Okinawa 沖縄 #2 Day 284 (07/04/25) 嘉手納町 (1) Kaneku Hamlet 兼久集落

嘉手納町 兼久集落 (カニク、かねく)

  • 甘藷発祥の地、野国いも宣言
  • 野国貝塚群
  • 嘉手納マリーナ
  • 嘉手納空軍高射砲台
  • 兼久ビジュル (移設前)
  • 野国総管の墓
  • 中ヌ岩 (ナカヌシー)、下ヌ岩 (シチャヌシー)
  • 野国川
  • ヤラジヌーシー、兼久ビジュル (移設後)
  • 兼久海岸、兼久海浜公園
  • 沖縄戦上陸碑
  • クシヌトー

3月初めに東京から帰ってきてから、東京滞在中に訪問した杉並区中期のレポートの編集、今回から訪問する嘉手納町に関しての下調べにかなり事案を使い、ようやく沖縄集落巡りを今日から再開する。そろそろ日帰りで訪問できる距離は限界となっているので、今日からは日帰りではなく泊りで訪問する。嘉手納町は3泊4日を予定している。この4日分の下調べの為、何度も図書館を訪れたことも再開が遅れた理由。第一日目は嘉手納町の南端にある字 兼久を巡る。


嘉手納町 兼久集落 (カニク、かねく)

字 兼久は、東シナ海に面する海岸砂丘地に沿って南北に伸びている。南は野国川の河口に臨み、川を隔てて千原があり、北は水釜に隣り合っていた。

嘉手納町はハダカユー (裸世) と呼ばれる旧石器時代の頃から人が住んでいたと考えられている。兼久は野国に属していた屋取集落で、首里から移住した士族により集落が形成された。1879年 (明治12年) の琉球処分で琉球藩から沖縄県となった際に、首里の士族は失業し、帰農が進み、一部の士族が野国の海岸側に移住し兼久屋取集落が誕生している。最初に首里から移住したのが久米村系の亀島氏だったので亀島小屋取 (カメシマグヮーヤードゥイ) と呼ばれていた。

その後、1939年 (昭和14年) に野国から独立して行政字となった。当時は、ほとんどが農家だったが、海に近いので漁を副業とする家もあったという。

1945年 (昭和20年) には米軍上陸後すぐに占領され、嘉手納村の全土が軍用地となり、住民は捕虜収容所での生活を強いられていた。1947年 (昭和22年)に村民の帰還が村内の限られた土地への許可がおりたが、元々の兼久集落は依然として軍用地内にあり、解放された兼久土地の一部は1961年 (昭和36年) と遅く、元の集落の地から外れた僅かで、殆どの旧兼久集落住民は字嘉手納に居住を継続することになった。その後、米軍や琉球政府により、海岸線は埋立や港湾工事で以前とは様変わりしている。現在でも、字 兼久の大部分は米軍嘉手納飛行場基地として収容されたままになっており、字内で民家が建っているのはごく僅かな地域のみとなっている。

兼久の人口のデータで見つかったのは下記の通りで、ほとんどの期間は不明だった。1952年 (昭和27年) の人口が537人 (107戸) とあるが、戦後のこの時期は兼久は軍用地として接収されていたので、戸籍ベースの人口と思われる。琉球王国から戦前にはこれ以上の人口だったと思われる。 嘉手納町の統計では1998年以降、100~140人が住んでいる。2017年に人口は一挙に2倍になっている。航空写真の地図を見ても集合住宅のようなものは見あたらず、この急増の背景はわからなかった。近年は世帯数は減少傾向で、人口は横ばいになっている。


兼久集落の史跡等



北谷町砂辺から嘉手納町に向かうのだが、道は国道58号線の一本しかない。道の両側は米軍嘉手納基地になっている。嘉手納基地の返還は未定のまま。暫くは現状が続くのだろう。(訪問中に地元の人何人かに聞いてみても、返還はないとあきらめていた)


甘藷発祥の地、野国いも宣言

国道58号線で嘉手納町の字兼久に入る。道沿いに石碑が建っている。甘藷発祥の地 野国いも宣言と刻まれている。これは2005年に開かれた野國總管甘藷伝来400年祭記念式典で、「野国いも宣言」を発表し、石碑が建立された。嘉手納では野國總管は英雄のようだ。野國總管がもたらした芋は、嘉手納では特別の意味があり、ゆるキャラの「いもっち」にもなっている。碑文には

