Okinawa 沖縄の旅 Day 53 (23/09/19) Shimashii Ufusatou Gusuku Castle Ruins 島添大里城

Ozato Hamlet 大里集落

  • Ozato Haebaru Stone Lion 大里南風原の石獅子
  • Former Yonabaru Wuekata Residence 与那原親方住居跡
  • Kuchina Ga クチナガー
  • Macchu Utaki 松尾御嶽
  • Inuka Spring 上ヌ井
  • Iimui Utaki食栄森御嶽 
  • Ibinu Utaki イービヌ御嶽
  • Shimasii Ozato Gusuku Castle Ruins 島添大里城
  • Chichin Ga チチンガー
  • Kaniman Utaki カニマン御嶽
  • Mi Gusuku Castle Ruins ミーグスク
  • Girimui Gusuku Castle Ruins ギリムイグスク
  • Ufuyu ウフユー
  • Fusumi Utaki フスミ御嶽
  • Ancient Hijas 上樋川、中樋川、下樋川

Ooshiro Hamlet 大城集落

  • Yama Gusuku Castle Ruins 山グスク (上グスク)
  • Inafuku Duen 稲福殿
  • Kurashimi Ga クラシミガー
  • Iiinafuku Spring 上稲福集落の井泉
  • Teraguwa テラグヮ
  • Memorial Tower 慰霊塔
  • Grave Yard of Ufugusuku Aji 大城按司墓
  • Ufu Gusuku Castle Ruins 大城城

Sashiki Hamlet 佐敷集落

  • Sashiki Yodore 佐敷ようどれ
大型の台風17号が去り、雨も上がり快晴。少し気温も下がってきているが、本土に比べれば、まだまだ暑く夏はまだ続きそうだ。台風で外出出来なかったので、ほとんど家で読書で過ごした。尚巴志の小説をメモを取りながら読んだ。まだ終わっていないが、読むたびに訪問した所が出てきて、頭の中で勝手に映像が作られる。まだ訪問していない場所が出てくると、体がウズウズして行ってみたい衝動が湧き上がって来る。今日はそのまだ見ていない所に行って見る。

Gusuku Road グスクロード

佐敷の裏の長く続いている丘陵の尾根の向こう側にグスクロードと名が付けられた道がある。この道路沿いには尚巴志が佐敷按司をしていた時代に、多くの按司の拠点のグスク跡がある。ほとんどが、尚巴志となんらかの形で関わっている城だ。今日はどれぐらい回れるか分からないが、南風原町に出て南城市の久高島が見える半島の方面を目指す。
まずは南城市の旧大里地区の史跡を訪れる。この旧大里には多くの史跡が残っている。

Ozato Hamlet 大里集落

2015年の国勢調査によると人口1,079人、世帯数は351世帯。南城市の合併では大里と佐敷が主要な地域と聞いていたので、もっと大きな字かと思っていたが、案外小さかった。最も以前は大里間切として稲嶺、大里、大城、高平、仲間、古堅、嶺井の7つの字で構成されており、字大里はその一部で中心地だった。
大里のグスクへは丘陵のグスクロード沿いを行くのだが丘陵に上がる前に麓から字大里は始まっている。その麓の集落からまわる。

Ozato Haebaru Stone Lion 大里南風原の石獅子

西側を向いているのだが、何を火消ししているのかはわからなかった。

Former Yonabaru Wuekata Residence 与那原親方住居跡

琉球王国時代の三司官 与那原良矩の縁の地。与那原家は馬良詮大浦添親方良憲 (ばりょうせんウフおやかたりょうけん) を始祖とする馬氏小禄殿内 (ばうじおろくドゥンチ) の分家で、この大里間切を領有する総地頭家だった。与那原良矩のほか、王国時代末期には三司官与那原良恭 (りょうきょう)、良傑 (りょうけつ)親子など9人もの三司宮を輩出した名家であつた。(那覇には与那原良矩の誕生の地があった)

Kuchina Ga クチナガー (三日月井)

