まで戻り、今度は集落の北側、大城グスクのある山の麓の文化財を巡る。公民館の後ろの道を挟んだところにに仲村渠 (ナカンダカリ) の拝所がある。仲村家は三様 (ミサマ) と呼ばれる村立てに係わった旧家の一つで根神を出す家だった。この拝所には綱引を行う前に安全祈願の拝みに来ている。


グシチガ-

仲村渠 (ナカンダカリ) の前の道を北東に進んだところに井戸跡があった。資料の「大里村の御嶽」には載っておらず、公民館前にあった案内板でも名前だけで説明はない。ここを通っていた女性が言うには古くからあった井戸で村ではよく使われていたそうだ。ここら辺が集落の境になり、これより北西は大城グスクの山の中になり、大城集落の聖域で多くの拝所や古墓がある。


下の南風殿内 (シチャヌヘーリンツ)

グシチガ-と仲村渠 (ナカンダカリ) の間に山方向に上る道があり、少し上った所に下の南風殿内 (シチャヌヘーリンツ) と呼ばれる拝所がある。大城按司の三男の住居跡といわれている。三山時代、ここには大城グスクへの門があり、グスクへの道があったという。この後で大城グスクで出会った人からは、大城集落からグスクへの道は二つあったと教えられた。こちらは西 (イリ) の道だそうだ。今は雑木林に覆われてまだ道が残っているかどうかと笑っていた。



上の井泉 (イーヌカー)

もう一度、公民館のところまで戻り、同じ道を西側に行くと、山への別の道がある。かなりの急坂になっている。その坂の半ば程に上の井泉 (イーヌカー) がある。名前のごとく集落の上にある井戸だ。今も水は豊富である。かつては産水 (ウブミジ) や若水 (ワカミジ)、死水 (シニミジ) として、また飲料水としても使用されたという。

綺麗な水なのだろうか、井戸には多くのシリケンイモリが泳いでいた。これほど多くのシリケンイモリの集団を見たのは初めてだ。


ノロ殿内 (ドゥルチ)

上の井泉 (イーヌカー) の急坂を登り切った所にノロの屋敷の跡がある。戦前と戦後の一時期、大城神社と呼ばれていた。屋敷跡にはコンクリート製の祠がある。祠への階段の上に一つ香炉があり、これは糸満市字大里にある二股 (タマター) グスク (大城森グスク) 内にある神元の大按司子 (ウフアジシー) の古墓への遥拝所。祠の中の向かって左にある三つの香炉はヌル火の神といわれ、この後訪れるグスク内にある大城城内の大イベ、名称不明の墓 (大イべの側)、下ヌ原、御火の神、アカバンター、三様、世直しへの遙拝所となっている。祠内にあるもう1つの祭壇はウチューの按司墓への遙拝所。ここに住んでいた大城ノロは、大城村だけでなく稲福村も管轄していた。


ヌル井泉 (ガ-)

ノロ殿内 (ドゥルチ) の前の道を西に行ったところに、大城ノロが使用したといわれるヌル井泉 (ガ-) がある。大城集落では旧正拝みで御願している。


上里 (イーザトゥ)

更に西に少し進んだところに上里 (イーザトゥ) の拝所がある。上里 (イーザトゥ) 家は三様 (ミサマ) と呼ばれる旧家の一つ。現在、上里家の子孫は大城集落にはおらず、上里家の移動先も明らかでないそうだ。


上の南風殿内 (イーヌへ―リンツ)

上里 (イーザトゥ) の西には大城按司の次男の住居跡といわれる場所があり、大きなガジュマルの根元に拝所がある。石灰岩の祠があるそうなのだが、ガジュマルの根が巻き付いて祠の形は確認できないほどだ。随分と古くからある拝所の様だ。ここには大城グスクの入口があったとも伝わっている。ここがグスクへの東 (アガリ) の道だろう。


按司井泉 (アジガ-) [未訪問]

資料の「南城市の御嶽」には掲載されていないのだが、公民科のところにあった案内板には上の南風殿内 (イーヌへ―リンツ) の奥の雑木林を登った所に按司井泉 (アジガ-) があると紹介されていた。説明板によると「大城按司が使用した方形の掘り抜き井戸で現在は水が枯れている。」と書かれていた。雑木林の中に入ると道らしきものがある。道があるので、底をたどれば井戸に行くだろうと、それらしきものがないかと探しながら進んだのだが、結局見つからなかった。この道が、後で教えてもらった東 (アガリ) の登城道だろう。

