Okinawa 沖縄の旅 Day 41 (11/09/19) Urasoe of Satto 浦添 察度所縁の地

牧港
森の川 (ムイヌカー) 
西森碑記
マヤーアブ
宮城の御願山のウスク
屋冨祖の御願所のガジュマル
尚灝王邸宅跡
Charlie’s Ridge Battle Site
チヂフチャーガマ 洞窟遺跡
Nishibaru Ga Public Well 西原東ガー/西原洗濯ガー
図書館で琉球の歴史を調べ、そして台風で外出ができない日が何日か続き、尚巴志の小説を読んいたら、那覇の次には浦添を探索してみたくなり、昨日、一昨日と浦添を巡ってみた。浦添は首里に中山の都が移る前は、中山国の中心地であった。その中山国を確立したのが察度。琉球王朝のプロローグとでもいう時代を作った人物。その察度の故郷がこの浦添地域。察度の歴史にまつわる場所に今日も行ってみようと思う。察度の歴史を交えながらレポートをする。
琉球の人物の名前は覚えにくい。察度もそうだ。本当の名前かどうかすらわからない。この察度は明国の文献に書かれている名で、現在はこの察度が一般的にこの人物の名前となっているが、察度 (さっと) とは明国の人が宛字として使ったもので、その出どころは、安里 (あさとぅ) である。安里に屋敷を構えていた。
察度は先にも書いたのだが、浦添から首里に中山国の都を移し、那覇が発展するきっかけを作った。これには大きな背景があった。対外貿易を国の経済の基盤にするという構想である。どれ程の構想が練られていたかは知る由も無いが、それに気づき実行した察度とは大した人物だ。
浦添グスクは古くから牧港 (まちなとぅ) と泊 (とぅまい) の港を利用していた。平底のヤマトゥ (日本) の船や琉球の船はその二つの港で充分だったが、喫水の深い明国の大型船はそこに入る事はできなかった。当時は倭寇が大陸の方まで進出していたため、大陸から高麗を経由してヤマトゥに向かう航路や、大陸から済州島を経由して東シナ海を渡る航路は、倭寇に襲撃される恐れがあった。そこで、南回りの琉球を経由してヤマトゥに向かう航路が使われるようになり、琉球の重要性が増していた。浮島 (那覇) は水の補給や風待ちのための基地となり、定住者も現れた。主に明からの商人やヤマトゥの商人だった。先に訪れた久米村 (クミンダ) は土塁に囲まれた城塞都市で明からの渡来人が住み、ヤマトゥンチュたちが住む若狭町は波之上権現の門前町として発達した。那覇の久米村、若桜町、波之上権現、泊港は数週間前に訪れた。今日は、牧港 (まきみなと) に寄ってみた。

Makiminato Port 牧港

港を横断する自動車専用道路が走っている。港の海に上に橋が架かっている。あいにく、自転車は通行不可なので、自動車専用道路の入り口付近で撮影。

1853年のペリーが琉米修好条約締結後、6日間にわたって、沖縄本島を調査を行った。
この3年後に、日本遠征記が出版されている。その挿絵の一枚が牧港のスケッチだ。その場所を探して行ってみた。今では岩山も米軍の港埋め立ての為に削られて小さくなって、跡地にはシニア向けの高級マンションが建っている。少しだけ、ここだなという雰囲気は感じられた。
牧港の海岸沿いは公園になっている。ヨットハーバーやコンベンションセンターがある。今はもう観光シーズンが過ぎているせいか、人はまばらだった。
察度の生まれだが、英祖王統の4代目の英慈王と繋がっているとされている。英慈王の逝去後、家督争いが起こり、四男の玉城 (たまぐすく) が長男の世子を含む三人の兄たちを倒して跡を継いだ。察度の祖父である奥間之子 (うくまぬしぃ) は殺された世子の若按司 (わかあじ)に仕えていたが、玉城王子が攻めて来た際に若按司の娘を連れて浦添グスクから脱出。その娘が成長して奥間之子の息子と結ばれ、察度が生まれたと言われている。(察度の母親は察度が十歳の時に亡くなってしまう。) 後に察度が玉城王の後を継いだ西威王を滅ぼすのだが、これは母親の敵討ちとして美談化されている。
(英祖王統 系図)
初代 英祖王 (1259-1299)
二代 大成王 (英祖王長男 1299-1308)
三代 英慈王 (大成王次男 1308-1313)
四代 玉城王 (英慈王三男 1313-1336)
五代 西威王 (玉城王長男 1336-1349)

