Okinawa 沖縄の旅 Day 61 (1/10/19) 豊見城市 (3) Bin Hamlet 保栄茂集落
Takayasu Hamlet 高安集落 (たかやす、タケーシ) Okinawa 沖縄 #2 Day 25 (21/06/20) 豊見城市 (9) Takayasu Hamlet 高安集落
- Takayasu Palanquin House (Ganya) 高安の龕屋 (がんや)
- Shishi nu Me シーシーヌメー (シーシウカミ)
- Irijo Ga 西門井戸 (イリジョーガー 井戸跡)
- Takayasu Bijun 高安のビジュン (2019年10月2日に訪問)
Noha Hamlet 饒波集落 (のは、ヌーファ) Okinawa 沖縄 #2 Day 24 (19/06/20) 豊見城市 (8) Noha Hamlet 饒波集落
- Former Noha Ganya 饒波龕屋跡
- Noha Stone Lion 饒波のシーサー
- Memorial of Sugar Factory 製糖工場建設記念碑
Taira Hamlet 平良集落 (たいら、テーラ) Okinawa 沖縄 #2 Day 32 (18/07/20) 豊見城市 (17) Tera Hamlet 平良集落
- Taira Gusuku Castle Ruins 平良グスク
- Deku Ga デークガー
- Uchi nu Ka ウチヌカー (産川)
- Mura Shisa ムラシーサー
- テーラシカマグチ (上間長胤 うえまちょういん) 墓
- 未生の縁上演記念碑
Bin Hamlet 保栄茂集落 (びん、ビン)
- 保栄茂グスク
- 拝所
- 上 [ウィー] グスク
- 東御嶽 (アガリウタキ)
- 按司墓 (アジバカ)、マカバー
- 西御嶽 (イリウタキ)
- 保栄茂 馬場
- 保栄茂 龕屋
- 保栄茂 石獅子
- 殿内屋 (トゥンチヤー)
- 地頭火の神
- ストレリチア畑
- 高安井 (タケーシガー)
- ブートゥーガー
- 紀元2600年祭記念国旗掲揚台
- 前之井 (メーヌカー)
- 井戸
- 京太郎井 (チョンダラガー)
- イリチチムイ
- 根人井 (ニーガンカー)
- 前原井 (メーバルガー)
- 前番之上井 (メーバンヌウィーガー)
- ヤマチガー
- 後原ガー、東後之井
Takayasu Hamlet 高安集落 (たかやす、タケーシ)
高安はこちらの言葉では“たけーし”と発音されていた。現在では“たかやす”と読んでいる。高安集落については1713年に編纂された琉球国由来記に初めて現れる。(沖縄の元々の呼び名から、通常の日本語読みに変わって来ている地名が増えて来ている。) この集落は標高50-60mの丘陵にある。高安には11の門中があり (宜保殿内、波平、具志、外間、平田、新地、新垣、銘当、大座安殿内、座安殿内、上門) 、宜保殿内門中と波平門中が中心的な存在。高安ノロは代々、宜保殿内門中から出ることになっており、平成12年現在にはまだ続いているとなっている。(現在はどうなのかはわからないが...) この集落には 翌年の6月20日に再訪し、この日に見れなかった他の文化財を訪問している。その訪問記に集約した。Okinawa 沖縄 #2 Day 25 (21/06/20) 豊見城市 (9) Takayasu Hamlet 高安集落
Noha Hamlet 饒波集落 (のは、ヌーファ)
