Okinawa 沖縄の旅 Day 59 (29/09/19) 豊見城市 (1) Tomigusuku Hamlet 豊見城集落 [20/08/04 再訪]

Uruku Gusuku Castle Ruins 小禄グスク (那覇市)  [2019年9月29日に訪問]


豊見城集落 (とみぐすく、ティミグスク)

  • 豊見城グスク  [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]
  • 豊見瀬御嶽  [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]
  • 山部隊野戦病院患者合祀碑 [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]
  • 第24師団 第2野戦病院壕 [2020年8月4日に訪問]
  • 包井 (チチンガー) [2020年8月4日に訪問]
  • 石火矢橋 (イシヒージャバシ)  [2019年9月29日に訪問]
  • 馬場跡 (ウマィー)  [2020年8月4日に訪問]
  • 村屋跡 (ムラヤー)  [2020年8月4日に訪問]
  • 豊見城公民館 [2020年8月4日に訪問]
  • フスミ御嶽  [2020年8月4日に訪問]
  • フスミ井 [2020年8月4日に訪問]
  • スルメーナー  [2020年8月4日に訪問]
  • 呑殿内 (ヌンドゥンチ) [2020年8月4日に訪問]
  • 大屋の神屋 [2020年8月4日に訪問]
  • 並里樋川 (ナンザトゥヒージャー) [2020年8月4日に訪問]
  • 三カ月井 (ミカジチガー)  [2020年8月4日に訪問]
  • 御殿井 (ウドゥンガー) [2020年8月4日に訪問]
  • ンズシガー [2020年8月4日に訪問]
  • シリガー [2020年8月4日に訪問]
  • グスクラガー  [2020年8月4日に訪問]
  • 豊見城梵字碑  [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]
  • ウン泰山石敢當 [2020年8月4日に訪問]
  • 火番森 (ヒバンムイ) [2019年9月29日に訪問]
  • 旧海軍司令部壕 (海軍壕公園) [2019年9月29日に訪問]
  • 豊見城尋常小学校跡 [2019年10月2日に訪問]
  • 津屋 (チーヤ)  [2020年6月12日に訪問]

今日 (2019年9月29日) はあまり坂道の無い近場を散策してみようと思う。天気予報も雨が降る可能性があるようなので、強い雨になれば、すぐに引き返せる距離にとどめる。


Uruku Gusuku Castle Ruins 小禄グスク (ウルクグスク、カニマングスク [2019年9月29日に訪問]

小禄の森口原の標高約42m~50mの石灰岩丘陵に築かれたグスクで、森口公園の隣に位置している。中山王の察度王の腹違いの弟の泰期金満按司が城主であった。泰期 (タチ) は察度の右腕となり中山の統一に大きな貢献をした人物。城壁は明治時代に崩されて垣花集落に運ばれたといわれ、遺構は残っていない。名残としては金満御嶽、遥拝所、火ヌ神、井戸跡等が残っている。
丘陵の上に小山になっており、階段の上り口に泰期金満按司を祀った御嶽があり、小山の上にも拝所がある。
拝所が十以上も城跡にある。
井戸跡も二つ見つけた
察度と泰期については9/11に浦添城を訪れた際に記載。


案の定、雨が降り始めた。沖縄の雨のパターンは初めの数分間はパラパラと降ったり止んだり、そのうちに土砂降りになる。30分から1時間もすれば、雨雲が去って雨が止む。今回もこのパターンで、雨宿りをして出発し、豊見城集落に向かう。


豊見城集落には2019年9月29日から一年近くたった2020年8月4日にもっと詳しく見るために再訪した。


豊見城集落 (とみぐすく、ティミグスク)

豊見城市で一番大きな字で市役所もあり、最も開けている。2019年末時点で人口6,626人、世帯数は2,804世帯で、コンスタントに人口が増加している。那覇に近い立地条件によるのだろう。シークワーサーが名産品。琉球王朝時代は豊見城間切で総地頭として毛氏豊見城家が統治していた。この毛氏は琉球三山時代の英雄の中城按司護佐丸 (盛春 唐名: 毛国鼎) を初代始祖としており、尚真王の時代に二世の毛盛親 (護佐丸の三男 豊見城親方 毛麟章) は豊見城間切総地頭に任じられて、明治12年の琉球処分至るまで十六世の毛盛綱までこの総地頭職を務めていた。

豊見城は琉球王朝時代は「とよミくすく」と書かれており、漢字では「豊御城、豊美城」と表記されていた。「とよみ」とは、”鳴り響く”、”名高い”などの意味で、「とよみぐすく」から「てぃみぐすく」そして「とみぐすく」と変遷したと思われる。

沖縄戦当時 (昭和20年) は保栄茂、翁長、饒波の方が人口は多い。これは少し意外だ。

人口はコンスタントに増加している。沖縄戦当時 (昭和20年) から人口は11倍になっている。


豊見城グスク  [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]

豊見城グスクは漫湖に注ぐ饒波 (のは) 川の西岸丘陵上に聳えていた。

南山国 第二代 汪英紫 (おうえいじ) の二男 (諸説ある) で第三代王となる汪応祖 (おうおうそ) によって、それまでにあった小規模のグスクを大改造にて築かれた。(初代王の承察度は二代〜三代が同じ名前で継承したと思われる)三山時代には、この豊見城グスクを南山の拠点城として、周りには、長嶺城瀬長城平良城保栄茂城などの各城砦が築かれていた。3重の城壁と5つの城門を持つ大きなグスクで、1853年に来琉したペリー提督の報告書にも「およそ8エーカーの大規模城」と記述される程の規模だった。(琉球のグスクでは三番目の大きさとなる) しかし、さる大戦による破壊や、砕石などで 城壁等の遺構は失われてしまった。伝承では、南山が滅んだ後も、豊見城按司は中山に従わず抵抗を続けたが、尚巴志の策略にはまり火攻めで落城し。その後の伝承に、城への嶽上りは「ひのえの日」には禁じられたと言う。 明治時代には那覇垣花にあった刑務所の囚人の農場となっていた。