森の川 (ムイヌカー) 

察度の母親に関しては、宜野湾に羽衣伝説として言い伝えがある。その場所が森の川 (ムイヌカー) という公園にある。
その天女伝説とは、「ムイヌカーで沐浴していた天女と出逢った貧しい農民の奥間大親 (おくまうふや) が、天女の羽衣を隠し、首尾よく天女を連れて帰り妻にした。やがてふたりは一男一女をもうける。ある日、弟をあやす娘の歌から羽衣のありかを知った天女は、羽衣を羽織ると、子どもたちとの別れを惜しみつつ、空高く天に帰ってしまった。」と言うもので、日本、中国、東南アジア諸国に伝わる羽衣伝説とほぼ同じだ。ここでは羽衣を隠した男が察度の父の奥間大親になっている。察度の神秘性を高めている。宜野湾市では羽衣祭りが行われ、今年で42回目だそうで、町おこしの行事となっている。宜野湾市では察度は英雄だ。

西森碑記

察度王の末裔の方たちが、先祖の徳を偲ぶために約300年前に造られたもの。察度王が亡くなったのが1395年、この石積みが完成したのが1725年で、察度の死後330年目に造られた訳だ。察度の影響力は大きい。個人的には、琉球の歴史でワクワクするのはこの察度と尚巴志かもしれない。

マヤーアブ

森川公園内に沖縄戦で洞窟に避難して助かった住民がその記憶をとどめる為に記念碑を建てている。
察度が16才の時に牧港 (まちなとぅ) から倭寇の船に乗って、ヤマトゥへと旅に出たと伝えられている。その時、共に旅に出たのが、将来、右腕になる義弟の泰期 (たち) だった。若気の至りの乗船ではあったが、故郷に帰る事もできず、八年の間、倭寇と一緒に高麗の海を荒らし回った。24歳の時に、大量の鉄と銅銭を積んだ船に乗って、泰期と一緒に故郷に帰って来た。
帰国した察度 (22才) に父の奥間大親が母親の出自を証し、母の父親の若按司の仇を討つ事を求めた。ここから察度の浦添按司攻略の準備が始まる。この時の浦添城主の四代の玉城王は亡くなって、まだ若い息子の西威が按司 (英祖王統 第五代王) となっていた。実権は玉グスク按司の娘であった母親が握り、近くの諸按司と同盟関係を築いていた。[島添大里 (しましいうふざとぅ) 按司、八重洲 (えーじ) 按司、北谷 (ちゃたん) 按司、中グスク按司、越来 (ぐいく) 按司、玉グスク按司] この同盟の範囲は広範囲で察度にとりこの同盟を相手に戦うのはまだ無理だった。
転機は察度26才の時に勝連 (かちりん) 城按司の娘を娶り、勝連城按司との同盟を結んだことから事から訪れる。勝連城按司は英祖王統の4代目の英慈王の弟で浦添按司を快くは思っていなかった。結婚した察度は安里 (あさとぅ) に豪勢な屋敷を建て、安里大親 (うふや) となった。玉グスク按司と敵対関係のある島尻大里 (しまじりうふざとぅ) 按司ら諸按司と同盟を結び浦添按司攻略準備は進んでいった。
察度29才の時に好機が訪れる。浦添按司の玉城王の十三回忌が、浦添グスクの近くにある極楽寺で行なわれ、同盟関係の按司たちが集まって来た。察度は勝連、中グスク、島尻大里の兵と共に極楽寺を襲撃して、西威とその母親、まだ六歳だった若按司を殺し、更に、越来 (ぐいく) 按司、北谷 (ちゃたん) 按司、玉グスク按司、八重瀬 (えーじ) 按司、具志頭 (ぐしちゃん) 按司、糸数 (いちかじ) 按司たちを倒し、浦添グスクを奪い取った。この事により察度は浦添按司になる事を宣言。その後、敵対する按司たちも次々に倒して中部地域を平定し、世の主 (ゆぬぬし) と呼ばれるようになった。ここから察度王統が始まる。
中山王とはなったものの、その支配はそれ程強いものでは無かった様だ。支配が強かったのは浦添、首里一帯で、その他の中山地方はどちらかというと、地方の按司との同盟関係が主体で、婚姻政策で結ばれていた。察度の子には島添大里按司の娘が嫁ぎ、南山王の承察度には察度の娘を嫁がせ、大グスクの按司、中グスク按司、察度の甥の勝連按司も察度の娘を妻にしていた。攻略したグスクには察度の息子を按司として送り込んでいた。察度の三男は勝連按司の娘を妻にし越来按司となっていた。(これが史実かどうかはわからない。調べてもこんなに多く息子がいたと言う記述は見当たらなかった)
察度は明国と朝貢貿易を始めた。馬と硫黄が主たる朝貢の品だった。馬は察度の義弟の小禄 (うるく) 按司となった泰期 (たち) が読谷山 (ゆんたんじゃ) で育て、硫黄は朝貢には最も人気のある産物で、北山王の帕尼芝 (はにじ) に朝貢を薦め、明国との仲を取り持った見返りとして奄美にある硫黄鳥島 (いおうとりしま) の領有権を手に入れていた。これも察度の時勢を的確に読む能力に拠るだろう。
察度所縁の場所以外にも浦添地区も史跡を巡ったのでそれを追加しておく。