Macchu Utaki 松尾御嶽

ここも立派な御嶽で末広がりの三角屋根の頂上に宝珠が、左右には灯篭が置かれている。松尾ノ御嶽から離れた場所に祈りを捧げるための御嶽と言われているものの、どこのどんな神様に向かってなのか、伝承は残されていない。

Inuka Spring 上ヌ井

字で大切にしているムラガー。下ヌ井は食栄森御嶽の所にあるらしいがわからなかった。

Iimui Utaki 食栄森御嶽 (いいむいうたき)

南風原農村公園の一画にこの御嶽がある。一説によれば、源為朝と大里按司の妹の間にできた舜天王の墓といわれている。入り口も立派な石垣で造られている。殆どの御嶽が非常に簡素な物だが、ここは特別に立派だ。
石の入り口を潜り急勾配の階段を登ったところに御嶽がある。写真右下が御嶽。この大里地区独特の形をしている。石灰岩を丸く筒状に積み上げ、その上にむくりのついた丸い屋根石が乗せられ、頂上部分に宝珠が置かれている。この後に似た様な形の御嶽や墓を目にすることになる。

Ibinu Utaki イービヌ御嶽 

Shimashii Ufusatou Gusuku Castle Ruins 島添大里城

島添大里城 (しましいおおざとじょう) は、琉球最大のグスクであり、山南王承察度が中山への備えとして弟の汪英紫に築かせたという説がある。(汪英紫は承察度の叔父とも称していた。承察度と称していた按司は3代以上続いていたので、この場合は承察度が兄の時代の事。兄の承察度の息子が承察度になった時に朝貢が始まり、汪英紫は承察度の叔父として朝貢をしていた。) 島尻地域の東半分を支配下においた島添大里按司 汪英紫の居城。汪英紫は八重瀬城按司であった時に、島添大里按司と大城按司を滅ぼし、拠点をこの島添大里城に移し島添大里按司となったともあるので、八重瀬城から移ってきてグスクをあらためて築いたのだろう。1429年に南山王国が滅亡するまで首府が置かれていたとも言われている。島尻大里城 (南山城) が首府という説と二つある。 南山王の承察度は島尻大里城を拠点にしていたのは確かだが、汪英紫が承察度を追放してからは、この二つの城が南山国の拠点であったと思う。1402年に佐敷按司の尚巴志によって落城。その後、尚巴志はここを拠点として三山統一の足かがりとする。1429年に中山国の尚巴志が南山王の他魯毎を滅ぼした後は、第一尚氏の勢力圏に入り、尚氏時代は首里城と並ぶ壮麗な離宮として、少なくとも15世紀中ごろまで使用されていた。沖縄戦では城内に日本陸軍陣地が置かれ、その建築資材に城壁が転用、米軍の攻撃でも大きな被害を受けた。戦後も復興資材に使われ、大半の遺跡は消失。現在は大里村の公園になっている。
グスクの外郭
主郭
グスク内には拝所と井戸跡がある
標高150mにあるこの城やこの後に行くミーグスクからは馬天港や佐敷が一望できる。佐敷は尚巴志が佐敷按司として治めており、島添大里按司は尚巴志には滅ぼされた親戚の大城按司の仇の関係だった。島添大里にとっては、大した勢力もない佐敷の尚巴志を滅そうと考えれば、いとも簡単のはずだが、佐敷が大和との交易を一手に抑えていることを考慮し、懐柔策で大和との交易権を得る方が得策と判断していた。実際に馬天港の半分の使用権を佐敷と合意していた。このように尚巴志を滅ぼさなかった事が後に、自分達が滅ぼされる結果となる。
佐敷、知念半島方面
馬天泊方面
首里方面