汪応祖や汪英紫については南山城跡 (島尻大里城跡) を訪れた時のレポートに記載している。

2020年8月4日は豊見城集落を見終わった後、豊見城グスクに向かった。この場所は1970年に岩崎産業が豊見城村から土地を譲渡され、1973年に豊見城城址公園としてレジャー施設を開園した。それ以降30年にわたり営業をしていたが、採算が悪化し琉球岩崎産業が倒産し、2003年から休園となっていた。豊見城市は2013年からこの跡地利用構想を策定し始め、翌年2014年に計画 (下記図) が決定し、2021年までに完成を目指し、元の土地所有者の岩崎産業 (鹿児島本社) からは土地購入84%までは完了。現在は空手会館など一部は完成した施設もあるが、事業資金の問題で暗礁に乗り上げている。2019年に豊見城市は自治体単独での続行は困難とし、民間活用に方針転換し、サウンディングを行い、4社が参加。豊見城市が公表したこのサウンディング結果を見る限りでは、具体的な提案はなく、事業継続は難しそうな印象を持った。この場所は土地以外に再利用できるものは一切ないので、スクラッチから考えなければならない。そうすると、この場所でなければならない必然性もないので、借地料が優遇されたとしても、民間企業がフィジブルな事業を行うことは相当難しいと感じた。

グスクゾーンの構想

1853年(嘉永6年)にはアメリカのペリー提督が琉球に立ち寄った際に訪問している。その時のスケッチが残っている。描かれた門が南にあった南風原門か北の西原門なのかは明確ではないのだが、沖縄戦終結の際に取られた写真に門がある。これかもしれない。沖縄戦では、爆撃でグスクの大部分が破壊されたのだが、石垣などは残っていた。しかし、米軍の軍港建設資材として持ち去られ、更に、岩崎産業のレジャー施設建設で完全に消滅してしまい、現在ではグスクの遺構は残っていない。

空手会館からグスクへの側道がある。この道の脇に穂花 (ホバナ) 嶽があったのだが、今は亡くなってしまい豊見瀬御嶽に合祀されている。多分この辺にあったのだろう。跡地は遊園地もあったのだろうか、鉄道のレールが残っていた。

穂花 (ホバナ) 嶽は多分この辺にあったのだろう。

グスクは3つの曲輪に分かれていたようだ。仮に三の丸、二の丸、本丸とすると、まずは二の丸に囲まれた本丸に到着となる。ここに案内板と、ハーリー発祥の地の記念碑が立っていた。伝承ではこのグスクを築城した汪応祖が留学先の明国で見たハーリーをこの地でもやり始めたと言われている。

本丸の入り口付近に、豊見瀬御嶽がある。ここにはアーチ型の石の門があったと言われている。今はその面影はない。


豊見瀬御嶽  [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]

立ち入り禁止地区の手前には豊見瀬御嶽があり、戦前グスク周辺にあったお通し御嶽 (遥拝御嶽)、湧泉、古墓をここに集めて祀っている。

正面に拝殿があり、中にはには火神大トングワ、按司殿内火神、御調添、ノロウコール、按司ウコール、龍宮鎮護、秋根神を祀った七つの香炉が置かれている。五月、六月のウマチーには拝殿正面の豊見瀬御嶽と刻され香炉を拝んだ後、扉を開けて中にある七つの香炉を拝み、次に拝殿内の扉を開けて奥の豊見瀬御嶽の香炉を拝む習わしになっている。

拝殿への通路の脇には合祀された按司墓 (アジシーバガ) が並ぶ。居神根神墓 (イガミネガミ) 、按司御墓、御女妃御墓、七原入込御墓 (ナナハライリク)、布織女妃御墓、瀬長按司/久志間切按司御墓、瀬長按司小前墓、ガマ御墓、豊見城大君墓/並里祖神、赤平御墓、西原御墓、才順仲門与那城桃原安座名御墓、安座名沢岻御墓の13基もの墓の香炉が並んでいる。

更に以前には拝まれていた湧泉も合祀されている。香炉が二個あり、左の香炉には村井・東利江井・赤平井・西原井が祀られ、右の香炉は按司井・包井 (チチンガー)、西原樋川が祀られている。

御嶽の東側には各遥拝所がある。玉城世、大城世、南山世、寄上御嶽、穂花嶽へのウトゥーシになっている。玉城世、大城世、南山世への遥拝所は元々石火矢橋から豊見城グスクに登ってくる坂道の脇にあった穂花 (ホバナ) 嶽に置かれていたもの。

2019年9月に来た時と同様に、グスク跡は豊見城市が手入れはしているようで、立ち入り禁止地区も綺麗に草や芝が刈られてあった。豊見城集落の公民館で出会ったおじいから、立ち入り禁止地区も、誰かに咎められたら、自治会から許可をもらったと言ってくれればいいと言われ、今日は堂々と太一入り禁止地区にも入ることにする。まずは本丸へ入る。かなり広い。

