Okinawa 沖縄の旅 Day 54 (24/09/19) Ichukaji Gusuku Castle Ruins 糸数城跡

Ichukaji Gusuku Castle Ruins 糸数城跡
Itokazu Abuchiragama 糸数アブチラガマ
Stone Lions 石獅子 サーターヤー出口とカンザーヤー出口
Kamankaji カマンカジ
Itokazu Hijaga 糸数樋川
Funakoshi Gusuku Castle Ruins 船越城跡 
Funakushi Ufuga 船越大川
Niishi Gusuku Castle Ruins 根石グスク跡
今日は尚巴志が佐敷で過ごしていた時代から、関係が深かったグスク跡を訪ねて見る。佐敷城のある丘陵を超えて、また別の丘陵地帯には多くのグスクが存在していた。現在の南城市にあたる。南城市は2006年に島尻郡に属していたかつては東方 (あがりかた) 四間切であった佐敷町、知念村、玉城村、大里村の4つが合併して誕生した。この4つの間切の玉城間切 (玉城村)のグスクを巡る。グスクの数が主要なもので10もあるので、数日かかるだろう。
14世紀の半ばごろ、承巴志が少年の頃の勢力範囲は下の通り。玉グスク城がまとめ役を行い各按司が同盟関係を持っていた。その後婚姻政策などで、玉グスクの傘下に入る按司も出てくる。この玉グスク連合に対して、領土拡大を目論んでいたのが八重瀬按司。南山王の承察度は絶対的な権力を持っていない。そんな時代だった。

Ichukaji Gusuku Castle Ruins 糸数城跡 (イチュカジグスク、イトカズグスク)

写真の丘陵の右に3つのグスクがある。丘陵の手前の中腹に船越グスク、丘陵の頂上付近に糸数グスク、そしてその向こう側すぐの所に根石グスクがある。三山時代にはこの3つのグスクはお互いに連携していただろう。
糸数グスクは南城市玉城字糸数集落の東側の標高約170m-183mの石灰岩台地上に築かれた。 グスクは南西側が断崖、北東側が台地に続き櫓門と言われる城門がある。石垣や門も保存されており、城の構成がわかりやすくなっている。城壁は立派で北のアザナ、南のアザナを備えている。
築城年代は不明だが、三山時代の初期14世紀前年の築城と考えられている。一時期この地域に勢力を拡大していた玉城按司が次男を大城按司に、三男を糸数按司に据えたと伝わっている。玉城按司はこの地域のもう一つの勢力を持っていた島添大里城にも弟を婿として入れ、島添大里按司を継がせ、島添大里城も玉城按司の傘下となっていた。しかし八重瀬按司 (汪英紫) により島添大里按司と大城按司が滅ぼされた後は、玉城按司の力は弱まり、糸数按司のこの地域での発言力が増し、玉城按司と協力して島添大里城の奪還を画策している。丁度、尚巴志が佐敷按司の時代だ。伝説では、グスクを 増築中、怪力無双と呼ばれた兵頭の「比嘉ウチョウ」が国頭に用材を求めて出かけた隙に、真和志 間切りの上間按司に急襲され落城したと言われている。
城の敷地は広く、先に訪れた佐敷城は貧相に思えるほどだ。敷地内には数ヶ所の拝所がある。
丘陵の上に建てられているので、見通しは広い。城の場所としては理想的な所。南側には敵側の八重瀬城や具志頭城が臨め、敵の動きが一目瞭然だ。奥武島も見える。
東側には同盟関係にあった玉城城、垣花城、知念城が臨め、連携がしやすい場所である。
更に首里、那覇方面も開けている。