Chichin Ga チチンガー

島添大里城の城門近く、城壁外に儲けられた降り井戸で、ここの西原集落の共同井戸として使用されていた。取水地の岩壁部分は島添大里城の城壁の一部。言い伝えによれば、井戸を場内に取り込むと水が涸れ、城壁外に出すと再び水が湧き出たことから、城壁で包めない井戸「チチマランカー」と呼ばれ、それが「チチンガー」になったと言われている。チチンガーは漢字では「包井」と書く。(場内のスクヤマヌウカー (御井) が枯れたので築造したとの伝えもある。) 築造年代は定かでないが、島添大里グスクが構築された14世紀頃と推定される。別の資料では、チチンガーの本来の意味は“月の神”で、“月の神”を久高島では、チチヤ大主 (うぷぬし) と呼んでいたそうだ。

Kaniman Utaki カニマン御嶽

城の道を歩いていくと立派な拝所に行き着いた。島添大里グスクの西端に位置している。カニマン御嶽と呼ばれている。今まで見た御嶽とは全く異なるほど立派だ。大里地区にある典型的な御嶽の形だそうだ。詳しい由来は不明だが、偉人を祭った墓であると伝えられている。かつては一般人はカニマン御嶽には参拝できなかったため、丘に登る途中にある広場から、御願していた。カニマンとは金萬と書くが、これは鍛冶屋を意味しているそうだ。この墓も鍛冶屋に関わっている人のものだろうか? 沖縄には各地にこの金萬御嶽や金萬神社がある。昔の琉球の農民の生活を改善したものに鉄の農機具があるのだが、それを提供した鍛冶屋への畏敬の念を込めて金萬を祀っているのかもしれない。沖縄の御嶽では特定の人物を祀ると言うよりはぼんやりとした概念や事象の元などを祀っている様にも思える。祈りを唱えている人もはっきりと誰をとか何に祈っているのかはそれ程問題にしていない様に思える。祈りといえばウトゥトゥーと唱えると地元の子供から教えてもらったのだが、その意味がようやくわかった。「尊い神様」と言う意味だそうだ。

Mi Gusuku Castle Ruins ミーグスク跡

島添大里城から更に上に登ると、別のグスク跡であるミーグスクに出る。このグスクは島添大里城の出城の性格を持っていた。丘陵の太平洋側の更に高い標高160mの場所に築かれている。物見台としては格好の場所だ。城跡はパットゴルフ場と公園になっており、頂上には拝所と展望台になっている。ここから各地を監視していたのだ。当時からは街並みは変わっているだろうが、十分に当時を想像できる眺めだった。
公園の向こうも見渡せる。首里方面だろうか?
ここからは太平洋側にある馬天泊や佐敷が大里城より更にはっきりと見える。知念半島や久高島まで見える。物見としては格好の場所。先に訪れた島添大里城がいかに重要であったかがよくわかる。南山国の都がここだったのか、それとも島尻大里城 (南山城) だったのか決着はついていないが、両グスクを訪れ実際に見て歩くとこの島添大里城の方が戦乱の三山時代には相応しかった様な気がする。
佐敷の港と知念半島が臨める
馬天泊方面も見渡せる。三山時代には大和の船の入港や出航状態が一目瞭然だっただろう。
佐敷の港
9/17に訪れた小谷 (おごく) 集落もはっきりと見える。