次に二の丸へ。ここは更に広い。

西側は国場川に流れ込む饒波川が流れており、かなりの急斜面となっているので、西側からこの城を攻めることは相当難しいだろう。伝承では、尚巴志もこの城の攻略には悩み、スパイを送り込み、抜け穴から内部に忍び込み火を放ったとか、スパイを事前に城内に送り込んでいたとか言われている。実際に見た感じでも、難攻不落の城のように思える。さすが汪応祖と思った。(この汪応祖にはなぜか親しみを感じているせいかもしれない)

この場所で、アダンの木を見つけた。実がなっている。沖縄の民話などで、時々アダンの木が出てきたのだが、実際には見たことがなかったので、イメージがわかなかった。今回初めて、アダンの実を見ることができた。かなり大きな実がなっている。想像していたより大きかった。昔はアダンの葉で帽子や草鞋を編み、芽や果実は食料でもあったそうだ。フルーツのような甘さはなく味がなく繊維が多いので今では沖縄でも食べられてはいない。


山部隊野戦病院患者合祀碑 [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]

二の丸の真ん中付近に慰霊塔が立っている。山部隊野戦病院患者合祀碑と書かれている。沖縄戦当時、ここに野戦病院があった。山3487部隊 第24師団 第2野戦病院だ。昭和20年2月15日に野戦病院の開設に着手し、3月上旬には患者収容壕が完成し、空襲を避けながら壕内での勤務が続けられた。 軽傷患者、病人の治療が行われていたが、米軍上陸の4月より搬入される負傷者の数は激増。5月25日の南部への撤退が行われる迄、昼夜連続で治療が続けられた。この慰霊碑はこの病院に配属された積徳高女看護隊の生存者の尽力で、昭和57年8月に建立された。 


第24師団 第2野戦病院壕 [2020年8月4日に訪問]

昨年9月にここを訪れた際には病院壕の場所がわからず、慰霊碑を見ただけに終わったのだが、今回は公民館のおじいに場所を教えてもらった。グスク跡から、饒波川方面に降りる階段があるのでそこを降りると壕跡があると教えられた。壕はかなり朽ちてしまい、立ち入り禁止の看板があった。とはいえ柵も何もない。いずれ、この壕も保存するか、閉塞するかの時期がくるのだろう。沖縄にある戦争遺構の壕が次々に閉鎖されている。改修やその後の維持管理のコストが重すぎるのだ。この壕には西原・浦添方面から負傷した兵士らが次々送られ、一時、壕内には600名近い負傷兵であふれかえっていたという。

この壕には私立積徳高等女学校の生徒らが55人中25名が看護隊としてこの地に配属され、負傷兵の治療 や看護にあたっていた。2019年8月11日に那覇にある大典寺を訪れた際にこの女学生達の慰霊碑があった事を思い出した。ひめゆり部隊など、那覇の女学生の多くが戦争に巻き込まれている。糸満市の戦争遺構を巡ると、その度に学徒たちの悲劇に触れることになる。(写真はその時のもの。大典寺が積徳高等女学校を運営していた。) 

Okinawa 沖縄の旅 Day 75 (15/10/19) Itoman World War II Remains 糸満市沖縄戦争史跡 (糸満市 ④)

この豊見城グスク跡は海軍司令部の置かれていた74高地のすぐ南にある。司令部を攻めるには格好の拠点になる。米軍は宜保からここを目指した。そして6月11日にここを占領し、すぐに司令部を攻撃。その日の夜に海軍司令部は玉砕。さかのぼる5月27日には戦況の悪化とともに野戦病院壕も糸洲方面に撤退することとなり、その際自力で歩けない患者には水や乾パンなどが与えられ置き去りにされたそうだ。(先に訪れた南風原陸軍病院では青酸カリで殺されていたが、ここではそうでは無かったのか? 医者の独断の判断でそうしなかったのか?)。6月26日、糸洲の壕で看護隊に解散命令が出たとき、24師団第2野戦病院院長の小池勇助中佐 (この後に自決) は女学生らに「けして死んではならない。」 と生き延びるよう諭し、軍とともに行動することを許さなかったため、多くの女子学徒が生き延びた。他の学徒隊の多くが悲惨な最期を遂げる沖縄戦において積徳学徒隊からは従軍した学徒25名のうち、戦没者が3名 (内戦死者2名) という非常に稀な結果となった。これはリーダーの決断により生死が分かれた訳だ。リーダーの考え方、行動がいかに大切かを教えている。当時の日本政府、軍幹部に優れたリーダーがいれば状況は変わったであろう。


二の丸から三の丸に向かうが、三の丸は大部分が何かの工事中で中に入ることはできなかった。三の丸の一部に池がある。もともとここに池があったのかはわからない。資料では、豊見城グスクは水の便が良くなかったと書かれてもあるので、昔からあるのかは不明。


包井 (チチンガー) [2020年8月4日に訪問]

三の丸には幾つか井戸があったが、今は豊見瀬御嶽に合祀されているので、もう現在では存在しないのかと思っていたが、大体の場所の情報はあるので、探してみることにした。そうすると、一つ井戸を見つけた。場所から判断すると包井 (チチンガー) と思われる。立派な湧井だ。水も澄み切っている。香炉は無い。拝所としては、豊見瀬御嶽に移されたのだろうが、井戸自体は残ったのだろう。

これで豊見城グスク見学は終了。


石火矢橋 (イシヒージャバシ)  [2019年9月29日に訪問]

豊見城グスクの北側にある饒波川に架る橋。三山時代、尚巴志が南山の支配下にあった豊見城グスクを攻めるため、城内に女間者 (与那原の美女と言われている) を送り、城主の側室となり、謀計によってこの橋を架けさせ、1429年に中山軍はその橋を渡り攻め滅ぼしたと言う伝説が残っている。琉球王朝時代には、首里城から真玉橋を経て那覇港南岸に軍勢を集結するための王府の道路「眞珠道」の道筋にもあたり、軍事面においても、交通の要衝としても重要な橋であった。沖縄戦で橋は破壊、残った橋脚部も1978年の橋の改修工事で消滅。