とにかく道を進む。この時にはこの道がグスクへ通じているとは知らなかった。案内板では出ていない。大城グスクへは別の自動車道路で行くようになっている。いつもそうなのだが、このような山道では行き止まりまで行くことにしている。山の中に道があるのは何らかの理由で、その先に先祖の古墓や拝所などがあることがある。道を進むとだんだんと道は急勾配になり崖の上が見えてきた。多分その上が大城グスクだろう。道の終点付近はロープが張られて、それを伝って頂上に出た。やはり大城グスクだ。去年来た時の広場に見覚えがある。一般の人たちにはつらい道だろう。それで案内板には出ていないのだ。



大城 (ウフグスク) グスク

やっと今日のメインコースの大城グスクに到着。大城集落の背後の標高143mの単独の山の頂にある。このグスクは発掘調査が実施されており、その発掘物は13世紀後半から15世紀半ばのものであると推測され、15世紀半ばのものと推測される陶磁器などはほとんどが火熱痕が見られ、16世紀半ばに火災で焼失し、その後再建はされず廃城になったと考えられている。築城時にあった石垣は首里城建設時に移されたとして、現在では一部しか残っていない。

この大城グスクの歴史を調べたのだが、三山時代の系譜には多くの「大城按司」が登場してくる。大城グスクと呼ばれるグスクもこの他にもあるので、どの大城按司がこの大城グスクに係わりがあるのかさらに調べると、「琉球王国の真実 琉球三山戦国時代の謎を解く (2016 伊敷賢)」に書かれていた。それを図に書き起こしてみたのが下記のもの。

  • この大城グスクがある付近には12世紀までは天孫氏王統系の玉城一族がいたとされている。その後、12世紀末から13世紀中に栄えた舜天王統系の先南山の子孫と13世紀中から14世紀中に栄えた英祖王統系の仲南山の子孫の間で糸満市旧高嶺間切の大里村を中心に勢力争いが行われていた。大里村に大城森グスク (タマターグスク) を訪れたが、そこを居城にしていたのが舜天王統系の先南山の与座世之主の息子、孫の大城按司だった。更にその次の代になってこの旧大里村の大城にグスクを築かせ、按司として送り出した。これがこの大城グスクの初代按司に当たる。高嶺の大城森グスク (タマターグスク) の長男の按司を西山城按司、ここにグスクを築いた弟の按司は東大城按司と呼んでいた。
  • 東大城按司は次の二代まで続くのだが、舜天王統系の先南山と英祖王統系の仲南山の抗争の中で、玉城王の息子であるカヌシーが二代東大城按司に替わり、三代大城按司となる。二代東大城按司は高嶺の大城森グスク (タマターグスク) に移り西大城按司となった。
  • その後、仲南山から分かれた後南山 (南山王) の汪英紫が1380年年に島添大里グスクを落とし、玉村按司に替わり島添大里按司になった事から、大城按司との対立が起こり、幾たびかは戦が行われたが、均衡状態であった。
  • 大城按司カヌシーの死後、息子の真武が大城按司になり、1385年に長堂原の戦いで汪英紫に敗れ自刃となった。これで、大城グスクには、汪英紫の次男の汪応祖が五代大城按司として入城。
  • 1389年に汪応祖が豊見グスクを築き豊見グスク按司となった時に、弟の屋冨祖が大城グスクに入城し、六代大城按司となる。
  • 1394年に島添大里按司の汪英紫が島尻大里グスクを奪い、南山王承察度を追放し、山南王となる。島添大里グスクに屋冨祖が入り、島添大里按司になる。この時に大城グスクには按司を置かず島添大里グスクの出城とし、島添大里按司の家臣を派遣していた。
  • 1402年、佐敷グスクの小按司の尚巴志が大城グスクを攻め取り、島添大里城攻略の拠点とし、同年、島添大里城を攻め屋冨祖を討ち、島添大里按司となり、垣花按司に匿われていた大城按司真武の遺児の真宗を七代大城按司とする。尚巴志の大城グスク攻めについては汪英紫に敗れた大城按司が尚巴志の外祖父で、その仇討ちと沖縄の子供達には教えられるのだが、事実は系譜のごとく、滅ぼされた大城按司と祖父の佐銘川按司 (鮫川按司、鮫皮按司) とは血の繋がりはない。沖縄でも本土と同じく仇討ち物語は人気があり、組踊の格好の題材となっている。