宮城の御願山のウスク

御願山と呼ばれるかつては聖域だった場所に樹齢100年以上のウスク(アコウ) が沖縄戦にもかかわらず焼残っている。

屋冨祖の御願所のガジュマル

この木は屋富祖の殿 (祭祀場) に生えているため、戦前は「殿ヌガジュマル」と呼ばれていた。樹齢は100年を超えている。

尚灝王邸宅跡

住居跡牧港の近くに第二尚氏王統 第17代 尚灝の住居跡があった。尚灝王は国王不適格者のようなレッテルを貼られている。自分の世子を摂政として政務を任せっきりにし、国政を顧みず、晩年は精神病になり、この地で隠居生活を送り、自殺をしたとも言われている。首里ではなく、浦添の海岸の静かな場所に過ごしたようだ。この場所は高台から下ったところにあり、今でもそれ程多くも家がある地域ではないが、新しい住宅街は洒落た家屋が多くあった。

Charlie’s Ridge Battle Site

浦添城を訪れた時に、Hacksaw Ridge の戦い (前田高地) の話を書いたが、この牧港の近くも激しい戦闘が行われた場所だ。下の地図は、当時の米軍の進攻ルート。(一番海岸に近い場所がここの戦地)
海岸から高台になっている場所が戦地。

チヂフチャーガマ 洞窟遺跡

1500年から800年前の土器や貝殻が出土しており、古代人の住居として使われていたと推測される。沖縄戦では、避難場所となっていた。洞窟内に、壊れた骨壷が数基散乱している。これはどういう事だろう? 史跡に指定されている場所だが、墓とは書かれていないし、骨壷が無造作に放置されているのも少し不気味な気がする。薄暗い人気のない場所であまり長居をしたくない場所だ。後で、インターネットで調べてみたら、ひとつだけこの謎を解く記事があった。NHKの沖縄戦の証言特集だった。ここは沖縄戦では避難壕として使われ、奥行きが100mもあるそうだ。茂みの中にあり視界もなくわからなかった。わかっていても入りたくはないのだが.....   ここに避難した人達は、米軍からは投降しなければガス弾の投入をすると勧告を受けたが、これに応じず、ガスで20名が命を落とした。それとここは風葬の場所だったそうだ。だから骨壷が残っていたのだろう。神聖なものだから、手がつけれないのだろう。浦添市の案内にはこんな事は書いていない。かけないのかもしれない。そんな事が沖縄にはまだまだあるのだろう。

Nishibaru Ga Public Well 西原東ガー/西原洗濯ガー

西原町との境にある拝山 (うがんやま) の麓にある水場跡。この山は字のごとく拝所があり神聖な場所であった。
現在は公園になっており、頂上にはシマトイモウ (青年毛) と呼ばれる場所がある。青年達が集まる場所という意味で、拝み行事の後、相撲を取っていたという。土俵らしきものがあった。(見たときに土俵かなとは思った) 
海岸の方には浦添の北の宜野湾に普天間米軍基地がある。5分おきにジェット機、ヘリコプターが飛び交っている。風景写真を撮ると、戦闘機が写ってしまう可能性はかなり高い。時にはかなりの低空飛行をしている。写真の左上は、カメラの性能がそれほどでないiPhone で取っているのだが、機体がはっきりと見えるぐらいの低空飛行だった。流石に5分おきの騒音はすさまじい。
これで浦添市の史跡巡りは終了。3日間の訪問だった。


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