豊見城グスクの丘陵の南側に城下町としての豊見城集落がある。ここには 2019年9月29日には訪問しなかったので、2020年8月4日に集落の文化財巡りをした。


馬場跡 (ウマィー)  [2020年8月4日に訪問]

グスクから集落に向かう途中に空手会館がある。この付近はかつて馬場跡 (ウマィー) があった場所だ。


村屋跡 (ムラヤー)  [2020年8月4日に訪問]

集落の南東の端に旧村屋があった。現在は駐車場になっているのだが、その駐車場の中に拝所があった。この拝所については情報はなかったのだが、二つの祠の内一つには「瀬長」と書かれている。瀬長島の拝所への遥拝所 (ウトゥーシ) ではないだろうか?


豊見城公民館 [2020年8月4日に訪問]

新しい公民館はかつての村屋の場所ではなく当時空き地になっていた場所に新しい公民館を建てたようだ。ここに自転車を停めて徒歩にて巡ろうと思い、駐輪許可を公民館の人にお願いしたときに、70才を過ぎたぐらいのおじいから集落内の文化財についていろいろ説明していただいた。

旧集落内は細い路地が入り組んで走っている。その中に沖縄独特の平屋の民家がいくつかあった。一つの民家からは3匹の犬が歓迎してくれた。ずいぶんと人なつこい犬たちだった。


フスミ御嶽  [2020年8月4日に訪問]

集落内にも御嶽がある。旧暦十月のヒーマチの御願に拝む。フスミは、へその意味で、この集落の中心にあったことから、この名がついている。


フスミ井 [2020年8月4日に訪問]

隣にはフスミ井も。


スルメーナー  [2020年8月4日に訪問]

掟火ヌ神と地頭火ヌ神が祀られている。前村渠門中が管理。 ムラの火種を絶やさないようにムラ人が番をしたといわれる。「スルメー」とはタンメー (おじい) の尊敬語で「ナー」とは広場のこと。

スルメーナーの近くにあった井戸跡


呑殿内 (ヌンドゥンチ) [2020年8月4日に訪問]

集落の中心にあり、ノロ火神、ノロ神、七腹入込、布織御女妃、按司神、ミチャン・ウザンガナシ、若ノロ・ウミキ、ノロ・ウミキ、若ノロ、ホンノロを祀った十個の香炉が置かれている。公民館であったおじいのお母さんが豊見城ノロだったと言って写真を見せてくれたいた。琉球王朝により派遣され、代々ノロを継承していた呑殿内門中は絶えてしまったので、その分家の東り呑殿内門中がノロを継いでいるそうだ。つまり、この出会ったおじいは東り呑殿内門中の人になる。沖縄に来た頃はノロとユタを混同していたのだが、ノロは琉球王朝時代から王朝の任命した神官で、霊的能力があろうがなかろうが、世襲であった。その意味では祭祀を司る神との接点と考えた方がいいだろう。本土の神主に近い存在。ユタは民間の霊媒師で、東北のイタコに近いかもしれない。占いとか風水で個人的な相談に対応しているような商売。何度となく、スーパーとかファーストフード店で悩み相談をしているのを見かける。結構、大っぴらに話しているので、内容が筒抜け。沖縄の人はあまり気にしていないようだ。ときには泣いている人も見かける。現代でも琉球王朝時代でも、偽ユタや商売主義のユタの詐欺が問題になっている。琉球王朝時代には取り締まりもあったそうだ。

呑殿内 (ヌンドゥンチ) の入り口のところに神屋がある。


大屋の神屋 [2020年8月4日に訪問]

豊見城集落の根屋である大屋の神屋。神世五代天孫氏の子の豊見城大君で屋号大屋を与えられた。この豊見城大君がこの豊見城集落を始めた人物と言われている。現在はこの大屋門中は直系の子孫が絶えてしまい、分家筋の新地小門中が敷地内に神屋を建てて管理している。ここには数人が集まっていた。何かの御願の日のようだ。お供物もあり、何か御願をしている。聞くとウマチーと言っていた。ウマチーは年に4回あり、旧暦の2月、3月が麦の豊穣祈願と収穫祭、旧暦の5月、6月が稲の豊穣祈願と収穫祭であることは知っていたが、今日は8月4日で6月が稲の収穫祭なのだろうか? 旧暦と新暦の差かどれぐらいなのかがピンとこない。旧正月が2月中ぐらいだから、1ヶ月半ぐらいのずれがあるのだろうと、計算をすると6月15日の6月が稲の収穫祭のウマチーが8月初にあたる。なるほど。沖縄では祭りなど全ての行事は旧暦を元にしている。後で調べると、旧暦6月15日は今年は8月4日だった。


並里樋川 (ナンザトゥヒージャー) [2020年8月4日に訪問]

並里門中と関係があるとされる湧泉で、並里で井戸を掘った時にこのカーの水が濁ったことから、両所は源泉が同じといわれている。それで並里樋川 (ナンザトゥヒージャー) と呼ばれている。五月の稲穂祭 (ウマチー) の三日崇にはムラ人達が供物を供え、豊見城ノロが祭祀を司った。また、正月にはここで若水を汲んだ。


三カ月井 (ミカジチガー)  [2020年8月4日に訪問]