尚巴志の大城グスク攻めも組踊の題材になっている。主人公は大城按司真武の遺児の真宗で父の仇討ちをするといったないようだ。伝わっている組踊は二つあるそうだ。大城集落に伝わっている「大城大軍」と田里朝直作の「大城崩 (うふぐしくくじり)」で後半部分の内容が異なっている。

  • 大城の組踊「大城大軍」は、「大城按司(真武)が島添大里按司との戦いに敗れた後、大城按司の子である若按司(真宗)とその妹が守役の外間子に助けられ、彼の故郷である玉城村の垣花に隠れ住み、さらに島添大里按司の捜索から逃れるために那覇の儀間胡城 (現 那覇市垣花) に移り、隠れ住んで島添大里按司への仇討ちの機会を狙っていた時、外間子が住吉神社で仇討ちの願かけを行った所、近いうちに佐敷按司 (尚巴志) が、大里グスクの攻略を企てているので協力して戦えば仇討ちがかなうと教えられ、若按司と共に佐敷按司を訪ね、共に協力して島添大里按司を討つことを約束し、2日後夜陰に乗じて、島添大里グスクに忍び込み、島添大里按司と敵将の内原子を捕らえ、仇討ちを無事行った。」という純粋なハッピーエンドの仇討ち物語。
  • 田里朝直の「大城崩」は、途中までは同じだが、物語の結末と主題が大きく異なる。「島尻大里の按司の欲のために、父である大城按司を殺された大城の若按司は、鮫川按司 (尚巴志) と力を合わせて大里按司を討ち、敵討を果たす。さらに、大城の若按司の守役である外間子は、逃げた大里按司の妻と、二人の子どもを追って中城荻堂へ向かい、遊んでいた二人の子ども・虎千代と金松を捕らえ、馬天浜で処刑しようとする。そこへ、大里按司の妻をなじゃらと乳母が駆けつけ、敵討は終わったのだから、新たに罪を犯すことはせず、幼い兄弟を助けてくれと命乞いをする」と後半部分がかなり異なり、仇討ち物というよりは人情物に変わっている。こちらのほうが組踊では受けが良いだろう。

大城グスクの歴史はこれぐらいにして、次は大城グスク跡にある文化財を巡る。グシク内には複数の拝所があり、総称してロッカジューガと呼ばれる。見つけた資料からこのグスクの縄張り図を作ってみた。


世直し (ユヌーシ、大城之嶽)

東の登城道を登り二の郭に出る手前の崖の斜面に拝所がある。世直し (ユヌーシ) と呼ばれ、大城集落の三様 (ミサマ) の上里 (イーザトゥ) 門中、仲村渠 (ナカンダカリ) 門中、上江洲 (イージ) 門中の三家の祖をまとめて祀った墓 (写真右下) で、向かって左側に香炉が置かれた拝所が併設されているが、これが世直し (ユヌーシ) の拝所 (写真左下)。祭祀によっては当所からムーチェーへ遙拝する。大城按司 (初代東大城按司の事か?) が大城を治める時に、「先が世 (大城の先住民)」に、「イッターユーヤ、ノーシ (お前たちの時代は直せ)」と号令をかけた場所といわれている。琉球国由来記の大城之嶽 (神名:ヨナフシノ御イベ) に相当すると考えられている。大城之嶽は大城ノロにより司祭された。

二の郭はかなり広い。この場所に何があったのかは書かれていないが、倉庫や兵士の訓練場、馬場、兵舎などがあったのだろう。


三様 (ミサマ)

世直し (ユヌーシ) から二の郭に上がった所の崖の上に三様 (ミサマ) と呼ばれる拝所がある。先が世 (サチガユー、 大城の先住民) と伝わる上里 (イーザトゥ)・仲村渠 (ナカンダカリ)・上江洲 (いージ) の三つの旧家を祀った拝所といわれている。先が世 (サチガユー) というので、天孫氏王統系の玉城一族の事だろうか?


イジャムトウ

大城グシクの一の郭内にはイジャムトウと呼ばれる広場があり、大城ノロや各門中の神人 (カミンチュ) が、五月・六月ウマチーを行ったという。広場には大城ノロが馬でこの場所まで来て馬から降りた際に使った踏石がある。

今でも集落の役員や集落内外の門中の代表者が多く集まり、広場の後方に横一線で並ぶ各石碑の前で、各門中の神人が座り行事を行っている。全部で24の石碑が建っている。二つの門中は同じ名前が二つあった、分家なのだろうか?