Itokazu Abuchiragama 糸数アブチラガマ

城の台地側は糸数集落があり、住宅街になっている。その住宅街の中に糸数アブチラガマという自然洞窟 (ガマ) があった。沖縄には多くの自然洞窟があり、墓や拝所として使われていた。ここも拝所かと思っていたのだが、沖縄戦の時に先に訪れた南風原陸軍病院の分室として病院があったと書かれていた。この沖縄の旅のテーマの一つが沖縄戦なので、寄って見ることにした。入場は250円だが、見るにはガイドの付き添いが必要との事で、追加で1000円のガイド料がかかった。一人なので割高になったが仕方がない。沖縄戦ではこの糸数集落には500人程住んでいたが、其々の人が、数ヶ所にあった自然洞窟を避難壕として指定されており、ここもその一つだった。日本軍の陣地壕や倉庫としても使用され、戦線が南下するにつれて南風原陸軍病院の分室となった。洞窟内に木造小屋が建てられ、近くの製糖工場からディーゼルエンジンでを移し電気を引いていた。軍医、看護婦、ひめゆり学徒隊16人が配属され、全長270mのガマ内は600人以上の負傷兵で埋め尽くされました。
昭和20年 (1945年) 5月25日の南部搬退命令により病院が搬退したあとは、糸数に移動できない老人や幼子を抱えた婦人などの住民50名と移動できない負傷兵100名が残された。食料倉庫の監視として4名の兵隊も残ったが、これは米軍が侵攻してきた時に焼き払う任務だったという。電気設備も撤去され、その後は暗闇での生活が3ヶ月続いた。米軍がこの地に到達し、入り口は埋められ、通気孔から黄燐弾やガソリンが投入され何人かは無くなっている。8月22日の米軍の投降勧告に従って、住民と負傷兵はガマを出る事になるのだが、住民は40数名、負傷兵士は7名が生き残った。
ガイドの當山 (とうやま)さんからは色々な話を伺った。内容は身につまされる内容だった。
  • 陸軍がこの洞窟に入ってきた時に洞窟内を整備し、建屋、通路、補強のための石垣、通気孔、便所、移動、橋、竃などを整備した。あたかも一つの集落の様なものだったという。建物は戦後住民が糸数集落に帰ってきた時に家の再建に使われて、今は残っていない。
  • ここには二人の韓国人の慰安婦がいた。その場所には、ひめゆり学徒隊は立ち入れなかったという。やはり韓国人慰安婦がいたのだ。毎日、兵隊の相手をさせられた。これも戦争の悲惨な事実だ。その慰安婦のその後はわからない。戦地に置き去りにされたのだろう。
  • ひめゆり学徒は最初は戸惑いで怯えていたという。毎日誰かがなくなり、遺体安置所なるものがあったが、安置所ではなく遺体を捨てる場所になった。便所の汚物を捨てに行くのは彼女たちの日課だったという。次第に感覚が麻痺し、ただ命令に従うロボットになっていたとひめゆり学徒隊の生存者は証言している。
  • 陸軍病院が撤去され、住民と負傷兵だけになった時に、住民には一日一合の米が配給されたが、負傷兵には配給は無かった。軍は負傷兵は役立たずで、いずれ死ぬので食料は不要と言い放ったと言う。動けないので、井戸に水を飲みに行く事も出来ない。ただ死を待つだけだった。苦しさで各人に配られていた青酸カリで自ら命を絶つものもいた。住民は夜暗闇の中、横穴から外に出て米を炊き、オニギリを作り戻って来るのが日課だった。糸数の住民が自分たちの食料を生き残った負傷兵に食べさせていた。陸軍の非道に比べ、住民は優しかった。沖縄には誰でもが教えられる3つの事がある。「命どぅ宝 (ぬちどぅたから)」命こそ宝という意味 ドラマの琉球の風で尚泰王が薩摩に降伏する時にもこのフレーズが使われていたのを思い出した。本当に言ったのかは分からないが、戦争で悲惨な経験をした沖縄県民には重い意味がある。次に「ゆーまーる」助け合う、共同作業、一緒に頑張ろうという意味。そして「いちゃりばちょ~で~」いちゃりば (一度会ったら)、ちょ~で~ (兄弟) という意味。この後には「何隔 (ぬーひだ) てのあが、語てぃ遊ば」が続く。隔たりなんかないよ、酒を飲んで語り、歌い、踊りましょうという意味。この3つの言葉は戦後に多く語られる様になったが、その精神が古い時代から続いていた。それがこの悲惨な状況下でも忘れる事なく、各地で多くの感動を残している。
  • 負傷兵の生存者に日比野さんと言う人がいる。住民に助けられてひとりだ。21才だった。戦後100回以上この地を訪れている。日比野さんだけでなく、生き残った多くの兵隊さんが何度も沖縄に足を運ぶという。當山さんの話を聞いて、その意味がわかる様な気がした。この沖縄という地、うみんちゅから受けた事はその人の人生を変えた。戦後を忘れたいが、その中で忘れられないほど大きな出来事がそれぞれの生き残った兵士にはあるのだろう。自分が生きている意味がここに来れば分かるのだろう。
  • 當山さんは語っている時に時々、感情が高ぶるのか言葉がつまる事があった。今日も多くの大型観光バスが学生達をここに運んで来ていた。ガイドが終わって、事務所に向かう途中に、「戦争は無くならないのでしょうか」とぼそりと聞いてきた。以前、生徒の一人に「戦争で物が売れ、生活している人がいるのに、本当に戦争は悪い事ですか?」とガイドした後に言われたという。大きなショックだった。今でもその言葉が気になって仕方がない。自分たちが戦争の悲惨さを訴えているのに、何故理解してくれないのかと無力さを感じるという。でもこれまで通りにガイドをして伝えて行きたいと言っていた。
  • この施設は誰が運営しているのか聞いてみた。今は南城市だが合併前は玉城村だった。戦後この自然洞窟に訪れる人が多くなって、道路は駐車しているクルマでいっぱいになり、民家にはトイレを借りに来る観光客でいっぱいになった。住民は困り果て、村長に洞窟を閉鎖する様に要求。しかし、同様に理由で殆どの洞窟が埋められてしまったが、後世に平和を考える遺構として残すべきとして、駐車場を作り、運営の為に入場料を取って、洞窟の安全性確保の工事などを行なっている。ガイドさんは9名いる。みんなもう戦争体験者ではない。高齢の生存者の家を訪ねて話を聞こうとするが、皆話をしたがらない。思い出したくない。自分たちが子供に伝える事が必要だと何度となく足を運び少しづつ話してもらった。もうその時の人は殆どが他界している。當山さんはじめガイドさん達は、そこにも不安を抱えている。生存者がいなくなり何世代か後にはどうなっているのだろうか.... 
ここには2時間程いて色々考えさせられた。貴重な話が聞けて良かった。
貴重だが少し重い見学だったが、帰り際に綺麗な蝶に出会う。近ずいても逃げず、周りをヒラヒラ飛んでいる。体にまとわりつくような飛び方だった。これで少し気持ちにゆとりが戻った。
糸数には城の他に数ヶ所の史跡があった。