並里樋川 (ナンザトゥヒージャー) の近くにあり、三日月の形をした湧泉という意味なのだが、詳細は不明である。 形式保存になっている。井戸の形を三日月にしている。


御殿井 (ウドゥンガー) [2020年8月4日に訪問]

現在の公民館裏側、バンジュヌジョーの通りに面する湧泉。現在は井戸は消滅しているのだが、香炉を置いて拝所となっている。 


ンズシガー [2020年8月4日に訪問]

集落の外れに近い徳上前ン田の屋敷に隣接する、掘抜き状の湧泉。正月の若水を汲んだそうだ。


シリガー [2020年8月4日に訪問]

呑殿内 (ヌンドゥンチ) の近くにある井戸跡


グスクラガー  [2020年8月4日に訪問]

集落北端の新谷原の屋敷裏手にある湧泉。

グスクラガーのすぐ芝の駐車場内に別の井戸跡がある。香炉の置かれているので拝所として残されている。駐車場の一車両分を潰してまで残している。沖縄集落住民にとって井戸というものがいかに大切にされ、敬われていたことがわかる。


豊見城梵字碑  [2019年9月29日に訪問、2020年8月4日に再訪]

公民館の前に地元ではニービヌフニと呼ばれているサンスクリット語の碑文 アビラウンケン (地、水、火、風、空) がある。これは密教では大日如来を表している。推測されているのは魔除けのために置かれていると考えられて、石敢當の原型ではとも考えられる。


ウン泰山石敢當 [2020年8月4日に訪問]

集落の北側に変わり種の石敢當 (イシガントウ) が残っている。沖縄では石敢當は至る所にある。世界の中でも最も石敢當が多くあるのが沖縄。路地の突き当たりにおかれ、それ以上は魔物 (マジムン) が通れないようにしている魔除けなのだが、この起源は中国にある。石敢當という名称が見られるのは紀元前40年ごろ、漢の時代の書物が最初。人の名前か、勇猛な人を表したものとか、二つの説があるが、一般的には勇猛な人の名前であると認識されている。1369年に渡ってきて久米村に住見始めた閩人三十六姓が沖縄に伝えたとされている。ここにある石敢當には「ウン泰山石敢當」と通常の「石敢當」より長い文字となっている。ウンはヤナムンの「ムン」のことでヤナ (悪い) ムン (物)を表す。泰山は中国の有名な霊山で「泰山」を「石敢當」の上に加えることによって、より霊力の強い魔除けの効果が出ると考えられていた。泰山石敢當は他の地域でも稀に見られるのだが、公民館のおじいによれば、「泰」は琉球王朝最後の王の尚泰の文字なので恐れ多いと削れていることがあるという。ここのウン泰山石敢當も削られたのかは覚えていないが、この話をしてくれたので、削られてはいるのではと思う。(読めないほどではないが...)

写した写真ではよく見えないので、豊見城市の案内から


火番森 (ヒバンムイ) [2019年9月29日に訪問]

豊見城グスクから豊見城集落を経てもう一つ丘陵がある。現在は海軍壕公園になっている。ここには琉球王朝時代、火番森 (ヒバンムイ) と呼ばれる烽火台があった。(案内板では火番原となっているが火番森が正しいだろう) ここに当時の烽火台を想像したモニュメントが作られている。烽火の制度は向賢王の時代1644年にできたもので、中国や薩摩への航路である久米、慶良間、粟国、渡名喜、伊平屋、伊江並に烽火台を設け、遠見番という係員をおいて海上を監視させて、烽火をあげて冠船、進貢船、薩摩船等の入港を首里王城へ通報することになっていた。二隻通過すると二炬 (てー) を点じ、一隻の場合はー炬、外国船の時は三炬を点じていた。 


旧海軍司令部壕 (海軍壕公園) [2019年9月29日に訪問]

沖縄戦当時、この火番森 (ヒバンムイ) には旧海軍司令部が置かれていた。今回も沖縄戦の爪跡を一つ訪ねる事になった。豊見城村は、この海軍司令部が置かれていた事や、その重要な施設であった小禄飛行場 (現在の那覇空港) や那覇港を間近にひかえていたため、米軍の集中攻撃の余波を大きく受け、大きな被害を被っている。 この海軍司令部は元々は那覇の小禄赤嶺に置かれていたが、米軍が小禄地区に侵攻した事により、1945年6月6日にこの豊見城の74高地に司令部と通信班を移した。海軍は9,400名の兵力を投入していたが、このうち陸軍には2,500人と兵器の三分の一を陸軍の要請に基づき派遣していたので、この時期には既に海軍の戦力は貧弱になっていた。

沖縄の海軍部隊は、小禄飛行場の守備を主な任務とし、沖縄戦突入前、昭和19年 (1944)、日本海軍設営隊 (山根部隊) によって、小禄飛行場など周辺を一望できる字豊見城の高台に地下壕を構築していた。設営隊により掘られた総延長は約450mあったと言われ、壕内には司令官室、作戦室、 幕僚室、暗号室、医務室、発電室、下士官室などが備わり、約4000人の兵員を収容していた。

1945年6月4日、小禄半島に上陸した米軍が戦車などの圧倒的な兵力で司令部壕付近にせまるなか、大田実司令官から海軍次官あてに電文が送られた。電文の内容 は県民の献身的な戦闘協力と惨状を伝え、「沖縄県民 斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世 格別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と結び13日には司令官以下、幕僚・将兵たちが 壕内で自決し最期を遂げた。ここが海軍司令部として使われたのは6月6日に小禄赤嶺から移ってきて、僅か1週間であった。豊見城村史だよりに海軍司令部の各地との電信文やりとりが3月24日から玉砕の6月11日までが掲載されている。6月の入っては日々米軍が司令部に侵攻してきている様子がわかり、その中で豊見城の各集落が占領されていっていることがわかる。豊見城市では戦争経験者の証言を動画で公開している。各集落のその当時の悲惨な様子が語られている。