Girimui Gusuku Castle Ruins ギリムイグスク

島添大里グスクの入口から道を挟んで反対側にあり、小高い丘の上の、森の中にあるグスク。古代の地域支配者の居城だったとされ、墓所以外にも拝所などが確認できる。
汪英紫が島添大里グスクを構築する以前にここを支配していた玉村按司の居城であろうと推測されている。
多くの拝所が点在していた。
汪英紫が島添大里グスクを攻略したと言われているのはこのギリムイグスクの玉村按司の事ではないかと思う。玉村按司は組踊の劇の中で八重瀬按司 (つまり汪英紫) に攻撃されて敗走し、後に八重瀬グスクを攻撃して勝利する物語があるのでこの推測はまんざら外れていないと思う。まだこの時代は、この様に、各地にいた按司が緩い同盟関係を結んでいた。尚巴志の父の思紹 苗代大親 (なえしろうふやー) が仕えていた大グスク按司の同盟関係にあったこの地域の支配者の玉村按司の後継者争いで、同盟関係が崩れる事態が起きる。玉村按司の側室の長男と正室の次男の後継ぎ争いで家臣は分かれ、内紛に発展。この時の玉村按司は玉グスク按司の弟が家督を継ぎ、事実上、玉グスク按司の傘下となっていた。元からいた家臣は玉グスクからの影響に不満を持っており、いつか玉グスクの連中の排除しようと画策をしていた。その時にこの家督争いが起こった。同盟していた諸按司は正妻派、側室派、中立派と別れ、元からいた家臣団はそれとは別の後継者を目論んでいた。ここにつけ込んだのが、この同盟関係と敵対していた八重瀬按司 (えーじあじ) だった。八重瀬按司は正妻派を支援、裏では元家臣団とも誼を通じていた。正妻派の手引きで八重瀬按司軍団は島添大里城 (ギリムイグスク?) に入り側室派を殺し、ついで、正妻派も殺し、そして元家臣団も殺して、完全に玉村按司を滅ぼしてしまった。
この島添大里城の丘陵にある集落にはその他にも拝所が数カ所あった。案内板があったのはそのうち二つでウフユーとフスミ御嶽

Ufuyu ウフユー

Fusumi Utaki フスミ御嶽

丘陵の斜面には井泉がある。上樋川、中樋川、下樋川と集まっている。
ここからグスクロードを走って、次のグスク跡に向かう。大里集落から大城集落に入る。名の通りの大城グスクがある。大城グスクは今走っている丘陵を降りて、平行に走っている別の丘陵にあるので、まずはこちらの丘陵の大城集落の史跡から見学。

Ooshiro Hamlet 大城集落

2015年の国勢調査によると人口2,358人、世帯数は721世帯。

Yama Gusuku Castle Ruins 山グスク (上[イー] グスク)

沖縄のグスク時代初期の13世紀~14世紀に構築されたと考えられている。ここは稲福遺跡郡の中にあり、標高約180mのところに位置する。現在、国土交通省の那覇航空交通管制部の敷地となり、フェンスで囲われてあった。中に入れないかと思っていたが、フェンスは入り口だけで、その両脇はガラ空きで難なく中に入れた。
この稲福遺跡がある場所は、汪英紫のものとなった島添大里按司と大グスク按司との間に起こった大合戦が行われた場所。(尚巴志の母は大城按司の娘との説があり、大グスク按司は祖父にあたる) この時には汪英紫は島添大里城に移り島添大里按司となり、八重瀬按司には長男の達勃期 (たふち、後の第4代南山王) が入り、この地域の勢力図が変わっていた。敵となった島添大里按司から馬天泊の使用を要求されるが大グスク按司はこれを拒絶。これが戦の引き金になった。この時、尚巴志は佐敷城の守りを任され、父の思紹は大グスク按司軍との共に島添大里城も攻撃に参加。この戦はそれぞれの同盟按司も巻き込んだものとなった。
  • 島添大里按司軍: 新グスク按司、八重瀬按司、島尻大里按司、玻名グスク按司、具志頭按司
  • 大グスク按司軍: 佐敷按司、垣花按司、糸数按司、玉グスク按司、知念按司
当初は大グスク按司軍優勢で戦いは進んだが、大グスク内で裏切りがあり城に火をつけられ炎上。(別の説では大城軍が自軍の旗を誤って倒したことにより、自軍が敗北したと思い込んだ按司夫人と若按司は大城グスクに火を放してしまう。) これに動揺した大城軍は劣勢となり、大グスク按司も稲福の崖の下で自刃して、大城軍は汪英紫に滅ぼされてしまった。島添大里按司の勝利で幕を閉じる。占領された大グスク城には島添大里按司の次男の汪応祖 (おうおうそ、後の第3代南山王) が入り、佐敷按司との交渉で馬天泊の使用権で休戦が結ばれた。汪応祖はこの後、しばらくして豊見城グスクを築き、大グスク城からそこに移り、大グスク城には弟の屋富祖がが入った。この近くにこの敗れた大城按司の墓がある。