大威部 (ウフィーイべ)

一の郭のイジャムトウの奥に大威部 (ウフィーイべ) と呼ばれる拝所があり、別称、大イベヌ前 (ウフィーイべヌメー) ともいう。大城按司が家臣を集めて諸々の伝達を行った場所といわれている。大城ノロは大イべの岩の上で神託を受けたという。


下の原 (シチャヌバラ)

大城グシク内にある拝所。下ヌ原への遙拝所。この崖下の山中に初代大城按司 (東大城按司)  の古墓があるそうだ。西 (イリ) の登城道で行けるのではと思い道を探すが草が深く断念。ー説では、大城按司真武と島添大里按司の長堂原戦いにおいて、大城按司の妻ウナザラが戦に負けたと思い込み、悲嘆にくれ子どもを崖下に落としたと伝わる場所でもある。


御火の神 (ミヒヌカン)

一の郭と反対には、かっての台所とされる拝所があり、御火の神 (ミヒヌカン) とよばれている。拝所にある石は、往時に竈として使用されたものだと伝わっている。


アカバンターへの遙拝 [未訪問]

御火の神 (ミヒヌカン) の奥の崖の上に、大城グスクの家来の墓があるアカバンターへの遙拝所があると案内板伊覇あったが、御火の神 (ミヒヌカン) からは道らしきものは見当たらない、強引に雑木林の中を歩き回り探したが、はっきりと拝所と判るものは見つけられなかった。

大城グスクから島添大里按司との戦いがあった長堂原方面をみる。鉄塔の建っている向こうに長堂原があるのだが、大城グスクからは前の山が邪魔をして戦況などは判らなかったと思われる。伝承の軍旗が倒れたのを見て負け戦と勘違いして城に火をつけたというのはどうも怪しい。


ウツーヌ按司墓群、ウナザラの墓 [4月20日訪問]

大城グスクから見える稲福の丘陵の尾根を南東に進んだところに、大城按司 (カヌシー)、大城ノロ、仲村渠 (ナカンダカリ) 門中と上江洲 (イージ) 門中の古墓、大城按司妃の墓がある。ここには先日4月20日に稲福集落を訪れた際に見学をした。



テラ井泉 (ガ-) [未訪問]

ノロ殿内の東の大城グスクへ向かう道 (自動車道) にテラ井泉 (ガ-) という井泉跡があるそうだ。地滑りで井泉は埋もれてしまい、井泉があった場所の近くに石碑を置き、そこから遥拝している。この場所は通ったのだが見落としてしまったので、次の機会に探してみよう。



タマガハルガー [未訪問]

大城集落からウツーヌ按司墓群、ウナザラの墓のある丘陵への道の途中に、ノロが勾玉や髪を洗い清めたタマガハルガーがあるのだが、見落としていた。



旧イーバルが-、新イーバルガ- [未訪問]

公民館前の案内板に出ていた井戸跡。説明はないのでどのような井戸皮わからない。時間なく訪問できず。次回に立ち寄るつもり。



今日、集落を巡っている最中に珍しい植物を見つけた。写真左上はオウムバナというそうで、確かにオウムのようにも見える。写真右上は果物の様だ。調べるとエッグフルーツというそうだ。蜜柑のような味がするイメージなのだが、フルーツというよりは野菜の味に近いそうで、あまりおいしくはないそうだ。後は蝶を見つけた写真右下はベニモンアゲハという名前だ。胴体までが濃い赤色でよく目立っていた。人懐っこいのか、逃げずに周りをひらひらと飛んでいた。もう一つは、時々見かけるリュウキュウアサギマダラで黒の縁取りで水色の美しい蝶。

これで旧大里村の18の集落を13日かけて巡った。次回からは同じ南城市の旧玉城村巡りに入る。この村も三山時代のグスク跡が多く残っている地域で楽しみだ。


参考文献

  • 南城市史 総合版 (通史) (2010 南城市教育委員会)
  • 南城市の御嶽 (2018 南城市教育委員会)
  • 南城市のグスク (2017 南城市教育委員会)
  • 大里村史通史編・資料編 (1982 大里村役場)
  • 南城市の沖縄戦 資料編 (2020 南城市教育委員会)
  • ぐすく沖縄本島及び周辺離島 グスク分布調査報告 (1983 沖縄県立埋蔵文化財センター)
  • 尚巴志伝 (酔雲)
  • 琉球王国の真実 : 琉球三山戦国時代の謎を解く (2016 伊敷賢)

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