戦後、生存者や地域の協力などにより壕内と周辺の遺骨収集が行われるとともに、1958年には「戦没者慰霊塔」が建立され、その後、壕の復元が進められ、70年に一般公開、戦跡公園として整備され、 2003 年には海軍壕公園としてリニューアルされている。資料館もあり、良くまとまった展示となっていた。沖縄戦のビデオも流しており、時間はかかったが、全て見終わった。写真展示もあり、かなりショッキングなものまで展示していた。ここにはガイドさんはいなかったので生の声を聞けなかったのは残念だ。

海軍司令部壕内

[医療室] 7.5m2 の広さがあり負傷兵用の2段ベッドが置かれていた

[司令官室] 壁面に大田司令官の愛唱歌「大君の御はたのもとに・・・」の墨書が残されている。


[作戦室] 7.5m2 の広さがあり作戦を立てるために使われた

今日も考えさせられる内容だった。資料館で展示されていたものを掲載しておく。後で思い出す助けになるだろう。


ここでの沖縄戦の写真展示 中にはショッキングなものもある。

沖縄戦に関しての資料館での展示

沖縄戦当時の豊見城村の亡くなった人のデータが豊見城だよりに記載されている。



豊見城尋常小学校跡 [2019年10月2日に訪問]

明治時代に開校した尋常小学校の跡。小高い丘陵地にあり、現在は住宅地になている。この付近は丘陵がいくつもあり、そこからここまで徒歩で通うのは大変だ。この尋常小学校が開校ののちに豊見城の他の地区でも小学校が開校するが、多くは丘陵の上にある。集落がそこにあるからなのだが、別の集落から山と谷を越えて通っていた子供達もいただろう。この当時は片道1時間ぐらいの通学は当たり前だった。以前は故郷の小豆島の田舎でも、バスの運行がない時間帯は山を越えて1時間かけて通学していた。都会の子供達には信じられないだろうが... (最近は親が自動車で送り迎えをしているのだが、個人的にはこれはやりすぎとは思う...)


津屋 (チーヤ)  [2020年6月12日に訪問]

チーヤ (津屋)は、豊見城グスクの北方、漫湖南西岸に浮かぶ琉球石灰岩でできた小島である。 豊見城グスクを望むようにして湖面に浮かぶこのチーヤは、ハーリー (爬龍舟) 発祥伝説とゆかりが深いことでも知られる。 豊見城グスク跡にハーリーの起源に関わる記念碑があったが、旧5月4日に行われた那覇ハーリー祭でも、かつては競漕に先立ち、那覇、久米村、泊村の爬龍舟が、トミグスクヌブイ (豊見城上ぃ) と称してチーヤに直接漕ぎ着け、そこから豊見城グスク内にある豊見瀬御嶽に向け遥拝した。現在もその行事を引き継いだハーリー御願が豊見瀬御嶽において行われている。(公民館には、そこで会ったおじいのお母さんのノロが祀事を行っている写真があった。) チーヤは、このようにハーリーゆかりの地であるとともに、漫湖が水上交通の要衝として賑わっていた時代の舟着場でもあった。また、毎年旧暦4月には、豊見城の年中行事で、害虫駆除と作物の豊作を祈願するアブシバレー神事が行われるところとなっている。


チーヤ周辺は、漫湖に生息する水性生物や渡り鳥の飛来地で、マングローブ林がみられる。ここに漫湖水鳥・湿地センターで観察ができる様になっている。戦前から昭和40年ごろまでは、マングローブはなく、海であった。

1970年 (昭和45年) ごろから、湖の泥の堆積と干潟化が進み、1994年 (平成6年) 以降、急速にマングローブ林が広がった。この漫湖はラムサール条約にも登録されているのだが、マングローブ林の拡大で干潟が減少したことや、近年の公共工事による赤土汚染の被害が広がり、水鳥の渡来数と種数の減少など漫湖の生物の生態に影響が出ている。

何日かに分けて、豊見城集落を巡った。集落は小さいのだが、琉球の歴史上重要な役割を果たしたところなので、多くの見所のある文化財があった。現代でも那覇に近く、人口も増え続けており沖縄経済でも重要な市となっている。


質問事項

  • 旧村屋跡 (ムラヤー) にある拝所の性格は?
  • 豊見城城址公園の計画はどうなる?
  • グスク跡で見つけた井戸は包井?

参考文献

  • 豊見城村史
  • 豊見城村史 第二巻 民俗編
  • 豊見城村史 第六巻 戦争編

豊見城村史

第3節 字豊見城


西原村 (むら)と南風原村

現在の字豊見城は豊見城城跡の西北方にあった西原村と、南方にあった南風原村とが合併して、新たに今の位置に移転してきたととは前に (第二章六節部落の変遷) 述べたが、西原村の跡は西原井戸 (ガー) という古井戸が残っているので知られており、村拝みの時には今でも拝んでいる。西原村には屋号西原の門中と大屋門中東利門中等の祖先が住していたようである。西原井戸は屋号西原の祖先の井戸であって城跡の北西にある西原井泉 (ひーざー) とは別のものである。しかしこの西原ひーざーも屋号西原の祖先がさがし出したものといわれている。 南風原村は城址の南の方にあたっているので、南風原村と名付けられたものであるが、そこには昔屋号赤平の古井戸があって赤平井戸 (がー) といい、また屋号アザナの古井戸のアザナ井戸 (一名城の前井戸) の跡がある。それら古井戸は今でも村拝みの際には拝所になっているのである。南風原村には赤平門中、並里門中、アザナ門中その他が住んでいたのである。 