Inafuku Duen 稲福殿

山グスクの敷地内と思える場所には稲福遺跡群が発見された所。形成時期は12~15世紀頃と推定されている。ここには現在、拝所が建っている。稲福の祭祀行事はかつては大城ノロが司祭をしていたと言われる。その時にノロが馬に乗る時に足台にした踏石が残っている。時々このノロの踏石を見かける。
この近辺に井戸跡がいくつか点在していた。

Kurashimi Ga クラシミガー

以前ここにあった稲福集落の西側住民が若水 (わかみじ) や産湯などに使用したと紹介されていた。

Iiinafuku Spring 上稲福集落の井泉

上稲福は丘陵の上部に位置しており、水利にあまり恵まれなかったところではあったが、このナカヌカー(写真) はじめ、ウチバルガー、クラシミガー (先程見学したガー)、イリジョーガーが集落内にあった。しかしこれらの水が枯れたときは、アガリヌヒージャーガーやイリヌヒージャーガーまで水汲みに行かねばならなかった。このような悪条件でありながら、道光17 (1837) 年、大城筑登之 (ちくどぅん) が湧水から水道を引いて水田460余坪を開発し、当時の尚育王に褒賞されたと『球陽』に記されている。

Teraguwa テラグヮ

ビジュル(霊石)信仰の拝所であり、豊作や子宝を祈願する際に拝まれたとされる。
この場所に慰霊塔があった。沖縄戦で悲惨な最期を遂げた犠牲者の慰霊碑が稲福関係者によって建てられている。一見素通りしてしまう場所だが、この地域の有志がこの地出身者でない人の冥福までを考えて建てている。沖縄戦であまりにも悲惨な経験をし平和への期待が大きかったのだろう。

Grave Yard of Ufugusuku Aji 大城按司墓

グスクロード沿いの上稲福集落を越えて少し走った所に先程訪れた山グスクで自刃した大城按司の墓がある。ここも大里の特長的な形をしている。ボウントゥ御墓とも呼ばれている。

Ufu Gusuku Castle Ruins 大グスク城跡

ここに来るには島添大里城がある丘陵から一旦下り別の丘陵を登っていくことになるが、相当の急坂で途中は自転車を降りて押しながら登った。
城跡には建物の礎石や拝所などが残っていた。ここにもノロの踏石があった。
玉城王の次男である大城按司真武によって築かれた。大城集落背後の独立した丘陵にあり、二つの郭からなる連郭式のグスク。本殿跡の礎石や拝所等が残っている。今日訪れた山グスクでの戦闘、大城按司墓の本人が治めていたグスク。島添大里按司の汪英柴に敗れるまでは、相当な勢力を有していたと言われ尚巴志の父の苗代大親 (後の尚思紹王) が仕えていた時に尚思紹に佐敷間切りを与えた按司。尚巴志の母親はこの大城按司の娘であったという言い伝えもある。

Sashiki Hamlet 佐敷集落

2015年の国勢調査によると人口845人、世帯数は251世帯。

Sashiki Yodore 佐敷ようどれ

丘陵を下って大グスク城跡に行く前に、この丘陵の東側にある佐敷ようどれを訪れた。ここは尚巴志の父親で第一尚氏王統の初代王の尚思紹の墓がある。墓は航空自衛隊知念分屯基地内にあり、受付で見学申し込みをしなければならない。保安上、自衛隊員が同行することになっている。30分ほど待っている間に九州から派遣されている自衛隊員と世間話をして時間を潰す。やっと若い地元出身の隊員がやってきてよーどれまで連れて行ってもらった。王の墓にしては比較的小さな物だった。隊員によると今日が大勢の人がこの墓の見学に来てそうだ。やはり初代王の墓だけある。
大グスク跡を見終わったところで日が暮れ始めた。今日はアップダウンの多いルートだった。ここからは下りなのでゆっくりと帰途に着く。


0コメント

  • 1000 / 1000