Okinawa 沖縄の旅 Day 75 (15/10/19) Itoman World War II Remains 糸満市沖縄戦争史跡 (糸満市 ④)

Kuniyoshi Hamlet 国吉集落

  • Kuniyoshi Stone Lion 国吉守護獅子 (10/16に記載)

Maezato Hamlet 真栄里集落

  • Shiraume Memorial Monument / Machidou nu Tira 白梅之塔 / マチドームティラ (10/16に記載)
  • Tower of Eiri 栄理之塔 (10/16に記載)
  • Maezato Stone Lion 真栄里 石獅子 (10/16に記載)

Ishiki Hamlet 伊敷集落

  • Todoroki Cavern 轟の壕
  • Ishiki Gusuku Castle Ruins 伊敷グスク (10/18 訪問)

Itosu Hamlet 糸洲集落

  • Itosu Carvern 糸洲の壕
  • Itosu No 2 Surgery Carvern 糸洲第二外科壕跡
  • Asato Gusuku Castle Ruins 安里グスク (10月18日 訪問)
  • Itosu Gusuku Castle Ruins 糸州グスク (10月18日 訪問)
  • 幸地腹・赤比儀腹両門中墓 (10/14 訪問)

Ihara Hamlet 伊原集落

  • Ryufu Monument 琉風の碑
  • Ihara No 1 Surgery Cavern 伊原第一外科壕
  • Imperial Army Hospital Ruins 陸軍病院山城本部壕 (山城本部壕)

Komesu Hamlet 米須集落

  • Tower of Deigo 梯梧之塔
  • Tower of Zuisen ずゐせんの塔
  • Tower of Himukai ひむかいの塔
  • Komesu Gusuku Castle Ruins 米須グスク
今日も糸満市の史跡巡りを行う。

Ishiki Hamlet 伊敷集落

2015年の国勢調査によると人口73人、世帯数は22世帯。今までにまわった字では一番小さな集落だ。しかしここには多くの沖縄戦の爪痕が史跡として残っている

Todoroki Cavern 轟の壕

轟の壕は太平洋戦争末期、沖縄戦の最終局面において追い詰められた日本軍と沖縄の避難民が立てこもり、アメリカ軍による攻撃と日本軍による避難民への暴行で多数の犠牲者を出した。戦争という極限の状況下で、多くの子供や赤ん坊が殺害もしくは餓死の運命を辿った。
ここは高校生の修学旅行の一つの場所になっている様で、次々に大型バスで高校生が来訪している。修学旅行での沖縄戦の遺構訪問はここと、ひめゆりの塔、そして伊原第一外科壕 (アブチラ壕) が人気だ。全ての学生がこの地を訪れ、何かを得ている訳では無いが何人かでも戦争の悲惨さを理解すれば良いだろう。

Ishiki Gusuku Castle Ruins 伊敷グスク (10/18 訪問)

伊敷グスクは、伊敷集落の北側標高約60mの石灰岩丘陵上に築かれていた。北側は断崖、東南側は急傾斜地、 西側は平坦な地形にある。築城時期や築城者は不明だが、南山時代に築かれたものだと推測されている。西側から入り口らしき所から入っていったのだが、すぐのところに拝所があるが、それ以上は樹々が鬱蒼と繁り中には進めなかった。
数十メートル離れた所に通常の入り口があった。綺麗に整備されてグスク跡まで難なく進む事ができた。石垣がはっきりとわかるぐらい綺麗に残っている。
広場に出る。拝所があり、そこから別の小さな拝所への通路がある。
この伊敷グスクが「おもろそうし」に出ているそうだ。それによると伊敷グスクは大和 (日本) と交易をしていたとある。
ここからは糸満の海岸線が間近に見える。

Itosu Hamlet 糸洲集落

2015年の国勢調査によると人口235人、世帯数は79世帯とかなり小さな地域だ。

Itosu Carvern 糸洲の壕 (ウッカーガマ)