両村の合併移轉 

南風原村と西原村と合併して新しく今の豊見城部落の所に移転したのは古老の話では540-50年前の永楽4年 (尚思紹王時代、南山がまだ亡びない時)、西原村の西原の比屋 (ひゃー)と南風原村の赤平、並里の比屋が偉人の教えによって、現在の場所に移ったということであるが、王代記に尚永王時代 (西歴1559年 - 1588年) 豊見城間切西原村平良掟の娘が王の夫人となったとの記録があり、また雍正12年 (西歴1734年) 高所 (たかじゅ) よりの食用蘇鉄の調製法を記したのに、豊見城間切南風原村嘉数筑登之親雲上の名が見えているのからして、西歴1588年頃にも同1734年頃にもまだ南風原村、西原村は別個に存在していて、その後にしか合併移動しなかったと思われる。 それから今一つ、昔あった樋川の部落が今の豊見城の樋川井泉の附近にあって、この三つの部落が一つに合併せられたということを述べる人もいるようだが不明である。 この豊見城部落は豊見城按司の城村であった二、三部落の合併によって出来たものである故に、門中が多いということである。資料が残っていないので城の変遷とも大きな関係があるものと考えられるが、今は詳しい事は不明で記すことができない。 


世立ちと地組始め 

それでは豊見城部落の前身西原村、南風原村の世立て (村造り) 始めたのは誰かといえば、豊見城村 (そん) 開びやくの処で述べた (第二章一節)が、神世四代の豊見城大神加那志であり、次に神世五代天孫氏の子 豊見城大君である。共に豊見城の根屋屋号大屋に御持されていたが、今は大屋は廃家となり、位霊は同字の屋号新地小に崇められている。 地組を始められた人は祖先宝鑑と琉球千草之巻によれば、為朝公の子浦添按司の子西平按司で、「此の人は豊見城平良村の地組始められたる人也」とされている。 

また長嶺按司 (南山王の六男)の三男で屋号新地の祖先が (今は新地小が御持) 屋敷囲いをしたとなっている。しかし西平按司と新地の祖先はどの部落の地組をしたかは定かでない。 (為朝公系統と南山王系統図を参照のこと) 

新地の祖先系統図祖先宝鑑より 

右六男長嶺按司については 「此の人は豊見城長堂村仲村渠にあり、死骨は城 (長嶺) の下獄の端岩下に埋葬さる。子は四男三女あり、二男は野波村の長、三男は豊見城村の新地と云う家なり」とある。また千草之巻には 「豊見城村、屋敷囲長嶺按司の八男 (?) 豊見城按司在所新地という」とされている。 豊見城の前村渠の祖先は長堂仲村渠と関連があると言われているが詳しいことは不明である。 西平按司系統図祖先宝鑑より

右西平按司については琉球千草之巻中琉球村々世立始古人伝記の中に「西平按司此人は豊見城平良村の地組初められたる人也」とされている。 西原村の西原の比屋は現在の屋号西原の祖先であるが、その祖先は東大里間切 (今の大里村) 西原村から移って来た人であるという。才順は西原と関連をもっているのである。 

現在屋号東利 (後に出てきます) の祖先は、豊見城の城主であって、後で南山王になった汪応祖 (ヤフス [注:ヤフスは汪応祖の弟なのでここは間違いと思われる]) の兄 達勃期 (タブキまたはタブチ) の子、佐久間王子の子孫と言われている (島袋源一郎氏の沖縄の歴史)。 この佐久間王子は父達勃期と汪応祖の勢力争いの時、難をさけて国頭辺戸におもむき、義本王の世子浦添王子の子孫の家に寄寓し、その婿養子となった。今辺戸の佐久間殿内の元祖の由来が、上記のようなものだという口碑が島尻高嶺村 (今は糸満町) にはあったと言われている。 

現在の派平の祖先については (赤平の比屋の祖先) 不明であるが、並里については祖先宝鑑によれば (察度王系統図参照) 並里按司「在所は佐敷新里村並里という家也。御骨は同村の沢川御嶽の内の墓に埋葬せらる。此の按司は五穀の種子植付教習の為、国頭、中頭、島尻を巡行せられ功名を挙げられたる人なり」とある。その二男 豊見城大君は「在所は豊見城同村並里と云う家なり。長男は宜保大主、二男は平良大主、三男は高嶺大主、四男松川大主なり」としてある。宜保、平良、高嶺、松川各大主については詳細は不明である。 

屋号アザナの祖先は知念の安座真から来た人でアザマがアザナになったといわれている。 


御嶽について 

豊見城城内豊見瀬獄は西原村の御獄であると共に豊見城城の守り御獄でもあった。現在も尊崇していて字豊見城の御城といえばこれを指している。 ホバナ嶽は城の南東にある御獄であって、南風原村の御嶽であったが、後では東り方 (知念玉城) への遥拝所となったと考えられる。 ヒララス類は爬竜船との関連による御獄と考えられるが、五月四日には今でも祭りがある。 (御嶽については由来記より抜書した御嶽の部と年中行事中の爬竜船の部を参照のこと) 