石獅子 サーターヤー出口 (上) とカンザーヤー出口 (下)

Kamankaji カマンカジ

Itokazu Hijaga 糸数樋川

糸数集落から丘陵を急な石畳を下った所にある。昔は毎日この石畳を通って水汲みをしていた。沖縄戦の最中は水を求めた住民や兵士が力尽きて、この石畳に多くの亡骸があったと當山さんから聞かされた。

Funakoshi Gusuku Castle Ruins 船越城跡 (フナコシグスク、冨名腰グスク)

グスクは、船越集落背後の石灰岩丘陵に位置しており、糸数グスクと近い場所にある。
グスクの築城者である冨名腰 (ふなこし) 按司は、玉城王の四男説と糸数按司の長男説があるが、糸数按司の長男説が有力だと思う。糸数グスクが中山側の上間按司の軍勢に攻められて滅んだ時に、救援に向かったが共に滅んだ。グスクは大きな岩塊が3つに割れたような形で、その割れ目を石積みで塞ぎ周りに 城壁を巡らせている。その割れ目を渡る為に大岩をはめ込んでいる。グスクの上部はそれ程広くはないが、平らになっており、数基の拝所がある。この下には墓があり、中が空洞になっていた。ここで風葬が行われていたのだろう。ここは聖域として拝礼場所であったろう。周りには石垣が残っている所が点在しており、このまわりに住居があったのではと思う。

Funakushi Ufuga 船越大川

城跡の近くに立派な水場があった。200年程前に作られたと書いてあったので、城があった時はこれほど立派ではなかっただろう。

Niishi Gusuku Castle Ruins 根石グスク跡 (ニイシグスク、元グスク)

根石グスクは三山時代が始まる14世紀初期頃、糸数按司が糸数グスクを築城する時に根城にしたグスクで、元グスクとも言われていた。糸数グスクからすぐの所にある。グスクの入口には石積の香炉が置かれ、中に入ると石積みが点在して屋敷跡の様に思える。井戸跡があり拝所となっているようだ。先に行った糸数グスクや船越グスクの様な山城では無く比較的平坦な土地にある。城塞としては地形が適していない様で、糸数グスクが完成した後は、城塞と言うよりは、拝所や住居として使用されていたのではないかと思う。
今日は予定外の糸数アブチラガマで時間を使ったので、これから帰路に着く。買い物をして、アパートに到着は7時半だった。だんだんと日が短くなってきている。以前はこの時間でもまだ薄暗かったが、今は6時半には暗くなり始める。夏も終わりになってきている。


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