1605年、我が町の先達・野國總管によって中国福建省からもたらされた甘藷は、野國總管生誕の地・野国を発信基地として琉球のすべての村々へ、そして、薩摩を経て全国へと広まり、人々を飢えや飢饉から救い、全国民が等しくその恩恵に浴することになりました。今日、甘藷は未来を希求する健康食品として注目を浴びております。甘藷伝来400年の節目を迎える2005年、野國總管の偉業を奉祝する「野國總管甘藷伝来400年祭」が全町民の手により挙行されました。この慶賀を機に、我が国における甘藷発祥の地・嘉手納を全国に広く発信するとともに、野國總管を称え、甘藷を「野国いも」の愛称で呼ぶことを高々と宣言し、ここに記念碑を建立します。
2005年10月1日
野國總管甘藷伝来400年祭実行委員会 実行委員長 嘉手納町長 宮城篤実

とある。


野国貝塚群

野国いも宣言の側に標柱があり、野国貝塚群と書かれている。この辺りから野国川附近から北方に約400mの範囲に及ぶ貝塚群で、沖縄貝塚時代の早期 (約7000年前 ~ 3600年前)、前期 (約3500年前 ~ 2500年前)、後期 (約2000年前 ~ 12世紀) にかけての複合遺跡で、3ヶ所見つかっている。其々の地では異なった出土品があるので、A地点、B地点、C地点と名付けられている。ここはA地点で1955年 (昭和30年) に海岸砂丘上で発見され、貝塚時代後期 (約2000年前 ~ 12世紀 沖縄新石器期) のくびれ平底土器、磨石、開元通宝という中国の古銭などが見つかっている。砂採によりほぼ壊滅状態にある。

貝塚群の北側はB地点で この道58号線を少し北に進んだ所、排水路付近で発見され、上層から縄文時代 前期の条痕文土器が出土し、下層から縄文時代早期 (約7000年前 ~ 3600年前) の爪形文土器が大量に出土している。

C地点はB地点の南側の砂丘上にあり、畑地一帯で後期系土器などが採集され、周辺からは伊波式・大山式と呼ばれる土器、青磁 なども採集されたが、現在は嘉手納マリーナ のビーチとなり消滅している。



嘉手納マリーナ

野国貝塚A地点から海岸に行くと、嘉手納マリーナがある。米軍嘉手納基地の米軍の保養施設だが、一般開放されている。戦前は陸地だったものを基地造成のため砂採され、この様な湾に作り替えられている。マリーナ内にはアメリカ軍関係者専用バーベキュー施設、一般公開のレストランなどがある。


嘉手納空軍高射砲台

戦後の冷戦期間中には、米国陸軍は沖縄を空の攻撃から守るため、現在の嘉手納マリーナ内の高台に、高射砲を設置していた。その跡が残っている。各砲合には120ミリ施と2対の50口径4連装高射機関砲が配備されていた。砲台下には弾薬保管室がある。米陸軍は第2次世界大戦直後より、24時間態勢で砲台に人員を配置し、警戒に当たっていたが、1958年 (昭和33年)、地対空ナイキミサイルの導入に伴い高射砲はその役日を終えている。


兼久ビジュル (移設前)

兼久のビジュルは、戦前までは前屋良小 (メーヤールイグヮー) のビジュルと呼ばれ、現在の嘉手納マリーナの海の小島にある。この岩の小島は賓頭盧ヌ岩 (ビジュルヌシー) とよばれていた。兼久集落は帰農士族による屋取集落で、昔からの拝所や御嶽は存在していなかったが、兼久屋取集落民の心の拠り所にすべく、村人が恩納村の仲泊の海岸からビジュル(霊石)を三体持ち帰り、この岩陰に祀ったという。すると直ぐに兼久集落は子宝に恵まれ、それからは兼久屋取集落でこのビジュルを神として崇めて大切に拝するようになった。戦前はこの岩場の小島は陸続きだったが、米軍の砂利採取により陸と切り離され、徒歩で参詣ができなくなり、ビジュルをこの岩からヤラヂヌシー (この後に訪問) に移している。このビジュルは、昔から村単位ではなく、個人の意志で拝んでいた。水釜、野里などの他字からも子供の健康と家内安全の祈願に来る人が多かった。御神体は、海の彼方から流れつ いてきたといわれる「ビジュルヌタンメー」、「ビジュル ヌウンメー」と「動物」の三体の石であったが、沖縄戦で破壊されている。この拝所元々は野国村の管轄だったが、後に、ビジュルの近くに家を構えている兼久村の草分けの亀島家に管理がまかせられた。亀島家はビジュル管理のほかに、お参りに来た人のユクイドゥクルー (休憩所) でもあった。