高安から隣の字饒波 (のは) に移動。この集落には 翌年の6月19日に再訪し、この日に見れなかった他の文化財を訪問している。その訪問記に集約した。Okinawa 沖縄 #2 Day 24 (19/06/20) 豊見城市 (8) Noha Hamlet 饒波集落
Taira Hamlet 平良集落 (たいら、テーラ)
次は字平良 (たいら、沖縄ではテーラ) に向かう。高安と饒波は標高60mにありここから一度下り、また上りとなる。今度は標高100mまで登った。目当てのグスク跡がある。この集落には 翌年の6月16日に再訪し、この日に見れなかった他の文化財を訪問している。その訪問記に集約した。Okinawa 沖縄 #2 Day 32 (18/07/20) 豊見城市 (17) Tera Hamlet 平良集落
Bin Hamlet 保栄茂集落 (びん、ビン)
保栄茂は豊見城市の南にあり、糸満市と接している。保栄茂は、豊見城市内の字とは、北の西側から、高嶺、渡嘉敷、渡橋名、翁長に接している。特に歴史的に翁長との関係が強かった。保栄茂は地元の人でも読めない最も難解な地名。ビンと読む。びっくり。どうして3文字漢字をビンと読むのだろう。かつてこの地は「ぼえも」と呼ばれており、それの漢字での当て字が保栄茂。おもろそうしでは「ほゑむ、ほへむ」と書かれていた。沖縄では二重母音の「oe」や「oi」が「i」に変わることが多く、「ぼえ」は「び」に変化。語尾の「も」も「ん」に変わり、「ぼえも」が「びん」になったという説があるが、いつ頃からビンと呼ばれる様になったかは不明。
2019年末の人口は1,285人、世帯数は533で、人口、世帯数とも2017年から増加に転じている。戦前は豊見城村の中で最も人口が多く、栄えていた字であったが、戦後は人口の伸び率は最も低く、現在では小さな方の字となってしまっている。豊見城市の中で最も那覇に遠い位置にあるからであろうか?
保栄茂グスク
グスクへは道は二つある。城の東西にある西御嶽と東御嶽から道が伸び、最後に交わってグスクに通じている。先日の大型台風17号の影響だろう。倒木が道を塞いでいる。
グスへの登り口がある。グスクへの登り口の右と左に道がある。
拝所
左の道を行くと拝所がある。何の拝所なのだろうか?
下 [シチャ] グスク
ここはグスクの下にあり、保栄茂按司の住居跡と考えられている。ここからは14世紀のものと推定される柱跡や竈跡が発見されている。広場の真ん中に丸く石積みの跡があった。ここでも祭事が行われていたのだ。
上 [ウィー] グスク
グスクの登り口に戻り、階段を登る。物見台と思われる上 [ウィー] グスクに向かう。頂上が見えてきた。
ここからは360度のパノラマビューが臨める。
グスクの西と東にはそれぞれ、御嶽がある。西御嶽 と東御嶽で、ここからそれぞれグスクの主郭への道が通じている。
東御嶽 (アガリウタキ)
東御嶽 (アガリウタキ) は琉球国由来記中の「ゲストク嶽 神名 マシラゴノ御イベ」と考えられている。
按司墓 (アジバカ)、マカバー
東御嶽 (アガリウタキ) の後方に按司墓 (アジバカ) とマカバーと呼ばれる井戸跡への道がある。表示がないので、どれがそれにあたるのかは確信はないのだが、按司墓 (アジバカ) は写真右上、マカバーは写真左下ではないかと思う。保栄茂按司の墓は、未生の縁で登場する人の墓なのだろうか?
墓からさらに道を進むと、先ほどの東御嶽 (アガリウタキ) に戻ってくる。悪霊祓いのシバサシ (柴差) があった。ここから別の道が保栄茂グスクに通じる。道の途中には別の古墓跡があった。これが按司墓の様にも思えるのだが....