1945年5月27日、戦況の悪化に伴い、豊見城城址にあった第24師団第二野戦病院はこの糸洲壕に移動。この第二野戦病院には私立積徳高等女学校の女生徒25名が学徒動員されていた。移動にあたっては、歩ける者は部隊に帰し、重傷患者は「処置する」よう命令されていた。しかし軍医は「本来なら患者を治してやるべき医者が、例え戦争中でも命を奪うのは忍びない」と、患者一人一人に励ましの声をかけ、枕元に水や乾パンと手榴弾を置いて別れたという。(豊見城を訪れた際にこの話を知ったのだが、その時は患者は置き去りにされたと聞いていたが実際は殺害命令を無視して助けたにだった) この軍医・小池勇助隊長は戦時中にあって命の尊さを説く珍しい軍人であり、最期まで学徒隊を守り犠牲を最小限に抑えた人物。第二野戦病院小池隊は糸洲壕に避難したものの艦砲射撃が激しくなり、衛生兵や学徒隊・傷病兵は壕の奥へと移動していく。6月17日に壕の周囲は米軍が取り囲み、壕は馬乗り攻撃を受け、壕の上からボーリングし穴を開けガソリンを流し込んで火をつけたり、ガス弾を打ち込んでくる。
その後、小池隊長に野戦病院の解散命令が届く。この解散命令とは実際には玉砕命令。小池隊長は学徒隊の命と軍命の狭間で悩むのだが、解散命令を握りつぶし、壕の中で解散の時期を探ることにした。 6月26日になって、沖縄守備隊第三十二軍牛島中将・長参謀自決の報を受け、小池隊長は日本軍の敗北を知り、そこで小池隊長は危険が少なくなったと判断し積徳学徒隊に解散命令を出した。解散にあたって小池隊長は学徒隊を集め、「日本は戦争に負けた。長い間、軍に協力してくださりご苦労だった。負ける戦だと分かっていれば、君たちを預からなかった。親御さんに何とお詫びしたらいいか、本当に申し訳ない」と謝罪し、頭を下げたという。米軍に捕らえられるくらいなら自決を選ぶと言う少女たちに対しては、「捕虜になることは恥ではない、本当の恥は死ぬことだ。決して死んではいけない。必ず生きて家族のもとに帰りなさい。そして凄惨な戦争の最後を、銃後の国民に語り伝えてください」と訓示し、一人一人握手をし、学徒隊を送り出した。解散命令が、沖縄戦の戦闘が終了した後のことであったので、学徒隊25名のうち、戦争の犠牲となったのは3名で、22名が生還。解散の翌日、恐怖のため糸洲壕から遠く離れることができなかった学徒隊の一人の少女が壕に戻り、服毒自決した小池隊長の変わり果てた姿を発見したという。この小池隊長の行動は素晴らしい。今では、彼の行動を本来すべきものとさらりとすましてしまうのだろうが、ほとんどの人が戦争という異常な状態で精神や性悪の判断が麻痺していた時に、大勢に逆らい信念で生き死んでいった。普通の人には出来ないことだ。多くの生徒が生き残った積徳高等女学校の学徒は小池隊長にいつまでも感謝をして語り伝えていたそうだ。地元のガイドさんは必ずこの小池隊長の事を話をしてくれる。積徳高等女学校の学徒はあの悲惨な体験の中で小池隊長という感動を得ている。小池隊長は自決したが、今でも彼の精神が語り伝えられている。
豊見城での戦争遺構は下のリンク

Asato Gusuku Castle Ruins 安里グスク (10月18日 訪問)

糸洲集落の北側丘陵に築かれたグスクで、仲間グスクの東側に同一丘陵上にある。この安里グスクの南側には、かつては安里集落があったのだが、後に糸洲集落に吸収され、安里集落は消滅。10月15日にこの場所には沖縄戦の陸軍病院第二外科壕の遺構を訪ねて来たのだが、グスク跡とは知らなかった。グスクへの道はインターネット上では紹介しているのだが、今は草がぼうぼうに生えて、とても中に入れる様な状態ではなかった。グスク跡にはほとんどの場合、拝所があり、日本のお盆の時期には集落の人々はお詣りをする。それにあわせて草を刈っているのだが、その時期から既に二ヵ月経っているので雑木林に戻っている。マイナーなグスク跡の訪問は8月が良さそうだ。