祝女 (ノ口)について 

豊見城のノ口は屋号呑殿内がノ口家であったが、今は廃家になったため、現在はその分家である東り呑殿内が跡を継いでいる。元、呑殿内家と高嶺家は一門であるが、吞殿内より高嶺へ養子に入り、後呑殿内は嗣子が無くなったが高嶺家よりは養子をとらないで北山系から養子をもらったという。それでノ口家は北山系の子孫だと称しているとのことである。高嶺家は元村長具志保門氏の家である。それから大昔は新地がノ口家だったという伝えがあるようだが 確実なことは不明である。 


御穂田 

豊見城城趾の北西側、昔の西原村に50坪位の田があるが、これを屋号東利の祖先がもらった。この田は立派な苗代田であったと言われ、その初穂として東利一門から毎年六月の稲大祭 (うまちー) の際餅米三升で130個の餅をつくり、区長とノ口と東利門中代表で城内の御嶽、井泉を拝んで感謝の意をあらわした。この餅については俗に東利餅小と称している。 


サーザー森 

豊見城城跡の北方、城跡の下の海辺の道、いわゆる下原道の側にあって、ツヤの上の畑の中に土が盛り上がった所に香炉が置かれている。ここがサーザー森であって旧四月の虫払い行事の時虫等をとって海に流す所の上に当っている。今でも豊見城部落は古式にならって虫等を海に流す行事を行ない、この森の香炉を拝むとのことである。あるいは、昔西原村の人々はこのあたりから漫湖に入って魚貝を取っていたのではないだろうか。 


火番原 

豊見城部落の西北方の高所にあって那覇市小禄と豊見城との境界になっていて、現在は海軍慰霊塔が建っているところである。ここら一帯は火番原と呼び一名俗に火トブサー森とも言っている。ここは昔烽火 (のろし) をあげた所であるので上記のような名前がついているのである。 烽火 (のろし) の制度は向賢王代正保元年(西歴1644年)にできたもので、中国への航路及び薩摩への航路に当って諸島すなわち久米、慶良間、粟国、渡名喜、伊平屋、伊江並に沖縄本島各地の要所に烽火台を設け、遠見番という係員をおいて海上を展望させて、烽火をあげて冠船、進貢船、薩摩船等の入港を首里王城へ通報することになっていた。もし二隻通過すると二炬 (てー) を点じ、一隻の場合はー炬、外国船の時は三炬をてんじていた。 先づ久米島で火を挙げたら、渡名喜島でこれをうけ烽火をあげ、次は慶良間の座間味でこれをうけ、同じく慶良間の前島でうけて小禄 (小禄豊見城の境界であるため文献には小禄となっている) すなわち火番原に通じ、火番から直ちに首里王城にのろし火で通報する定めであった。もしこれをおこたってのろしをあげなかったら厳罰に処せられたと言われている。 豊見城の屋号新地小の後の山の端をテー城といっているが、城があるような広い所ではなく、その由来はまだわか っていないが、名前からみれば炬城 (てーぐすく) で前記の火番原から近い所だし火番 (遠見番) の屯所 (とんしょ) か、さもなければ昔の火つけがむつかしい時代、火をたやさないようにして火種を守った所、または古代祖先の墓地の所在地ではなかったかと考えられる。 火番原に登れば首里城の慶良間島も間近に見える。 


三角旗 

豊見城部落にはムカデの流しがついた三角旗があったが、原勝負差別式のときの島ぬちゃーいの際は、これをおしたてていせいよく集ったものである。この旗は公事から御拝領のものだと言われているが、くわしいことは不明である。 


獅子舞 

昔豊見城は獅子 (しいし) と龕 (がん) とを今の沢岻屋敷に同一の建物に置いてあったそうだが毎日夜中にこの二つが喧嘩してやかましいので、獅子ば我那覇部落に龕は高安部落にくれてしまったという話が残っている。 獅子は古くから魔除けの守神として獅子舞を行なっていたもので、本村にもたくさんあったと思われるが、豊見城と保栄茂以外は古老においても不明のようである。 琉球においては昔から瓦葺屋根の上や威霊 (せじ) 高いと言われているところに対して、その厄(やく)を防ぐという意味で獅子像を置いてあるが、いずれも魔除けと家庭・部落の守り神という意味からおかれたものである。


拜所としての古井泉 

  • 豊見城城の内    包井 (ちちんがー) 
  •                          干御井 (かりうかー) 
  • 並里泉 (樋川、なんざとひーざー)  西下新地小のそば 
  • 御殿井 (うどんがー)        公民館のうしろ 
  • みかじち井            樋川沢岻の前 
  • んずし井             徳上前ン田の上 
  • しり井 (一名ぐすくだがー)     新谷原の後 


石火矢橋 

この橋については第十章一節名所旧蹟参照 


諷中門 (ウタイナカジヨウ)について 

豊見城城下西原門外にウタイナカジョウという人の墓があり、そこには三味線等がはいっていると言われている。 ウタイナカジョウとは昔の役名で、王行列の時道筋を知らせる役であったと言われ、この人もその役をそのまま屋号にとったものであろう。 城内包井の側から門があってこれを中門といいこの門を守ったとも言われている。 


下原道 

下原道 (しちやばるみち) は石火矢橋から豊見城城跡の下、饒波川の岸辺づたいに那覇市小禄 (旧小禄村字小禄) に通ずる道で戦前までは饒波、高安部落が那覇行きの近道として使用していた道であって俗に城の下道ともいう。 此の道は昔首里より那覇港への間道として使用されていたのである。 (第十章一節火矢橋を参照)。 


北琉之塔 

所在地 字豐見城東原 昭和30年 (西歴1955年)五月此の地に駐屯した歩兵第二十二連 隊生存者が、部落の協力を得て建立し、連隊長吉田勝大佐以下4700余名を祀ってある。

 

0コメント

  • 1000 / 1000