西御嶽 (イリウタキ)
グスクの東側にも御嶽がある。東御嶽 (アガリウタキ) は琉球国由来記中の「保栄茂ノ嶽 神名 カネガ森ナダラスノ御イベ」と考えられている。8個の香炉 (ウコール) があり左右4つづつに分かれ、右は翁長集落、左が保栄茂集落の拝所になっている。翁長の集落はこの保栄茂から始まったとの伝承にあるので、この翁長に近い西御嶽 (イリウタキ) が共通されているのであろう。翁長にはノロはおらず、保栄茂ノロが翁長集落の祭事も司っていた。
保栄茂集落は西之御嶽と東御嶽の南西の城からなだらかに丘陵が下って行くところに位置している。この豊見城市はいくつも丘陵がありそれぞれにグスク跡があり、その周りや近くに集落が今でも残っている。日本でいう城下町と言った感じなのだろう。日本の城下町の様に活気があった訳ではなく、集落を治めていた按司の領地と言った方が適切かもしれない。
保栄茂は戦火の影響はそれ程大きくなかったせいか、昔からの沖縄特有の平屋の民家が数件残っていた。一つは豚小屋兼便所も敷地内に残っている。
集落内では空家や空き地となっているところが幾つか見受けられた。ここは建物も無くなっているのだが、基礎石や豚フールは基盤が残っていて、沖縄の伝統建築の構成がよくわかる。
他の集落と同様に、古い集落は非常に細い路地が入り組んでおり、石垣に囲まれた家が立ち並んでいる。
集落内に幾つかの神屋も見受けられた。
保栄茂 馬場 (ウマイー)
保栄茂 龕屋
保栄茂 石獅子
保栄茂ではシーサーが他の地域の一般的な魔除けの意味合いから、農産物の保護神へと変化しているそうだ。
ここまでは2019年10月5日に訪れた文化財。まだまだ見ていない文化財が残っているので、再度2020年7月19日に訪れた。以下はその日の訪問記。
殿内屋 (トゥンチヤー)
西御嶽からグスクへの道にこの拝所がある。ヌンドゥンチ (祝女殿内) とも言われる。琉球国由来記にある「保栄茂巫火神」のことと思われる。殿内とも言われていることから、ここにノロの住居と拝所があったのだろう。トゥンチヤーにはその拝所が残り、今でもノロを代々受け継いできた宜保玉寄 (ジブタメーシ) が管理している。
地頭火の神
トゥンチヤーの東にあるらしいのだがどうも見落としたらしい。
ストレリチア畑
極楽鳥花 (ストレリチア) 畑がグスクの隣にあった。沖縄では栽培が盛んに行われている。値段も結構している。時々、道端や庭先で見かける。
高安井 (タケーシガー)
西御嶽のすぐ南側にある井戸。尾長集落の十五夜の巡回拝所の一つなのだが、保栄茂集落の文化財の説明には出ていない。
ブートゥーガー
高安井 (タケーシガー) のすぐ東にある井戸。琉球国由来記にも記載がある井戸ということで、長い歴史を持った井戸だ。ブートゥーガナシ伝承があるという。どの様な伝承なのかは書かれていない。現在は立派なコンクリートの小屋ができて、中に入ることはできない。利用する場合は連絡すれば鍵を開けてくれると、案内板があった。今でも使われているのだろう。集落の正月の祭事では若水がここから汲まれているそうだ。昔の形が見れないのは残念だが、この様に保存していることは、集落の人たちの大切な生活の一部であった事とそれを継承している集落の人たちの思いがよくわかる。
紀元2600年祭記念国旗掲揚台
昭和15年に全国規模で紀元2600年祭が開催されていた。この時代は太平洋戦争で日本軍が中国に侵攻していた時代。神武天皇即位2600年という名目で行われた。日本全土を巡った際に幾つか紀元2600年祭記念碑などを見かけた。沖縄でも幾つか見かけた。神武天皇は存在しなかったというのが定説だ。この事自体はどの国でもある伝説で当時の歴史観を知るためには特に問題があるとは思えないが、当時は軍国主義に利用されていたことや現在の天皇制度が政治に利用されているのは残念なことだ。
前之井 (メーヌカー)
この井戸も先ほどのブートゥーガーと同じ様にコンクリートで保護されている。亡くなった人の体を清める水を汲んだ井戸で、葬式の後にはここで儀式が行われるそうだ。
井戸
集落中に資料では出ていない井戸跡があった。
京太郎井 (チョンダラガー)