野國總管の墓

嘉手納マリーナの海岸を南に進むと野国川の河口の岩陰に中国から甘藷をもたらした野國總管の墓が残っている。野国総管の墓は、1700年 (元禄13年) に野国村地頭の野国親方正恒が野国総管の遺徳を讃え、その供養を兼ねて石厨子を造り、首里に埋葬されていた (?) 総管の遺骸を移葬し安置したものという。石厨子は沖縄戦で破壊され、屋根形の石蓋のみが昔のままに残っている。蕃薯伝来から146年後の1751年 (宝暦元年) に総管の親族である6世の孫の比嘉筑登之によって墓の東側に顕彰碑の甘藷撥祥之地の石碑 (写真右中) が建てられている。

北谷村においては毎年旧8月15日に例祭を行っていた。野国、野里では毎年旧暦2月に野國總管の墓に供物を供えお参りをしている。嘉手納町では毎年秋に野國總管まつりを開催している。

野國總管は、北谷間切の野国村に生まれ育ち、後に尚寧王の時代に中国に渡り、1605年 (慶長10年) に中国福州から甘藷の鉢植えを持ち帰えった人物と伝えられているが、その詳細は分かっていない。近年の研究では、野國總管の家系は代々野国村の百姓であったと考えられており、童名 (ワラビナ) は与那覇松 (ヨナハ マチュー)、大和名は与那覇裕初 (よなは ゆうしょ)、唐名は總世健という説がある。当時の琉球は貧しく、貧困にあえぐ人々はこの甘藷によって救われ、その業績は今でも語り継がれ、芋大主 (ウムウフシュ) と呼ばれている。野國總管は持ち帰った甘藷を故郷の野国村に移植。その後、甘藷は儀間真常によって沖縄中に広められた。宝永年間 (1704から1710年) には薩摩の前田利衛門によって甘藷の苗が薩摩に移植され、さらに1744年 (延享元年) に青木昆陽がこれを関東にひろめ、それから日本国中に広まっている。1936年 (昭和11年)、那覇市奥武山の世持神社で野国総管は、蔡温、儀間真常とともに沖縄の産業発展に尽くした一大恩人として祀られている。また、甘藷伝来350周年記念事業の一環として字嘉手納に野國總管宮 (後日訪問予定) を建立し分骨をして祀っている。



中ヌ岩 (ナカヌシー)、下ヌ岩 (シチャヌシー)

野國總管の墓の前には二つの大岩があった。中ヌ岩 (ナカヌシー) と下ヌ岩 (シチャヌシー)で中ヌ岩 (ナカヌシー) が削られて砂辺ポンプ場 (写真下) となっている。中ヌ岩から海岸に向かうと下ヌ岩 (シチャヌシー 写真上) が残っている。


野国川

野國總管の墓の南には野国川があり、兼久村と野国村千原との境界になっていた。この野国川を渡った所に千原の拝所がある。兼久や水釜には何本も川が海に流れ込んでいたが、今は水が流れている川は少ない様だ。米軍基地になり基地内の川は埋められてしまったのかも知れない。干潮時には歩いて渡れるのだが、川は海水が川を覆っており渡れない。明日にでも干潮の時間を調べて再訪する事にしよう。

戦前のこの辺りを写した写真があった。野国川には水が流れその上流に千原の集落が見える。それ以外は一面畑となっている。


ヤラジヌシー、兼久ビジュル (移設)