Itosu No 2 Surgery Carvern 糸洲第二外科壕跡

安里グスクの入り口付近にこの壕がある。(これは後で知ったのだが....) 「ぬちとうたから」碑が建立されている。これは命は宝という意味で沖縄の人はこの言葉を大切にしている。物事の判断の尺度にしている。これも琉球王朝の薩摩侵攻と沖縄戦を経験しているからなのだろう。好きな言葉だ。この壕は南風原陸軍病院第二外科勤務者が避難して来ていた。ひめゆり学徒隊もこの壕にいた。1945年6月18日には、米軍の馬乗り攻撃を受け、引率教員二人に促され学徒達は壕から脱出し伊原第一外科壕 (この後に訪問) へ向かったのだが、その伊原第一外科壕で解散命令が下されたという。そこから教員と学徒が戦場を逃げて喜屋武海岸に辿り着く。この先は海で米軍艦隊が艦砲射撃をしている。そこで二人の教員で自決と生き残ることで意見が分かれ、ほとんどの生徒たちは生き残ることを主張した教員についていくことを決め、その場を去ったそうだ。
南風原陸軍病院訪問時のリンク
喜屋武海岸訪問のリンク

Itosu Gusuku Castle Ruins 糸洲グスク (10月18日 訪問)

安里グスクの前の道路を渡った所に糸洲グスクがある。糸洲集落の北側石灰岩丘陵に築かれ、二つ郭の連郭式のグスクと推定されている。南山城の出城または、その系統の按司のグスクであったと思われる。グスクへの道を進むと広場に出る。ここに館でもあったのだろうか。拝所がいくつかあった。これ以上は雑草が生茂り、樹々が深く中に入ることができなかった。

Kochi Bara 幸地腹・Akahigi Bara 赤比儀腹両門中墓 (10/14 訪問)

約1600坪もの敷地内に、トーシー墓 (当世墓) と4つのシルヒラシ墓がある沖縄県内最大級の共同墓。1684年の創建。門中 (むんちゅう) 若しくは腹とは父系の血縁集団のことで、2つの門中の子孫は現在約5千人ともいわれている。この墓地は会員制では一族でも会費を納めないとこの墓には入れない。糸満の埋葬方法は他とは少し異なっている。今は火葬でお骨を骨壷に納めるのだが、一年後に洗骨をして奥にある先祖の遺骨の上に散骨をするらしい。もう誰の骨かはわからなくなるのだが、それで良いのだと。死んでもみんな一緒と言う非常に前向きな考え。一族の繋がりを大切にしている。

Ihara Hamlet 伊原集落

2015年の国勢調査によると人口193人、世帯数は78世帯で糸洲集落よりも少ない。

Ryufu Monument 琉風の碑

沖縄戦に巻き込まれた沖縄気象台職員の慰霊碑。当時はここよりもっと北に沖縄地方気象台があり、戦争でその近くの壕で業務を継続していた。昭和20年5月27日、戦況の悪化により壕を放棄、気象台職員は南へと撤退し、約1ヶ月後の6月22日にこの地に辿りついた。その時には70人いた職員の生存者は僅かに12名となり、この岩陰で最後の解散、その後それぞれの悲しき運命をたどったと書かれてあった。この地を元沖縄気象台職員の終焉の地として琉風の碑が建立したのだ。

Ihara No 1 Surgery Cavern 伊原第一外科壕

この伊原第一外科壕にいたひめゆり学徒隊は、南風原沖縄陸軍病院から糸洲第二外科壕に移動した生徒たちではなく、沖縄陸軍病院糸数分室 (アブチラガマ) で勤務していた生徒たちが移ってきた壕。同じひめゆり学徒隊でも、生徒たちは南風原の沖縄陸軍病院他、識名分室、一日橋分室、糸数分室などに分散して配置され、沖縄守備軍の南部撤退後は、山城の本部壕、伊原第一外科壕、伊原第二外科壕、伊原第三外科壕、波平第一外科壕、糸洲第二外科壕などに分散して配置されていた。
ここの近くには伊原第三外科壕がある。ひめゆりの塔が建っている所で一日で平均5千人が訪れるという。この伊原第一外科壕には訪れる人はほとんどいないと思われる。ここでは一人も訪問者に会わなかった。少し寂しい気もする。せっかくひめゆりの塔まで来ている人が多いのだから、ここにも足を運んでもらう工夫はできると思う。ここだけでなく、この近くには多くの沖縄戦遺構がある、それをまとめて「ひめゆりゾーン」として観光地化すれば、観光に来た人がもっと深く沖縄戦の悲惨さを理解出来るのにとも思う。
糸数分室 (アブチラ壕) のリンク