集落の北側、東御嶽と西御嶽との間にある井戸。行ってみると、壊れているのだが、チョンダラーガーでの御願の案内板があった。現在でも定期的に拝まれているのだ。チョンダラーとは京太郎と呼ばれた芸人の事で、三味線、太鼓、鉦を演奏しながら踊りを演じていた。琉球王国の尚寧王 (1564-1620年) の薩摩侵攻があった時代のことだ。各集落をまわり、裕福な門中に呼ばれ芸を見せていた。ここはその演奏の準備をしたところという事でこの名がついている。このチョンダラー (京太郎) は沖縄のエイサーの原型とも言われている。このエイサーの起源については平良集落の金武御墓 (チンウハカ) の訪問記で触れている。
イリチチムイ
東御嶽 (アガリウタキ) の入口の反対側に丘がある。かつてはこの東にため池があったのだが、この池を掘った土を盛ってできた丘と伝わっている。ここで一休み、アシャギ (東屋) の日陰で風に吹かれて気持ちが良い。写真左下が、保栄茂集落、写真右が保栄茂グスク。
根人井 (ニーガンカー)
東御嶽から高嶺集落への村道脇に幾つか井戸跡がある。ここはその一つ。集落のリーダーである根人 (二ーガン) の贔屓の井戸だったそうだ。
前原井 (メーバルガー)
根人井 (ニーガンカー) から少し高嶺集落方面に行った所にある井戸。戦後水道が設置されるまでは集落の生活用水であった。この入り口のところに大嶺親雲上生誕地の碑が最近建てられている。この門中の子孫が建てたと書かれている。大嶺門中は保栄茂の有力門中の一つで、この辺りに神屋があるそうだ。この神屋やこの井戸、この近くの前原屋井 (メーバルヤーガー) を管理している。前原屋井 (メーバルヤーガー) は見つけられなかった。
前番之上井 (メーバンヌウィーガー)
前原井 (メーバルガー) から更に進んだところにある。旧集落の産井 (ウブガー) とも言われている。この近辺が旧集落があったところで、治安の問題と風水がよくないので、現在の集落に移ったとの伝承がある。
ヤマチガー
集落の外れ、南川にある井戸。詳細は不明。
後原ガー、東後之井
グスク丘陵を北に降った所にも井戸跡が二つあるとの情報であったが、後原 (クシバル) ガーは見つかったが、東後之井は見つからなかった。
これで保栄茂集落訪問は終了。今日はとにかく暑い、持参したお茶も途中で切れて、喉がカラカラ、脱水症状になりそうだと、自販機で飲料水を買おうとしたのだが、財布を忘れていたことに気がついた。急いで帰途につく。
質問事項
- 按司墓 (アジバカ)、マカバーは?
- 地頭火の神はどこにあるのか
- ブートゥーガナシ伝承とは?
- 前原屋 (メーバルヤー) と 前原屋井 (メーバルヤーガー) はどこ?
- 東後之井の場所
参考文献
- 豊見城村史
- 豊見城村史 第二巻 民俗編
- 豊見城村史 第六巻 戦争編
豊見城村史
第16節 字保栄茂
位置
保栄茂は翁長と共に本村の南部に位し、西に翁長、北には保栄茂川をへだてて渡嘉敷、深底原をへだてて平良、高嶺があり、東は糸満町 (旧兼城村) 武宮、波平、南は糸満町 (旧兼城村) 阿波根に接している。戸数人口は村で三番目多い部落で、戦前から砂糖生産高の一番多い所であった。
保栄茂川
琉球国旧記の江港の条にも記録されている本村関係四江の一つである。保栄茂江は北保栄茂の傍より起り、珠数の営辺に流る、としてある。保栄茂の東後武富の近くから発して、渡嘉敷、保栄茂の間を通り、渡橋名、翁長の間を通り、球数森の東より海に注いでいるのである。太古はこの保栄茂川下流にも港があったという伝えがある。
諸拜所
御嶽由来記中には御獄が二つあり、保栄茂の獄とゲストクの獄である。現在も御嶽は二つあり、
[東り御嶽] 城の下原にある。部落の東上の方で、七号線道路より保栄茂に入る道路、部落入口近くにある。由来記中の保栄茂の御鍬はこれだと思われる。
[西リ御嶽] 平志原にある。部落の西北後方にあって、保栄茂、翁長が拝むが、拝所は向って右は翁長、左は保栄茂になっている。由来記中のゲストクだろうと思われる。
[殿内屋] 巫火神のことでノ口の殿ともいい、部落の西後上方西リ御獄より東方にある。殿内屋の東に地頭火神がある。