嘉手納マリーナで見た賓頭盧ヌ岩 (ビジュルヌシー) にあったビジュルは、戦後米軍の砂利採掘によりビジュルヌシーが陸地と切り離され、徒歩で参拝できなくなった。1955(昭和30年)頃に現在のヤラヂヌシーに移し祀っている。フェンスの入り口から入ると拝所は広場になっており、大岩の前の祠が造れており、中に三つのビジュル (霊石) が置かれている。戦争で破壊された三体のビジュルヌタンメー (賓頭盧のお爺)、ビジュルヌウンメー (賓頭盧のお婆)、動物のビジュルを仲泊の海岸で三個の石を拾い御神体として復元している。子宝の御利益があるとされ、周辺の地域から多数の参拝者が訪れている。また、旧暦9月9日に供物をして子供の健康と家内安全を祈願している。

ヤラジヌシーには移住当時から戦前までは、岩場に石を積んだ大きな井戸があり、住民の生活用水として重宝されていた。戦後、米軍がこの井戸を埋めてしまい、井戸の神を現在の場所に移設している。大潮の時は井戸に水かさが増し、干潮の時は水量が少なくなったそうだ。海岸の近くにも拘らず、井戸水は真水で塩は含まれていなかった。

この拝所にはもう1つ井戸がある。首里から士族が移住してきた頃は亀島小屋取と呼ばれるようになった頃に亀島という人が堀った井戸で、これも米軍に埋められてしまったので、この地に移設して祀っている。

拝所内、兼久のビジュルの向には大きな岩があり、その前に香炉が置かれている。ヤラジヌシーの神を祀っているそうだ。


兼久海岸、兼久海浜公園

かつての兼久海岸のイノー (礁池) にはクムイが多く、はウナー(ウニ)などが多く生息していた。戦後、かつての兼久海岸は殆どが埋め立てられたり、港湾などが造られて、かつての兼久海外は失われている。軍用地となっていた埋め立て地は土地返還後に、兼久海浜公園になっている。兼久海浜公園にはウォーターガーデンや多目的広場、夜間照明完備のソフトボール場や総合運動場、テニスコート、体育館などが整備されている。


沖縄戦上陸碑

兼久海浜公園のウォーターガーデンの海岸側には沖縄戦上陸碑が置かれている。1945年 (昭和20年) 4月1日の朝に、米軍がこの周辺一帯の海岸線から上陸している。日本軍はこの地を上陸予定地から外していた事や、主戦力を首里防衛の為に宜野湾以南に配置していた事で、上陸後、米軍は日本軍の反撃はほとんどなく、北飛行場 (後の読谷補助飛行場) と中飛行場 (現在の米空軍嘉手納飛行場) をその日のうちに占領している。

上陸後の地上戦では、 当時中頭郡最大の繁華街を含む嘉手納全域は灰燼と帰し、 一般住民や鉄血勤皇隊として従軍した沖縄県立農林学校生など多くの尊い人命を失った。

米軍に占領された沖縄中飛行場は、 戦後その規模を拡大し、 極東最大の空軍基地の米軍嘉手納飛行場となり、現在も嘉手納弾薬庫と併せ嘉手納町の83% を米軍基地が占めている。

碑文には「私たちは、 沖縄戦 の実状と体験から、 戦争の不条理と残酷さを正しく次代に伝え、 戦争の記憶を風化させず、 戦争につながる一切の行為を否定するとともに恒久平和を祈念してこの碑を建立する。」 とある。


クシヌトー

兼久海浜公園の北には排水溝があり、これが水釜と兼久の境界にあたる。雨が降ると、水釜金壇子原と水釜から流れてきた雨水が集まってきて大水になった。この大水をそのまま下方へ流すと、浜原一帯が流されてしまうので、土手をつくり池のようにし、水の勢いをおさえて周囲に泥水を溢れさせ、砂畑に上流の表土を入れたという。

この地点は、後に、兼久と水釜の共有の闘牛場になったという。



兼久集落巡りを終えた後、北谷に戻り、ジムで軽くトレーニングを行い、ハンビータウンに移動、今日はこの地で泊りなので、北谷海岸の公園で夕焼けを見る。夜10時まではショッピングセンターのフードコートで夕食、今日の訪問レポートを編集を行い、近くのインターネットカフェに入り本日は終了。


今日の訪問ログ


参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 嘉手納町史 資料編2 民俗資料 (1990 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編5 戦時資料 (2000 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編6 戦時資料 (2003 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編7 戦後資料 (2010 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町史 資料編8 戦後資料 (2020 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町の先人たち (1993 嘉手納町教育委員会)
  • 嘉手納町分村35周年記念誌 (1983 嘉手納町役場)

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