Imperial Army Hospital Ruins 陸軍病院山城本部壕 (サキアブ)

元々は、山城集落の避難壕であったが、首里陥落後、南風原陸軍病院が撤退し、陸軍病院関係者がここに避難し、沖縄陸軍病院本部として利用された。1945年6月14日の爆撃によって軍医、衛生兵、ひめゆり学徒隊の多数が戦死。病院本部の機能は壊滅状態で、翌6月15日に生存者は伊原第一外科壕、伊原第三外科壕などに分散、そこでも激しい攻撃にさらされることとなる。ひめゆり学徒隊も分散して伊原第一外科壕、伊原第三外科壕に移ったが伊原第三外科壕の学徒へ全員戦死してしまった。
ここに石碑があり、当時の心境が刻まれてある。何とも痛ましい。

Komesu Hamlet 米須集落

2015年の国勢調査によると1,074人、世帯数は363世帯。

Tower of Deigo 梯梧之塔

私立昭和高等女学校の女子学徒隊の慰霊碑。梯梧学徒隊の名称は校章にちなんでいるが戦後にこう呼ばれたもの。沖縄戦以前に女学生達は救急医療についての講習を受けていたが、1944年の10月10日の那覇への大規模な空襲 (10.10空襲) から本格的な沖縄戦が始まり、翌年の3月6日、4年生の17名が石部隊病院壕へ入隊。入隊後の研修も半ばで南風原町にあるナゲーラ壕に異動し、本格的に陸軍病院で勤務を開始した。その後、戦況の悪化で5月末、武富、米須、伊原へと後退。伊原の地で6名戦死。病院としての機能を果たす事ができず、6月19日、隊に解散命令が出た。この終焉の場所に同窓生57名と、職員3名、計60柱が合祀されている。

Tower of Zuisen ずゐせんの塔

ここにも学徒隊の悲劇の慰霊碑が建っている。瑞泉学徒隊は首里高等女学校の生徒により構成されていた。瑞泉の由来は、学校の近くにあった首里城の瑞泉門にちなんで付けられた。1945年 (昭和20年) 3月15日ごろ、62師団野戦病院 (ナゲーラ壕) に梯梧学徒隊と共に配備されたが、陸軍の南部撤退と共に識名等を経由して糸満市の伊原や米須の壕へと移動。6月21日に米軍に収容された。

Tower of Himukai ひむかいの塔

ひむかいの塔は宮崎県の兵士の慰霊碑で 沖縄戦没者 1,848柱、沖縄戦域以外の戦没者 29,38柱、合祀柱数 31,237柱の祈念碑。日本本土の防壁となって苛烈を極めた沖縄戦の最後の激戦地であり、また宮崎県出身の将兵が最も多く戦没されたこの地を選んで建立したもの。
ほぼ同じ場所に更に別の慰霊碑が建っている。久留米よりの特攻隊の戦没者の慰霊碑。

Komesu Gusuku Castle Ruins 米須グスク

米須グスクは、13世紀~15世紀頃、三山鼎立時代、南山グスクの出城として米須按司によって築かれた。城の構造は一の郭と二の郭の連立郭形式で、一の郭には野面積みの石垣などが残っている。
今日は、沖縄戦の遺構中心にまわったせいか、色々と考えさせられる事が多く、肉体的よりも精神的に疲れた感じがする。実際にこの地をまわると、沖縄本島の端にまで追い詰められているのがよくわかる。もう直ぐそばは海でそれ以上は逃げられない。当時はその海に米軍艦隊が多く浮かんでいただろう。そんな事を想像していると、当時の人たちの絶望感が如何程であっただろうと思う。


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