[根所] 右の殿内屋の下方にあり、屋敷としては一番後方の右端にある。現在空家であるが大きな瓦葺であり、家族はハワイに健在とのことである。部落で国元として崇めている。屋号は上宜保という。
[保栄茂城の殿] 城の下原にある。城の裏、渡嘉敷に面した所にある。
拝所としての井泉
[ブト井] 由来記中にある井戸で、公民館より西方にある。若水を汲み、産井である。ブート井というている。
[前の井] 公民館通りの東方道路の側にある。死者の湯灌に使う水を汲む井戸である。 この井戸から公民館に至る道路が昔の前道であったという。
[前原井] 東原にある。保栄茂の戸数が増加して東前方に分家者が多くなってからの井戸のようである。
[前番の上井] 前番の上原 (原名) にある。即ち七号線道路バス停留所より保栄茂に入る道路の上側である。
大嶺親雲上の屋敷
真玉橋架橋に関連のある大嶺親雲上の屋敷跡は、七号線バス停留所より入って保栄茂部落への途中道路下にあって屋号大嶺が拝む所で、この辺は前原屋というそうである。戦前から瓦葺の拝所があったが、今ではセメント造りになっている。今でもこの屋敷の東方に住家を造っては大歓屋敷はセヂ高くて栄えないと考えられている。
[土帝君] 保栄茂も土帝君の拝みがあったということである。
古島について
保栄茂の古島は七号線バス停留所より保栄茂に入る道路の上、即ち前番の上原一帯に古くはあったといい、前番の上井等はその時代の産井、根神井であったと言われている。 豊見城間切の古えの部落に前原部落があったが、この保栄茂の古島が前原でなかっただろうか、研究の要がある。 今の保栄茂の西後方には保栄茂部落があり、この前原部落が保栄茂と合併して一つの部落になったのではなかろうか。保栄茂には二つの御嶽があり、大嶺親雲上屋敷の附近が前原屋といったということからも、又、井泉の所に記してある前原井はずっと後で出来たもので前番の上原井が若水をくむ井戸であるとも言われているところからして二つの部落が合併して出来たものと考えられる。 なお、現在保栄茂部落の旧家は西後方に集っているが、この西後方にない旧家と言われている家は前原部落から移転したものでなかろうか。
古島 (前原部落) は傾斜地にあり風当りが強く、水の便が少ないため移動したのであろう。 保栄茂の部落の特故として門中が多いということであるが、これも二ヵ部落が合併したため門中も多いと考えられる。その例として豊見城部落がある。
世立ち、組地、祖先
千草之巻に 保栄茂村世立初「今帰仁按司の孫保栄茂里主在所」 地組始「長嶺按司の孫瀬長按司在所根所」とある。 祖先宝鑑には保栄茂里主も長嶺按司の孫瀬長按司についても記されていないようである。しかし同書に (察度王系図参照) 次のようにある。
右豊見城王子については「此の人は長兄 (武寧王) 亡びたるに付豊見城弁茂武村に隠居す。
在所は大屋と言う家なり。長男
弁茂武里主二男は阿波根親方三男は小禄親方此の人は同柄良村
仲村渠と言う家なり。四男仲地親雲上此の人は同翁長村潮平と言う家にあり、云々」とある。 右の大屋については保栄茂の古老でも知っていないとのことである。
保栄茂の古老によれば百次門中の宗家 (元家) は屋号上宜保であり、部落の根所であって国元と言われている。 しかしその祖先は判然としないそうです。
次に高安門門中の高安門は按司元と言われている。更に大フ当門中の大フ当は獄元といっている。高安門の祖先は東大里で、大フ当の祖先は饒波の金城である。
王城同村仲嘉の御酒手帳に門順才門中、門門中、大嶺門中が記録されている。
祖先宝鑑に玉城按司の孫として大嶺門中が記されている。
祝女
保栄茂祝女は屋号宜保玉寄で保栄茂、翁長はその管轄にあった。雩 (あまごい) の時最後の拝みは珠数原の大ァスメ (第二章三師) の前で行われるが、保栄茂ノ口によって鍋を戴いて廻る行事があった。昔珠数原は翁長の境界内にあったためである。 昔のノ口は大殿内であったという伝えがある。現在のノ口家宣保玉寄は玉寄姓で、首里から来た人だと言われている。
戦歿之塔
船越原にある慰霊塔であって、保栄茂周辺より牧骨した無名戦死者を祀ってある。旧七月七日に祭りが行われる。
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